サンセツキ [紅の邂逅] -13-
右手から左手へ、左手から右手へ。流れるような軌跡を残しながら、白い包帯がくるくると円を描きながら宙を舞っていた。曲芸のようなノリで扱うわりには、しっかりと緋深の腕に包帯は巻かれていく。 器用なものだ。とても緋深よりも一回り大きく、太い指が行っているようには思えない。「よし、これでいいだろう」 蝋燭の火明かりでほんのりと色づく包帯の上を、刺桐は手の平で音が鳴るように叩いた。力加減をしたのだろうが、痛いものは痛い。呻く緋深に対し、呵々と刺桐は笑っている。普段ならば緋深は怒っただろうが、刺桐には何故か憎めない愛嬌のようなものがあった。裏表が一見なさそうな態度が、豪快さがそう思わせるのだ。名前を間違えてしまったせいで、妙に気まずくて振り払えない、と言うのもあるが。「………どうも」 仏頂面を絵に描いたような声で礼を言いつつ、緋深は視線を泳がす。正面きって礼を言うことは、どうも気恥ずかしくていけない。 かわいげのない態度だと言うのに、楽しげに笑いそして頭を撫で始めた刺桐にどう対応すべきか、緋深は困惑するしかない。 振り払うように逃げようとする緋深を、撫でていた手がぐわりと掴んだ。「いいか、安静にするんだぞ」 緋深は合わせられようと視線から逃げるしかない。凍傷だというのに無茶をした自覚はある。意地を張り涼達の-決して獅吼は違うが-支援の手を振り払った。それで念を押すように、威圧感のある声で忠告をされているのだろう。「お前達は、守人の血が混じっている。だから死ななかったし、腕や足を落とさずにすんだ……だが、これからきちんと手当をし安静にしなければ、これ以上悪化させせれば、切り落とさざる得なくなる。病を、怪我を侮るんじゃない」「…………わかった」「取りあえずこれだけ、渡しておく。きちんとしたのは、後日渡す」 手渡されたのは、貝合わせなどに使われている、綺麗に色を付けれた二枚貝だ。合わせられた貝を開いてみると、中にたっぷりと粘着質の液体が入っている。なるほど、この貝は容器として使われているものらしい。 だが、中身の正体が分からない。(………これは、何だ?) 首を傾げる緋深に、刺桐はぐっ、と頭を掴んでいる手に力をいれながら告げた。「この薬をきちんと数時間後とに塗れ。そしたら、すぐに治る。なんてったって雪花の処方した薬だ。よく効くぞ?」「あの人が?」 緋深の向けた視線の先では、雪花が朔夜の手当をしていた。意識がなくぐったりとした細い腕を、それに負けないほど青白く細い指が這う。指先が微かに滑っていることから、おそらく凍傷の部分に薬を塗っているのだろう。薬がどんどんと塗り込まれていく白い腕は、低温火傷で赤くなっている部分もあれば、血が通ってないように青く色づいている部分もある。痛々しいことこの上ない。(………本当に、治るのだろうか?) 緋深の胸に一瞬、不安が過ぎた。 腕や足を切り落とさずにすんだと刺桐は言う。だが、それだけではないか。麻痺症状や、神経障害などが残らないだろうか、と一度考えてしまえば後は簡単だった。思考は簡単に坂を転がり落ちるように、悪い方へと進んでいく。 思わず顔をしかめそうになる緋深の頭を、強い力で掴んでいた指が優しく撫でた。まるで緋深のちょっとした不安を察し、慰めるような手つきである。 驚きに緋深が瞬いていると、手の持ち主の刺桐はにかっ、と笑った。「あいつに肩を並べる薬師はそうはいない。あの子も助かる。安心しろ」 不安を消し飛ばすような力強い言葉は嬉しいが、思考を読みとられたのは悔しい。緋深は気が付けば憎まれ口を叩いていた。「………これ、どうにかならねぇのかよ」 緋深は貝の上蓋を開けたり閉めたり、と手遊びをしながら尋ねる。 貝は鮮やかな淡い紅花染に彩られていた。つまり桃色だ。外面などを気にする緋深ではないが、男が持つにはどうも可愛らしすぎる。獅吼にからかわれる種は全て排除したい、と言うのが正直なところだ。今こそ緋深の影にあるので気がつかれていないようだが、いつ目聡く発見されるか、考えるだけでうんざりする。「あははは。すまんな。貝の色で、薬の種類を分けているのでな。酷い凍傷用の薬は冬にしか、しかも滅多に使わんし、携帯させることが多いので雪の中で目立つ色、そして常日頃使わん色にしたら自然と桃色になっんだ。薬など携帯するのは殆ど兵の訓練や狩りなどで、持つのは男だからな。青系統や緑系統、黄・茶系統の色は、傷薬や塗り薬で全て使ってしまたんだ。すまん、すまん」「………桃色じゃなくても…濃い赤とか、他にもあるだろ」「駄目だな」 緋深の溜息混じりの反論を、刺桐はにやりと笑ってあっさりと一蹴した。どことなくその笑みに凄みがあるのは勘違いだろうか。「血の色に近いからな、鮮やかな赤は。血の中では、埋没してしまう」 刺桐の言葉に、緋深は小さく息を呑んだ。底のない深みのある声は、やはり目の前の男がただの浮屠ではないことが窺える。こんな深みのある凄みが出せる、思わず緋深が息を呑む戦いに餓えた目をする男が、ただの宗教家なはずがない。「……血がかかったら、何色の貝だろうと真っ赤になって、わかんなくなる。変わらないだろ」「まあな。心情的なものが多いのも確かだ。真っ赤な貝殻の中の薬など、中身は毒のようだからな」 最初にあったときと同じように呵々と笑っているが、最初に見た闊達な印象が緋深の中から消えた。刺桐の中で飼われている獣の唸り声が、もう聞こえてしまったのだ。(どいつもこいつもっ……何でこうっ、喰えない奴らばっかりなんだ!?) 緋深は内心呻く。頭痛がするのは、きっと怪我が原因ではない。 話が逸れたな、と刺桐は肩を竦め、緋深に向き直った。「兎に角、お前も、あの子もきちんと治療と養生をすれば助かる。治療の終わったお前は、あとは栄養をしっかりとって、安静にすることだ。病人食はすでに用意できている。そうだろう? 千波」「即席の、だけどね」 細い音の声が背後から聞こえ、緋深は慌てて振り返り目を瞠った。緋深より余程病人に見える、細長い体躯の男だ。青白い頬を動かし、緋深に優しげな笑みを向けた男は手に持っていた碗を差し出す。「はい。弱った身体でも食べやすいと思うよ」 緋深は差し出された碗から漂う芳香に、喉がなった。空腹を訴え、胃袋が収縮する。唾液が口のいたるところから溢れ出し、身体全体が食事を望んでいることを訴えている。ここで、食事をすれば胃は満たされ、栄養が身体に周り身体は健康になるべく活動を始める、とはわかっている。栄養が今の自分には必要で、大人しく受け取るべきだとも。 わかってはいるが、緋深は緩く首を左右に振った。千波が困惑した表情を浮かべ、刺桐が目を細める。「何か食べれないものがあった?」「そうじゃない」「なら、きちんと食べろ。今のお前には、食事が必要だ」 刺桐が真面目な顔で、緋深を見つめる。真剣な光を宿した瞳は、医師の顔だ。忠告、というよりは命令に近い声音は、説得力がある。「…………朔夜が目を覚ますまで、食う気になれない。だから、悪いけどいらない」「馬鹿げたことを言うな。さっき言ったばかりだろう。血を、身体を過信をするな。守人でも死ぬときは、死ぬ。身体は壊れるんだ。」(わかってる。自己満足だ、ただの……………わかってるさ) 緋深が食を断ったところで、朔夜の様態が改善されるわけではない。むしろ食を断つことで自身を弱らせ、いざというときに朔夜を守ることさえできない可能性さえある。賢明な判断を下すのであれば、大人しく食事を口にすべきなのだ。 だが、それでもできないのだ。 青白い顔で、死体のような様相で眠っているの朔夜の顔を見てしまったのだ。のうのうと自分だけ食事をし、回復に向かう気には到底なれはしない。自分でも愚かだとは思う。だがもし緋深が朔夜絡みのことで冷静かつ賢明な判断が下せるならば、あの莫迦から逃げていた際もっと良い行動や方法が取れていただろう。朔夜をここまで弱らせるような結果にならなかったかもしれない。そう思うだけで、食欲など減退の一途しか辿らない。「白湯だけは、飲む。……………譲歩して、薬もだ。けど、食事はしない」 ただの自己満足で、愚かな行為だとしても、だ。ただの意地だとしても、譲る気はない。「意地でも食わせてみろ。白湯や薬だって、俺は断る」 呆れたような表情のわりにどこか剣呑な光を瞳に込める刺桐を睨み付け、どうやって言いくるめるか緋深は必死に考えた。