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人生朝露

人生朝露

武道と田舎荘子。

今日は「剣」で。

剣道。
剣の道、剣道という名称は、明治に入ってから名づけられたものらしいのですが、禅が「剣術」にに与えた影響というのは、非常に大きいものであります。もともと、鎌倉時代から「武士の仏教」として禅宗が武家に好まれていた、というのもあります。ただし、思想そのものでいうと、江戸初期の、柳生宗矩と沢庵和尚との結びつきが大きい、というのが普通なんじゃないかと思います。

沢庵和尚が柳生宗矩に与えた「不動知神妙録」という書物にある「剣禅一如」という言葉は、現在の剣道にも息づいていると思いますね。本来ならば、人を殺める剣術が、アヒンサー(不殺生・非暴力)を戒律とする仏教に結びつくはずもないんですけど、禅宗の場合、条件付で容認されちゃうんですよ。

簡単に言うと、剣の試合は禅問答の「作麼生」(そもさん) 「説破」(せっぱ)であり、命のやり取りを行う剣の一閃一閃、一瞬一瞬が「生きることとは何か、死ぬこととは何か」という問いと答えの連続である。剣の道とは、つまるところ「生との死の哲学」として昇華しうるわけです。言葉ではなく、行動でそれを実践している哲学であるとね。そう考えるとまさに禅なんですよ。

「剣禅一如」もしくは、「剣禅一味」という言葉は、『荘子』の達生篇にあるさまざまな達人たちの生き様に重なるんですよ。「道」は違っていても、到達する境地はひとつであると。

で、剣と禅については、『剣客禅話』(加藤咄堂著 国書刊行会)という本で偶然見つけたんですが、非常に面白い話があります。加藤咄堂さんは、

田舎荘子(いなかそうじ)。
『田舎荘子(いなかそうじ)』という本の中に、「武の境地」を見るんですよ。

『田舎荘子』という本は、享保年間に佚斎樗山(いっさいちょざん)という日本人が書いたもので、『荘子』の中の寓話をより簡明に書いてある、大変に面白い本です。通常の注釈本よりも、よっぽど面白い出来ですよ。

『剣客禅話』で引用されたのは、こういう話です。

「勝軒(しょうけん)といふ剣術者あり。其家に大なる鼠出て、白昼にかけまはりける。亭主其間をたてきり、手飼の猫に執らしめんとす。かの鼠進みて、猫のつらへ飛びかかり、喰付きければ、猫、声を立てて逃げ去りぬ。此分にては叶ふまじとて、それより近辺にて、逸物の名を得たる猫ども、あまたかりよせ、彼一間へ追い入れければ、鼠は床のすみにすまゐ居て、猫来たればとびかかり喰付、其のけしきすさまじく見へければ、猫どもみなしりごみして進まず。」

・・・勝軒という剣術家の家に大きなネズミがでて、白昼に家の中を駆け回っている。家の猫では、太刀打ちできず、しょうがないので、近所のネズミ捕りの猛者(笑)の猫たちを借りてきて、部屋に入れてみると、当の大ネズミは部屋の隅に駆け込んで、そこで一匹づつ猫に噛み付いて抵抗をする。部屋の隅なら挟み撃ちに遭う危険性もないし、なかなか達者なネズミです。そのネズミの剛勇ぶりにおそれをなして猛者猫たちは、手も足も出ない(笑)。

「『是より六七町わきに、無類逸物の猫有りと聞く。借りて来れ。』とて、則人をつかはし、彼の猫をつれよせてみるに、其の形利口げにもなく、さのみはきはきとも見へず。『それ共に先ヅ追入れて見よ。』とて少し戸をあけ、彼猫を入れければ、鼠すくみて動かず。猫何の事もなく、のろのろとゆき、引きくはへて来りけり。」

・・・六町ほど離れたところに、無類のネズミ捕りの達猫がいるというので、勝軒は、その達猫を借りてきてみると、その猫は、特に賢いようでも、動きがすばしっこいようでもない。どうもたよりない猫ではあるけども「とりあえず、入れてみろ。」ということで、入れてみると・・なんと、あれだけ豪胆だったネズミは急に動かなくなり、猫は何事もなかったかのようにネズミを咥えて部屋から出て来た。

「其の夜件(くだん)の猫ども、かの家に集まり、かの古猫を座上に請じ、いずれも前に跪き、『我々逸物の名を呼ばれ、其道に修練し、鼠とだにいはば、鼬獺なり、とも、とりひしがむと、爪を研罷有在候処に、いまだかかる強鼠ある事を知らず。御身何の術を以てか、容易く是をしたがへ給ふ。願わくは、惜しむことなく、公の妙術を伝へ給えへ。と謹んで申しける。」

・・・その夜、近所の猛者たちが、年老いたネズミ捕りの達猫を座上に招き、「猫の集会」が執り行なわれたわけです(笑)。そこで若い猫たちは、今まで鼠を捕るために鍛錬を積んできて、イタチやカワウソとも相手ができるほどに自分の強さに自信を持っていたのに、あんなに強い鼠は見たこともなかった。しかも、その鼠をいともたやすく捕まえたその「妙術」をお教えくださいと。老猫に頼むわけです。この話は「猫の妙術」と題せられています。

『我輩は猫である』
猫がしゃべる・・聞いたこともない話です(笑)。ちなみに、「荘子」の冒頭は、「北冥に魚がいる。その名を鯤という。」と始まります。

「荘子」でも動物が平気でしゃべるんですが、江戸時代の「田舎荘子」場合には、それどころか、ほとんどの登場人物として人間がいません。でもね、しゃべる内容がとてつもなく深いんですよ。

老猫は妙術を説く前に、若い猫たちに問いかけます。「今までどんな修行を積んできたのか」と。

黒猫が「私は身体を鍛えて、どんな狭い場所でも潜り抜け、軽業を磨いています」
→老猫「そなたがやっているのは、所作だけだ。狙う心があるようではいかん。そもそも技に頼るようではな。才は心の用であるといっても、道に基づかず、ただ巧みを専らとするようでは、偽りの道じゃ。」

虎毛の猫が「私は、武術とは気然を貴ぶことだと思います。だから私は「気」を練る修練を続けています。気合でもって敵を倒し、声にしたがい、響きに応じて、鼠を左右につけ、変化にも応じるのに万全を期すのです。しかし、あの鼠には太刀打ちできませんでした。」
→老猫「そなたは、気の勢いを借りているにすぎない。相手もまた生きるか死ぬかを賭けているのだから、気合で勝つというわけにもいくまい。まさに窮鼠猫を噛む時にどう対処するか、ということじゃよ。まだまだ修行が足りぬな。」

今度は年長の灰色の猫が「おっしゃるとおりで、「気」には形があります。私は気の流れをたとえ僅かなものでも読み取り、「心」を練ることに努めてきました。勢いではなく、相手と争わず、お互いに和して、かといって戻ることもない。その私でも、あの鼠には敵いませんでした。」
→老猫「そなたの言っている「和」は、自然な和ではないな。頭で考えて「和」を意識しているのだから、「気」が濁ってしまい、気を感じることもできなくなってしまう。無心であるというのは、そういうものではない。それでは妙手は生まれない。ただ無心に、自然に応じることをすればよいのだ。」

・・・すごい爺さんです!!
猫にしておくのが惜しいほどですよ。

老猫が言います。

「とはいえ、道には極まるところはないから、私の言葉を以って至極の境地などというわけでもないのだよ。私がまだ幼いころ、近くにすばらしい方がいらっしゃった。日がな一日眠っていて、気勢など感じられるものでもなく、まるで木彫りの猫のようであった。だれもあの方が鼠を捕まえたことを見たことがない。しかし、あの方の周りには一匹たりとも鼠がいなかった。あの方が場所を変えても、また鼠が全くよりつかない。神武にして不殺、あの境地には、私は達してはいないのだよ。」

日光東照宮 眠り猫。
「田舎荘子」では、「木鶏」ではなく「木猫」こそが「武の境地」の手本であるわけです。

その後、この猫の集会を見ていた剣術家の勝軒が、この老猫に感じ入って彼に教えを請うようになります。

カリン様。
猫に武道を、しかも、「気」について学ぶわけです。聞いたこともない話ですよね(笑)。

猫から武術を習うというのは、剣術だけでなく、柔術も同じなんですよ。
関口流の祖、関口柔心は、猫が屋根から落ちたに時にひらりと身体を回転させて着地したところから、「柔の術」を開眼したとされています。老子の「柔よく剛を制す」というのを猫の身のこなしから学んでいるんですよ。昔の人って、動物を良く見ています。感心しますね。

ニャンコ先生と、風大左衛門。
「にゃん ぱらりっ キャット空中三回転っ きめっ!」ってことです。(←古いよ)

・・・荘子という書物には、たくさんの動物たちが登場しますが、「猫」はいないんですよ。中国に猫という動物が伝来するのは荘子が死んで700年くらい後なので。山猫は出ても猫はいません。十二支でも猫はいないでしょ?

でも、虎、鶴、蛇、燕、猿、蟷螂(かまきり)などは、荘子には登場します。そして、それぞれ、拳法として発展していますよね。蛇拳とか、蟷螂拳とか、猴(猿)拳とか、虎狼拳とかは有名です。禅宗の中で発展したクンフーは、荘子の動物から学び取る姿勢からも感じるんです。

ただし、こういう話が載っています。

Zhuangzi
「夫れ酔者の車より堕つる、疾むと雖も死せず。骨節人と同じくして、犯害人と異なるは、其の神全うなればなり。乗るも又知らざるなり。死生驚懼、其の胸中に入らず。是の故に物に逆らいて懼れず。彼全きを酒に得るも、猶、かくの如し。」(「荘子」達生篇 十九)
→酔っ払いが車から落ちても、怪我はしても死ぬことはない。骨格が同じでも、損傷が少なくて済むのは、精神が無心の状態を保っているからだ。車から落ちたことの前に、車に乗っていたことすら憶えてはいないだろう。死の恐怖すらないのだから、どんなものにぶつかっても平気でいるのだ。

まず、第一に、紀元前に飲酒運転があるのかと驚くのです(笑)。しかも、酔っ払いは、死の恐怖がないからこそ無心である、無心であるがゆえに妙手が生まれる、なんていう考え方のできる人って、そうはいないですよね。この意外性も荘子の面白さです。でも、これって、もしや、ですよね。世界中のどの格闘技にも存在しない、中国人だからできる逆転の発想。屋根から転げ落ちる猫の身のこなしから柔術のヒントが生まれたように・・酔っ払いが車から落ちるのをヒントにすると・・・。

酔拳

参照:Jackie Chan Drunken Master Final Fight Scene
http://www.youtube.com/watch?v=kWpQi3_v7Zc

もしかすると、ですよね。


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