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楽珍人生

モロッコ34000

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チュニジアへ
幻想のモロッコ

morocco


モロッコ国旗国章


モロッコ王国(Kingdom of Morocco)
面積: 約45万9000km2(西サハラは除く)日本の約1.2倍
人口: 約3224万人(2006年)
首都: ラバト Rabat
元首: モハメッド6世国王 Mohammed VI (国王を元首とする立憲君主国家)
民族構成: アラブ系65%、ベルベル系35%
宗教: 国教はイスラム教(スンニ派)
歴史/略史:80万年以上から大西洋沿岸には人が住んでいたようで、この頃のものと思われる道具がカサブランカで発見されています。7000年ほど前には、ベルベル人の祖先がオリエントから移住してきたのではないかという説もあります。この頃、サハラ沙漠はまだ草原でした。その後、マウレタニア人、フェニキア人などが到来し、紀元前4世紀には北部にマウレタニア王国が建設され、ローマと友好関係を持ちながら繁栄しました。
1世紀にローマがマウレタニア王国を征服しました。5世紀にはゲルマン人の一派ヴァンダル族が王国を建国。6世紀にビザンツ帝国(東ローマ帝国)がヴァンダル王国を滅ぼし、北アフリカ一帯を支配します。7世紀にイスラム国家ウマイヤ朝が侵攻し、ベルベル人にイスラムが広がります。その後16世紀まで、いくつかのイスラム王朝が興亡します。17世紀にイスラム王朝であるアラウィ朝が成立します。これが現在も続くモロッコ王国の王家です。20世紀前半はフランス・スペインに支配されましたが、1956年にムハンマド5世が「スルタン」から「国王」になり王国として独立しました。 (http://www.geocities.jp/rexbc323/morocco.htm)




旅 程 図
モロッコ地図





メ ク ネ ス

メクネス




車窓の村

この村は、ムーレイ・イドリスで聖者の村と云われています。8世紀にアラビア半島から来たイドリス一世は、この地にモロッコ初のイスラム王朝であるイドリス朝を開きました。首都は、9世紀初めにフェズに遷都。首都としての歴史は50年以内の短い期間でしたが、イドリス一世の廟がある聖地として、現在でも、モロッコ各地から参拝客がやってきます。聖なる町として、近年まで異教徒の立ち入りは禁止されていました。






ヴォルビリス遺跡

ヴォルビリス





フェ ズ
フェズ市街
マリーン朝のスルタン墓地の丘から眺めたフェズ市街




タンネリ




フェズ・エル・バリ

説明

フェズは、モロッコ最初のイスラム王朝の都でした。イスラムの祖であるムハンマドの婿、アリーの子孫にあたるムーレイ・イドリス1世は、8世紀末にバクダッドのイスラム王朝アッバース朝に反乱を企てますが、激しい迫害に遭い中央モロッコに亡命します。才能に恵まれ勇敢だったイドリス1世はベルベル人の支援を得て、この地にイスラム王朝を興します。そして、808年に息子であるイドリス2世がフェズ川の西岸に新しい都を建設しました。このとき、チュニジアのカイルアンやスペインのコルドバからの移住者も受け入れました。城壁で囲んだ町の中心にモスクを造り、神学校なども建てられました。フェズは、イスラム王朝のもとで発展をし続け、信仰、芸術、商業の面でもモロッコの中心として精華を極めました。最盛期のマリーン朝時代には新しい町が建設されますが、これがフェズ・エル・ジェディドです。これに対して、最初に造られた古い町はフェズ・エル・バリと呼ばれています。(www.geocities.jp/midokoroippai)





zaddo


エアシ山
モアイアンアトラス山脈(最高峰エアシ山3737m )






ズ ィ ズ 峡 谷

ズィズ川





サ ハ ラ 砂 漠

bellbell

sahara

sahara

サハラ砂漠は、砂漠として世界最大規模を擁し、地球上で最も乾燥した砂漠であり、西は大西洋沿岸から東は紅海沿岸にまたがり、その広さは約1千万平方キロとアメリカ合衆国とほぼ同じ広さがあり、アフリカ大陸の3分の1を占めるほどの面積です。
サハラの名はアラビア語で「荒れた土地・砂漠」を意味するサフラー(sahra)に由来します。サハラ砂漠は平均して標高300mの台地から成りますがアルジェリアやニジェールでは標高2000mを超える山地もあります。広大なサハラは各地でさまざまな表情を見せます。サハラ一帯は、完新世(1万年前~現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来ました。およそ8000~5000年前までの期間は湿潤で、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いています。20世紀以降では、1915年頃以降降水量は増加したが、1920年代以降現在までは降水量は減少傾向にあります。現在でもサハラ南縁部は世界で最も砂漠化が進行している地域で、毎年約6万平方キロ(東北地方の面積に匹敵)のスピードで砂漠の面積が増加し続けているそうです。







カ ス バ 街 道

カスバ街道



トドラ渓谷





アウト・ベン・ハッドゥ
アウトベンハッドゥ





ティシュカ峠





マ ラ ケ シュ

marakesyu


ヨーロッパ人が「モロッコ」となまって発音したことから「モロッコ」の語源にもなっている。 マラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。北緯32度、西経8度、標高450mに位置する。気候はステップ気候に属する。人口は66万人であり、カサブランカとラバトにつぐモロッコ第3の都市でもある。マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市外(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。
マラケシュを都市化したのは、ムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィン(位1061年~1107年)であった。1071年以来本格的な整備を行い、モスクの建設、潅漑路の整備などを行った。また子のアリー・ブン・ユースフ(位1107年~43年)の時代にもモスクが建設され、1120年にクバ・アル・バディンの霊廟が建設された。ムラービト朝時代にはもっとたくさんの建造物が建てられたはずであるが、ほとんどがムワッヒド朝時代に取り壊された。1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥービヤ・モスクのミナレットは、77mに達し、マラケシュの旧市街の象徴的な建造物である。そのほかムワッヒド朝の君主が宮殿に行く途中に設けられたアーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノー門や27の橋脚に支えられたテンシフト橋が架けられた。サアド朝時代には、アフメッド=ル=マンスール王のエル=バディ宮殿が建てられたがアラウィー朝時代にさっそくほとんどが取り壊され、パレード用の広い庭が残されて、毎年、民俗芸能の祭典を行うのに使われている。19世紀に、アラウィー朝の王によって化粧漆喰とアラベスク模様で飾られたバイーヤ宮殿とアグダル庭園が造られた。このような貴重な歴史的建造物の豊富なマラケシュの旧市街地は、1985年に世界遺産に登録された。(Wikipedia)


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カサブランカ

hassan

カサブランカ:人口は約350万人でモロッコ最大。モロッコの商業・金融の中心地である上に、観光地として多くの人が訪れる。紀元前10世紀にベルベル人が定住したのが、カサブランカの始まりだといわれている。紀元前7世紀頃にフェニキア人、紀元前15世紀頃にはローマ人と交易が行われていた。1515年に、ポルトガル人によって町の再建が行われ、町を「Casa Blanca(白い家)」と名付けた。しかし、1755年に起こったリスボン大地震によってカサブランカは甚大な被害を受け、ポルトガル人はカサブランカを去った。カサブランカはモロッコに統合され、1770年からムハンマド3世によって町の再建工事が行われ、町は要塞化された。18世紀からはスペインと、19世紀に入るとそれに目を付けたヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、主にウールの積出港として発展した。しかし、ヨーロッパ列強に対する住民の不満は募っていた。1907年に港湾工事を行っていたヨーロッパ人労働者を住民が殺害したのを機に暴動に発展フランス軍はカサブランカを占領した。1912年、モロッコはフランスと保護領条約を締結し、カサブランカはフランスの植民地となった。第二次世界大戦中はドイツによってフランスが占領されたために、親独のヴィシー政権の支配下にあり、連合軍の北アフリカ侵攻のときに連合国軍に占領された。1943年にはカサブランカ会談が開かれた。第二次世界大戦後の1956年にモロッコがフランスから独立し、モロッコ最大の都市として繁栄し、世界各国から観光客が訪れ、モロッコの経済の中心地の地位を占めている。。(Wikipedia)





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