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俳句には五七五を基本として切れ字や季語など、定型としてのルールがある。もちろん俳句の基となった短歌には五七五七七という定型がある。
尾崎放哉や山頭火は定型を踏まえた破型であって、俳句というものを踏まえなければ成立しない。 いきなりなんじゃと思いよる人もおられようが、もうしばらくお付き合いなされ。 先日石塚運昇リーディングカンパニーの公演を楽しんできたんだけど、ほんとに楽しかったんだけど、 引っかかってることがありますんじゃ。 リーディングに対するおれっちのイメージは、朗読、読み聞かせ、語り、そしてラジオドラマ、吹き替え 手前勝手な言い分なのかもしれねえけれど、語りに熱中するあまりの動作までを限界とするのが、リーディングの定型なんだと思ってるんです。 それ以上に演じてしまえば、落語や漫談そして講談、もちろん舞台演劇との一線を越えている。 って考えは、狭量にすぎるんでしょうかねえ。 実あ、前回初めて舞台上に台本をもった人が座り、語りと効果音によってドラマチックな世界を構築する、リーディング公演という存在を知ったんです。 それまで、「わざとらしさ」「空間になじめない、身の置き所の無さ」を一般の舞台演劇を見るとかならず感じていた自分が、不思議とこのリーディング公演では、馴染んでる。その場にいることを楽しんでる。 この不可思議は何なのか!? 舞台に向かって並ぶ客席、舞台には客席に向かって並ぶパイプ椅子。 一時暗幕が降りたような暗闇の後、舞台上には語り部が並ぶ、 そして展開される演劇空間は一体と化している。 かの頃、寺山修司や東由多加なんかが求めていた舞台と客席の宥和、一体感なのかも、 なんて、思っちゃう。 ところが、語り手の演技が過剰に感じられると、もたげてくる「身の置き所の無さ」 正直おれっちの演劇体験なんてのは僅かなもので、 子供の頃のドサまわりの一座、 二十前後に友人にくっついて行ってみた、天井桟敷に東京キッド。 宝塚も、帝劇も、明治座も新橋も見たことないし、なんと歌舞伎座もしらん。本多劇場と、渋谷コクーンは、少し前に行った。といっても、10年前かも。 ってなわけで、片手じゃ足りないけど両手じゃ指が余る。その程度の観劇体験のド素人の言い草なんだけどね、ホントはもっといろいろ経験を積んでから生意気をいうとこなんだろうけど、そこがブログのお気楽さ。許せよ乙女。 リーディング公演の定型を固めていくのか、それとも、より大きな枠組みを構築していくのか、次回公演はどっちに行ってるのか、それともこんな命題とは違うものを発見させてくれるのか、、、、、、、、、、、、、、第四回公演に期待を込めて。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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