21海軍元帥・伊東祐亨
海軍元帥・伊東祐亨 伊東祐亨(すけゆき)は、天保十四年(1834年)、薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下の清水馬場町に生まれました。今の宮崎県日南市にあった飫肥藩主、伊東氏に連なる名門の出身です。日向伊東氏と日向国との関係は、『曽我兄弟の仇討ち』で殺された工藤祐経の子の伊東佑時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて諸家を下向させたことがはじまりです。伊東氏が日向を支配するようになったのは、建武二年(1335年)、足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からです。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子(あかばしとうし)の所領であった今の宮崎市の穆佐院(むかさいん)を守るため、今の宮崎県西都市にあった都於郡(とのこおり)に300町を賜ったと言われています。祐持は国大将として、下向した畠山直顕(ただあき)に属して日向国内の南朝方と戦っています。征西将軍に任じられた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王が御在所の称である征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱したのですが、日向伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くしています。息子の祐重(すけしげ)も足利尊氏から諱(いみな)を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名しています。 日向伊東氏は、南北朝時代までは守護職である島津氏に対して、国衆(くにしゅう)、または国方(くにかた)と呼ばれていました。しかし、その島津家が、庶流を巻き込んで内紛状態になり、その関係性が消滅するのです。 木崎原の戦いは、元亀三年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で伊東義祐と島津義弘の間で行われた合戦です、しかし、眼前の島津軍劣勢との誤った判断から決戦の機会を失った義祐は、この間にノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えました。島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は日向、大隅、薩摩制圧の夢を果たし、一方、伊東氏は居城都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるということになります。しかしその後、伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉の九州平定に参加し、秀吉軍の先導役を務め上げた功績によって飫肥の地を取り戻し、近世大名として復帰を成し遂げたものです。 ところで、今夜の伊東祐亨の話に至るまでに、天正十年(1582年)に行われた天正遣欧少年使節の伊東祐益、いわゆる伊東マンショ、天正十六年(1588年)に伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前、そして万治三年(1660年)、伊達騒動に巻き込まれた伊東七十郎と、いずれもその祖を、郡山最初の領主・伊東祐長の父としています。この先祖が同じということもあって、これらの人々の話の中には、重複する場面が少なくありません。ご了承願います。 ではここで、伊東祐亨の話に戻ります。祐亨は、開成所においてイギリスの学問を学びました。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このときに祐亨は、海軍に興味を持ったと言われています。江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)のもとで砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学び、薩英戦争にも従軍しています。鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件では江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍しています。 明治維新後は、海軍に入り、明治四年に海軍大尉に任官。明治十年には、装甲巡洋艦『日進』の艦長に就任しました。明治十五年には海軍大佐に任官、木造鉄帯装甲艦の『龍驤』、甲鉄艦『扶桑』、さらには『比叡』の艦長を歴任し、明治十八年には、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられました。同年イギリスで建造中であった防護巡洋艦『浪速』の回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられ、明治十九年には海軍少将となりました。そののち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治二十五年には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官兼海軍将官会議議員を拝命。明治二十六年に常備艦隊長官を拝命し、明治二十七年の日清戦争に際しては、初代連合艦隊司令長官を拝命しています。 明治二十七年七月に勃発した日清戦争において、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊との間の黄海海戦では、戦前の予想を覆し、圧倒的有利であった清国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保しました。この時の日本側の旗艦「松島」の4217トンに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220トンと、倍近い差があったのです。この戦いは、日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点となったのです。清国艦隊はその後も抵抗を続けましたが陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治二十八年に山東半島の威海衛で北洋艦隊は降伏しましたが、丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げています。伊東は没収した艦船の中から商船の『康済号』を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことがタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめたと言われます。 日清戦争後は子爵に列せられ、軍令部長を務めて、明治三十一年には海軍大将に進みました。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治三十八年の終戦の後は、元帥に任じられました。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしています。明治四十年、祐亨は伯爵に叙せられ、従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与されています。大正三年に死去。腎臓炎のための70歳でした。通称は四郎左衛門。家紋は庵木瓜(いおりにもっこう)で、郡山最初の領主・伊東佑長に連なるものでした。この伊東氏に脈々と続く人脈に、ただ脱帽するのみです。