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人生朝露

人生朝露

武道と荘子。

荘子を切るとなると、かなりの量になっちゃうんですが、個人的にはやっと半分くらいです。

荘子だってば。
日本人にとって老荘思想を身近に感じるのは、やはり「道」だと思います。
たとえば、日本では「剣術」は「剣道」、「柔術」は「柔道」、そもそも「武術」ではなく、「武道」といいますよね。術ではなくて「道」という字をあてることによって、何らかの精神性や哲学をその特定の行為に求めているわけですよね。人格形成をはかるとか、そういう何か。

『荘子』という書物には、いろんな達人が出てきます。頭がいい人とか、立派な人ではなくて、ある道に達した人たちなわけですよ。夏目漱石の「夢十夜」の元ネタになった梓慶(しけい)という名工、聖人の本など「古人の糟魄(そうはく)」だと言った輪扁なる車輪を作る職人、コンパスや定規を使わずに円や直線を引ける職人とか、水泳の達人・・。一番わかりやすいのは「庖丁(ほうてい)」という料理人の話です。

Zhuangzi
『庖丁為文惠君解牛、手之所触、肩之所倚、足之所履、膝之所鐘。序然響然、奏刀丞然,莫不中音,合於桑林之舞,乃中經首之會。』(『荘子』養生主篇 第三より)
→庖丁(ほうてい)という料理人が、ある日文惠君のために牛を料理した。料理人のなめらかな手さばき、肩の動き、足の踏み込み、膝の使い方・・それが、牛刀が進む音と調和して、まるでひとつの音楽のようであった。その身のこなしは「桑林之舞」を踊っているようであり、音は「經首之会」の楽曲の調べを聴いているようでもあった。

面白いですね。

料理人の身のこなしやリズムに踊りや音楽のような美を感じているわけですよ・・・おかしいじゃないですか!料理をするための技に美しさなんて必要ないでしょ?料理そのものではなく、一流の料理人の「動き」に美を感じているんですよ。

コービー。
考えてみれば、おかしいですよね?スポーツ選手のプレーに美しさを感じることも。

スポーツって、勝つために、いい結果を残すためにやっているのに、一流の選手の身のこなしに、人間は「美」を感じるわけですよ。関係ないでしょ?本当は。かっこつけることとか、人気をとるためだけじゃなくて、より高いレベルのプレーを目指して、一流ってあるわけでしょ?でも、感じますよね。見る側はそれを「美しい」と。日ごろの鍛錬の成果、というよりも、一つのことを続けている人の境地、肉体のすべてを余すことなく合理的に動かすことに、人間は勝手に「美」を感じてしまうんです。

チーター。
これは、野生動物の身のこなしを観察するときの感動に近いです。地上最速の哺乳類・チーターの身のこなしに「美」を感じますよね。生存競争の中で勝ち取った、「走る」ことに特化した生き物の動きの、一つ一つに心を奪われるわけです。狩りのシーンとか。もはや芸術でしょ?

紀元前の料理人の話に戻ります。

Zhuangzi
『文惠君曰「喜。善哉。技蓋至此乎」。庖丁釋刀對曰「臣之所好者道也、進乎技矣。始臣之解牛之時、所見無非牛者。三年之後、未嘗見全牛也。方今之時、臣以神遇、而不以目視、官知止而神欲行。依乎天理、批大谷、道大穴、因其固然。技經肯綮之未嘗、而況大骨乎」。』
→文惠君は料理人の妙技を見て、「素晴らしい!究極の奥義とはこのことだな。」というと、庖丁は牛刀を置いて、「私が好むのは技ではなく、その上の道というものです。」

・・・と、紀元前の料理人が答えるわけです。技ではない、「道」だと。

→「私は初めのころ、牛の外見の姿しか見ていませんでした。三年後、やっと牛の外見へのこだわりがなくなり、部位ごとの違いが分るようになりました。今となっては、心で牛を見ていまして、目で牛を見ることはなくなっています。目にとらわれるのではなく、天理を心で捉えて、それにしたがっているのです。牛がもともと持っている自然の構造に逆らわず、皮と肉のつくり、骨と肉のつくりに沿って刃を進めれば、骨に刃が当たることもなく、滑らかに仕事が運ぶのです。」

もう、まさに「心・技・体」ですよね。この三つが一体となるとそこに「美」が生じる。人間はそれを感じ取るのでしょうね。

『荘子』という書物には、たくさんの達人が登場します。職人が多いのですが、面白いところでは、虫捕りの達人(この達人は、せむ○の老人なんですよね)、あとは、泥棒の極意まであるんです。

跖曰「何適而無有道邪。夫妄意室中之蔵、聖也。入先、勇也。出後、義也。知可否、知也、分均、仁也。五者不備而能成大盜者、天下未之有也。」
→『泥棒に道があるかって?そりゃ、どこに行くにも道はあるさ。部屋に何が置かれているかを推理できるのが聖。押し入るときに先頭に立てるのが勇。出るときにしんがりをつとめるのが義。うまくいくための作戦を立てるのが知。分け前をきっちり与えるのが仁だ。この五つの徳がなけりゃ、天下の大泥棒になれるわけはねえよ。』

ある分野で成功した境地。そこには何らかの「コツ」があるわけですよ。NHKでやっている「プロフェッショナル 仕事の流儀」とかとおんなじような話です。『荘子』に出てくる紀元前の達人たちは、よく精神と仕事の出来の関係を言います。心穏やかでなければ、いい仕事なんてできないと。道はひとつではないけれど、到達する境地において、共通するものが見えてるわけです。考えてみれば当たり前。格闘技だけでなく「茶道」や「華道」も道です。そして同じようにその所作に美を感じるのも当たり前。(ちなみに、この「養生主篇」の話は、貝原益軒先生の「養生訓」にも登場します。)

ちょっとここで老子を。
老子ですよ。
道教の親玉・老子という人は、なすがまま、あるがまま、非常に短い言葉で自然に帰るということを表現します。わずか5000文字ちょっと。たった81章で無為自然を説いています。老子の「道徳経」の中に有名な一節があります。

「天下莫柔弱於水 而攻堅強者莫之能勝 以其無以易之 弱之勝強柔之勝剛 天下莫不知莫能行。」
→天下に水より柔弱なものはない。しかも堅強なものを攻めるのに、これに勝るものはない。これは水がこれ以上変わりようのないものだからだ。弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが固いものに勝つことは、この世のだれでも知っているが、それをできるものは、そうはいない。

いわゆる、「柔よく剛を制す」。
「柔」の「道」、柔道というのは、この老子の言葉から名づけられていることは明白でしょう。柔道って、実に老子的な格闘技だと思いますよ。相撲とか空手とかとは違う。

参照:Wikipedia 関口氏心(せきぐち うじむね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E6%B0%8F%E5%BF%83

例えば「一本背負い」。

太極図です。
道教のシンボル「太極図」で一本背負いを説明してみます。

白い方をA(攻め)、黒い方をB(受け)とすると、

一本背負いという技は、A(攻め)の側が右(→)へ攻撃する力を、大きな円の「へり」をつかって、くるっと下(↓)へ転化させるような動きになりますよね。これはB(受け)の側が、Aの懐に入り込んで、自分の腰を支点にして、右(→・力点)への力を利用して、エネルギーを下(↓・作用点)に転化しているわけでしょ?大きな円の形と、円の中にいる魚の目玉の動きを意識すると、「一本背負い」を力学的に理解しやすいと思います。相手の懐に入れば入るほど投げる力は小さくてすむ。「柔らかな曲線的な動きで、相手の力を利用して倒す」。その流れるような一連の動作に、「道」を感じます。要は気の流れということですが、柔道の投げ技って、老荘的だと思いますよ。

で、
Zhuangzi
荘子の場合は、「最も柔らかいものは金剛石よりも強い」と表現しています。たくさんの達人を扱っている荘子なんですが、紀元前の中国には、今のようなはっきりとした「中国武術」はできていません。だから、『荘子』という書物には、武人はでてきても、「心・技・体」を備えた武の達人はいませんね。(後に、荘子の影響を受けた仏教・禅宗の少林寺というお寺は有名になっていきますがね。)

ただし、『荘子』にも、武の境地は描かれています。

Zhuangzi
『紀省子爲王養闘鶏。十日而問、鷄已乎。曰、未也。方虚驕而恃氣。十日又問。曰、未也。猶應響景。十日又問。曰、未也。猶疾視而盛氣。十日又問。曰、幾矣。鷄雖有鳴者、已無変矣。望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者、反走矣。』 (『荘子』達成篇 十九)
→紀省子は、王のために闘鶏の鶏を養うことになった。
十日目に王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、
紀省子は、「まだです。自分の元気さに驕り昂ぶっているだけです。」
その、十日後に王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、
紀省子は、「まだです。他の鶏の声を聞くだけで昂ぶっているようでは。」
また十日後に、王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、
紀省子は、「いや、まだです。殺気立った闘志が先走っているだけです。」
さらに十日後に、王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、
紀省子は、ようやく、
「そろそろでしょう。他の鶏の鳴き声にも動じないし、まるで木彫りの人形のようになっています。ここまでくれば、相手の鶏は「こいつにはかなわない」と、戦う前に逃げてしまいますよ。

・・・「鶏」なんですよね(笑)。

人間ではなく闘鶏の鶏に武の境地を見出しているのです。荘子の中でも有名な「木鶏」という故事です。

常に「平常心」を失わず、泰然自若の態度を崩さない武の境地。これを闘鶏の鶏から見出すのが荘子です。「穏やかな心」と「激しい怒り」双方の均衡の中に強さがあるのは、超サイヤ人の覚醒と同じです(笑)。

ちなみに、
「布袋見闘鶏図 』宮本武蔵筆。
布袋さんが闘鶏を眺めているこの絵。
描いたのは宮本武蔵という人です。絵心ありますよねぇ。あの人。

宮本武蔵も荘子の影響を受けた禅宗の人です。沢庵和尚と同郷ですからね。
柳生もそうですし、武蔵もそうですが、仏教よりも老荘思想から読み解いた方が遙かに読める部分があります。もともと布袋さんは中国のキャラクターですし、『五輪書』にしても、中国化された仏教の延長からでないと、意図がくみ取れない部分が多いです。

宮本武蔵 肖像。
感じませんか?宮本武蔵の肖像に、木鶏の境地を・・ここにも「道」があるのですよ。

今日はこの辺で。


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