テーマ:日本人のルーツ(527)
カテゴリ:歴史
テヘラン北部住民の頭蓋形態の時代的変化には、ハッキリした傾向が見いだされるといいます。 前4000年~前3000年頃には、すべて長頭ですが、前2000年頃になると中頭が出現し 前1000年頃には各型の頭蓋が出揃い、紀元前後になると中頭と短頭が増加し 紀元後は短頭一色になります。 アナトリアのアリシャル・フュイックの遺跡では石器時代から青銅器時代への移行期の長頭は 銅器時代の中頭を経て、青銅器時代初期、ヒッタイト時代には短頭に変化しています。 アナトリア高原での最初の短頭群はヴァン湖の東岸ティルキ・テペに前3000年頃に出現します。 この短頭群は、銅器時代には高原を横断して西進しエーゲ海沿岸にまで達しました。 彼らが、先住の長頭型人種を完全に圧倒し去るのは、第I期ヒッタイト帝国の成立時です。 BC3000年以降,北から短頭族が侵入してきたらしい。 そしてBC2000年頃以降になると,長頭族を征服したらしいのです。 また一部の長頭族は砂漠へ逃れたようです。 メソポタミア南部は短頭型人種の影響が最も軽微であった地域で、この地域の住民の体質は 前4千年紀以降、現在までほとんど変わりませんでした。 現在短頭族が優勢な北よりの地域も、かっては長頭族の世界だったのです。 カスピ海の南東に近いダムガーンの近くの遺跡テペ・ヒッサールからは166個の成人頭蓋が 出土していますが、BC4000年からBC3500年の第I期およびBC3500年からBC3000年までの 第II期の数少ないすべての頭蓋は長頭だといいます。 メソポタミアから長頭族が銅を求めて出かけて行った初めの頃は、この地域には先住民は ほとんど住んでいなかったと思われます。 長頭族には、地中海人種と原北欧人種と、2種類あります。 原北欧人種は、地中海人種に比べ大型であり、筋肉の付着部が強いため角張った印象を 与える一方で眼窩がやや低いという特徴を持っています。 テペ・ヒッサ-ルの遺跡の第三期(BC3000年~BC2000年)、この時期に原北欧人種のものが 急増しているといいます。最初は、無人の境地に銅ルートを確立することができたと思われましたが BC3000年前後には気象変動もあって、彼らの銅ルートの繁栄が現地人に 逆襲されたのかもしれません。 短頭族はアジアの奥からやってきたと思われます。 それまで中東にいなかった短頭族が南にやってきた理由は、なんだったのでしょう。 深刻な事情が,当時北方に住んでいた人たちを襲ったらしい。 BC3000年頃,世界的に気候が変化したらしいのです。 北緯35度線を境として気候の逆転があったといいます。 北側のギリシャやアナトリアでは高温・乾燥気候から低温・湿潤気候に変わり 南のメソポタミア低地やナイル川沿岸では反対に、湿潤気候から乾燥気候に変わったのです。 北と南では,湿潤の原因となる雨が降る季節が違って、南では夏期の雨ですが 北では冬期の雨になります。 ユ-ラシア大陸の屋根であるヒマラヤに雪が積もる時代には,中央アジアやシベリアも寒く 食料も不足し始め、短頭族の南下の引金になったのだと考えられます。 短頭人種は、クルガン人にはじまるアーリア人と思われます。 地中海東岸地域で発見されている前1500年頃から紀元前後までの人骨には,短頭,中頭,長頭 の各種の頭蓋骨が混在していますが,長頭が砂漠地帯の遺跡から出土しているのに対し 海岸地帯の遺跡では純粋な長頭はほとんど発見されていません。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 日本人は短頭群と長頭群とに分かれます。短頭群は近畿地方を中心として瀬戸内方面に多い。 長頭群は東北から日本海側あるいは北九州や離島に多い。 短頭型は大陸方面、朝鮮から東北アジアの方へとつながり、長頭型はアイヌにつながります。 また古代に於ける黒曜石の分布には、たいへん興味深いものがあります。黒曜石の産地は、大きく分けて二つあります。 いずれもアナトリアですがカッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており カッパドキア系はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域 ヴァン湖系はチグリス川とユーフラテス川流域が中心です。 カッパドキア系は、パレスチナのエリコから始まったエブス人~フェニキア人につながる人々。 ヴァン湖系は、アッカド、ウラルトゥなどにつながる人々。 いずれも、日本列島に渡来し、日本国を形成した人々です。カッパドキア系には、イスラエル人 などの秦人も含むようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008/07/17 12:24:01 PM
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