「西南戦争、発掘した史実は」5日・朝日新聞・「文化・文芸」欄
私:西南戦争で、有名な事件は「熊本城炎上」と「田原坂の戦い」だが、近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきた。 まず、「熊本城炎上」の事件は、1877年2月19日に起きた。 官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失し、薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという「放火説」のほか、官軍関係者による「失火説」などが従来は唱えられてきた。 ところが、熊本市が1999~2006年に出火元とされる本丸御殿跡を、発掘し、報告書を作る過程で新事実が判明。 御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定された。 市文化振興課によると、「小広間」は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高く、「小広間」が位置するのは御殿の一番奥。 そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「薩軍(鹿児島軍)の工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理。 A氏:ではなぜ出火したのか。 昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」という説が、発表され、大きな反響を呼んだ。 官軍による「自焼説」は、熊本博物館元副館長の富田紘一氏が以前から唱えており、近代戦では天守閣は砲撃の格好の目標となる可能性が高かったため。 それが考古学で裏付けられた。 私:次に、最大の激戦地となった田原坂は、官軍がこもった熊本城の北の幹線上にあり、薩軍はここに陣を張り、官軍の援軍の熊本入りを阻止しようと試みた。 通説では、当初優勢だった薩軍が官軍に押されるようになり、1877年4月に敗走するが、大きな要因は、使用武器の優劣とされる。 薩軍が各自持ち寄った旧式銃で戦ったのに対し、官軍は当時最新とされた単発後装式のスナイドル銃を使っていたという。 俺は、薩軍は武士の集団だから、刀で徴兵された官軍に立ち向かったと思っていたが、薩軍も銃を使っていたのだね。 A氏:だが、近年の研究で、薩軍と官軍の間で武器の優劣にはほとんど差はなかった、との見方が強まっている。 根拠の一つが、2008年から行われた山頭遺跡の発掘調査で、この遺跡は薩軍陣地の一つで、道路工事に伴い戦争当時の銃の弾や茶わんなどが出土。 銃によって弾丸や薬莢が大きく異なるため、発射した銃が特定でき、薩軍もスナイドル銃を多く使用していることがわかった。 未使用弾に残る火薬の分析では、鹿児島の火山に特有の硫黄成分が検出され、薩軍が火薬を自ら供給できた証左とみられる。 発掘を担当した熊本博物館学芸員の中原幹彦氏は「銃器の優劣で負けたというのは誤伝。薩軍は『敗走した』というより、退路が断たれるのを恐れて自ら退いたとみるべきだ」という。 A氏:近代の戦場跡を考古学の調査対象にする動きは1980年代に米国で本格化。 先住民との戦闘で全滅したカスター将軍率いる第7騎兵隊の戦場跡なども発掘されている。 日本での本格調査は、西南戦争関連遺跡で緒に就いたばかりで、中原幹彦氏は「近代の遺跡でも地域にとって重要なら積極的に発掘していくべきだ」という。 私:「西南戦争の考古学的研究」の著書がある考古学者の高橋信武氏は「西南戦争でも大分と熊本では銃器の使われ方が違うなど、考古学的手法でしかわからないことも多い。現地の地形や遺物出土状況などから近代戦を考える視点がより重要になる」という。 真実の歴史は「考古学的手法」で作られるのかね。