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亡くなった父は長女、長男、次男(父)次女、三女の5人兄弟。
末っ子の叔母の死で父の兄弟はすべて旅立った。 亡くなった父は昭和二年生まれで亡くなったおばとの間にもう一人叔母がいた。 父は戦争中予科練に行き、残された家族は神戸市在住。 空襲で家が丸焼けになってしまって父の家族は祖母の親せきを頼って疎開した。 一方終戦で父が神戸に帰って来てみたのは一面の焼け野原の実家跡。 その焼け野原に家族の移転先を書いていたのを見つけてそちらへ行ってみた。 親せきの家を訪ねると小学生だった叔母が「お兄ちゃんが帰ってきた!」と大喜びで抱き着いてきたという。 それから父一家は神戸市の市営住宅に引っ越す。6畳、4畳半、台所の間取り。 母とは昭和30年に結婚して、ここで両親の新婚生活が始まった。 義父母と小姑が2人いて母はさぞ肩身の狭い思いだっただろうとおもう。 そこで祖父がなくなり、妹たちがお嫁に行ってようやく家族4人の生活が始まった。 気が強かった祖母は子供たちの誰のところに行ってもけんかになり、飛び出してしまって 家にも一時同居していたけど出て行って一人暮らしをしていた。 祖母は最後に寝たきりになり末の叔母のところにお世話になっていた。 叔母の家も叔父の継母と異母弟、妹が一緒に住む世帯。 それでも叔父は快く祖母を引き取ってくれたという。 叔母は叔父の継母と祖母を看取り、苦労したと思う。 叔母はなくなった祖母に一番良く似た顔立ちだった。 うちの父が存命だったころ、叔母はちょくちょくうちに来ていた。 当時はすでに他の兄弟はなくなっていて昔話をする相手は父しかいなかったから 父を訪ねて父と話すのはおばには楽しみだっただろうと思う。 父が9年前に亡くなってお葬式も終わったら叔母は母のところに来ることがなくなり、私もそれ以来おばには会っていない。 もっと早くに会っておけばよかったと後悔する。 私は移植やその後の入院が続いて母の介護もあったし、なかなか親せきに連絡を取る余裕がなかった。 母をホームに入れた後親せきに母のことを連絡してホームに会いに来てやってほしいと 連絡を入れた。 すでに母の姉の叔母も入院中で、父の妹の叔母も入院中。誰かに付き添ってもらったとしても母に会いに来るのは無理だった。 とうとうおばたちと母は会うこともなくなくなってしまった。 母に会ってもらいたかったなと後悔している。私がもっと早くに動いていたらよかった。 今は静かに叔母の冥福を祈りたいと思う。合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.26 19:48:57
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