3278886 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

『道化師の蝶』と荘子。

荘子です。
荘子です。

『道化師の蝶』 円城塔。
今年の芥川賞の受賞作は、両方好きなんですけど、当ブログといたしましては、『道化師の蝶』を外す訳にはいきません。実験小説としてとか、衒学として片づけられる(論評の対象にならないというただそれだけのために捨てられる)可能性もあるとは思いますが、フランツ・カフカと荘子の関係を読む上でも興味深い作品です。

フランツ・カフカ(1883~1924)。
≪「真のリアリティはつねに非リアリスティックです。」とフランツ・カフカは語っている。「支那の色彩版画の明澄さ、清純さ、真実さをご覧なさい。あのように語ることができるということ-確かにそれは何ものかです。」(G.ヤノーホ著 『カフカとの対話』より)≫

参照:カフカのリアリティ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5110

『コッポラの胡蝶の夢(Youth without youth)』(2007)。
『道化師の蝶』は、胡蝶の夢をモチーフに使いながら、言語学者が「言語の起源」に迫る『コッポラの胡蝶の夢』に似ています。後は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』とか。円城塔さんの場合、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品群からの影響が非常に強いものだと思います。

参照:YOUTH WITHOUT YOUTH theatrical trailer
http://www.youtube.com/watch?v=mn0XGlwTKCI

参照:インセプションと荘子とボルヘス。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5074

≪「捕虫網というのは会話のきっかけとしてうまいやり方ですが、どこで思いつかれたのですか」
 あるインタビューで尋ねられ、強い調子で返答している。
 「あなたはわたしの話を完全に勘違いしている。この網は実際に着想を捕らえるのです。」
 「本当に物体が捕まるのですか」
 網に物が絡まるのは当然といえば当然の事柄である。
 「あれは一九七四年、スイスに向かう機内でした。顔を煽っていた帽子のなかに、蝶が一枚飛び込んだのに気づいたのです。」
 「飛行機の中に蝶がいたのですか」
 エイブラムス氏は憤然として、
 「あなたはわたしの話を完全に勘違いしている。その蝶は帽子をすり抜けましたよ。この世のものではないという明白な証拠だ。それと同時に見えているのだから物質なのです。実在しているものなのです。」(『道化師の蝶』より)≫

度々登場する「蝶」は、間違いなく荘子の『胡蝶の夢』です。

≪「ここにパスポートが4つあります」
「ここにパスポートが4つあります」
わたしはおばあさんの手から一つを取り、首を傾げて静かに言葉を待っている。
「パスポートが3つ」
「パスポートが3つ」
そう繰り返し、もう一つ取り戻す。(同上)≫

これは、だれがどう見ても「朝三暮四」です。

参照:朝三暮四の認識論。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5101

≪想像される能力からは、多言語を用いて書かれた小説や、独自の言語の開発などが期待されるが、彼の残した文章にそうしたものは見当たらない。渾沌の形をとったはじまりの言葉はあるものの、発音を写しただけのように見えるその連なりは、基本的にはその地のアルファベットをたどたどしく用いて記され、文法的には以前に滞在した地の言葉をひきずっている。(同上)≫

・・・ここには、【渾沌】とあります。「混沌」ではなく。

Zhuangzi
「世之所貴道者、書也、書不過語、語有貴也。語之所貴者、意也、意有所隨。意之所隨者、不可以言傳也、而世因貴言傳書。世雖貴之我、猶不足貴也、為其貴非其貴也。故視而可見者、形與色也、聽而可聞者、名與聲也。悲夫。世人以形色名聲為足以得彼之情。夫形色名聲果不足以得彼之情、則知者不言、言者不知、而世豈識之哉。」(『荘子』天道 第十三)
→道を学ぶときに、世の人が学ぶのは書物である。書物は言葉を載せているものに過ぎない。一般に言葉は貴いものであると思われている。言葉が貴ばれるのは、それに意があるからであって、意には何らかの指し示すものがある。その意を指す「本質的なもの」ものというのは、言葉では伝わらない。にもかかわらず、世の人々は書物や言葉で、本質が伝わるとでも思っている。世の人がそれを貴ぼうとも、それは貴ぶべきものではない。目で見えるのは物の形と色、耳で聞こえるのは物の名前と音だけだ。悲しむべきことだな。人はそんなもので相手の心のうちまで理解できると思い込んでいる。だから言うのだよ。知る者は言わず、言う者は知らず、とね。このことが、世の人に理解されないのだ。

≪自分の飽きっぽさに関しては、変に何かが見えるせいのような気がする。それが何かはあまり言葉にしたくない。原理とも法則とも呼ばれてしまいそうだが、体感は違う。単調な繰り返しが嫌いなわけでは決してなく、そもそも繰り返しは単調ではない。作業自体は同じでも、瞬間瞬間周りの空気は異なっている。ホルバイン・ステッチとフェズ刺繍の実体が全く同じものであっても、二つの刺繍は同じで違う。一つの針の目、一つの縫い目は、別々の音のようにわたしに響く。上面を撫でたところで何かをやり遂げた気になってしまって、頭の中で完成品をつくり終わって飽きるのだと思いたくない。それでも体が勝手に働き、足はわたしをどこかへ運ぶ。(『道化師の蝶』より)≫

参照:夏目漱石と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5011
ここは、梓慶(しけい)のお話。『道化師の蝶』には達生篇の蝉取りの名人まで出てきまして、荘子と対比すると非常に面白い。裁縫の話あたりになると、最近の癖でミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』や『影の縫製機』を連想してしまいます。

≪昔の女はこればかりでね、外へ行きたい子供があっても、女の子というだけでとにかく刺繍をしなきゃならない。そりゃまあ、終われば好きにしたって良いのだけれど、これがまた良くしたもので、いつまでやっても終わらないようにできている。あんたももうわかっただろう。ほんのベッドカバーを作るだけでも一年二年とかかったりする。
 屹度、そんな内容を話しているのだ。ほとんどそれは言葉というより、手芸につきものの一種の儀式をなしている。多くの国で、同じ内容が語られ続ける。理解するのに言葉が必要なくなるほどに。わたしはお婆さんの手元を注視しながら、言葉に耳を傾けている。何を言っているかは分かるのに、言葉の意味は分からない。聞いたなりにそのまま返し、お婆さんの手が止まる。
 おやおや。と、皺の間の目が開く。
 おやおや、わたしゃあんたに言葉を教えなきゃならないのかい。(『道化師の蝶』より)≫

車輪を作る職人。
桓公讀書於堂上、輪扁?輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰。「敢問公之所讀者何言邪?」公曰「聖人之言也。」曰「聖人在乎?」公曰「已死矣。」曰「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫!」桓公曰「寡人讀書、輪人安得議乎!有説則可、無説則死。」輪扁曰「臣也、以臣之事觀之。断輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以?臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老断輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」(『荘子』天道 第十三)
→桓公が書物を読んでいると、輪扁なる車輪を作る職人が「何を読んでいるんですか?」と聞いてきた。桓公は「聖人の言葉だよ」と答えた。すると職人は「その聖人様は生きているんですか?」桓公「いや、亡くなっておられる」職人「なんだ、あなたさまは死んだ人の残りかすみたいなものを読んでいるだけじゃないですか」桓公が怒って「お前なんぞの身分でわしの学問をバカにするのか、答え次第によっては命はないぞ!」というと、輪扁なる職人は「車輪を作るときに、ぴたりとはめ合わせる技は、言葉で伝えることも出来ませんし、私の息子にも教えることができませんでした。自分の経験と勘を継がせる事ができませんで、私を越える者もおらず、七十の今になっても車輪を作る仕事をしています。さて、今でも働いて報酬をもらっている私に言わせてもらえば、お殿様の読んでいる本は、今を生きていない死んだ人の書いたもの。いわば、古人の糟魄ではありませんか?」

・・・全ての事柄に通じることでもありますが、本当の仕事にマニュアルはありません。職人の勘や経験、学者のひらめき、芸術家のインスピレーション、宗教家の目覚め。これらを言語という不完全な道具で伝達することは非常に困難なことです。それは、自他共に今何を考えているかというレベルにおいてすら、完全なる説明が不可能なのと同じです。解剖したって分かるものではないわけですから。

参照:The Karate Kid clip 'Jacket On'
http://www.youtube.com/watch?v=T10ycFr770g&feature=relmfu

Finger Pointing to the Moon - Bruce Lee
http://www.youtube.com/watch?v=sDW6vkuqGLg
高度な精神性と身体性を要求される武の道も又然り。

この「古人の糟魄・糟粕(そうはく)」は、大阪大学理学部に揮毫された長岡半太郎さんの書にもあり、朝永振一郎さんの著作にも度々出てきます。

参照:勿嘗糟粕 甲戌夏日 楽水
http://www.sci.osaka-u.ac.jp/students/handbook2009/graduate/intro.html
下にある湯川さんの書「天地有大美而不言(天地は大美あれども言わず)」は同じく『荘子』の知北遊篇です。

湯川秀樹と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5009

で、
フランツ・カフカ(1883~1924)。
≪カフカは私の睡眠不足に気づいた。感興のあまり明け方まで書いていまいました、と私はありのままを言った。カフカは、大きい木彫りのような両手を机の上において、ゆっくりと言った。
「内部の感動をそれほどスムーズに放出できるならば、大きな幸福です。」
「なにか酔ったようでした。僕は自分が書いたはずのものを、まだ読んだことがありません。」
「当然です。書かれたものは、体験の単なる残り滓なのですから。」(G.ヤノーホ著『カフカとの対話』より)≫

フランツ・カフカは、この教えを知っています。

参照:カフカと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5106

カフカと荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5108

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.