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人生朝露

人生朝露

インセプションと胡蝶の夢。


今回はクリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)の『インセプション(INCEPTION)』(2010)について。
重層的な夢の世界を描いた複雑な作品ですが、荘子の世界観にかなり近い作品と言えます。

・・・いろいろあるんですが、とりあえず『荘子』と『列子』にあるお話を列挙します。


❝昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。❞(『荘子』斉物論 第二)
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。
ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。その時、私は夢で蝶になったのか、蝶が私を夢見ているのか分からなくなった。荘周と蝶には大きな違いがあるはずである。これを物化という。

まずはおなじみ「胡蝶の夢」。


❝「夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉、覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也、而愚者自以為覺、竊竊然知之。君乎、牧乎、固哉。丘也與女、皆夢也、予謂女夢、亦夢也。」❞(『荘子』斉物論 第二)
夢の中で酒を飲んでいた者が、目覚めてから「あれは夢だったのか」と泣く。夢の中で泣いていた者が、夢のことを忘れてさっさと狩りに行く。夢の中ではそれが夢であることはわからず、夢の中で夢占いをする人すらある。目が覚めてから、ああ、あれは夢だったのかと気付くものだ。大いなる目覚めがあってこそ、大いなる夢の存在に気付く。愚か者は自ら目覚めたとは大はしゃぎして、あの人は立派だ、あの人はつまらないなどとまくし立てているが、孔子だって、あなただって、皆、夢の中にいるのだ。そういう私ですら、また、夢の中にいるのだがね。


❝仲尼曰「(中略)吾特與汝其夢未始覺者邪。且彼有駭形而無損心,有旦宅而無情死。孟孫氏特覺,人哭亦哭,是自其所以乃。且也,相與吾之耳矣,庸詎知吾所謂吾之乎。且汝夢為鳥而厲乎天,夢為魚而沒於淵,不識今之言者,其覺者乎,夢者乎?造適不及笑,獻笑不及排,安排而去化,乃入於寥天一。」❞(『荘子』大宗師 第六)
→仲尼は言った「(中略)私もお前もお互いにまだ夢から覚めないだけかもしれない。彼は身体は変わりながらも心は変わることがなく、死とは住処を移すくらいのものだと思っている。孟孫氏は,すでに目覚めていて他人が泣けば彼もまた泣く、そこには何のはからいもないのだ。それに我々はよく「自分とは何なのか?」ということを疑問に思うものだ。たとえばお前が夢の中で鳥になって天を舞ったり、魚になって淵を潜っているとき、その時に「自分は今目覚めている」と感じるのだろうか?それとも「自分は今夢を見ている」と感じるのだろうか?人は「笑顔になるべきだ」と考える前はすでに笑っているものだよ。生も死も事の成り行きに任せてしまえば、天なる一と合一することも叶うだろう。


❝鄭人有薪於野者、遇駭鹿、御而擊之、斃之。恐人見之也、遽而藏諸隍中、覆之以蕉、不勝其喜。俄而遺其所藏之處、遂以為夢焉。順塗而詠其事。傍人有聞者、用其言而取之。既歸、告其室人曰「向薪者夢得鹿而不知其處。吾今得之、彼直真夢者矣?」室人曰「若將是夢見薪者之得鹿邪?詎有薪者邪?今真得鹿、是若之夢真邪?」夫曰「吾據得鹿、何用知彼夢我夢邪?」薪者之歸、不厭失鹿、其夜真夢藏之之處、又夢得之之主。爽旦、案所夢而尋得之。遂訟而爭之、歸之士師。士師曰「若初真得鹿、妄謂之夢。真夢得鹿、妄謂之實。彼真取若鹿、而與若爭鹿。室人又謂夢仞人鹿、无人得鹿。今據有此鹿、請二分之。」以聞鄭君。鄭君曰「嘻!士師將復夢分人鹿乎?」訪之國相。國相曰「夢與不夢、臣所不能辨也。欲辨覺夢、唯黃帝、孔丘。今亡黃帝、孔丘、孰辨之哉?且恂士師之言可也。」❞(『列子』周穆王 第三)
→鄭の国に原野で薪を拾う男がいた。男は原野でばったり鹿と出くわして、驚く鹿を擊ち倒した。男は仕留めた鹿が他人に盗まれはしないかと恐れ、干上がった池に隠し、芭蕉の葉で覆った。しめたものだと男は喜んだ。ところが、ふとしたことで、男は肝心の鹿を隠した場所を忘れてしまい、いつしか「あれは夢だったのではないか」と考えるようになった。家路に着くまでの間、鹿のことを順を追ってつぶやきながら帰った。そのつぶやきを盗み聞きした者がいて、その者がまんまと鹿をわがものとした。
 盗み聞きをした男は帰って妻に言った「薪拾いのヤツが鹿を獲って隠しておいたんだが、そいつは隠した場所を忘れてしまってな、「あれは夢だった」と考えたらしい。ところが、そいつのつぶやきどおりに探してみたら、ちゃんと鹿がありやがった。あいつは正夢をみたんだろうよ。」
 すると妻が答えた「お前さんこそ、薪拾いの男の夢をみていたかも知れないわ。その薪拾いはどこの誰なのさ?でも、鹿は確かにここにあるから、お前さんの方こそ正夢をみたかも知れないわ。」
 「目の前に鹿はあるじゃねえか。俺とあいつのどちらかが夢をみていたなんて考えることもあるめえ。」
 そのころ、薪拾いの男は、鹿をなくしたことをくやしがった末、ふてくされて眠っていた。その夜の夢で、男は例の鹿を隠した場所で、他人がその鹿を盗んでいる様子をまざまざと見た。
 翌朝、薪拾いの男は昨夜の夢の出来事を思い出し、鹿を盗んだ男を突き止めて裁判を起こした。
 判事はこう結論づけた「一方は現実に鹿を得たにもかかわらず、自分でそれを夢だとみなした。その後、夢の中で忘れた鹿の在処を見ていながら、現実には鹿を盗まれたと主張している。相手方は、現実に鹿をせしめていて、現に争っているわけだが、相手方の妻によると、その者は夢で鹿の在処を知ったのであり、誰からも盗んだわけではないと言う。今、現実に鹿がある。両名で分けるがよい。」
 鄭王がその話を耳にして「その判事も夢の中で鹿を二分したのではあるまいか?」と言い、大臣に意見を求めると大臣はこう答えた「夢か夢ではないか、臣にはとてもその区別などできません。黄帝や孔子のような方ならばそれを分けたがったでしょうが、黄帝、孔子なきこの世において、だれがそれを区別しましょうや?この判決に従っておいてよいと思われます。」

こちらは、『列子』にある夢の中で盗まれた鹿の所有を争う裁判の寓話。このお話は日本では謡曲の題材にもなっていて「芭蕉葉の夢」と呼ばれます。





道家(道教)の代表的な書物である『荘子』『列子』には、太極図で表されるような、夢と現実との相補的な関係性を示す言葉が随所に見られます。

そのうえで、この予告をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=ZfDm3s_IcqM&feature=emb_title

ちなみに、監督のクリストファー・ノーラン本人は、『インセプション(Inception)』に影響を与えたものとして、アルゼンチン出身の作家、ホルヘルイスボルヘスJorge Luis Borges)の『円環の廃墟』やウォシャウスキー兄弟の『MATRIX』を挙げています。


参照:A Man and His Dream: Christopher Nolan and ‘Inception’
https://artsbeat.blogs.nytimes.com/2010/06/30/a-man-and-his-dream-christopher-nolan-and-inception/

『円環の廃墟』の作者、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、講演でこのように発言しています。

前回の講義で中国の哲学者、荘子の話を引用したかどうか、私には記憶がありません(私はこれまでにその文章を、しばしば、繰り返し引用し続けたものですから)。ともあれ彼は、自分が蝶になった夢を見たが、目覚めたときには、果たして自分が蝶である夢を見た人間なのか、それとも自分が人間であると夢を見ている蝶なのか分からなくなっていた。この隠喩はあらゆる隠喩のなかで、もっとも精妙なものだと私は思います。まず、第一に、それは夢で始まり、やがて目が覚めてからも、その生が依然として夢のごとく感じられているわけですから。そして第二に、ほとんど奇跡に近い幸運により、詩人はあの昆虫を選んでいるからです。(『詩という仕事について』「2 隠喩」より 鼓直訳 岩波文庫)

参照:ボルヘスと荘子
https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5163/


また、『MATRIX』のコミック版やゲーム版では荘子は「Chuang Tzu(チャン・ツー)」というキャラクターで登場しておりまして、公式にも関係性を認めています。

参照:MATRIX Wiki Butterfly
https://matrix.fandom.com/wiki/Butterfly

マトリックスと荘子。
https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5053/

"You ever have that feeling where you are not sure if you're awake or still dreaming?"
→起きてるのかまだ夢をみてるのかはっきりしない感覚って味わったことないか?

クリストファー・ノーラン監督が認める『インセプション』の元ネタであるの二つとも、荘子の「胡蝶の夢」とのはっきりとした関係性が見られます。


D.T.Suzuki
❝一方では君の世界は嘘の世界であるといえるが、そういっている人の方がまた一方から見ると嘘の世界であるかもしれない。荘子の夢が胡蝶となってフワリフワリと花の上を飛んで歩いて暮らしておった。自分が蝶であるか、蝶が自分であるか、どうか、分からぬのである。また「夢」の荘子がほんとうの荘子か、「現(うつつ)」の荘子がうその存在か、どっちがより多くの現実性を持っているのか。夢に夢見るということもあって、ある角度からすると、この問題は必ずしも閑問題ではないのである。面白いところもないとは言えない。今日われわれが、こうしているとこう思っているけれども、それほど非現実性を持ったものではないかも知れぬ。ほんとうに現実性を持ったものは、そう思っているものを、もう一つ突き抜けたところにあるのではなかろうか。自分にはそう思われてならないのである。これは改めて申し上げたいと思います。
 そういうわけで、何が現実であり、何が非現実であるかということは、これはお互いに議論をしてわかるものではない。この今われわれに面していると考えられる世界は、もともと一元であるが、それが意識の発生で、二元の世界にわかれて、それから次へ次へと千差万別の世界になったから、お互いに私のほうが現実だ、お前のほうが非現実だといって暮らすようになって、自分の生きている世界だけが一真実の世界のように思われるようになった。そういう私の方が非現実だ、非現実だと言われるお方があるかもしれない。それにはまたやむをえぬところがあると思う。❞(鈴木大拙 「禅の世界」昭和16(1941)年の講演より)

・・・「夢」は、東洋思想においては大きな位置を占めます。
紀元前の荘子が提起したパラドックスは、21世紀の今でも大問題なんです。


君や蝶 我や荘子が 夢心   芭蕉

今日はこの辺で。


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