アダマストル公国はベルムーテス五公国連合に属する大国である。 建国後、三百年に亘り聖女アルジャベータの血脈を守護する女帝制が布かれていた。 国地の大半を占めるデュミナスカ半島は、サーリュクルト大河の河口デルタ地帯が齎す西大陸最大の穀倉地帯としても名高い。 加えて首都のナイトクランはリザロス湾に面する大陸最大の貿易港を有し、異国情緒溢れる美しい街並みを誇っていた。 市街地を走る街路は広く、整頓された石畳が敷き詰められている。 轍が刻まれた中央街路の両側には一段高くなった側道があり、十字路ごとに常夜灯が整備されていた。 中央広場には大陸教でもあるメナディエルの大聖堂が座し、巡拝の名所でもある。 都市の南部を占める産業地区には、西大陸の海の玄関口でもあるリザロス湾を取り囲むように、数多の屋台や露店がひしめき合っている。 市場は熱気に包まれ、生鮮品の類から製材、打刃物、家具、建具に到るまでところ狭しと陳列されていた。 バールペオル大陸では珍しい南部原産の香辛料や東方産の天然香水などの稀少品まで商いされている。
大陸行路の終始点、即ち南部の制海権を一手に握るアダマストルは、交易関税が生み出す莫大な富を背景に、一公国でありながら様々な影響力を大陸全土に誇っていた。 大陸各地、数多に点在するどの都市も、このナイトクランが生み出す財の前では霞のようなものであろう。
・
・
・
「いいから、とおしなさいです!」
舌足らずな子供っぽい声が、周囲の静観をぶち壊すように響き渡る。
ここは活気に溢れた港街の喧噪から隔たれた一角、大港の最深部に設けられた公室専用港。 白大理石を基調に様々な貴石で紋様を施された特別地区である。
「な、なりません」
「ムカー! “平民”のぶんざいでナマイキですねっ!!」
これらは既に、数刻に亘り繰り返された押し問答であった。
「ここを通すわけには参りません。 どうかおひきとり下さりますよう」
橋守の神官兵は努めて事務的な応答を返す。 既に教会船の停泊した桟橋の上には小さな人だかりが出来上がっていた。
「あ、あのプルミエールさま。 もう帰りましょうよ~」
アリエッタが今にも泣き出しそうな声で自重を促す。 件の二人組みは、市場の活気溢れる風趣には目もくれず、目的の場所へと辿り着いていたようだ。
「ダメです! あの冷血女の魔の手からシャル姉さまをお助けするのです!!」
プルミエールはアリエッタから聖誕祭の詳細を聞き出すと、大まかな理解と盛大な誤解を胸に物騒な決意を固めてしまっていた。 しかも、逃げ道がない海路を選択する辺り、アリエッタにしてみれば最悪である。
「あうぅ……」
アリエッタは、まるでこの世の終わりだとでもいうように、がっくりと肩を落としている。
相手が王族とはいえ機密事項を漏洩したことが露見すれば、ガーディアンの正式叙勲は暫くの間、見送られそうであった。
「ど、どうか、おひきとりを……」
「ガルルルル……」
神官兵は今にも噛みつかんばかりのプルミエールに対して、明らかに気後れしつつあった。
プルミエールの常人より遥かに低い我慢限界値が沸点に達しかけた時―――
「わざわざ私を呼びつけるとは何事じゃ」
教会船に掛かった桟橋を、白髪混じりの老人が覚束ない足取りで駆け降りてくる。
「む、なに奴ですか!?」
プルミエールが唐突に現れた第三者へと不審の眼差しを向けた。 いや、老人の纏う高位聖職衣に敵愾心を燃やしていると描写したほうが正確だろう。 自由人な第二王女にとって、国教である聖アルジャベータ公会の典礼儀式は、強制参加の王室行事と並んで退屈や憂鬱の代名詞だった。 要するに過去のいざこざから、教会とプルミエールは水と油の関係であった。 無論、教会関係者は一方的な被害者である。
「ん!? こ、これはプルミエールさまではありませんか」
老人はプルミエールの存在に気づくと畏まって低頭する。 様々な意味で名を馳せているこの第二王女に覚えがあるようだ。 悪評が立ってはいても、信心深いメナディエル教徒にとって、聖女の血統を受け継ぐリュズレイの血脈は、それだけで神聖なる存在であることに変わりはないようだった。
「私はこの教会船アメナディル号の船上司祭を務めるザゼルと申します。 それで、このような早朝からどのような御用でございましょうか?」
教会船の目と鼻の先で引き起こされた珍騒動は、船上司祭をも呼び寄せる事態にまで発展していた。 司祭不在の孤島や小教区に司牧訪問する目的で造られた教会船には、本格的な礼拝堂が設けてあることが通例であり、船上司祭とは海上での祭事を執り行う最高責任者である。
「ザゼルさま、じつは……」
プルミエールを無謀、いや果敢にも押し止めていた神官兵がザゼルに耳打ちをすると、
「ふむ、残念ですがこればかりは罷り通りません。 ルバドス副宰相殿からプルミエール様を国外に出すなときつく言いつかっております」
「むぅ、あのシロヒゲだるまめぇ……こしゃくなヤツ。 帰ったら逆さヒゲ吊りの刑にしてやるですぅ」
プルミエールは聞いてるだけで痛そうな刑罰内容(おしおき)を口走ると、しかめ面で歯軋りをする。 もっとも、返り討ちできつく仕置かれるのはもっぱらプルミエールの方である。
「なにより此度、当船は公国直属の勅命を担っておりまする。 如何なる理由があろうと乗船を許可するわけにはまいりません」
「講釈中悪いが、その話はご破算だ」
老司祭の頭上から野太い声が振りかかる。
「な、なにを……」
ザゼルが船縁を見上げると、巨大な影がヌッと山のように聳えていた。
「残念だが、お目当ての人物は来ないぜ。 やんごとなきご身分の御方は、こんなむさ苦しい船には乗りたくなくなったそうだ」
桟橋からは逆光となり表情は見えないが、声が笑っている。 大きな人影は船縁に飛び乗って、片手に持った酒瓶を豪快に煽っていた。 どうやらプルミエールと老司祭のやり取りを酒の肴に楽しんでいたらしい。
「バルバロト船長……出港前の飲酒はあれほど控えるようにと……。 い、いや、それよりも今の言葉は聞き捨てならぬぞ。 この“私”が公国から直々に賜った聖務を何と心得る」
殊更「私」の部分を強調したザゼルの物言いに、大男―――バルバロトは苦笑いすると、
「嘘はついちゃいねぇよっ……と」
軽口と共に巨体に見合わぬ身軽さで桟橋の上に飛び降りる。 橋板が軋み、驚いたアリエッタが「はわっ」と小さく叫び尻餅をついた。
「明け方、直接この船に伝令があったのさ。 急遽、予定が変更になったとよ。 こっちはこっちで与えられた役割を全うせよとのお達しだ。 端から俺たちを囮に使う腹積もりだったのだろうさ」
喧騒の輪に混じると、バルバロトは髭面をニタリと歪めて人懐っこそうに笑う。 左目に被り眼帯、残った隻眼から放たれる眼光は野獣の気配を匂わせている。 三つ編みにされた長い黒髪の束が巨躯を覆う漆黒の長衣の上で揺れていた。 きっと海賊を抽象化して絵に描いたらこのようになるのだろう。 爪先立ちをしたプルミエールが無意味に大きさを張り合っているが、気にした風もない。
「私は聞いておらぬぞ。 それにそのような重要事項をなぜ隠しておった」
ザゼルは顔を真っ赤に紅潮させて喚き散らす。 頭に血が上りすぎて今にも卒倒しそうである。
「そりゃ、司祭殿方はついさっきまで日課の朝礼で祈祷室に籠っていただろ」
一方、バルバロトは気にした風もなく豪快に笑っていた。
「それに、司祭殿は口は堅いがすぐ顔にでる。 隠し事は向いてないだろ」
フォローになっているのかいないのか、微妙なことを言うバルバロト。
「まさか、そんな……」
大務を任されたと信じ込んでいたザゼルは茫然自失だ。
「俺様もこのアメナディル号をダシに使おうって小賢しい魂胆が気に食わない。 なんなら、ばっくれちまっても構わないぜ。 どうする、司祭殿?」
「大馬鹿者が! アダマストル王室の決定は、聖アルジャベータ公会の教令と同義。 それに逆らうことなど不敬極まりない。 我らの役割が囮であるのならば、それに務め徹すことが、延いてはメナディエル教徒全体の為となろう」
ザゼルは胸元で十字を切ると、女神への祈りの言霊を紡ぐ。
バルバロトは老司祭の言葉に「信仰深いことで」と呆れたように小声で吐き捨てた。
「まっ、教会の厄介ごとに関しての最高責任者はアンタだ。 こっちはそれに従うまでさ」
そこでバルバロトは何か名案を思いついたように大きく手を打つ。
「おい、そこのちっこいのふたり」
「ムカー! プルは小さくな―――ふぐぅ」
激昂するプルミエールの口に手を当て蓋をするアリエッタ。 これ以上事態をややこしくしたくないようだ。
「ど、どうもお騒がせしました。 それじゃ、わたしたちはこれで……」
アリエッタはその場で深く一礼すると、事態の収拾を図るべく会話に終止符を打とうと試みた。
「いや、待て。 この船に乗りたいのなら乗せてやってもいいぜ。 囮なら囮らしく、それらしいお方を乗せておいたほうが、なかの奴等もなにかと張りがでるだろうしな」
「はぁ、そうですよね。 やっぱり迷惑でしたよね―――って……ええ!?」
アリエッタはバルバロトのあり難迷惑な申し出によって平和的自己完結を阻害されて鼻白む。
「い、いえ、それは慎んで遠慮し―――ぐふぅ」
プルミエールの肘鉄一閃で桟橋に沈むアリエッタ。 急所を一撃で射貫くあたり体術の資質は高そうだ。
「なかなか話のわかる“毛むくじゃら”ですね♪ よきにはからえです」
プルミエールは片足でアリエッタの頭部を踏みつけると、勝ち誇ったように八重歯を剥き出しにする。
その一連のやり取りにザゼルは口をポカンと空けたまま唖然としていたが、小さく咳払いをすると、
「致し方ありません……。 バルバロトの言い分にも一理ある。 お若いが守護騎士殿もご一緒なら心配も無用でしょう」
ザゼルはアリエッタの上衣に縫いこまれた刺繍が、娘子軍として名高い“ガーディアン”の紋章である事にも気づいていたようだ。 正規の守護騎士と間違われたアリエッタの顔が一瞬だけ嬉しそうに綻びるが、直ぐに事態の深刻さに気づいて汗だくになった。
「先ほどまでの非礼の数々、弁解の余地もございませぬ。 ご無礼の段は平にご容赦下さりますよう」
どうやらザゼルの腹は決まったようで、プルミエールを王族として教皇庁まで送り届けるつもりらしい。 問題児であるが、第二王女を乗せれば、この空虚な船旅にも箔がつくと思い直したのだろう。 なにより守護騎士団の団員が同行していることを公国側の同意と受け取ったのかもしれない。
「何をしておる、早く此方のお二人をアメナディル号へとお通しするのだ」
ザゼルは事態を飲み込めず唖然としている神官兵を叱責すると、聖職衣の胸元で聖印を切る。
「どうぞこちらへ」
神官兵が脇に退くと、ザゼルが先頭に立って、プルミエールを上甲板へと丁重に先導する。
とり残されたアリエッタは、あたふたと周囲を見回して思わぬ展開にとり乱していた。
「さあ、守護役の騎士様もどうぞこちらへ」
「あ、あの……、考えなおしたほうが……はっ!?」
アリエッタはそこで、はたと気づく。
ここで余計なことを口走り船に乗れなくなれば、まず間違いなくプルミエールは暴れだすだろう。 その理不尽な怒りの矛先が果たして何処に向けられるか? 考えるまでもない。
「あは……はははっ」
ガクガクと膝が笑うほどの悲壮感がアリエッタを襲う。
「どうされました?」
ザゼルが挙動不審なアリエッタを訝しみ脚を止めて尋ねる。
「い、いえー。 えへへ……」
アリエッタは折れそうな心を自力で矯正すると、不自然な作り笑いを浮かべた。 既に悪魔に魂を売った以上、何も失うものはないと無理矢理に自分を納得させる。
「アリアリ、なにをモタモタしているですか!」
プルミエールから叱責が飛ぶ。 アリエッタが見上げると、甲板へと掛かる渡し板の上で諸悪の元凶がいつも通りに無い胸を張っていた。 相変わらず偉そうである。 実際、“そこそこ”偉いので尚さらたちが悪い。 勿論、親友(下僕)なので口にだしてそんなことは言わないし、言えなかった。
こうしてアリエッタは、一足先に王都を立ったシャルロットと守護騎士団の一行を追い、海路で教皇庁アレシャイムに向かう羽目に陥ったのであった。
―――今日もリザロス湾から眺める空は青く高かった。
|