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小さなkitchen-Garden

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2014/07/13
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まだ梅雨は開けていないですよね。台風が通過したあとは、いっきに真夏がやってきたかのような気候になりました。でもまだセミは鳴いていないので、夏はこれからなんですが、それにしても暑すぎますしょんぼり 

 

さて、等持院の続きです。

庭園は、尊氏の墓を境にして、東西2つの池を中心とした庭に分かれています。東部の庭園は、方丈の東側にあります。池底の状況などが室町時代の作庭をうかがわせるので、開山の夢窓疎石が作庭したという説があります。ただし、室町時代の記録と充分に整合していない点もあるため、はっきりしたことはわかっていないそうです。 

 

P5040061.JPG

 

 東西どちらの庭にも中島のある池が作られ、橋が架けられています。東の池を心字池(しんじいけ)、西の池を芙蓉池(ふようち)と呼び、2つの池を流れがつなぎ、西の芙蓉池からの水が、東の心字池に流れ込んでいます。東側の心字池の庭は、曲線を強調した自然的な造形です。池の周囲にはモミジなどが植えられ、閑静なたたずまいをみせています。詳しく見ると、池の岸に据えられている石は少なく、だいぶ改修されたとも考えられます。 

花心字池   池の形が「心」字のような形をなしているものを指し、鎌倉、室町時代の庭に見られ、等持院のものは有名です。実際に心字形でなくとも、池の中に中島を置き、岸辺のどこから眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあります。 

西側の芙蓉池は、南の方丈、西の書院、北の茶室・清漣亭(せいれんてい)の3つの建物に囲まれ、三方から眺めることができます。清漣亭は小高い場所にあり、芙蓉池を下に見下ろす態となっています。なだらかでやや平面的な東側に比べ、立体的な造りになっています。  

 

P5040062.JPG 

 

庭園は、池泉回遊式となっていて歩いて探索することができます。
元は衣笠山を借景した庭園であったと言うことですが、北に隣接する大学の建物で見えなくなってしまったということです。


庭園の小高い丘の上に建てられている建物は清漣亭(せいれんてい)です。これは尊氏没年百年忌の法要の時に、将軍義政が造ったもので、寺の創建時にはありませんでした。

 

P5040065.JPG

 

茅葺屋根の茶室で、上段一畳を武家床の貴人席とする珍しい二畳台目の茶席です。
こちらから抹茶を飲みながら庭園を眺めると非常に良いかもしれませんが、こちらは入室禁止でした。


回遊式庭園を廻ると、足利家の供養塔と尊氏の墓があります。尊氏の墓は宝篋印塔と呼ばれ、宝瓶には蓮花を押した文様があります。室町幕府を創設した人物にしては意外に小さく、権現様に祀り上げられた徳川家康との違いに大きな差を感じます。 

 

P5040064.JPG 

 

知る人ぞ知る等持院、周囲に有名な寺院が多いこともあり観光客はほんとうに少ないのですが、その分ゆったりとした時を存分に楽しむことができます。紅葉のシーズンもここは穴場かもわかりませんね。

 

 

尊氏と義詮は、鎌倉で直義を死に追いやって兄弟による争いを治めたのですが、今度は尊氏が和議を申し出たことで息を吹き返した南朝との争いが続くことになります。

1352年2月南朝は尊氏の征夷大将軍を解任し、代わって宗良親王を任じます。新田義興や北条時行らが宗良親王に従い挙兵して鎌倉に進軍し、南朝軍が一時的に鎌倉を奪回します。しかし尊氏は武蔵国の各地で勝利し、再び鎌倉は尊氏が占領します。

一方、京都でも同年2月に北畠親房の指揮の下で楠木正儀・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝は京都に進軍し、七条大宮付近で義詮・細川顕氏らと戦い、義詮を近江に追い払い京都を支配します。しかし、近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉・四国の細川顕氏・美濃の土岐頼康・播磨の赤松氏らに、直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月京都へ戻って奪還に成功します。

こうして、南朝は再び京都を失い、北朝が復活します。
 

しかし、1355年になると、九州で猛威を振るっていた足利直冬(実は尊氏の息子だが、実子と認めず直義が養子にして可愛がっていた)が、上京し尊氏・義詮を殺害することを目的として、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を味方にすると上京を開始し、1355年1月には南朝と結んで京都を一時占領します。

しかし、直冬軍は義詮に徹底的に打ち破られ崩壊します。直冬は東寺で戦闘を継続しますが、義詮に徐々に追い詰められ、最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破されます。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察されます。直冬勢は結局このまま完全に崩壊しますが、直冬は生き延びます。

尊氏にとっては弟の直義や息子の直冬の一連の反乱、これを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。 

 

その後、尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州へ出兵しようとしますが、それは義詮に制止され果せませんでした。

そして、1358年4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、現在の京都市下京区にて尊氏は死去しました。享年54歳でした。墓所は京都の等持院鎌倉の長寿寺になります。

1305年足利貞氏の次男として誕生。1331年、父・貞氏が死去し、足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいましたが、高義は尊氏の元服以前に亡くなっていたため、異母弟の尊氏が26歳で継ぐことになったわけです。そして、その後の28年間は戦いに明け暮れ、最後の最後まで戦う姿勢を見せながら亡くなりました。

現在では、尊氏は後醍醐天皇や直冬にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗したことから、「カリスマ性は高いが、織田信長のような冷酷さはなく、人がいい。また、組織の運営能力の点では徳川家康に劣っている」「戦いには強いが政治的センスはあまりない」ともいわれています。

しかし尊氏は、新千載集を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てたり、地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっていることから画才にも優れており、この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもあることから、風流や優美さを好むという一面も持ち合わせた人物だったということです。

 

《続く》

 






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Last updated  2014/07/13 04:54:32 PM
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