BALIの村で2ヶ月暮らしてみたぞ俺は店を始める前はフツーの会社員だった。朝から晩まで真面目に工場で働いてた。 だが、読者のみんなと同じように「これでいいのか?」って疑問があった。 このまま行けばエスカレータ式に出世して、部長や課長になって安定した平凡なオヤジになるんだなって。 それはそれでいい。だけど俺はイヤだった。年功序列の組織の飼い犬になるのはまっぴらだった。 どうせ生きるんなら面白く刺激的な人生を送りたい。カネや地位なんて二の次でいい。 思い切ってチケットを買った。ヨメと3歳、1歳の子供の計4人分。 ヨメには「チケット買ったから」、会社には「夢があるから」。 周りの全ての人が反対したが、そんな事はどーでもいい。自分がどうしたいかだ。 やりてえ事もやらずに後悔するか、やって失敗して後悔するか。それだけの違いだ。 色々あったが、結局俺達家族4人は日本を出た。 バリではクサンバっていう田舎の村で居候した。 日本人はおろか、外国人なんて誰も来ない海辺の村。 毎日毎日海へ行ったり、ヤシの木陰で昼寝したり、近所のガキ共と遊びまわった。 「南の島のビーチで日にちを気にせず現地の人と暮らす」誰もが憧れる夢のような日々だった。 日本に帰ったら? そんなこと帰ってから決めりゃいい。どうせ人生なんてゲームなんだろ? 居候先のスジャナ君ちは10数人で住んでた。1部屋でザコ寝だ。 両親は海水をすくって乾かして塩を作ってた。それを市場で売るのだ。日当は1日¥50。 息子のスジャナ君は高校卒業後、仕事をしていなかった。カーストが低い事もあって仕事にありつけないのだ。 俺はスジャナ君に2ヶ月間、日本語を教え込んだ。 やがて2ヶ月は過ぎ日本へ帰り、俺は幾多の転職をしてアジア雑貨屋を始めた。 そしてその5年後、バリへ行った。今回は買い付けの仕事という名目だ。 スジャナ君はリゾート地で仕事を見つけ、日本人相手のトップクラスのガイドとなっていた。 空港送迎、クルーザー無料乗り放題で俺を迎えてくれた。 あのボロい家は見事なデカい家になっていた。 出会いは面白い。だからアジア雑貨屋はやめられねえ。 |