太陽と情熱(ビュイック・センチュリー・クーペ)
ここのところ部屋の片隅に積まれているプラモキットの侵食を食い止めようとプラモ製作に注力しており、1ヵ月でマスターグレード(ガンプラ)を4つほど終わらせた。素組み+部分塗装とゆーその処理スピードが一般的に速いのか遅いのかよくわからんが(きっと遅いんだろう)、このペースで進捗できれば夏を迎える前にはエレキギター一台分くらいのスペースは空けられんじゃね?と希望する。 そんなわけで本流のミニチュアカーは小休止といえる状況なんだが、プラモ製作云々以前に今年に入ってちっとも予約済みミニカーが入ってこないんである。1月末に「日産300ZXターボ」とかが入って来たのを最後に2ヶ月まったくない。そーゆー状況に陥って一番ヤなのは、3つ4つが一気に入荷する所謂ドカン!ってヤツ。これが発生するとなかなかに困るんだが、なんとな~くゴールデンウィークまでに一回ドカン!がありそうな予感がする(G.W.中だったらショップはバーゲン中だから少しは助かるんだけど。。。) なので、しばらくはアップする機会を逸して塩漬けにしちゃったアイテムをサルベージするしかないわけで。。。TSM1/43 ビュイック・センチュリー・クーペ “1954年カレラ・パナメリカーナ 17位”#113 リカルド・ラミレス / ホセファト・ラリオス・ズニーガ 昔、社会のお勉強(世界史だったが地理だったか忘れたが)で、汎アメリカ主義とその理念実現の第一歩として1920年代に着想されたのが「パンアメリカンハイウェイ」だけれど、全長48,000kmにも及ぶと言われる、南北アメリカを貫通し北米アラスカから南米ティアラ・デル・フエゴに至る「パンアメリカンハイウェイ」と呼ぶ一本の道を作るわけじゃなくて、各国の主要幹線を勝手に繋げてそう呼んだだけ(東北自動車道と東名と名神、中国自動車道を一緒くたにして「列島縦断道路」とかゆー感じ)って習った気がする。 各国で高速整備事業に勤しむ中、1950年に国内のハイウェイ整備が終わった「太陽と情熱の国」メキシコが、その記念にミレミリアやタルガフローリオを参考にして始めたのが「カレラ・パナメリカーナ」カレラやパナメーラに名が残るように、ポルシェ(550)が結構活躍した公道レース。 1950年の第一回から、徐々に中南米独裁政権の国威発揚の場に利用され始め、また毎年死者が出るといった背景で1954年に幕を閉じた。その最終1954年にコカコーラメキシコチームから3.5リッター超クラスにエントリーしたビュイック・センチュリー・クーペ。同クラスにはリンカーン・カプリやキャデラック・シリーズ62、パッカード・クリッパー、オールズモビル・スーパー88など総勢28台。フルエントリーは150台となる公道レースを走りぬいて総合17位(クラス6位)でフィニッシュ。 ロールケージや横出しマフラーなどやるべきことはやっているけれど、エアロパーツのエの字もないそっけいない外観はいかにも古き良きレーシングカー然としてよろし。TSM1/43 ビュイック・センチュリー・クーペ #113号車のモトになった1954モデルのセンチュリー。ビュイックが自身のラインナップに高性能モデルを加えるべく、小型軽量なビュイック・スペシャルのボディにより強力な5.3リッターV8を積んでセンチュリーを仕立てた(今で言うたらGRヤリスとかスカイライン400Rみたいな感じ?)そーゆー出自から言ったらレースに出るのは当たり前田のクラッカーなわけだね。54モデルの一番の特徴は1953年のキャデラック・エルドラドが採用した「パノラミック・ウィンドウ(GM呼称ではラップアラウンドウインドシールド)」をデザインに取り込んだこと。これはAピラーをまっすぐに立てて、フロントウィンドウを横面まで回り込ませることによって、カーブを曲がる際にAピラーによる死角をなくそうというエポックなアイデアで、瞬く間に殆どのアメ車が採用することになる。大胆な2トーンの塗り分けや、機能上は意味がないフェンダーの3連ベンチポートなど、古き良き時代の、アホみたいにジェット機の意匠に寄せていくちょっと手前のアメ車が好きなもんにとってはたまらんのよ(笑)