歩き出す前に
「どうぞ」 そのラクスの柔らかい声と共に目の前に置かれたティーカップは、アスランに、プラントの、クライン邸を訪ねた時のことを思い出させた。「ありがとう」 アスランが礼を言うと、ラクスはあの頃のままの笑みを返してくる。 だがもちろん、あれはもう過去のことだった。テラスから見える海も空も、人工のものではない。そして今は、隣の席にキラもいる。キラが敵軍にいることに悩んだ日々には、夢にも思わなかった平和な光景だった。「では、ごゆっくり」「ラクス?」 室内に戻って行こうとするラクスを、アスランは呼び止めた。確かにカップは2客分しか用意されていなかったが。「せっかくですもの、お二人でお話下さいな」 ラクスはおっとりとした口調で言った。「私は荷物の整理もありますし」「ああ・・・」 明日、キラとラクスはキラの義母と共にマルキオ導師の暮す島へ移ることになっていた。 戦いの後、地球に降りた一行は、カガリのはからいでオーブに滞在できることになった。 オーブ国籍を持っていた数名のクルーは別として、地球軍から逃亡した形のアークエンジェルのクルーたちは、身を偽って暮らさなければならないし、プラントへは帰還せずオーブで暮らすことを選んだアスランやラクスたちクライン派の一部も、身を潜めての生活になるだろう。 それでも、今は誰もが静かな生活を心から欲していた。 停戦交渉は政治家の仕事であり、その”後始末”に関わるには、彼らは疲れすぎていた。特に、キラは。 戦場から連れ帰った後のキラは、痛々しいまでに憔悴しきっていた。何か問えば答えるし、心配する周囲に対して笑みを見せることもあったが、それはただの条件反射のようなものであって、キラ本人はどこか他の場所でうずくまっているようにアスランには感じられた。ラクスも同じように感じていたらしい。キラの身体的な傷が癒えた今、彼女はさらに静かで穏やかな場所を求め、マルキオ導師へ救済を求めたのだった。 キラの指がカップにかかり、多少のんびりした動作でお茶を飲む。キラが一口飲んだところを見計らって、アスランは声をかけた。「キラ」「ん?」「おまえの方は引越しの準備はできたのか?」「うん。持って行くものはほとんどないし・・・っていうか、自分のものがなさすぎて、びっくりした」「そうか。そうだな、ずっと艦暮らしなら、荷物はないか」「アスランだって今はそうでしょ?」「まあ、確かに」 アスラン自身ジャスティスでプラントを出てからあとは、ずっと戦争の中にいた。着の身着のまま、キラより私物は少ないに違いない。生活に必要なものは艦にあるし、何かが欲しくなったとしても、買う場所もないのだから当たり前だ。「それでも暮らせるもんなんだね」 と、キラは苦笑する。 考えてみれば、異常な生活である。ただ戦うだけの毎日など。「ラクスにはそんなに荷物があるのか?」 なんとなくそんな言葉がアスランの口をついて出た。キラは軽く首を傾げる。「さあ。あまりないとは思うけど、でも女の子だから」 「そういうものかな」 荷造りは口実だろう。ラクスは気を使ってキラとアスランを二人だけにしてくれたのだ。 この先もキラを訪ねてゆくつもりのアスランだが、散歩がてらに、というわけにはいかなくなる。「ちょっと遠くなっちゃうね」 キラも同じように考えているらしく、すっと視線を落す。「前ほどじゃない」「ああそうか、そうだね・・・・・・」 呟くような声でキラは言う。顔を上げようしないキラの態度に妙なものを感じ、アスランは「どうした?」と訊ねる。「ラクスが・・・その、一緒に来る・・・来てくれるって言ってくれてはいるけど」「うん」「うん、って」 それまでうつむきかげんで話していたキラが、少し驚いたようにアスランを見た。「いいの?」「何が」「だって・・・ラクスと君は婚約者同士で・・・」「え?」 今度はアスランが唖然とした顔でキラを見返す。「キラ、おまえ」 キラのやつ、まさか・・・。 まさか、などと疑う余地もなく、キラはなぜラクスが一緒に、キラのそばにいようとしているのかわかっていないようだ。それどころか、「違うんだ、そんなんじゃない」 と、キラはわけのわからないことを言う。何が違うんだ、とアスランが問い返す間もなく、キラは続ける。「ラクスは優しいから、それで僕についていてくれてるだけで・・・プラントでもそうだったし」「・・・・・・」 確かに、婚約が解消されたことを話した覚えはない。 だが、そんなものに縛られるラクスではないことぐらい、キラにはわからないのだろうか。 キラはどこまで鈍いのだろう。アスラン自身、この手のことに関しては鈍いという自覚はある。他人のことはいえた義理ではないのだが、それでもラクスの、キラに対する態度が優しさ以上のものであることは鈍いアスランでもわかる。彼女の視線の先、気持ちの先にいるのはキラだけだ。「だから、アスランが心配するようなことは何もないんだ」 どうやらキラは、ラクスの正当な婚約者に責められるとでも思ったのか、弁解したかったようだ。たいしたボケだが、その必死な様子がおかしくて、アスランの方は緩みそうになる表情を抑えるのに必死だった。「ラクスだってずっと大変で、お父さんも亡くして・・・それでも僕を心配していたわってくれて。それは僕も嬉しい。だけど、それじゃあ・・・こっちも辛いし」「何が辛いんだ? 心配かけていることがか? 婚約者のオレにか?」「それは・・・」「それとも、いつか彼女と離れなきゃならないことが、か?」 キラは顔を赤くして、アスランから視線をそらした。 なんだ、自覚はあるんじゃないか、とアスランはなぜかほっとする。 一緒にいる時間が長くなれば、よけいに離れるのが辛くなる。だから、早く彼女を婚約者に返そうと、キラはそういいたいのだろう。 そんな心配はしなくてもいいのに、と呆れすぎて、おかしささえ感じる。「婚約なんて、とっくに破棄されている」 アスランの言葉に、キラが「え?」と顔を上げる。「ラクスが、フリーダムをおまえに渡してしまった時に」 キラが目を見張り、アスランを見返す。アスランはキラに笑ってみせたあと、海に視線を向けた。 あの時ラクスはプラントの反逆者となった。なぜ彼女がそんなことをしたのかがわからなくて、激しく動揺していたアスランに彼女は言った。キラに新しい剣を渡したのだ、と。キラに必要で、キラにふさわしい力だからと。 キラだから、ラクスは力を与えた。力の意味を、そしてその使い方がわからなかったアスランにではなく。あの機体をただ敵を倒す道具としか見ない人々の中で、キラならば託せると、彼女はそう信じたから。「・・・でもアスラン、あれは」「婚約は親同士が決めたことだ。元々、オレたちの意思じゃない。最も、それでいいと疑問にも思ってなかったけどな、以前は」 婚約して2年。アスランが近づけなかったラクスの心を、キラは捕らえた。ラクスはキラを信じて、そして愛した。 かなわない、と思うと同時に、誰かを好きになるということはそういうことなのかもしれないと思う。誰に強制されるものでも、それでいて自分の自由になるものでもない。気づけばその人を心に住まわせ、その人のことばかり思うようになる。捕われているのに、捕らわれることに幸せさえ感じてしまうのだから、やっかいな感情だ。 カガリ。 アスランは思い出して、笑みを浮かべる。感情豊かで、その感情を自分の中に押し込めておくことのできない、まっすぐで強い心を持った彼女に、自分はどれだけ気持ちを引き上げられたかわからない。彼女と出合わなければ、今の自分はいないとさえ思う。 守りたいと思い、同じ世界を目指したいと思えた相手・・・・・・キラにとってラクスがそうであったように、アスランにとってカガリこそがその人だった。出合うべくして出会い、そして何より大切な存在となった女性・・・・・・。「今は、それぞれ想う相手がいる。婚約は円満解消ってとこかな」「アスラン?」 キラは問いかけるようにアスランを見る。そんなキラに向かって、アスランは安心させるように笑顔を向ける。「だからオレのことはもう気にするな、ラクスは・・・」「君、いつの間にそんな女性ができたの?」「・・・・・・」 そこに反応するか? アスランはがっくりと肩を落とす。「だから今はオレの話じゃなくて・・・」 なんでこんなボケたやつがフリーダムのパイロットをやっていられたのだろう。 脱力するアスランの隣で、キラは妙に嬉しそうな様子でアスランの次の言葉を待っている。 アスランは苦笑するしかなかった。 これがキラだ。このなんともマイペースなところがキラなのだ。 何をどうすればいいのか、今はまだわからない。過去は変えられない。失ったものは戻らない。傷はまだ癒えないし、この先も傷跡が消えることはないだろう。 そんな中で出会えた人もいる。考え、語り、わかりあえた人もいる。知らずに、ただ戦うだけの自分でなくてよかったと思う。だから、今あるものを大切にしてゆこう。生きて、こうしてまたキラと笑って向かい合える日にたどり着けたのだから。 想う相手が、キラの姉だと言ったら、彼はいったいどんな顔をするのだろう。 驚く顔を見るのが楽しみで、アスランはいたずらっぽい笑みを浮かべる。さて、どうやって告げてやろうか・・・・・・。