南蔵院 しばられ地蔵 葛飾区東水元2丁目「しばられ地蔵の由来」 亨保年間八代将軍徳川吉宗の治世、或る夏の昼下がり日本橋のさる呉服問屋の手代が荷車に反物を満載して南蔵院の門前に通りかかった。ここらで一服と門前に車を止め境内の銀杏の木陰に涼をとる中についうとうととひと眠りしてしまった。目が覚めてみるとさあ大変門前に置いた車がない、青くなって番所へ・・・・・そこで当時名奉行の聞こえ高い大岡越前守忠相の直々の取調べとなった。「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙ってみているとは門前の地蔵も同罪なり直ちに縄打って召捕って参れ」地蔵はぐるぐるに縛られ車に乗せられて与力、同心に守られて江戸市中を引き回され南町奉行所へ・・・・・ 物見高い江戸市中のやじ馬連中、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれこんだ、頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白洲へ乱入するとは不届き至極、その罰として反物一反の科料申附ける」鶴の一声、奉行所にはその日の中に反物の山ができた。手代に調べさせるとその中から盗品が出てそれからそれへと調べさせると 当時江戸市中を荒らした大盗賊団が一網打尽となった。越前守は地蔵尊の霊験に感謝し立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行った。以来「しばられ地蔵」と呼ばれ盗難除け、足止め、厄除け、さては縁結びまで凡ゆる願い事聞いて下さる地蔵尊としてお願いするときは縛り、願い叶えば縄解きする風習が生まれた今も幾百人ものお願いごとを秘めてしばられつづけている。(http://tencoo.fc2web.com/jinja)
「しばられ地蔵の由来」 亨保年間八代将軍徳川吉宗の治世、或る夏の昼下がり日本橋のさる呉服問屋の手代が荷車に反物を満載して南蔵院の門前に通りかかった。ここらで一服と門前に車を止め境内の銀杏の木陰に涼をとる中についうとうととひと眠りしてしまった。目が覚めてみるとさあ大変門前に置いた車がない、青くなって番所へ・・・・・そこで当時名奉行の聞こえ高い大岡越前守忠相の直々の取調べとなった。「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙ってみているとは門前の地蔵も同罪なり直ちに縄打って召捕って参れ」地蔵はぐるぐるに縛られ車に乗せられて与力、同心に守られて江戸市中を引き回され南町奉行所へ・・・・・ 物見高い江戸市中のやじ馬連中、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれこんだ、頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白洲へ乱入するとは不届き至極、その罰として反物一反の科料申附ける」鶴の一声、奉行所にはその日の中に反物の山ができた。手代に調べさせるとその中から盗品が出てそれからそれへと調べさせると 当時江戸市中を荒らした大盗賊団が一網打尽となった。越前守は地蔵尊の霊験に感謝し立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行った。以来「しばられ地蔵」と呼ばれ盗難除け、足止め、厄除け、さては縁結びまで凡ゆる願い事聞いて下さる地蔵尊としてお願いするときは縛り、願い叶えば縄解きする風習が生まれた今も幾百人ものお願いごとを秘めてしばられつづけている。(http://tencoo.fc2web.com/jinja)
願行寺 しばられ地蔵 品川区南品川4丁目地蔵菩薩の誓願は病や災難や貧に苦しむ者の身代わりとなって苦労を引き受けてやる(代受苦)ということだから自分はいつも縄でしばれれて功徳は気の毒な人に分け与えておいでになる。願掛けをする者はお首を一つそっと持ち帰ってお願いをして願いが叶ったらお首を二つにしてお返しをする。 と案内板に記されています。祭壇には沢山のお地蔵さんの首が並んでいます。
地蔵菩薩の誓願は病や災難や貧に苦しむ者の身代わりとなって苦労を引き受けてやる(代受苦)ということだから自分はいつも縄でしばれれて功徳は気の毒な人に分け与えておいでになる。願掛けをする者はお首を一つそっと持ち帰ってお願いをして願いが叶ったらお首を二つにしてお返しをする。 と案内板に記されています。祭壇には沢山のお地蔵さんの首が並んでいます。
とげぬき地蔵:正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といいます。慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきました。とげぬき地蔵とは正徳3年(1713年)5月のこと、江戸小石川に住む武士の田付又四郎が、夢枕に立った地蔵観音のお告げにより地蔵尊の姿を描いた紙を川に流すと、妻の病が回復したことが御影(おみかげ)の始まりであるとされています。また毛利家の女中が針(とげ)を誤飲し、御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことが出来たという逸話に由来します。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、現在に到るまでそのご利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えません。本尊の延命地蔵尊は秘仏につき、非公開ですが本尊の画像を元にした札(御影:縦4cm、横1.5cmの和紙に尊像が描かれている=右画像)に祈願してもご利益があるとさています。 通称、洗い観音(とげぬき地蔵と誤認され易い)は、自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くとご利益があるという。かつてはたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、平成4年二代目の像が製作されました。(Wikipedia)
六地蔵: 日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。 六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。(Wikipediaより)
秋だけでなく、四季を通じて鈴虫の音色を聞くことのできる境内。それゆえ「鈴虫寺」の名で親しまれている当寺ですが、正式な名称は「妙徳山 華厳寺」といいます。 華厳寺は江戸時代中期の享保8年(1723)、華厳宗の再興のために鳳潭上人(ほうたんしょうにん)によって開かれ、現在は臨済宗に属する禅寺となっています。本尊である大日如来のほかに地蔵菩薩も安置しており、全国から地蔵信仰、入学・開運・良縁祈願の方々をはじめ、多くの方が祈願にお見えになります。 美しい自然に恵まれた松尾山麓に佇む当寺は京都市内を一望でき、四季折々の花や樹々、歳月を重ねた石や苔、竹林などが調和する境内では厳かな静寂と歴史ロマンを感じていただけます。また住職の説法を聞き、幸福地蔵菩薩様にお参りすることで自分の心と向き合うきっかけにもなるでしょう。