綴
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「何をしているのですか?」 どこか楽しげな男の声に、睦月ははた、とした。ゆるゆると周囲を見回してみると、自分の手元に硝子の破片が散乱いしてる。白いテーブルクロスには琥珀色の沁みがじわじわと侵蝕し、睦月のほうへ勢力を伸ばしてきていた。(……わ、たしが、コップを落とした?) ぼんやりとした頭で睦月は正解を導き出したが、呆然と座ったままだ。躰が、うまく動かない。視線などは動くが、手や足などは完全に制御不能であった。 ようやく躰が動きだしたのは、熱い液体であったはずなのに、いつの間にかぬるくなった紅茶が睦月の太腿のあたりにこぼれ落ちてからであった。「あっ……そ、その、ご、ごめんなさい」「構いませんよ。その程度」 慌てて謝り、拭くものを探しだす睦月に対し、男は平然としたものだった。男は指を一つ鳴らす。すると砕けた硝子も、飲まれることがなくなった紅茶も、テーブルクロスや睦月の服の沁みさえも掻き消えていた。思わず、きょとりと睦月は眼を丸くする。「……凄い」「これぐらいできて当然です」 夢だから、何でもありなのだろう。だが、睦月にはできないことだ。こっそりと新しい紅茶が欲しいな、と願ってみても、何一つ変わらない。男がもう一つ指を鳴らせば、簡単に出てくると言うのに。「何で、お兄さんができて、私ができないんだろう……私の夢なのに」「当然でしょう。君と僕とでは格が違うんです。この空間の主導権が僕にあるに決まってます」 きっぱりと言い切られると、そうかもしれない、と睦月は思えてきてしまうのが、不思議で仕方がない。だいたい、格が違う、とは日常聞き慣れない言葉、と言うより誰も使おうとしな言葉だ。呆気に取られるしかない。 男は睦月の困惑を無視し、話を進める。「で、どうかしたのですか? 話の途中で、麁相をして」「えっと……わか、んない。なんか、急に躰に力が入らなくなって」「違うでしょう?」 え、と睦月は眉を軽く顰めた。何故、男に否定をされるのだろう。睦月自身わからない感覚だと言うのに、断言の口調で、間違いを犯した生徒を指摘をするように言われてしまうのだろうか。 睦月の困惑を軽く笑い飛ばし、男は人差し指をすっ、とテーブルと平行にした。指された先は、睦月の小さな手だ。「震えていますよ、あなた」 楽しげに笑いながら指摘されたことに、睦月は困惑した。確認しようと恐る恐る視線を下げると、確かに指先は震えていた。だが、手だけではない。真冬の外に夏服の格好で放り込まれたかのように、全身が小刻みに震えいる。「な……んで?」「やはり消えてませんか。『傷』は。まあ、そうでしょうね」「え?」「………………藍閃」 藍閃、という名前を慈しむように、楽しげに男が口の中で転がした。その瞬間、睦月の背にぞくりと悪寒が走り、一度大きく身が痙攣する。 恐怖であり、恐怖でない感情が胸の奥で爆発する。睦月の身を震わせたのは間違いなく恐怖だが、だが妙に実感がないのだ。どこか他人事のようなのである。恐怖を感じたのは間違いないのだが、どうも『睦月が体験した恐怖』という感じがしない。酷く曖昧な感じなのだ。 睦月の困惑を面白げに眺めていた男が、ふと、 おや、と呟く。どうしたのか、と思い、何処か縋るように睦月は見つめた。この困惑の原因を男なら、教えてくれるのではないか、と思ったからだ。「どうか、した?」「ええ。席を外します。どうも『招かれざる客』が来てしまったようで」「? ……わかりました」 弱々しい眼差しと声を、無慈悲にもあっさりと男は振り払った。席を外す、と言う言葉を放つと同時に席を立ち、睦月の了承を聞いているかいないかわからないほど、さっさといなくなってしまった。 置いてけぼりをくらった睦月はしばらく、自問自答することとなる。何故、何が、何で、と自分が感じた不可思議な感覚を確かなものとしようと足掻くが、埒が明かない。手がかりがなにもないのだ。 考えているうちに、いつの間にか震えが止まった。震えが止まってしまえば、更にさきほどの困惑が薄れ、あのわけのわからない恐怖の姿の輪郭がぼやいく。 睦月は一度大きく息を吐き、温かい紅茶を飲み干した。喉を通っていく温もりに、少し心が落ち着き、余裕が生まれる。(相変わらず勝手気ままな人だなぁ) ふと、さきほど姿を消した男のことを思いだした。勝手気まま、というより気まぐれに近いのかもしれない。きっと男の本質が勝手気ままなのではなく、睦月への対応が気まぐれなのだろう。ふとしたきっかけで手元に転がり込んできた珍獣を、気まぐれに相手をしている、といった感じだ。そう思い、睦月は少し困ったように笑った。悲しい、とはどうも思えず、むしろあの人らしい、と思い笑ってしまう自分に対して、肩を竦めるしかない。 さて、と睦月は気を取り直し、首を傾げ、また悩みこみ始めるのであった。
2007年04月12日
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洒落た模様が描かれたカップを、ソーサーの上から取り上げた。ゆっくりと口元に近づけると、淡い芳香が鼻を擽るのに、思わず睦月は笑み零れる。 ようやく一息つけた。 夢の中でようやく、とはおかしな話である。だが、言葉に表すならばこれしかない。 叔父から逃げるように墓地を去った後、今日何をしたかをよく睦月は覚えていなかった。笑えていた、とは思う。いつもと変わらない行動を取れたとも。無意識にでも取り繕えた自身に、自嘲するしかない。「大人しいですね。まぁ、静かでいいですが」 唐突に話を切り出した男に、睦月は眼を瞬かせた。そのまま首を少々右に傾ける。一体何のことだろう。 睦月は基本的におっとりした性格と言えた。男と対面して茶を啜るのも、もう幾度となる。男が喋り、睦月は聞きながら相づちをうったり、疑問を投げかける、というのが常の茶会だ。(何をお兄さんは言いたいんだろう?)「言ったでしょう? 『文句なら、また今度聞いてあげますよ』と。早速色々騒いでくれるかと思ってましたから。‘あれ’について、耳障りなほど、ね」 --あの血まみれの夢。 睦月は思いだし、自然と顔が強張るのを感じた。思い起こすだけで、血の固まりを叩きつけられたようだ。喉の奥に絡みつくような匂いが蘇ってくる。「……気になることは、ありますけど……………所詮夢ですし」(何より……思い出したくない) --あれは、思い出してはいけないものだ。 直感だが、躰が、頭がそう叫んでいる。思い出した瞬間、何かが壊れてしまう。そう思えてきてしかたがないのだ。ならば、忘れてしまったほうがいい。何を失ってしまうか、わからないのなら。 男はきっと、睦月の本音などわかっているのだろう。どこか呆れたような嘲笑を浮かべている。睦月自身も同感なので、文句はまったくないが。(……それにしても…………何でお兄さんはわかるのかな?) 気が緩んでいるのだろうか。 睦月はこの空間では、この空間だけでは素でいられる。天城の家の中では言うまでもないが、友人の前でも近頃取り繕っている感があり、申し訳ないような気がしていた。心許せる幾人かの友人に、心配をかけたくない。その思いからであるはずだ。だが、どこかで知られたくないと言う思いもあるのも確かである。心の奥底では、不満などの負の感情で渦巻いている、と知られてしまうのが、恐い。それを受け止めてくれるとわかっていても、どうしても言えない。 だが、夢の中だけが素でいられると言うのもおかしな話だ。 男と初めて出会ったのは、中学校に上がってしばらくしてだ。夢にいきなり、当然のように出てきて、夢の主導権を全て奪っていった。今まではぼんやりと様々な夢をみてきたが、男が現れてからは彼ばかりの夢を見るようになってしまったのだ。『おやおや。まさか君と対面するとは……まぁいい。暇つぶしぐらいにはなるでしょう』 その妙な言葉が、初対面の言葉だった。 男は会うたび、違う名を名乗った。楽しげに、しかも困惑している睦月を見て嗤っていたので、意図的であろう。『………どれが本当の名前なの?』『どれも本当です。嘘はついてませんよ。どれも過去、僕が名乗ってきた名前です』 にこやか-どこか作り物めいていたが-に笑って言うのものだから、睦月は勝手に『お兄さん』と呼ぶことにしたのである。(………あれ以来の付き合いだからわかるのかな?) だが、そもそもそれがおかしい、とはたと睦月は気が付く。 『お兄さん』は夢の中でしか現れない存在だ。つまり、夢の中の住人にすぎない。睦月が創りだした存在、と言い換えてもいいのかもしれない。ということは、睦月が考えていることなどお見通しだとしても、なんら不思議はないのだ。 だが、それにしては、どうだろう。自身が生み出した存在だというのに、彼は好き勝手ばかりしている。以前、ぽつりと文句を言ったら、可笑しいと言わんばかりに嘲い、断言された。『………お兄さんは何で私が創った、夢の住人なのに…私より偉そうで、強いかなぁ』『何を言っているのですか。僕が君‘何か’の創造物なわけないでしょう。君と僕の魂は別物ですよ。そもそも僕と君が同等なわけ、ないでしょうが。僕から見れば、君は赤子同然。一緒にされては困りますね』 思い出してしまい、思わず顔を顰める。うんうん呻りがなら悩みだした睦月に呆れたような視線を向けながら、男は紅茶を飲み干した。「まあ、そういうことにしておいてあげましょう。今日、あなたは珍しく褒めるに値することをしたので」「…………?」「今日はよく即答しましたね。あなたにしてはよくできましたよ」 いつもと変わらない表情で、実に素っ気ない声音で言われたので、まったく褒められている感じはなかった。いつものことなので、睦月は特に不快には思わない。むしろ、何のことを指して言っているんだろう、と首を傾げていた。「えっと………何のこと?」「海外への、あの馬鹿から逃れられるチャンスを、よく棒に振りました」 馬鹿、とは正義のことだ。何故男が正義のことをそう言うのか知らないが、何度訂正しても効果はなかったので、もう好きに言わせている。睦月さえ口を噤んでいれば本人や他者に知られることはないからだ。考えたくないことだが、男と正義が対面することになれば、本人を目の前でも平然と言い放つだろうが。「君が何をしようが、私には一切関係ありませんが……ですが、縋ろうとしたのを振り切って『この地』に留まろうとしたことは褒めてあげましょう。貴方にしては、珍しく僕にとって都合のよいことをしてくれましたから」 褒められているようには、一切聞こえない。むしろ、聞く人によっては馬鹿にされているような気さえする声音だ。睦月はだが怒りという感情は一切湧かず、むしろ首を傾げていた。(あれ?……どうしたのかな、お兄さん) おかしな話なのだ。 男が微かに微笑んだり、機嫌がいいときことは、はっきり言って男が『唯一の人』と称する人物の話を聞かせてくれる時だけである。それ以外にももちろん、微笑をするが、どうも心から笑っているようには到底見えないのである。(………いや、確か……私が天城家のみんなに気を遣っていることを知ったときとか、お兄さんは面白そうに笑ったっけ。『おかしな子ですね』と) 珍獣を見るような眼ではあったが。笑うと言っても、楽しい、というより可笑しい、と言った感じだが。面白いというツボが、若干一般人と違う気もするが。 笑う、は例外はあるにしろ、だが男が睦月を褒めることはなかった。睦月が男曰く『褒めるに値する』ことを、単に行わなかっただけかもしれないが。(どうして、かな?) そう思い、改めて睦月は男を眺めた。男ははっきり言って、睦月からすれば捉えどころのない存在である。男はポーカーフェイスはお手の物であり、話術に長け、決して睦月に本心を探らせない。海千山千の存在だ。 だが、何だかんだ言っても、睦月はもう4年ほど毎日男と顔を合わせ、会話をしている。具体的な理由は特に上げられないが、直感めいた閃きがあった。「………ねぇ?お兄さん」「何ですか?」「今日、何か…機嫌いい? ひょっとして」「ええ。機嫌はいいですよ。とてもね」 男の口の端が緩く上がり、眼が細められる。珍しい、純粋で綺麗な微笑みだ。睦月は思わず眼を瞬かせた。それだけお目にかかる機会がない微笑なのだ。「藍閃【ランセン】にもうすぐ会えるんです……機嫌が悪くなるはず、ないでしょう?」 --藍閃 その言葉が耳に届いた瞬間、同時に硝子を床に叩きつけたような音がした。その音に睦月は思わず身を強張らせ、眼を強く瞑った。--------------字数制限に負けました分割します
麗蘭は裾が翻ることも厭わず、廊下を駆ける。淑女としてあるまじき行動だが、かまっている余裕はなかった。胸の奥から溢れ、喉の辺りまでを埋め尽くすような不安を振り払うかのように、ただ真っ直ぐに目的地に向かい足を動かす。「胡姫様!どちらへ」 常にない麗蘭の慌てように、困惑したように男は尋ねる。「桜玉の間に!」 間、というが胡家に座敷はない。胡家の建造物は皓国ではない国の造りとなっている。数十年前の大改築の際に、畳ではなく木を敷き詰め、足の低い卓を足の高い机に変えたのだ。他にも障子ではなく木の扉にしたり、座布団の変わりに椅子を用意をするよう なったり、と大変貌を遂げたのであった。桜の間、と言うのは十数年前まで使っていた部屋の名称をそのまま現在も使用してのこと、つまり便宜上のことである。 胡家は異人だ。昔は白い目を恐れ、少しでも緩和させようと皓国の仕来りに全て合わせてきた。作法も宗教も、何もかもだ。だが、結局は変わらなかった。言葉の内容が変わるだけで、裏にある悪意は減ることを知らず膨らむばかりであった。 それでも胡家は歯を食いしばり、我慢を続けた。他に行く場所などなかった。 だがこの事態にいい加減怒り心頭したのが、麗蘭の祖父と父であった。 流通の掌握し、胡家は名と地位を手に入れた。それを国に還元し、王を支え、皓国の民を守ってきた。なのに、どうだ。非力で、保護を受けるだけの立場ではもうない。だがそれでも凝り固まり、腐りかけていた貴族達は胡家を認めようとはしなかった。 そんな阿呆どもに気を遣い、下手にでる必要などない。 祖父達はそう考えた上での、大改装であった。「な、何故?!」 部下の問いに、麗蘭は鋭い声で答えた。「この襲撃の狙いは胡家ではないわっ」「なっ…………」 何故、と聞き返すほど部下は愚かではなかった。桜玉の間、その単語と襲撃を組み合わせれば簡単に答はでるのだ。信じがたい答えではあるが。 胡家を狙っての襲撃ではない。この襲撃は、桜玉の間に預かっている子供を狙ってのものだ。その子供を奪取するためだけに、胡家に襲撃をかけたのである。「…………信じられません」「私もよ。だけどあの男はするわ。あの愚かものはっ」 これは、確信だ。 この襲撃の首謀者であろう男とは直接あったことはないが、麗蘭は間違いない、と踏んでいる。櫻妃達に聞き及んだ話が事実なら、疑う余地がないのだ。 廊下を駆け、突き当たりを右に曲がりようやく目的地を視界に入れた。いつもは固く閉ざされている扉が、大きく開いている。扉の前の絨毯にこびり付いた泥が侵入者の存在を示していた。(遅かったと言うのっ) 扉を掴み、忙しなく動いていた足を強制的に止めることに成功した麗蘭は、目の前に飛び込んできた光景に思わず目を瞠った。 細身の男と少女が対峙していた。 それだけであれば、何ら不可思議な光景ではない。だが、麗蘭の眼に映る光景は、異様であった。それは雰囲気と、男と少女の表情が光景に不気味さを生み出している。 客観的に見て、整っている顔立ちをしている男には堪えられないような喜色が溢れ、一方少女には恐怖と絶望を人の顔で表せば、こういった表情になるのでは、と思ってしまう顔だ。「朔夜」 男が名前を紡ぐ声はいかにも優しげで、親しげで、嬉しそうだ。 だが、それがおかしい。 呼ばれた張本人は声もなく青ざめ、身体は小刻みに震え、瞳が焦点がなく彷徨い、足に力が入らなくなったのか座り込んでいる。こんなにも酷い他者への拒否反応は、麗蘭は今までにない。「朔夜………やっと“見つけた”」「…………………………………………っ……」 この男は、それが目に入っていないのであろうか。哀れなほど脅え、今にも消えてしまいそうなほど小さく縮こまってしまった、儚い存在が。男ではない誰かに救いを求めているか細い声が。 男が一歩近寄ろうとする度、無意識だろう、朔夜は後ずさる。「困ったやつだな、朔夜は。見つけるのに苦労した」「…………………っ…………」「帰ろう、朔夜……すまなかった。 ずっと待たせて」 男は、こちらには気が付いていない。 それだけ朔夜しか視界に入ってはいないのであろう。 麗蘭は侵入者から目を離さず、両手首の腕輪に手を這わせた。指先に金属の他に、柔らかな布の感触を感じる。腕輪に絡みつく布を素早く外した。布は右手首から二の腕、そして背中を通り、また左腕を這うように左手首へと通っている。右手首にまとわりつく布を左手で思い切り引いた。はらりと布が宙を舞う。重力に惹かれるように地へ向かう布の端を右手でパシリ、と掴み取り左右の腕を斜めに伸ばして張った。身体を侵入者に対し斜めになるように構え、腕を上半身に平行になるように布を配置した。 胡家の血筋、特に当主を継ぐ者は代々『布術』の使い手である。それは敵の多い境遇から自身の身を守るためであった。なにも敵を全滅することを目的としているわけではない。時間を稼ぎ、命を繋ぎ止めることを一番の目的としているのだ。武器とも盾ともなる布術は、力が弱い女性の身でも扱える点も含めて利点が多いのである。 鋼鉄線を数本潜ませた布を握りしめつつ、麗蘭は凛とした声で首謀者らしき男に一喝した。「離れなさい。その子にそれ以上近寄ることは許しません」 特に荒げた声ではなかった。だが、異様な静寂が支配していた部屋には高らかに響き渡る。 男は眉を顰めつつ、麗蘭を見やる。燃える火のような、鮮やかに咲く華のような赤い髪に目をやり、胡家の者とだいたいわかったのであろう。それでも横柄な態度は崩さず、麗蘭を睨み付けた。「何を言っている?」「聞こえなかった?私は‘その子から離れなさい’と言ったのよ」「………」 言葉を重ねる麗蘭を無視し、男は朔夜に触れるように手を伸ばし、歩み寄る。「警告は、したわよ?」 麗蘭の手首が翻り、腕が大きく弧を描くように振られた。布は空気が流れる合間を縫うように素早く宙を切り、朔夜にあと少しで触れるはずだった腕に絡みついた。麗蘭と男の間にピン、と布が張りつめられる。「このまま腕を、しばらく使用できないようにしてさしあげましょうか?」 艶やかに笑う麗蘭に、男は不快そうに眉を寄せた。「お前が誰だかわからないが、離せ。 胡家は羅家と事を構えるつもりか?」「あら、私は胡家の者として、胡家に従する者達を守る義務があるわ。その義務を守るまでのこと。侵入者さんを追っ払ったとて、それが問題かしら? 幾らあなた方が羅家と通じていようと、羅家がここまで事を起こした者達を庇うかしらね?」「何を言っている? 羅家と通じているんではない。羅家は俺だ」「なんですって…」 聞き捨てならない言葉だ。 平然としている横柄な男を、麗蘭は改めて冷静に観察した。 背に流れる髪は、財に余裕がある証。身なりも綺麗だ。装飾が華美な鞘も、ただの侵入者としての出で立ちとしてはおかしい。 鞘の先から柄に眼を走らせ、麗蘭は絶句した。柄に近い部分にある、翡翠に龍を彫った装飾が意味することはただ一つしかない。その装飾が許され、この態度に、『羅家は俺だ』と言う言葉を繋げると弾き出される答えは、推理した麗蘭でさえ信じがたいものだった。「あなた……羅家の第一子、趙劾[チョウガイ]?」 探るように吐き出された麗蘭の問いに、男はあっさりと頷いた。(愚かだとは聞いていたがっ、これほどまでとはね)「わかったら、離せ」 だから、この態度なのだろう。ここまで横柄な、そして惨事を起こして起きながら、罪の意識も、いや自分が犯した罪もわかっていない。本気でこれが許されることだと、思っている。自分の欲望のため、胡家を踏みにじることを何とも思っていない。 視界が一瞬、赤く染まる。躰の奥底から苛烈な炎が生まれ、内臓を焼き、うちから食い破っていく感覚を必死に麗蘭は押し殺した。炎の名は、激怒と憤怒だ。だが今はそれに翻弄されるわけにはいかない。 麗蘭は無理矢理微笑を湛え、余裕を作った。「わかってないわね。お坊ちゃん」「何?」「仮に私が貴方に害したとしても、羅家当主はこれを表沙汰にはしないわ。決してね」 何を言っているのか、理解できない。そういう表情をする趙劾に麗蘭は嘲笑するように笑う。「胡家の領地、しかも私の家への侵入。及び胡家に属する者への狼藉数々」「それが何だ?」「わからないの? どうしようもないわね。そうね、確かに胡家は羅家には勢力的には到底及ばないわ。でもね、だからといってそれだけが全てじゃないのよ?」「?」「羅家がいくら力を持っていても、それを覆す方法はある、と言う事よ。あまり自分のお家の力を過信しないことね」「何を世迷い言を」「普段ならお情けで父君に助けて貰えたでしょうが、今は無理ね。時期が悪かったのよ。父君はもみ消すわ、貴方が此処にいたことを。全てを。だから私が貴方を多少痛めつけても、羅家は何も言えないの。だって、貴方はここにいなかったことになるのだから」 布を引く力を、少しずつ増やしていく。肌を、間接をきつく締められていく感覚に趙劾が眉を顰める。振り払おうとしているようだが、させるものか。「何故なら羅家は現在、ただでさえ籐家に差をつけられてきている。民衆の支持、という強い後押しが羅家にはないからよ。民衆の支持は、少数の声ならば力を持たぬけれども、多数の声ならば、それは力となるの。そして民衆は今、羅家よりも籐家の味方。この状態が長く続くと羅家は多数の不都合が出てくるの。それを挽回しようと父君は今、必死よ? ねぇ? もし、貴方がここで起こした惨事を民衆が知ったら、どうなるかしらね?」 民は羅家に猜疑心を抱くであろう。一応貴である胡家ですら、自分の為ならば簡単に踏みつぶす。ならば民などもっと簡単に踏みにじると考えてしまう。それが人で、人が集団となれば不安は更にかき立てられ、恐怖と姿を変え、一気に膨れあがる。 そんな愚を羅家現当主は踏まない。羅家現当主とは一度会っただけだが、麗蘭は断言できる。あの『海千山千』の男に、まだ小娘であるとも言える麗蘭が正答できる問題がわからないわけがない。 だが、次期当主は理解できないようだ。訝しげに眉を顰めているのではなく、麗蘭を哀れむような眼で見つめている。麗蘭の言葉が何一つ理解できておらず、莫迦にしくさっているのだ。(………………なめられたものね) 麗蘭が思わず手に力をいれてしまったときだ。「更月っ【コウゲツ】」 骨が軋む感覚に耐えきれなくなったのか、男が切羽詰まった声で何かを呼んだ。 声と同時に、影が動く。辛うじて追えるほど素早い影は、麗蘭と男を駈けた。その瞬間、二人の間で張りつめていた布が弾けるように千切れた。(何ですって?!) 特殊な布は丈夫で、尚かつその中には鋼鉄線を仕込んである。それがいとも簡単に千切られるとは、何事だろう。 麗蘭は影の方向へ咄嗟に視線を向けた。 そこには少年が立っている。まだ幼さが抜けきってはいない少年は、無表情に麗蘭を見ていた。 蝋の炎に照らされる少年は、金色の髪に、薄氷色の瞳を持っていた。(守人?!) この少年は、形勢が逆転してしまうほどの切り札となりうる。 麗蘭は短くなった布を構え直しながらも、思考を必死に駆けめぐらせた。打開策を生み出すために。
2007年03月30日
右手から左手へ、左手から右手へ。流れるような軌跡を残しながら、白い包帯がくるくると円を描きながら宙を舞っていた。曲芸のようなノリで扱うわりには、しっかりと緋深の腕に包帯は巻かれていく。 器用なものだ。とても緋深よりも一回り大きく、太い指が行っているようには思えない。「よし、これでいいだろう」 蝋燭の火明かりでほんのりと色づく包帯の上を、刺桐は手の平で音が鳴るように叩いた。力加減をしたのだろうが、痛いものは痛い。呻く緋深に対し、呵々と刺桐は笑っている。普段ならば緋深は怒っただろうが、刺桐には何故か憎めない愛嬌のようなものがあった。裏表が一見なさそうな態度が、豪快さがそう思わせるのだ。名前を間違えてしまったせいで、妙に気まずくて振り払えない、と言うのもあるが。「………どうも」 仏頂面を絵に描いたような声で礼を言いつつ、緋深は視線を泳がす。正面きって礼を言うことは、どうも気恥ずかしくていけない。 かわいげのない態度だと言うのに、楽しげに笑いそして頭を撫で始めた刺桐にどう対応すべきか、緋深は困惑するしかない。 振り払うように逃げようとする緋深を、撫でていた手がぐわりと掴んだ。「いいか、安静にするんだぞ」 緋深は合わせられようと視線から逃げるしかない。凍傷だというのに無茶をした自覚はある。意地を張り涼達の-決して獅吼は違うが-支援の手を振り払った。それで念を押すように、威圧感のある声で忠告をされているのだろう。「お前達は、守人の血が混じっている。だから死ななかったし、腕や足を落とさずにすんだ……だが、これからきちんと手当をし安静にしなければ、これ以上悪化させせれば、切り落とさざる得なくなる。病を、怪我を侮るんじゃない」「…………わかった」「取りあえずこれだけ、渡しておく。きちんとしたのは、後日渡す」 手渡されたのは、貝合わせなどに使われている、綺麗に色を付けれた二枚貝だ。合わせられた貝を開いてみると、中にたっぷりと粘着質の液体が入っている。なるほど、この貝は容器として使われているものらしい。 だが、中身の正体が分からない。(………これは、何だ?) 首を傾げる緋深に、刺桐はぐっ、と頭を掴んでいる手に力をいれながら告げた。「この薬をきちんと数時間後とに塗れ。そしたら、すぐに治る。なんてったって雪花の処方した薬だ。よく効くぞ?」「あの人が?」 緋深の向けた視線の先では、雪花が朔夜の手当をしていた。意識がなくぐったりとした細い腕を、それに負けないほど青白く細い指が這う。指先が微かに滑っていることから、おそらく凍傷の部分に薬を塗っているのだろう。薬がどんどんと塗り込まれていく白い腕は、低温火傷で赤くなっている部分もあれば、血が通ってないように青く色づいている部分もある。痛々しいことこの上ない。(………本当に、治るのだろうか?) 緋深の胸に一瞬、不安が過ぎた。 腕や足を切り落とさずにすんだと刺桐は言う。だが、それだけではないか。麻痺症状や、神経障害などが残らないだろうか、と一度考えてしまえば後は簡単だった。思考は簡単に坂を転がり落ちるように、悪い方へと進んでいく。 思わず顔をしかめそうになる緋深の頭を、強い力で掴んでいた指が優しく撫でた。まるで緋深のちょっとした不安を察し、慰めるような手つきである。 驚きに緋深が瞬いていると、手の持ち主の刺桐はにかっ、と笑った。「あいつに肩を並べる薬師はそうはいない。あの子も助かる。安心しろ」 不安を消し飛ばすような力強い言葉は嬉しいが、思考を読みとられたのは悔しい。緋深は気が付けば憎まれ口を叩いていた。「………これ、どうにかならねぇのかよ」 緋深は貝の上蓋を開けたり閉めたり、と手遊びをしながら尋ねる。 貝は鮮やかな淡い紅花染に彩られていた。つまり桃色だ。外面などを気にする緋深ではないが、男が持つにはどうも可愛らしすぎる。獅吼にからかわれる種は全て排除したい、と言うのが正直なところだ。今こそ緋深の影にあるので気がつかれていないようだが、いつ目聡く発見されるか、考えるだけでうんざりする。「あははは。すまんな。貝の色で、薬の種類を分けているのでな。酷い凍傷用の薬は冬にしか、しかも滅多に使わんし、携帯させることが多いので雪の中で目立つ色、そして常日頃使わん色にしたら自然と桃色になっんだ。薬など携帯するのは殆ど兵の訓練や狩りなどで、持つのは男だからな。青系統や緑系統、黄・茶系統の色は、傷薬や塗り薬で全て使ってしまたんだ。すまん、すまん」「………桃色じゃなくても…濃い赤とか、他にもあるだろ」「駄目だな」 緋深の溜息混じりの反論を、刺桐はにやりと笑ってあっさりと一蹴した。どことなくその笑みに凄みがあるのは勘違いだろうか。「血の色に近いからな、鮮やかな赤は。血の中では、埋没してしまう」 刺桐の言葉に、緋深は小さく息を呑んだ。底のない深みのある声は、やはり目の前の男がただの浮屠ではないことが窺える。こんな深みのある凄みが出せる、思わず緋深が息を呑む戦いに餓えた目をする男が、ただの宗教家なはずがない。「……血がかかったら、何色の貝だろうと真っ赤になって、わかんなくなる。変わらないだろ」「まあな。心情的なものが多いのも確かだ。真っ赤な貝殻の中の薬など、中身は毒のようだからな」 最初にあったときと同じように呵々と笑っているが、最初に見た闊達な印象が緋深の中から消えた。刺桐の中で飼われている獣の唸り声が、もう聞こえてしまったのだ。(どいつもこいつもっ……何でこうっ、喰えない奴らばっかりなんだ!?) 緋深は内心呻く。頭痛がするのは、きっと怪我が原因ではない。 話が逸れたな、と刺桐は肩を竦め、緋深に向き直った。「兎に角、お前も、あの子もきちんと治療と養生をすれば助かる。治療の終わったお前は、あとは栄養をしっかりとって、安静にすることだ。病人食はすでに用意できている。そうだろう? 千波」「即席の、だけどね」 細い音の声が背後から聞こえ、緋深は慌てて振り返り目を瞠った。緋深より余程病人に見える、細長い体躯の男だ。青白い頬を動かし、緋深に優しげな笑みを向けた男は手に持っていた碗を差し出す。「はい。弱った身体でも食べやすいと思うよ」 緋深は差し出された碗から漂う芳香に、喉がなった。空腹を訴え、胃袋が収縮する。唾液が口のいたるところから溢れ出し、身体全体が食事を望んでいることを訴えている。ここで、食事をすれば胃は満たされ、栄養が身体に周り身体は健康になるべく活動を始める、とはわかっている。栄養が今の自分には必要で、大人しく受け取るべきだとも。 わかってはいるが、緋深は緩く首を左右に振った。千波が困惑した表情を浮かべ、刺桐が目を細める。「何か食べれないものがあった?」「そうじゃない」「なら、きちんと食べろ。今のお前には、食事が必要だ」 刺桐が真面目な顔で、緋深を見つめる。真剣な光を宿した瞳は、医師の顔だ。忠告、というよりは命令に近い声音は、説得力がある。「…………朔夜が目を覚ますまで、食う気になれない。だから、悪いけどいらない」「馬鹿げたことを言うな。さっき言ったばかりだろう。血を、身体を過信をするな。守人でも死ぬときは、死ぬ。身体は壊れるんだ。」(わかってる。自己満足だ、ただの……………わかってるさ) 緋深が食を断ったところで、朔夜の様態が改善されるわけではない。むしろ食を断つことで自身を弱らせ、いざというときに朔夜を守ることさえできない可能性さえある。賢明な判断を下すのであれば、大人しく食事を口にすべきなのだ。 だが、それでもできないのだ。 青白い顔で、死体のような様相で眠っているの朔夜の顔を見てしまったのだ。のうのうと自分だけ食事をし、回復に向かう気には到底なれはしない。自分でも愚かだとは思う。だがもし緋深が朔夜絡みのことで冷静かつ賢明な判断が下せるならば、あの莫迦から逃げていた際もっと良い行動や方法が取れていただろう。朔夜をここまで弱らせるような結果にならなかったかもしれない。そう思うだけで、食欲など減退の一途しか辿らない。「白湯だけは、飲む。……………譲歩して、薬もだ。けど、食事はしない」 ただの自己満足で、愚かな行為だとしても、だ。ただの意地だとしても、譲る気はない。「意地でも食わせてみろ。白湯や薬だって、俺は断る」 呆れたような表情のわりにどこか剣呑な光を瞳に込める刺桐を睨み付け、どうやって言いくるめるか緋深は必死に考えた。
2007年03月13日
鮮やかに染めた紺青色の衣に、丁寧に銀糸で華々しい-緋深からすれば『変』な、にしか見えない-複雑な模様が刺繍が施されている。いかにも値段が張りそうな羽織だ。それを白練の上品な着物のうえに、無造作に掛けている。 緋深は思わず眉を顰めた。 この男が派手好きなのは、初対面から-分かりたくなくとも-分かっていたが、普段着でさえこのようなけたたましい衣装なのだろうか。これはある意味視界の暴力だ。病人がいる部屋に何を考えてきてやがる、と緋深は内心思った。 銀糸は上等なものが使われているからか、光を受けるたび、鏡のように反射し、輝く。直視し続けると目を痛めるのでは、と思う。絢爛豪華な羽織を見ているだけ何だか疲れるような気さえする。 はた、と緋深は顔をあげ、朔夜を振り返った。「さくっ………っ!」 予想通り、ただでさえ丸い目を、更に真ん丸にした朔夜が獅吼の姿を見つめていた。朔夜が初対面の人間を真っ正面から、視線を逸らさずにいる。珍しい光景だ。 獅吼の装束に耐性がまったくない朔夜は、頭の中で大きな疑問符を浮かべ、困惑しているのである。「ちっ……」 朔夜の視界を塞ぐため、手を伸ばした。 困惑しているのは、まだいい。そんなことよりも恐れているものが緋深にはあった。 澄んだ紫色の瞳に、黒い影が覆った。朔夜の白く柔らかな肌に指が触れそうになる瞬間、緋深の耳に恐ろしい言葉が飛び込んでくる。それは思わず触れる寸前で、身体が固まるほどの破壊力を持った、恐ろしい単語が。「……ご……ぃ…な」「っ!!!」 凄いな。 そう、朔夜の口が動いた。 朔夜の声を、聞き逃すはずがない。どんな音よりも、真っ直ぐに届く、澄んだ声を、聞き間違えるわけがない。その澄んだ声を脳が知覚した瞬間、緋深は全身の血の気が引くのを感じた。惚けた声でも、感心した声でもない、ただ単純に思っての言葉だろうが、緋深にとっては口元が戦慄いてしまう。 朔夜の感覚は、特に美に関するものは、おかしい。それは、歪まされているからだ、と緋深は思っている。「とある莫迦」が朔夜の幼い頃、四六時中傍にいたせいだ。 およそ1年ほど前だろうか。緋深と朔夜が打ち解け始めた頃、であった。緋深は朔夜の、服の趣味に多大な疑問を持った。服装にあまり気を遣っていないのだろう、とは前々から思ってはいたが、明るみになった実状のあまりさに頭を抱えたのだ。 朔夜は置いてある服を上から順に取り、羽織っているだけだった。つまり服の趣味もへったくれもない。服に対して何も関心を抱いていないだけである。だが、だからといってどう考えても外を歩くことを憚るような、‘普通’ならそう思う服装を平然と着ている剛胆さ、鈍感さはどうなのだろう。人目を嫌う朔夜にとっては、あまりにちぐはぐな行動ではないか。『黄檗色の生地で作られた衣、紅掛花色の袴に、臙脂色の羽織』 その答えは、渋い表情と声で麗蘭が呟くように教えてくれた。 それぞれ黄、青紫、赤が基になっている色だ。視界への暴力のような最悪な組み合わせに、まず緋深は首を傾げたのだった。想像するだけで、あまりにも滑稽な服装だ。麗蘭の言葉を聞いた瞬間、真意が分からなかった。 過去に、朔夜がそういう恰好をしたのだろうか。緋深はまず、そう考えた。嫌がらせで、服をそう言う順に上から並べれられたのではないか、と。それならば朔夜は何の感情も抱かずに着かねない。 だがそれを普段着として着ている美術音痴がいたとは、まさか緋深も思わなかった。美術的に音痴の中の音痴な主の傍にいたせいで、朔夜はあの‘黄檗色の生地で作られた衣、紅掛花色の袴に、臙脂色の羽織’を不思議にも、不審にも思わなくなっているのだ。趣味の悪い服を着ているせいで人目を引いても、不思議に思い首を傾げるのだ。慣れとは恐ろしい。 なので一見派手で悪趣味な獅吼の服装も、朔夜からすれば輝く変わった服でしかないのだ。金糸と銀糸をふんだんに使った服を、手間がかかった凄い服なのだろう、と捉えている。(止めてくれっ!) 寄りによって獅吼に対して、どんな理由であっても‘凄い’という感情を持つなど、緋深からすればたまったものではない。心が狭い自分勝手な思いだとしても譲りたくない一線だ。 取りあえず、睦月を寝かせよう。緋深はそう思考を切り替えた。(そうだ。これ以上、見せたら、朔夜の目の毒だっ) 「朔夜、俺も飯を食い終わったことだし、朔夜もそろそろ胃が落ち着いたよな? 多分もう少ししたらまた、雪花っていう女性が薬を塗りにくるけど、やっぱ病み上がりだからしっかり睡眠取ったほうがいいし。な?」 いきなり肩をしっかりと掴み捲し立てる緋深に、朔夜は目を見張っている。急なことに眉を顰め、身体を強張らせているが気にして入られない。むしろ緋深に気を取られている好都合だ。朔夜の視野から巫山戯た男を排除できたのだから。 そこで安堵したのが、油断の元だった。そもそも天敵と認識されている獅吼は、緋深より格段上の実力者である。そうであるのに『ふざけた男』と認識しているせいで、ついつい失念していた部分もあった。これらの要因により、緋深は獅吼に背を向けてしまったのだった。 朔夜の視線がいつの間にか緋深ではなく、その後ろに向けられていると気が付いたときには遅かった。「…っ?! ぐっ…ぁっ」 襟首ではなく首を、直接大きな手で掴まれた。緋深は驚きつつも、体勢を整えようとしたがその前に後ろに引き倒される。背中から畳に少々叩きつけられ、緋深は少し息を呑んだ。倒された衝撃は少なかったが、弱った体は簡単に悲鳴をあげる。 痛ぇ、と小さく呟いて、緋深は素早い動作で躰を起こした。躰が軋む感覚に眉を寄せつつも、犯人であろう獅吼のいた方角に視線をやる。だが、視線の先には淡く朱に色づいた障子しかなかった。 嫌な予感が、一瞬にして躰全体を走る。 慌てて視線の矛先を朔夜に戻し、緋深は固まった。 よりによって、という言葉が的確すぎる光景だった。天敵が、一番大切な少女に触れているという、信じたくないものが視界一杯に埋まる。「お、意外に大丈夫そうだな」 獅吼は楽しげにがしがしと朔夜の髪を撫でているが、撫でられている朔夜といえば目を白黒させている。もちろん-獅吼は知っていても、朔夜は気絶していてたのだ。覚えているわけがない-見知らぬ人間に触れられ躰は固まっている。まるで達磨のようだ。硬直した朔夜は起きあがり達磨のように獅吼の手の下で、ぐらんぐらんと揺れていた。 獅吼はこの上なく楽しげだが、緋深からすれば冗談ではない。あまりのことに文句の声さえでず、呻き声しか口から発せられなかった。「~っ!!!」「どうした?」 にやにやと笑っている獅吼は、緋深の感情など簡単に把握しているのだろう。逆撫でする、と分かっていてにやついているのだ。 沸点の限界で、ぎりぎり暴発に耐えている緋深を嘲笑うかのように、獅吼は朔夜の頭を自分の胸の辺りに寄せた。身体を硬直させている朔夜は奇妙な体勢にはなったが、獅吼の腕の中に簡単に収まる。朔夜の鼻先が獅吼の着物に触れた瞬間、朔夜は混乱の極みに達し、声にならない声を上げた。空気を震わせることができなかった声は、だがそれでも緋深に耳には届く。届いてしまった。 張りつめた糸を切ったような音が、躰の中でする。音と同時に激情が堰を切ったように溢れ出し、流れに背を押されたかのように、怒声を緋深は張り上げた。「ふっ、ざけんな!!てめぇ」 首に腕を回し、しっかりと固定した状態で朔夜の頭を撫でている獅吼に、半ば飛びかかるように駆け寄り、朔夜を獅吼の腕から助け出そうとする。獅吼がもとより抵抗する気がなかったのだろう。あっさりと取り戻せた朔夜を庇うようにしつつ、獅吼から距離を取った。「大丈夫かっ?!」 獅吼の気配に注意しつつも、朔夜に目をやる。緋深の問いに、間接が固まってしまったかのようにぎこちない動きで朔夜は頷いた。それに安心して、大きく息を吐く。そして気持ちを落ち着かせようと息を吸った瞬間、緋深は絶句した。「………っ。さ、朔夜?」 驚きに目を瞬かせながら朔夜を見つめても、彼女はきょとりとするだけだ。瞼を忙しなく上下させながら、首を傾げる朔夜はあどけなく、幼い。その様はいつもと何一つ変わらなく緋深の目に映るのに、何故だろう。とてもない違和感を朔夜に感じてしまうのだ。(何が………--っ、これだ。この匂いだっ!) 朔夜にまとわりつくように、鼻につく匂いが存在した。裏町や遊郭特有の淫靡な、色香を強調する匂いだ。朔夜にはまだ当分早く、縁遠いものである。緋深からすれば、できれば一生似合うようなことにはなって欲しくはないが。 何故こんなものが。こんな匂いが。 獅吼からの移り香だろうか。一瞬そう考えたが、移るにはほんの少しの接触しかない。不思議に思い、悪い、と一声かけ、緋深は朔夜に顔を寄せた。急な接近に身を強張らせた朔夜の背を撫で宥めつつも、匂いの元を探る。頭部や肩からは仄かに薫るが、匂いのもとではない。身体の前面からではなく、どうやら朔夜の背後からだ。 緋深は身体をずらし、朔夜の背後をのぞき込み、帯の部分に栞状になった和紙が挟まっているのを発見した。ちょっとごめん、と緋深は呟くと同時にその紙を挟み取る。そのまま和紙を鼻先に近づけ、緋深は眉を顰めた。「これかっ」 蘇芳色を上品に染めた和紙からは、緋深が探していた薫りがした。(いつの間に) 舌打ちをしつつ、獅吼を睨み付ける。その刺々しい視線すらも可笑しい、と言わんばかりに呵々と笑い始めた。それが、男の今までの行動の理由であったことをありありと証明する。分かっていたことだったが、多分、いや間違いなく緋深をからかうためだけに行ったのだ。 鼓膜が笑声に震わされた瞬間、何かが緋深の中で弾けた。「……………るな」 緋深は肩を小さく震わせながら、ぼそりと呟いた。俯いており、表情は周囲からは窺えない。だが緋深の纏う雰囲気は張りつめ、まるで静電気が走っているかのように帯電している。 鬼気迫る様子の緋深を周囲は目を瞠り、見つめた。獅吼は面白そうに、朔夜は心配そうに、そしていつの間にか部屋に戻ってきた千波は驚きに。 朔夜が不安そうな表情を浮かべつつ、緋深に声をかけようとしたときだった。「ふざけるなっ!!!」 緋深の声が襖を、部屋全体を揺らした。咄嗟に耳を塞ぎしゃがみ込んだ朔夜の横を緋深は走り、獅吼に殴りかかる。(許さねぇ!!) いい加減、緋深も我慢の限界だった。 自分をからかうだけならば、まだよい。だがそれだけのために、何故朔夜を用いようとする。よりによって獅吼の薫りを纏わせたり、触れたりする。緋深をからかい遊ぶためだけか。そんなことのために?(冗談じゃねぇッ) 緋深は、獅吼のにやけた顔を目掛け、怒りに身を任せ手刀を繰り出した。
2007年02月13日
何気なく交わしていた会話の中の約束を、今更ながら思い出す。約束を守れなかった、と悔やむ気持ちも藤次朗の中にはあるが、兄の言葉で今まで感じていた違和感のようなものがようやく取れた。「兄さん……今ならあなたの言葉がわかるような気がしますよ」 --何かが起ころうとしている。起きている。 自覚をした今ならはっきりとわかった。藤次朗はここ最近、何か言いようのない不安に囚われていたのだ。だから急かされるように、睦月に薦めてしまった。一刻も早く天城家から出し、ここではない何処かへ。その為には全てを手回すには、逃げ道を塞ぎきるには時間が足りなかった。睦月を説得してしまうことが一番早いと判断したのだが。 もっと早く気が付いたならば良かった。そうであるならば、先ほどもっと強引にも誓約を取り付けていたというのに。(兄さん……この感覚をあなたはウンメイと呼んでいたのですか?) 何かが、身体の心の奥底で何かが命じている。何よりも近いもののはずなのに、その何かが必死に、悲鳴の如く何かを叫び伝えようとしている声が聞こえなくて、もどかしい。だが聞こえないはずなのに、突き動かされている。藤次朗という意識には聞こえないが、身体は、細胞は感じ取り勝手に動かされているようだ。 じわり、じわりと全身を浸蝕されていく感覚は、決して気持ちがよいものではない。それを受け入れ、それでも幸せだと笑っていた兄が少々不気味に思えてきさえするほどだ。 亡き兄を思い出すたびに浸蝕が速まる気がし、墓が直視できなくなる。藤次朗は苦い思いを無理矢理喉奥に押し込み、墓を後にするべく足を速めた。 まるで逃げるようだ。そう思いつつも藤次朗は墓を振り返らずに足を忙しなく動かす。これでは先ほど脱兎の如く姿を消した睦月となんら変わりない。 笑顔を残しつつ消えた睦月のことを藤次朗はふと思い返した。(そう言えば……あの娘は、一応笑えてはい、たな…め、ずら し…く? ) 何を、思った? あの娘はいつも見ているこちらが騙されるほどの笑みを浮かべているではないか。なのに何故今更そんな感慨深く思うことがある。 深く考えてはいけない。 直感的にそう思い、藤次朗は頭を振る。何か深みに足を踏み入れかけた気がした。 そうだ、あの子が笑っているなど日常茶飯事なことを疑問に思ったのは、藤次朗自体が家にあまりおらず、会ったとしてもあの全てを覆い隠した完璧な笑みだからなだけだ。妻や息子にあれだけ理不尽な善意の押し付けに似た厚意に、笑えているのがおかしいと思っただけなのだ。 --あの子は、息子に逆らえなくて当然だ。何故なら(何故なら……何だと言うんだ?) 頭がおかしくなりそうだ。 さっさと会議にでも出て、頭を冷やすべきである。 藤次朗はため息を吐き、ようやく墓地を後にした。-----------------字数制限の壁に負けて、二つにわけました……
2007年01月17日
一際強い風が顔面を叩きつけられ、藤次朗は乱れる髪を整えるために右手を上げ、頭部にあてた。手櫛の容量で髪を梳いている手で、本当は髪をざんばらになるほどかき回してしまい。だがそれではもう一時間もすれば始まる会議に支障がでてしまうので、衝動を理性で押さえ込み、髪を掻き上げるようにして元のオールバックに戻した。 --完璧な笑顔だった。 微笑み去っていった少女を藤次朗は思い出す。 藤次朗でなければ誤魔化されていたほどの、多少顔色が白かったが確かに‘幸福’そうな笑顔であった。だが完璧がゆえに藤次朗にはそれが虚偽の、‘はったり’のものだと気付かせてしまったのだ。それをあの娘は気が付いてはいない。 今頃、誤魔化せたと思っているのだろうだろうか。 --皮肉なものだ。 睦月は気が付いていないに違いない。あの笑顔がまさか生前の父が嘘をつくときの姿と、癖と重なるなど夢にも思っていないはずだ。「私としたことが、失敗をしたな」 多少自嘲気味な笑みが浮かんでしまう。 予想は多少していたが、睦月があそこまで強い拒絶を演じるとは想定外だった。あのような完璧な笑みで大丈夫と言われてしまうと、手が出しにくいことこの上ない。 しかも今回のことで警戒させてしまったであろうことは間違いなかった。睦月はこの話題を避けるために、ひたすら奔走するに違いないのである。それが藤次朗や天城の家を思ってなので、なかなか咎めることさえできやしない。「だからと言い……いつまで甘んじるつもりだ? 正義の玩具であることに。妻の人形であることに。」 ぽつりと落とされた言葉は思いの外深く、重いものだった。 藤次朗は自身の家族にあまり愛着はなかった。妻と自分は家同士の結婚のための駒にすぎなかったのだ。外見は美しく、さすが旧家と言わんばかり品もあるがそれだけであった。そこに愛はなく、冷めているのだろう。妻は藤次朗に尽くすが、それは藤次朗自身に尽くしているのではない。‘自分の夫’である男に尽くしているのだ。藤次朗であろうと、それ以外の人間であろうとそのレッテルさえあればいい。それに気が付いたとき、藤次朗は特に冷めはしなかった。もともと熱がなかったのだ。冷めようがない。毎朝続く、何も変わらない表面上だけの、儀式。それは妻の心に、彼女自身気が付かない寒さを与えていたのかもしれない。 息子の正義は愛されていないわけではないが、愛がある故に生まれた子ではなかった。後継者となる子を成すという、義務にも似た仕事の結果である。血の繋がりはあるので藤次朗も一応気には掛け、妻はあまりかまってくれない夫の分まで息子を溺愛していた。だが不運にも息子は妻よりも藤次朗に似てしまったのであった。困ったことに人付き合いが上手くなく、愛想も良いとは言えない。妻の欲求を満たすには役者不足であった。それ故に妻はだんだんと息子離れをしてしまうこととなり、正義は少々寂しい思いをするはめになったのであった。 そんな中、睦月がやってきた。そして睦月は不運にも正義と妻の理想に沿ってしまったのだ。そこそこ顔立ちが良く、愛想があり、まだ幼く自分たちの色に染めやすい。完璧だった。 二人が睦月に転がり落ちるのは早かったのはいうまでもない。妻は睦月に愛情と理想を押し付け、正義は愛情を注ぐ喜びと愛情を返される喜びを得るために睦月に執着した。妻は理想の娘、つまり“人形”であることを睦月に強要し、正義は正義で理想の自分だけのモノ、つまり“所有物の玩具”であることを望んで、実行すべく様々な制限を睦月に課した。 故に、咎は藤次朗にもあった。藤次朗があまりにも家庭に返り見なかったことも一因だと言える。それ故に犠牲になった娘を哀れに思う。 幼い睦月は、天真爛漫という言葉が似合う少女だった。強面である藤次朗に体当たりのごとく抱きついてき、何が楽しいのか無邪気にケタケタと笑う。頭部と躰のバランスが悪いのか良く転けては大泣きし、次の瞬間には泣きやみ、また走り出していたのを良く覚えている。子供らしく、愛らしい子供だった。 --罪滅ぼしとしては遅かったのかもしれない。だが、ようやく逃がしてやれると思ったのだ 全てをお膳立てした後に、後日恨まれても良いから無理矢理にでも行かせれば良かった。後悔してもすでに時遅しなのだが、そこまでしなければ睦月が動かないとはさすがに思っていなかったのだ。まだまだ幼いと高をくくり、甘く見ていたと言われても仕方がない失態である。(………本当に、高を括っていただけか? 想定外のことだったのか?) 脳裏に一瞬、疑問が過ぎった。 首を緩く左右に振り、あまりにも馬鹿げた疑問を退けようとする。想定外でなければ、何だと言うのだ。断ると知っていたのに、こうなると分かっていたのに事を勧めたというのか。そんなはずはない。分かっていてやったのだとすれば、藤次朗はただ睦月のまだ羽ばたける千切り折ったこととなる。希望をちらつかせつつ、自らの意思で断ったと錯覚させ、絶望に叩き落とすという外道な手段を使ったというのか、己は。 渦巻く思いが喉の奥から溢れ出し、舌に乗る。苦い。藤次朗は幻の苦さを誤魔化し和らげるべく、目を瞑り耐えた。錯覚だ。そう言い聞かせる。 --芳香がした 甘さを含んだような匂いに藤次朗は目を開き、匂いのもとを視線で探し、白い花の山を見つけた。藤次朗自身が捧げた胡蝶蘭の花と、睦月が手向けたカサブランカの花だ。(カサブランカ………確か、威厳・偉大・雄大な愛か) 華道に長けた者と接触のある藤次朗はすぐに花言葉を思い出す。花の容貌といい、花言葉と言い、この重たい墓石の下に眠る二人にぴったりである。睦月のセンスに藤次朗は目を瞠るしかない。妻が睦月に対して唯一匙を投げたのが華道である。あまりにも斬新で前衛的な作品は藤次朗でさえも顔を覆ってしまったほどだ。その睦月がこれほど洒落た花を持ってくるのは意外なことだった。 今はもうない福寿[フクトメ]家、睦月が実の親と幸せに暮らしていた家にはいつも小振りな花を咲かす植物が沢山植えられていた。パンジー、サクラ、キンモクセイ、ウメ、スズラン。いつも何かが花瓶に飾られ家を彩っていた。睦月のために飾られた花々だ。てっきり慣れ親しんだ花を持ってくると、藤次朗は思っていた。だが実際主観的にみても、客観的に考えてみても、確かにあれらは兄と義姉に似合う花ではない。彼らには大輪の花が、そうバラや牡丹、石楠花、百合などがよく似合っていた。カサブランカなど、義姉には特に似合うことだろう。 --これがウンメイってやつなら俺は運命に感謝するけど……同時に恐ぇなとも思うな 芳香が引き金になり、ふと兄の声が藤次朗の脳裏に蘇る。 いつだっただろう。いつも自信に満ちあふれた笑みを浮かべ、闊達な兄が初めて見せた真剣な目だったので、よく覚えていたはずだ。 そうあれは兄と義姉が事故にあい、亡くなる数ヶ月前のことだった。久々に、密やかに兄の家に足を運んだときポツリと兄が呟いたのだ。※『俺はこの子、睦月と生み、育て幸せにするために生まれてきたんだと思う』 ふと耳に入ってきた言葉は微笑ましい割に、何故か固く真剣な声だった。不可思議に思い眉を顰めた藤次朗が兄を見やると、自嘲するようだった。『いきなりどうしたんですか。兄さん』『うん? な~んか、お前には言っとかなきゃならねぇなと思ってな』『娘への惚気をですか?』『………だけならいいんだけどな。けど、違うんだ。そんな軽いものじゃない……俺は断言できちまうんだよ。俺は睦月の父親となるため‘だけ’に生まれてきて、睦月に普遍的な幸せをやることが‘生きる目的’だってな』 兄はイカレテるだろう、と自身を嗤う。何も言えずにいる藤次朗に手をひらひらと振りながら言葉を続けた。『ああ気にすんな。俺自身そう思ってんだから……なぁ、藤次朗。お前、俺らと違って妻との間に愛がなく、妻が哀れだ、って言ったことあったよな? この前ベロベロに酔ったときに、さ』『……忘れてください』『ああ、違う違う、そう言う意味じゃない……あれな、俺らも一緒なんだぜ?』『何をバカなことを……これだけ幸せを絵に描いたような生活をしているのに』『うん? だって、しょうがないだろう。睦月に一般家庭の幸せを与えなきゃならねぇんだ。そういう風な環境を造るさ、俺達は。‘そのためだけ’に俺達は実家も、過去も何もかも捨てたんだからな』 兄が家を飛び出したとき、余程義姉が好きだったのだろう、と思っていた藤次朗からすれば晴天の霹靂だった。呆気に取られている藤次朗を目を細めながら見やるが、兄は無情にも淡々と言葉を続けていく。『そう言やお前にはあいつとの、妻との出会いを話したことなかったっけ? きっかけは何だっけなぁ……ああ、そうだ。サークル関係の飲み会かなんかのときに会った。妻を一目見たとき、思ったよ。“ああ、こいつだ”、ってな。こいつを娶って、子を成して“普通”な幸せを生まれてくる子に与えなくては、と』『一目…惚れにしては、何というか……』『そんなもんじゃねぇよ。恋心なんて今でもないし、抱きたいという欲求も特になかった。欲しいとも思わなかったな。けど、ただ漠然とこいつを娶らなきゃならないと何かが命じたんだ。その当時、惚れてた女がいたんだぜ? なのに心はそっちが欲しいって言ってんのに、躰が言うこと聞かないんでやんの。まぁ、向こう同じようだったけどな。出会ってすぐ求婚した男に対してあっさりと頷いて、あなたの子を孕むべきだと何だか思うのよ、だぜ? ありゃびびった』 絶句するしかない。兄も義姉も何を考えていたんだと叫びたいが、何と言えばいいかわからないのだ。『んで、結婚することになったんだが。俺は香道の名家、あっちは外資系会社の社長令嬢。ここでもおかしなことにな、揉めなかったんだよ。どっちを優先するか、なんてな。二人して顔を見合わせて“捨てるか”、だぜ? これじゃあ普遍的な幸せになりそうもないからっ、て。信じられねぇよなぁ。たったそれだけで、大学をでたばかりのペーペー達が手に手を取って逃げたんだ。けどな、そん時ゃ、今もだが迷いも未練がねぇんだ。どっこにも、微塵も』『それは……やはり、そこまでお互いを想って行動、できるなら。愛し合っている、と言えるのでは?』 少なくとも藤次朗にも、藤次朗の妻にもできないことだ。少々言葉にすると胡散臭いが、やはりそれだけの想いがあったから出来たのではないか。 そんな藤次朗の思いを兄は笑い飛ばした。『まっさか。だって俺達、キスもしたことないぜ? 何度か睦月を産むために身体は重ねたけど、それ以外触れた覚えはない』『に……い、さん』『言ったろ? 多分俺もあいつも、俺らでしか産めない子のためだけにお互いを利用したんだ。そして本能みたいなものでそれが絶対“睦月”だと分かってんたんだよな……で、見事今では誰の思惑通りか、睦月命のバカ親ができあがっちまったんだ。これがウンメイってやつなら俺は運命に感謝するけど……同時に恐ぇなとも思うな。睦月に出会えたことは心底幸せだと思えるからいいが、なんか俺自身の意思を歪められた結果にも思えるときもある。ま、今で 睦月なしの生活なんて考えられないから、歪みが治ったとしても俺は今のように、睦月に全てを捧げる生き方をするんだろうな』『兄さんは……なんで、俺にこんな話を?』『あ? ああ。なんかな、嫌な予感がこの頃するんだ。だからもし俺になんかあったとき、睦月を頼んだぞ、って意味を込めて、言っておこうと思った。こんなに俺達が溺愛しているんだ。不幸にしたら許さないぞ、ってな』『何を不吉なことを……それに信用されてないわけですね、俺は』『お前は信頼してるよ。けどな、なんか駄目なんだ。不安なんだ。天城の人間は睦月を傷つける気がしてならねんだ。なんか根拠があるわけじゃない。直感のようなもんがそう告げている』 だからお前に頼んむんだ、と笑った兄は、もういつもの兄だった。
桔梗色の着物の襟首から覗く項が美しい女性が、目を細め、頬に手をあててうっそりと、歌うように告げる。「睦月ちゃんは、可愛いわね」 頬を、髪を白く細い指でなぞりながら、良かったと笑う。「ずっと娘が欲しかったのよ。貴方のような可愛い娘ができて、本当に私は嬉しいわ。私のことは、本当のお母さんだと思ってね」 --ダカラ、オカアサント呼ンデネ? それが、出会いだった。 --女性らしくあれ。 --作法に通じ、礼を守り、優美な動作を心がけ、楚々と美しくあれ。 義母、叔母はそれを睦月に無言でずっと、ずっと強いてきた。睦月はそれに微笑んで答えるしか術をもたない。反抗は許されなかった。それが叔母の生き方で、生き様だった。それを否定をすれば叔母は嘆きと悲しみ暮れ、切々と説く。それが女としての正しいあり方だと。女性としての生き方を捨ててはいけないと。 叔母にとってはそうだろう。それも一つの生き方だ。 だが、だからといって他の生き方を認めなかったり、否定してはいけないはずではないか。 あの人は視野が狭いのだろう。視野に入らないものは、全ておかしな、間違ったものなのだ。その割には視野を広げようとはしてはいないが。 なので、彼女の中で‘一番’幸せな生き方を睦月に捧げようとしてくれている。 舞を習わせ、香道を学ばせ、行儀をしつけた。着物を着せ、髪を結い上げる。女性らしく見せるために『長い黒髪』を進め、……将来の夫まで世話をしてくれようとしてくれている。今からお見合いの写真を見ては、「この人ならばまあいいわ」や「この人は駄目ね、睦月ちゃんに似合わないわ」と言っているから間違いではないだろう。良き夫に、一生を捧げられる良い人を捜してくれている。 --だが‘イイヒト’なのだ。 同じ血が微塵も流れていない養子に対し、心から優しくしてくれる。こちらが申し訳ないほど、息が詰まるほどの優しさを注いでくれた。 風邪を引けば寝ずに看病をしてくれる。 誕生日には沢山のプレゼントと料理を用意し、学校の行事にはかかさず参加し、胸を張って睦月のことを「自分の娘」だと豪語する。 あの“愛しみ”に嘘偽りはないだろう。いつも満面の笑みで「睦月が‘娘’で嬉しいわ」と言ってくれる。 --それが‘クルシイ’なんてオモッタことはナイ 義兄である正義だってそうだ。いつも喜色に染めた瞳を細め、こちらを見てきた。初めて妹が、いや兄弟ができて嬉しくてたまらない、という感情を隠そうともしないで、甘やかしに甘やかしてくれる。過保護だよね、と周りの友人が笑うほどの気をつかい慈しんでくれた。 少しでも夜が遅くなれば飛んできて送り迎えをしてくれた。 家族を喪った睦月のためか、スキンシップをこまめにとってくれようとし、正義は学校が休みの日など、全てを睦月に費やしてくれていた。 睦月がマチガッタコトをする度に、怒鳴りはせず優しく諭してくれる。 --‘ジユウ’がナイなんてオモワナイ もちろん不器用だが叔父も充分優しい人だ。睦月を否定せず、どれだけお金がかかることでも気にせずやりたいことをやれ、と言ってくれる。きちんと、睦月を見てくれる。それだけで充分だった。 本当にあの家の人達は“ヤサシイ”と、睦月は心底思っている。『ええ~、睦月ってば贅沢な悩みだよ、それ! 羨ましいぐらいに‘恵まれて’いるのに、それが不満なんて信じられないっ。格好いい家族に、裕福な家なんて私と変わって欲しいぐらいだよ。特にお兄さんなんてアイドル顔負けなほどすっごい格好いいし、優しいじゃん。睦月ったら妹だからって、無償で甘やかされているの見てると、もう羨ましいったらもう! 友達なのに、兄妹ってわかってるのに、嫉妬しちゃうほどだよ。いいよねぇ……なのに‘ツライ’なんて有り得ないっ!!それは‘コウフク故のナヤミ’って言うんだよ』 --ダカラ、自分は天城の家に引き取られて‘シアワセ’なのだ。(な、のに……叔父さんは、何を言ってるの? 海外? 私が?) 立ち竦み呆然としている睦月の気持ちを知ってか知らずか、残酷に淡々と叔父は言葉を続けていく。「当初は国内で、と考えていたのだがな。だが幾ら国内とはいえ、あの腐った親族どもの中へ投げ込むのは論外だった。なので信頼のおける部下に預けようと考えた。だがあいつらは有能な面々だがどうも所帯持ちは少なく、若い娘を引き取る条件に合うのが少なかった。適合するものは大抵が我が家の近隣に住んでいる……それならば妻や息子からは逃げられんだろう。出る意味がない」 --ニゲル その言葉に睦月は内情を見透かされている気がして、ぎくりと躰を強張らせた。叔父のたった一言だというのに、今まで抑圧されてきた思いが暴発していくのを感じる。血の気が引いているのか、上がっているのかも、もうわからない。(そうだ……私はいつも思ってた。本当は、泣きたくなるほど辛かったんだ) いつも彼らの愛しみを感じる度に、本当の“無償の愛”はこんなものではないと、いつも“誰か”と比べていた。父や母、朧気ながらしっかりと記憶に住み着いている‘ダレカ’と比べ、束縛と強要が多大に含まれる愛情は鉛のように鈍く重たく感じ、いつも押し潰されそうだった。(舞の稽古や茶道とかより本当はスポーツが好きなの。合唱部もいいけど、でもそれより野球部やサッカー部のバレー部とかスポーツに携わりたかった。長い髪なんて重たくて、手入れが大変で切ってしまいたいよ。着物だって、綺麗だけどとても苦しくて…どうして正義さんは友達と外出すると、いつも一緒にくるの? 本屋ひとつ行くのに報告をしなくちゃいけないの? 一人の時間が欲しいと言っただけで、怒られなくちゃいけないの? 義兄だからって、私の考えをいつも否定していいの? 正義さんの望み以外の行動は、全部間違いなの? ) 一度箍が外れかけてしまえば、パンドラの箱が開きかけてしまえば、出てくるのは不満の嵐だ。ドロドロと醜い感情が溢れ出し、渦巻いている。きっとこの中に希望という光なんてないだろう。お世話になって、殊更大切にされているのというに、箱の中から出てくるのがこんなものばかりとは。 --なんて、醜いんだろう。自分は 己の醜悪さに吐き気を覚え、睦月は目眩がするのを感じた。喉の奥に拳大の鉛が押し込められたように、呼吸が苦しい。 --お願い、叔父さん。黙って。もう甘い言葉を囁かないで。 泣きたくなるのをぐっ、と堪えながら、真っ青になった顔で訴えるように叔父を見つめた。だが叔父は痛ましげに眉を顰めるだけだった。「海外へ行く、と決意することは難しいだろう。友と別れ、異国で言葉に不便をし、文化の差に打ちのめされる。だが覚悟さえあれば、どうとでもなることだ。私はあの人達の娘であるお前を、お前だけは不幸にしたいとは思わない。だからこの話を勧める」 ぐっ、と骨張った指で細い肩を掴み叔父は訴える。冷たくなった躰に、指は服越しなのに酷く熱く感じ、睦月は咄嗟に振り払いたい衝動に駆られた。睦月は早く動きたいと、走り出してしまいたいと震える足の筋肉を、必死に地面に縫い止める。 --蓋をしなければ。 この熱く優しい手を無碍に振り払ってしまうことになるならば、自分の不満などもう一度箱の中に入れて、鍵をかけ、鎖をかけて、心の奥底に沈めなければならない。 もしこの優しい手の届かない海外に行けば、叔父と天城の家族と衝突してしまう。叔母と正義はきっと、叔父を責める。叔父を睦月を追い出した悪人に見立て、思う存分責め立てたあと、睦月に笑顔で帰ってこいと言うだろう。もう大丈夫だ、と。帰ってこいと強要するのだ。 それだけは避けなくてはならない。天城家の絆に混乱と決裂をいれる権利など、睦月にはないはずだ。何より睦月を気遣う優しい叔父を、父の弟を苦しめるのは、絶対に嫌だった。 睦月は歪みそうになる顔に力を込める。表情筋を意識し、口元を上げて目尻を下げた。(……大丈夫。できる。ちゃんと、笑えるはず) 目を細め、頬を綻ばせて、下がりそうな眉に力をいれて上げる。「逃げるなんて、って酷いですよ? 叔父さん」 声は震えなかったはずだ。叔父が軽く目を瞠っている。薄い唇が何か言おうとしているのに気が付き、睦月は慌てて言葉を重ねた。「叔父さんは勘違いしています。私は叔父さんの家に引き取られ心から感謝しています。本当の娘のように大切にして頂いて、高校にも行かせてもらって。本当に、凄く幸せですよ? だから海外なんて、行きたくないです。今の学校も止めたくないし、友達と別れたくもないし。だからごめんなさい。そのお話、お断りします」 言葉にしていくうち、顔が歪みそうになるのを感じ、隠すためにも大げさに頭を下げる。微熱だけを残し骨張った手が放れていく感覚が寂しいと思ったのは、気のせいのはずだ。 数拍間をおき、ぱっ、と顔を上げたときには睦月の顔には笑顔が戻っていた。「辛いなんて、思っていませんよ? ……でも、心配してくださって、ありがとうございます。ん、あっ! 今日は、舞の稽古があるのでそろそろ行かなくちゃ。すみません、失礼します」 --早く、速く、ハヤクここから去らなければ。 気持ちが表にでないよう必死に取り繕いながら、失礼にならないように、だがなるべく素早い動作で身を翻し、少々早いテンポで歩き出す。 後ろから強い視線を感じる。叔父は訝しんでいるのだろうか。誤魔化しきれなかったのだろうか、と不安になる。(叔父さん……気持ちは本当に、本当に嬉しかったです。ごめんなさい。どうか、騙されてください) 胸の中で幾度も、幾度も叔父に呪文のように礼を言い続けていて、はたと睦月は言い忘れたことに気が付いた。 踵の重心を置くようにして半回転をし、叔父に顔をしっかりと向け、今度は心から微笑んだ。「父と母に、花をありがとうございましたっ」 --いつか。そう、いつか。 このような顔で、天城家で笑える日が来て欲しい。来るように努力をしなければな、と睦月は改めて思い、暴れる‘箱’の息の根を止めるべく、更に心の奥底へと沈めた。
2007年01月15日
春特有の、柔らかい綿に触れるのような風が殺風景な場所な墓地に縦横無尽に駈ける。髪留めを外し自由になった髪が風に煽られ靡き、顔や背中、肩などを軽く叩きつけた。 髪留めを外さなければよかった。そう思っても後の祭りだ。今更髪を再び束ねようとしても、両手には大切な荷物があるので、すぐに諦めた。 腕に抱く花が散らぬよう、上半身をうまく使い風から守りつつ少々早足で目的地に急ぐ。墓地は山に沿うように広がっているので、道は少々きつい傾斜だ。足下をしっかりと見ながら睦月は一歩一歩踏みしめるように歩く。足裏から伸びる影は濃く、日光に照らされている道には浮いて見えた。 太陽は南中をむかえたばかりだ。セーラー服姿の睦月が、平日であるというのに校外を堂々と歩いているのはおかしいことである。 --今日は学校が創立記念で休みだった。 だが睦月はそれをあえて義父や義母、義兄に告げず何食わぬ顔でいつもと同じように家を出てきた。おはようございます、と微笑みながら食事をし、今日はテストがあるんです、など嘯き、いってらっしゃい、という優しい言葉に見送られたのだ。 良心が痛まなかったわけではない。だが罪悪感に苛まれながらも、だがそれでも騙し続けたのだがら、やはり結果は同じである。 あの‘優しい’人達を騙しても、一年のうち今日だけは睦月は此処に来なければならなかった。どうしても来たかったのだ。何が、何でも。きっと今日が休みでなくても、睦月は此処にいたような気がする。 目的地にようやく到着し、睦月は足を止めた。「久しぶり……お父さん、お母さん」 返事など決して返ってこないと分かっているのに、ついぽつりと口から言葉が零れ出た。分かっていたがやはり妙に物悲しく、ぎゅーっ、ときつく一度目を閉じ、悲しみに耐える。 膝を折り、そっと墓石の前に花を添えた。真っ白な大輪の花、カサブランカは灰色の墓石の前だと更に栄えて見える。 4月の誕生花は勿忘草や藤、霞草だ。本当ならばそちらにしようか、とも考えたが、それは少し寂しい気がしたのだ。生前好きだったカラフルで可愛い花、とも考えたが、それも何だか思い出に浸ってしまい胸の奥が締めつけられる。定番の菊の花も父や母の面影には似合わない。似合うと思いたくはなかった。 カサブランカは真っ白で、大輪で、華やかなのに清楚で。これならば、と目を付けたのは半年も前のことだった気がする。威厳と、偉大と雄大な愛などの花言葉を知った時、更にそう思った。 一ヶ月ほど前から、隣町の花屋に頼みに頼んでようやく了承を得て作ってもらったカサブランカの花束は睦月の意向に添っていた。学校がきちんと休みであることを説明し、お墓に添えたいと、何度も何度も言葉を重ねた甲斐がある、というものだ。平日の、しかも午前中に花を取りに来たいと言う言葉に渋られたことも、今では何の苦労にも思わない。 同じ町だと少し睦月には問題があったのだ。この場所にいることを、決して義理の父母達に知られてはいけない。気持ちをきちんと告げれば理解を示してくれるだろうが、義母はあまり快く思わないだろう。亡き母に縋りついているのが不満なのだ。睦月の母は今は自分だ、という自負があるようである。義理の娘だと言うのに、そこまで思ってくれる気持ちは嬉しいとも思うが、少し重いと思うのも事実だった。 だから嘘を塗り重ね、騙しても良いというわけでもないのだが。(……気に入ってくれる?お父さん、お母さん) そうであればいい。そう思いながら線香を鞄から取り出し、マッチで火を点けた。線香を立て、独特の香りに纏われながらも目を瞑り、冥福を祈る。 早く目を開け、少し距離を置かなければ制服に線香の匂いが染みついてしまう。 そう思うのに、やはり未練だろうか。足も瞼も動かず、ただ無心に睦月は祈った。 --どれだけ時間がたっただろう。 後ろから近づいてくる足音に睦月はようやく顔をあげ、目を開いた。線香は殆ど姿を消している。失敗したな、と思いつつも睦月はまだどこかぼんやりしたようにしゃがみ込んだまま動かなかった。 だから急に後ろからよく知った声が鼓膜に突き刺さった瞬間、そのまま前にのめり込んで倒れてしまうのではないか、というぐらい睦月は驚いた。「やはり、来ていたのか」「…っ?! えっ、あ、おじさっ…お、お義父さん」 背の高い、黒い背広を着こなした威厳のある男だ。髪は白髪が交じり始めているが、年を感じさせない。皺がくっきりと刻まれかけた顔の中でも眉間の皺は特に深いように見える。威風堂々や古風という言葉が似合う少々厳つい顔をした人間では今では珍しい。思わず目を引く外見だが、今日は手に白い花を持っている。胡蝶蘭だろうか。お世辞にも白い-いや白くなくてもだが-花束が似合うとは言えず、好機の目を引いていた。 叔父、いや義父だった。 睦月は目を剥き、驚きについ口を滑らせかけて、慌てて修正を今更ながら加えた。 --三年もたったと言うのに未だ、義父と言い慣れない。 やはり父は、亡き父のみだという思いがある。これだけは幾ら自身に言い聞かせようとしてもできないことだった。養い親たちへ色々と幼いながらに配慮をするように、色々と努力をした、というのに、どうしても無理であった。 けれでも呼ばれるほうは、いい気にはならないだろう。兄夫妻の遺児を引き取り、手塩にかけるように、本当の娘のように育てているというのに、あまりにも甲斐がないもの、と捉えられても致し方ない。 だが当事者である叔父は、淡々とした口調でだが睦月の言い間違いを訂正はしなかった。「かまわん、言い難いのならば呼ばんでも」「え……で、でも」 睦月は心底困り、眉を顰めた。 叔父は良いと言ってくれても、そういうわけにはいかない。叔父だけを‘叔父さん’と呼ぶわけにはいかないだろう。統一性を持たせるのであれば、叔母を‘叔母さん’と呼ばねばならない。だがそうすれば叔母は訴えかけるように分かり易く顔を悲しげに歪め、何か不満があるのか、など色々と尋ねてくるのは簡単に想像が出来た。 義兄、つまり正義[マサヨシ]を‘お兄さん’と呼べないでいることにも一度大騒動があったのだ。感情的で口の達者な叔母が騒ぎの騒動となるのであれば、あの時の比ではなくなる。そう思うとどうしても睦月の腰が退けた。 叔父も同じなのだろう。渋みのある顔を歪め、溜息混じりの声で告げる。「あいつらのことは気にしなくてもかまわん。自分たちの悲しみと不満で相手への配慮に欠けている態度を取ることに気が付いていないほうが悪い。無視をしてしまえ」「叔父さん……それは、あまりにも。お…ばさんも、正義さんも早く打ち解けて欲しいと昔から色々と気遣ってくださるだけで」「ふん。だからと言い親を失い嘆き悲しんでいる子供に、新しい母だから‘母’と呼べとは厚顔無恥も甚だしいにすぎんな」 --辛辣だ。 思わず睦月は口元が引きつりそうになる。賛同できる気持ちを押し潰すためにも、苦笑いを浮かべて誤魔化すしかない。 叔父と叔母が‘許嫁’という古い制度で結ばれたのは知っていた。所謂『家と家の結婚』というやつだ。叔父は、香道の名門の生まれであり、叔母も旧家の出である。睦月はそれを聞いた当初、そんなこと本当にあるんだ、と半ば興味なく聞き流していたのだが。 やはり食い違いがあるのだろうか。でなければ家族をここまで扱き下ろしにできない。 触れてはいけないのでは、と気を遣い睦月は話題を変えた。「叔父さんは、何で今日此処に?」「……兄さんや義姉さんは、この日を、お前の誕生日と自身の結婚記念日を大切にしていたからな。命日と、彼らの誕生日と、そして今日この日ぐらいは花を手向けようと思ってな」 ぶっきらぼうな口調で、だが優しい手つきで叔父は胡蝶蘭の花束をカサブランカの花束の横に置いた。きつい花の香りと線香の香りが混じり合う。鼻に少々つくが、嫌な香とは睦月は思わなかった。ただ匂いに噎せそうな程苦しくて、だから泣きたいような気持ちなのだろうか。 「よく…覚えていましたね」「忘れるものか。たしか…お前が4つの頃だったな。偶然家に寄ったら、やれパーティだ、記念日だと大張り切りな兄さんたちに振り回された。甘いものが嫌いな俺に、無理矢理食べさせてのはお前だぞ」 え、ときょとりと睦月は目を瞬かせ、慌てて誤るが叔父はかまわない、と一言で退けた。「『この世で、一年のうちで一番大切な日だ』。口癖のように言っていた。ならば祝ってやるべきだろう。彼らにとって一番大切な日は」 叔父が手を合わせ、父母へ祈った。呟くように告げる声は深い。「命日とこの日だけは、部下に命じるのではなく、自分で花を手向けようと誓ったのだ」 すっ、と立ち上がった叔父を睦月は見上げるような形となる。逆光のせいで叔父の顔がよく見えない。 沈黙が睦月達を包んだ。ただでさえ静謐な墓場である。町外れにあるとはいえ、信じられないほど静かだ。「……お前を引き取ったのは、間違いだったか?」「え?」 ぽつりと呟かれた言葉に、睦月は反応ができなかった。 --間違い? 何が、と今更ながら浸透してきた言葉に困惑する。脳の回転を無理矢理力尽くで止められたようだ。衝撃が意外と大きかったのだな、と時間が経過してからノロノロと教えてくる。(何か、私してしまったのかな?) 睦月の表情に叔父は一瞬眉をひそめ、ああ、と呟き睦月の勘違いを訂正した。「違う、そう言う意味ではない。……兄と義姉さんの遺児を、お前を引き取ったことに後悔はない。だがそれは俺のエゴだ……それをお前に強要して良かったのか、今でも考えることがある」 睦月はそんなことない、と言おうとして、だが言えない自分に気が付いた。叔父の不器用な自分への優しさに胸がいっぱいだ。だが決してそれだけじゃない。それが言葉を、押しとどめる。そんなことはない、と今言っても羽のように軽いものにしかなりえないだろう。「信頼できる部下がいる。その者はこれから数年、海外へ派遣することになった……ついていくか?」「……え? 海、外? ついてく、私が?」「そうだ。私の部下の中で、一番人好きのする男だ。幼い子と妻もいるから、妙な心配はいらない。赴任先は今から検討中なのだが、米国か欧州に行くことになるだろう。行ってみる気はあるか?」「な…ん、で、その話を私に?」(今日は……叔父さん、よく喋るな。いつもは寡黙な人なのに) 思わずそんな間抜けなことを思ってしまう程だった。 --何を言っているの? …意味が理解できない 困惑する睦月の感情を読み間違ったのだろう。叔父は呆れたように溜息をついた。「勘違いをするな。お前の後ろ盾を立場を投げ捨てるわけではない。戸籍上は、お前はずっと私の子だ……これは以前から考えていたことだ。家から出してやる」 --家を、天城[アマギ]の家を出る?誰が? 睦月は立ち竦むように、ぼんやりとした目で叔父をじっ、と見つめた。『おやおや、困りましたねぇ。バカの傍から離れられることは良いことですが、寄りによって海外ですか』 男はくすくす、と笑い、ちっとも困ったようではない表情である。暗闇の中、独り言のように呟かれた言葉は簡単に溶けては消えていった。誰に届くこともなく。なのに男はまったく気にした様子はなく、更に楽しげな口調で言葉を転がしつつ、笑う。『せっかく事態が面白くなりかけているというのに。まぁ、どうせ外国へ‘逃げても’何一つ未来は変わらないんでしょうが。睦月には‘僕’がいますからね。どう足掻いても‘彼女’と引き合う定めなのだから……可哀想に』 --睦月が? --‘彼女’が? --‘彼女’を宿す人間が? --睦月を、‘彼女’を、自分を取り巻く人間達が? あえて男は‘何が’、とは言わない。『ああ、それでも困るんですよ。‘彼女’と会う時機が遅くなるじゃないですか』 男は足を組み直し、膝の上に肱をつく恰好で頬杖をついた。『さあ、どうします? 睦月』 楽しげな含み笑いは、闇にかき消された。
2007年01月13日
いつもの起床を告げる鐘の音が耳に飛び込んできた。全身の筋肉をバネのように使い、布団の上を跳ね上がるように飛び起きる。捲り上がった掛け布団の隙間から風が入り込み、躰を撫でた。「………っ」 絶叫を上げずに目を覚ましたことが信じられなかった。 喉に未だ血の固まりがこびり付いているようで、気持ちが悪い。何度深呼吸しても怖気は一向に消えず、いっそ嘔吐でもすれば楽になれるだろうか、と本気で睦月は悩んだ。白く清潔そのものなシーツを汚すなんて真似、自分にできるわけがない、と思いながらも。 全てを吐き出せたなら--どれだけ、どれだけ良いか。(……そんなことをしたら、‘心配’をかけてしまう) 震える体を必死に宥めつつ睦月は奥歯を噛み締め、油断したら飛び出してきそうな弱音と悲鳴の頸もとを狙い、絞め殺した。表出がかなわなわなかった声達は虚しく身体の奥底へ沈んで消えていく。 声にも、肉と骨と血があるのだろうか。夢から覚めてもまだ全身に纏まりついていた血の濃度が、増したような気がした。内臓の辺りで死に絶えた声達から流れ、溢れ出している血が口からこぼれ落ちそうだ。(大丈夫……大丈夫、あれは夢なんなんだから) --どれだけリアルだとしても、あれは夢でしかない。現実でなど、ありえるわけがない。 何度も、何度も同じ言葉を脳内で繰り返し、不安の上に『大丈夫』と言う言葉で塗固し、塞いだ。始めからなかったことにするために。あんな夢、忘れてしまえばいいのだ。 まだ僅かに震える躰を叱咤しつつ、睦月はふらふらと箪笥に向かった。目覚ましはとうに勝手に力つきている。復活するまでにはまだ時間があるはずだ。その間に着替えてしまわなければならない。早く着替えて、下にいって朝食を食べて、学校の始業に余裕で間に合うように出かけなければ。‘いつものように’。 体調が悪いと言えば休めるだろうが、家にいて心から休めるわけがない。義母、いや叔母は丹誠こめて看病してくれるのが酷く心苦しい感じてしまうに決まっている。 それに‘今日だけ’は、倒れているわけにはいかないのだ。 寝間着を脱ぎ、インナーを身につける。靴下を穿いた後、まだ真新しい、ごわごわとし肌に馴染んでいないセーラー服に袖を通した。その流れのままにスカーフを付けようとし、指が止まってしまう。 --アカイ、血のように赤い、スカーレットのスカーフ。 咄嗟に弾き飛ばすようにスカーフを床に落とし、指先を確認した。汚れていない。当たり前のことであった。あまりの過剰反応をする自分を笑うことで睦月は自身を奮い立たせ、震える指を無視し、皺ができなそうなほど強くスカーフを握りしめ、いつもと変わらない手順で、胸元でリボンになるように結んだ。 腰まである長い髪を手早く、しっかりと梳かす。今日の髪型は時間がないので、項のあたりでゆったりと一つに纏め、地味な色の髪ゴムで結わえた。これだけだと少々心許ないが、時間と共にずり落ちてくる髪ゴムに対し、こまめに対応するしかない。 鏡に映る自分の顔をじっ、と睦月は見つめた。相変わらず大人っぽい雰囲気を演出する長すぎる黒髪が似合わない童顔である。いつもならばため息の一つでも零すのだが、今日だけは安堵の息を吐いた。幼さが残るくりくりした目の下に隈も、赤い痕もない。それで充分だった。 睦月は表情筋をフルに活用し、鏡の中の自身に笑いかけた。どこか歪な笑顔だ。これではいけない、と手のひらで頬の辺りをマッサージをしてもう一度挑戦すると、今度は先ほどより余程ましだった。(…う~ん、100点中65点かな) 及第点ギリギリだが、まあこれでいいだろう。 睦月は鏡台の前からしっかりとした足取りで窓際に向かう。進行方向の途中にあった目覚まし時計のアラーム機能のスイッチをきり、そのまま腕を動かし襖を開けた。 先ほどまで和紙により緩和されていた光が、眩しい直射日光が一人部屋にしては大きめな部屋に飛び込んでくる。 一瞬目の裏を灼かれるような感覚に、睦月は強く目を瞑った。「おはよう」 いつもと何一つ変わらない朝の光景をぼんやりと見つつ、誰にでもなく睦月は呟いた。朝の挨拶、と言うよりも今が朝だと認識するために口にしたような感じだ。 --そう、もう朝なのだ。夢を見る時間は終わった。 これから日常が再開される合図である朝日を恨めしげにみつつ、睦月は窓辺から出口であるドアに向かって歩いた。 背筋を伸ばし、顎を引く。暗い表情をかき消して、上に無理矢理穏やかな笑顔をのせた。大口を開けず、唇は弧を描くように。目は少し細めた、そんな微笑を意識して。(切り替えなきゃ……夢は、夢でしかないんだから)『本気であれがただの夢だと?』 脳裏に‘お兄さん’の声が過ぎったのは、気のせいだろうか。睦月は一度頭を大きく振ることで不安を薙払った。 --……テハ、イケナイ。(夢だよ……夢に決まっている) 襖の取っ手を一瞬、強く握ることで意思を固め、睦月は襖を横に大きく開ける。『無駄な足掻きですね。言ったでしょう? すでに事は動き出しているんですよ。いつまで目を瞑っていられるんでしょうね、君は……ああ、でも早く諦めたほうがいいですよ? でないと、取り返しのつかないことになってしまいますから』 小さく笑う男の声を切り捨てるように、震える指で後ろ手に大きく音を立て襖を閉めた。---------続きと繋がりが少々悪くなったので、ちょっと訂正を加えました (1/13)
2007年01月12日
噎せ返るような生々しい血の匂いが、空気を埋め尽くすように充満していた。嗅ぎ慣れない血は、本能的に生理的嫌悪を引き起こし、顔の筋肉が強張り、歪む。(なに……これ?) 睦月【むつき】は血の海に座り込んだまま、困惑した。 どう考えても尋常ではない雰囲気に、背筋に鳥肌がじわじわと浮かび上がりはじめた。恐怖を振り払うように忙しなく左右を見回すが、周囲は光の浸食を一切許さない、深くおどろおどろしい闇だ。何も、見えない。闇の中、血の海だけが浮かび上がるように色を持っている。 認識できるのは、‘血’のみだ。(……血) 頭が赤い液体を認識した途端、吐き気がこみ上げてくる。 素足に、指先にまとわりつく滑った感触が生々しくて、悪寒で身体が震えた。鼻につく匂いに、神経まで侵されているような錯覚を覚え、気がおかしくなりそうだ。禍々しい血の色が、目にこびり付くようで痛い。 --気持ち悪い。 この場から今すぐ逃げなくては。 強迫観念にも似た思いに、真っ白だった頭が浸食されていく。本能で感じ取った危機感に忠実であろうと、睦月は全身を使い立ち上がろうとするが、足に力が入らず、そのまま血の海に倒れ込みそうになる。「……っ」 身体の前面が血の海に浸り、赤く染め上げられそうになった瞬間、後ろから誰かが支えた。驚愕と一抹の恐怖に、跳ねるように後ろを振り返る。だがすぐに安堵で、睦月は体の力が抜いた。 張りつめられた風船の空気が抜けたような感覚に、涙が出そうになる。「……“お兄さん”」 睦月の呟くような声に、睦月の両脇に腕を通し、ホールドをするように支えている男は笑った。(良かった……これは、夢なんだ) 精密画を見ているような感慨を受ける整った顔の中で、左右違った色の瞳が細められていた。艶のある黒髪も、すらりとしたスタイルも、いつもと変わらないストイックさのある暗色の服装も、睦月の目にはよく馴染んだ姿だ。 見間違いようのない姿に泣き出しそうな安堵を感じ、情けない表情で睦月は笑み返す。これが夢だと断言できる証拠が現れたのだ。この悪夢のような光景が現実ではない。それだけで呼吸が楽になる。 あまりの非現実さであるのに、夢だと考えなかったことに今更ながら睦月は驚く。だがあまりにも五感を犯す血の感覚に、頭まで血に染められたようだったのだ。血の色と匂いに麻痺させられた脳は、錆びたように機能を果たさなかったのである。「お…兄さん。あの、その……」 呂律が回らない。単語が繋がらず、言葉が生まれない。 --はやく、この場所から離れたい。 そう伝えたいのに、一向に役に立たない口に情けなさを感じつつも、必死に拙いが言葉を紡いでいこうとすることを制するように、睦月より一回り大きな手が口元に少し触れ、遠のいた。 驚愕に目を大きく瞬かせながら首だけを使い振り返ると、男は血溜まりなど目に入っていないような晴れやかで楽しそうな笑みを浮かべている。 いつもと変わらない、いやいつも以上に輝かんばかりの笑顔に、睦月は絶句するしかない。「お、に……さ…ん?」 バカみたいだ。先ほどしか名前しか呼んでいない。呼べない自分にそう思いつつも、他に言葉が見つからない。いくら脳を活性化させようと足掻いても、空気を掻くような虚しさしか手で掬えない。 パニックを起こしかけている睦月を宥めるためだろうか。男は大きな手を使い優しくかき回すように頭を撫で始めた。 ゆっくりと頭蓋骨に沿うように動きに、温かい手の温度に、脳味噌にこびりついていた血の欠片が剥がれ、剥がされた欠片は、涙と共に流れ落ちた。睦月は頬を伝う涙が、本気で赤い色をしていないかと不安になるほどだった。恐る恐る涙をぬぐい取る長い指先に視線を移すと、肌色以外の色はない。 安心に更に涙がいきおいを増しそうになるのを、ぐっ、と睦月は堪える。その顔がユニーク-つまり酷い表情-だったのだろうか。男は楽しげに喉を震わせながら、耳元で囁くように低いバリトンの音色を睦月の鼓膜に注ぎ込んだ。「これぐらいで泣いていたら、やっていけないですよ?」「…え?これ、ぐらい、て。だってっ、血が」「ええ。ですから‘この程度’のことでいちいち泣いていると、干涸らびてしまいますよ?」 血が、血の海が‘この程度’。 あまりの男の価値観、いや感じ方に呆然とする朔夜に、男は呆れたような表情だ。「君は‘あの刻’の記憶を夢に見始めましたからね。それにここ最近、どうも下賤の輩の気配が街のあちらこちらから感じていけない。まぁ、そこから何が起こっているか考えてみると賽は投げられたと、と考えるのが妥当でしょうね」 一言も睦月は理解できなかった。それと血が関係があると叫びたい。 だがあまりにも常のように自信に満ちあふれ、尚かつ断言するような響きを持つ男の言葉に飲まれそうになるのに、睦月は必死に流されないよう顔に力を入れ、眉を顰めた。「何を可笑しな顔をしているのですか? まぁ、いいでしょう。さて、と言うことで事態は動き始めたようですからね。君はどうせ、波乱の中心に置かれるのです。‘この程度’のことぐらい、耐性がないと」「…………ないと…どうなるの?」「“壊れます”よ」 コワレル。 何が、とは睦月は聞き返せなかった。安堵でとろけていた身体が、再び冷凍されたように筋肉が、神経が氷っていく感覚に背筋が震えた。 壊れる、という不吉な言葉ももちろん怖い。 だがそれよりも、目も声も楽しげに笑っている男のことが、何故ここまで恐い。(…“お兄、さ…ん”? ち、がう……コノヒト、ハ ダレ?) これは人ではない。---爪を研ぎし、獲物を目の前にしている猛禽など比べものにならないほど恐ろしく、他者を圧倒する孤高の、美しいモノだ。 息も出来ないほどの威圧感を醸し出している男は、愕然と顔を強張らせ微かに震える睦月に気が付いたのか、視線を投げかけてくる。だが、昔から懐き、甘えていた男が別の‘イキモノ’のように感じてしまった睦月は、まっすぐに視線を合わせることができなかった。 息苦しさを感じるほど鈍い色を纏い始めた雰囲気に押し潰されたかのように、睦月の面はだんだんと俯いていく。このまま足下を見ればまた血の海を見つめることになると言うのに、それでも視線を外したいと思い、睦月は重力に従うように項垂れることにした。目を閉じれば何も見えないのだ、と言い聞かせて。 だが項垂れる寸前に顎を掴まれ、無理矢理顔を後ろに逸らされる。喉の筋肉が限界まで伸ばされる痛みに閉じかけた目を睦月は開けてしまった。「おにぃっ」「ほら、始まりましたよ」 何を、何が、と問う前に、男は長い指で睦月の顎を固定したまま、ほら、とまた何かを促す。「見ないのですか? せっかく美しいのに」「だからっ、何が」「この世で、僕が最も、いや唯一‘美しい’と感じるモノ、ですよ」 いつもと同じ声なのに、そこには僅かだが柔らかで温かく、優しい甘ったるいものが、それでいて睦月には理解できないような深い想いのようなものが含まれているように感じたのは気のせいであろうか。思わず睦月は微かに好奇心が刺激され、やっと恐る恐るだが視線を前方に固定した。(何…あれ?誰?) 睦月は目の前に入ってきた光景に、筋肉だけでなく骨や肉まで凍り付いたような感覚に襲われた。 血溜まりの海の上に浮かんでいるように、氷った血の上に座る二つの人影があった。少女を、少女より背が高い人が抱きすくめている。 美しい光景だった。血に一切汚れていない二人は、共に睦月が見てきた人間の中で一番といっていいほどの容貌だ。 柔らかで豊かな銀髪に紫色の大きな目がとても印象的な、可愛らしさと美しさとも取れない、だが整った顔立ちの少女である。少女の纏う雰囲気はどことなく危うさがあり、庇護欲が酷く刺激される。それが嫌味にはならず、むしろ女の睦月ですらそう思う。演じているようには到底見えない儚さは、どういう生き方をしたらこういう雰囲気を纏えるのか尋ねたいほどだ。 だがそれを遙かに上回る容貌が、もう一人の人物だった。雑誌やテレビで見てきた芸能人など平凡な顔立ちに見えるほどで、整った顔立ちでこういう人を‘麗人’と言うのだろう。艶やかな漆黒の髪に覆われている顔は、神像の彫刻と言われれば納得できるほど人間離れしている。中性的な顔立ちだからか、更にそう思わせられる。蠱惑的と言うのだろうか。人の目を、心を強制的に捕らえてならない引力のようなものを感じる。(キレイなのに、何で…?何で身体が震えるの?) 底冷えをするように、身体が震え出してしまう。美しさに感銘を覚えたからではない。確かに魅入られる光景だが、惚けこそし、凍えそうだと思うはずがないではないか。「 」 腕に抱かれている少女の口が、微かに動いた。声は睦月の耳までは届かなかったが、少女を抱き微笑んでいる麗人の耳には届いたようで、笑みを深めた。菩薩のように完璧で、優しい笑顔だ。「……ああ、もちろんだ。やっと告げてくれたな」 幸せそうな声音だ。だが何故かその声が鼓膜を震わせた瞬間、言いようのない悪寒が睦月の体内を走り、足下がふらついた。男に支えられていなければ、今頃骨が溶けたように崩れ落ち、血の中に転がり、溺れていただろう。 --恐い。 今まで感じたことがないほどの、崖っぷちに追いつめられ死を迫られたような恐怖だ。 優しく細められる目は、温かい声音は、愛おしげに少女に触れる手は、どこまでも慈愛に満ちている。満ちているはずだ。10人中10人はそうであろう、と断言するだろう。だが、睦月にはどうしてもそう思えない。 狂気だ。麗人のすべてに狂気を睦月は感じていた。何故そう思うのか、直感で感じとったとしかいいようがない。だが確実に、底がないほど深く、暗い執念にも似た全てを灼き殺すような強く、凶悪な想いが籠もっている、と睦月は断言できた。 --見ては、いけない。 --この先を、見てはいけない。 --だって、この先は。 身体の奥底から堰を切ったように、悲鳴が睦月の喉から溢れ出した。「いやぁぁああぁっ…放し、てぇっ!」「駄目です」「やだ……やだっ、やだぁ! 見たくないっ。嫌! こわ、いっ。いやぁ!」「文句なら、また今度聞いてあげますよ。ほら、しっかりとごらんなさい。目を背けていてはどうしようもないのですし。何より…あんな美しいもの、滅多に見られませんよ?」 逃げなくては。 その一念で、渾身の力を込め暴れる睦月を悠々と制しながら、男はうっそりと目を細めた。 せめて目を背けようとすれば男の指と腕が邪魔をする。ならば目を閉じようと思えば、男が先を制し、人差し指と親指で無理矢理瞼をこじ開けられる。残酷な男の行為に、逃げ出せない事実に、睦月の目から涙は溢れ出し、身も世もない酷い顔となり、絶叫を上げた。「いやぁっ……やめて!」 麗人の細く長い指に、漫画の中でしか見たことがないような真剣が握られている。 --見ては、駄目。 ゆっくりと麗人は腕を引き、少女の胸に刀の切っ先を突きつけた。 --だって、少女は 麗人は。 少女は刀を突きつけられても脅えた表情一つせず、むしろ僅かに泣き笑いのような顔だが微笑んでいる。それに答えるように麗人も淡く微笑む。 --この先、二人とも。 麗人が、少女の胸を突き刺した。少女の震える身体から剣を引き抜くと、深紅の血があちらこちらに飛び散り、麗人の顔や身体を汚した。 血の固まりを吐きながらも少女は健気に微笑みを湛え、麗人の頬に手を伸ばし血を拭い取るように細い指先を動かす。麗人は剣を握っていないほうの手を少女の手の上に重ね、幸せそうに笑った。 笑顔のまま麗人は次の標的を自身に換え、己の胸に剣を突きつける。そして躊躇うことなく、力を込めて貫いた。 すでに事切れた少女を最後の力を込め抱きしめながら、満足げな表情で麗人は前にのめり込むように崩れ落ちた。 --思 イ 出 シ テ ハ イ ケ ナ イ 睦月は、声にならない悲鳴をあげた。
2007年01月11日
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門を通りすぎ、一直線に村の中央にある大きな屋敷に緋深は通された。 すでに獅吼達と出会って数刻が経ち、薄暗から墨染色に変化した闇の帳が村全体を覆っていた。緋深が歩く廊下には細い蝋燭で炎が灯されている。 薄暗い廊下を、先ほどまでとは逆に緋深が獅吼を急かすようにして歩いていた。現金なことに、一歩踏み出してしまい、尚かつ朔夜との距離が縮まっていることが分かると、いきなり緋深の心が急かし立ててきたのだ。獅吼が面白そうににやにやと笑っているが、もう、今はどうでもよかった。涼は苦笑し、朱鷺風は呆れていることにも、一切気にはかからない。「ここだよ」 涼の声に緋深は足を止め、真横にある襖を見つめた。 空から枯れることなく降り注ぐ雪に対抗してか、中では火鉢などで暖をとるため、火を熾しているのだろう。襖にしっかりと張られている和紙が赤丹色や蘇芳色、黄丹色など、揺らめきながら様々な色に姿を変えていた。(この中に……朔夜が) 中が明るいことに、少々緋深は眉を顰めた。 心の準備がしっかりとできているとは言い難いのだ。この明るさならば襖を開けた瞬間、否応なしに緋深へ事実を突きつけてくるであろう。 だが、もう戸惑い立ち竦みはしなかった。 蹈鞴を踏む時間すら惜しい。火が熾きているということは室内は適温以上であり、朔夜の身は凍えから遠ざかったのだ、と前向きに考え直して、意を決して緋深は襖を半ば勢いよく開けた。 手頃な大きさだが上品な造りの一室だった。あえて言うならば、物が必要最低限しか置かれていないことが気にかかるほどだ。だが殺風景とは言えず、むしろそうならないよう小さいが清楚な華が飾られる配慮がなされている。その華以外には火鉢と、小さな卓、掛け軸、数人の人と、そして白い布団だけだ。 白い布団にくるまれ、穏やかな呼吸で眠る朔夜を視野に入れた瞬間、何かが胸の奥で弾けた。 泣き崩れたいほどの安堵を、緋深は生まれて初めて知る。血圧が低くなり青白くなってはいるが、か細く、だがしっかり命を脈打つ朔夜の手を握りしめながら、心から安堵の息を吐いた。「朔夜………」 自身でこのような、掠れ、だが万感の想いを込めたような声が出せることに驚きつつも、何故か恥じようとは思わなかった。(よかった………) その言葉しか、心の底から湧いてこない。ただ、ただ何度も同じ言葉を噛み締めるように、頭の中で転がすだけである。 白い手から視線を外し、朔夜の頬の輪郭をなぞるように顔を見つめる。 肌がやはり血色が悪くなり白い。一見白い肌に炎の色が移り錯覚してしまいそうだ。だがそれでも雪を塗り固めたような肌の下に血は通っているはずである。緋深の手の中で脈打つ手の鼓動と同じ音で。 頬から肩へ、そして腕、また肩に戻り、次は身体の線を辿り、最後は足先まで。一通りざっと視線を滑らせるが、どこも欠けてはいない。 ようやく肩の力が抜け、そのまま朔夜へ向かい崩れ倒れそうになり、緋深は慌てて体勢を戻そうとするが、それより先に緋深の肩に手を添え、支えた者がいた。「そこまで」 大柄な、坊主頭の意外と若そうな、それこそ2、30代の男だった。「手を、離すんだ」 にかっ、と豪快な笑みを緋深に向けつつも、断言の口調で告げた。 若干-どころではないが-気分を害した緋深は、不快感に眉を顰めつつも、男を冷静に観察した。大柄で体格も良く、精悍でありつつも武骨な容貌から武家の者ではないかとも思う。だが、そう思うには坊主頭と袈裟姿が否定を表明していた。恰好から推測すれば『浮屠[ふと(仏教徒)]』であろう。浮屠に関する数少ない知識を掘り起こせば、確か殺生を禁止という、平和主義的思想だったはずだ。自己を磨き上げ、悟りの境地を目指す、他の宗教と違って己に視線が向かっている、珍しくあまり害のない“宗教”というのが、緋深の印象だ。(浮屠にしては、偉く物騒すぎ) まず袖に(常人なら気が付かないように、だが武道に通じているものには見せ付けるように)隠されている小刀。浮屠に必要がないであろう手に装着された籠手。袈裟の下に着込んでいる鎖帷子の微かな音。部屋の隅に置かれている使い込まれた形跡がある槍。そして男自身の戦うため鍛え上げられた、強固な筋肉。 浮屠を装っているか、破戒僧と呼ばれる者か。いずれにしても。「……そんなこと、言われる筋合いはない」 男が朔夜との接触を禁じる権限を、持ち合わせていないことだけは確かだ。 睨み付ける緋深を少々呆気に取られたように目を瞠り、男は高らかに、あははと豪快に笑い出す。雪に音が食べられたように静かだった空間を、空気を揺るがすように大きな声で、だ。これには緋深のほうがぎょっ、とする。「いや、悪い悪い」 男は頭に右手を添えつつ、謝罪をするが顔は満面の笑顔だ。説得力がないにも甚だしい。睥睨するような緋深の視線に、男はにやりと笑みを変化させ、指を1本ずつ順にたて、合計2本を立てながら緋深に告げた。「まず君に治療が必要であること。それに、その年期の入った凍り付いている手甲で、患者の手をいつまでも握られるわけには駄目だな。医者として、重病者の扱いには口を出さざるえない」 慌てて朔夜の手を離した。確かに長年使用している手甲はもうボロボロで、少々錆び付いている。しかも指先は室温に少々温められたとはいえ、まだまだ冷たい。 朔夜への配慮が、抜け落ちていた。そのことに緋深は愕然としつつも、聞き落とせない単語を男に聞き返した。「い………しゃ?」 この男は、先ほどそう言ったのか。本当に。 否定を求めつつ尋ねられた言葉に、男はあっさりと頷いた。 冗談だろう。 緋深は失礼なことに、男の言葉を疑っていた。確かに浮屠の中には医療従事者もいるとは聞いたことがある。だが目の前の男が、と首を内心捻る。 どうやっても男からは良く言えば大柄、悪く言えば大雑把な性格、という印象を受けるのだ。豪快な笑いかたから、そう思うのだろうか。それにしても細かく、しかも研ぎ澄まされた技術が必要な医術を習得しているようには到底思えない。 顔に怪訝そうな表情が出ていたのだろうか。何故か愉快気に男は笑いながら、緋深の髪をかき混ぜる。「『禁足地一』の医者を捕まえて、失礼な坊主だ」 坊主はあんただ、と思いつつも、緋深は禁足地で一番、という腕前に疑念を抱く。「………禁足地の医者って、あんただけなんじゃ」「よくわかったな」 あっさりと肯定され、緋深は転けそうになる。 冗談であろう、とは緋深も分かっている。禁足地は予想していたよりも規模が大きい。閉鎖された村で医者が一人というのはあまりにも危険で、あり得ないことだ。 だが、男の言葉はある意味正しいのかもしれない。信じるならば、男が朔夜を治療したことになる。足を切り落とすかもしれない、と言われていた症状をどこも欠けさせることなく治したならば、かなりの腕前ということになる。 ならば目の前の男が、獅吼らが噂していた凄腕の医師なのか。「…………あんたが、『セッカ』?」 あまり名前が似合っているとは思わないな、と失礼なことを思いつつ尋ねると、部屋の空気が氷った。いや、止まった。 弾けるような笑いが、部屋から零れた。 男はもちろんのこと、今まで退屈そうに傍観していた朱鷺風や獅吼、涼までもが笑っている。豪快さや、声の大きさはそれぞれ違うが、皆非常に可笑しい、と言わんばかりである。「あはははは。俺が、か?」「信じられねぇ、どうやればそうなるんだよっ」「こりゃ、傑作だ」「面白いこと、言うね」 口々に好き勝手を言っては、笑っている。状況が把握できない緋深は、何故笑われているかわからない。「何で、笑うんだよっ」「このハゲが、雪の花、なんて可愛らしい名前なもんかっ!」「雪の花っ?!」 朱鷺風の笑い混じりの絶叫に、緋深は目を剥いた。繊細な名の響きから、漢字を推測をしていなかったが、これは予想外もいいところである。どうやっても、目の前の大きな坊主からは想像も付かない名だ。赤珂、夕耶など、『セッカ』に当てはまる名でも似合うとは言い難いのに、よりによって、だ。 確かに、笑われるわけだ。頓珍漢な問いかけの極みである。 雪花、という可愛らしい名前ではないかと勘違いされた男は、笑いを収めきれない様子のまま緋深に向かい、手を差し伸べた。「俺の名前は、刺桐【しどう】だ。刺す、に落葉高木の一種の桐、で刺桐だ」 似合いの名である。雪花よりも、余程。 どうも気恥ずかしさと、後ろめたさに似た感情とに後押しされ、普段なら握り返そうとしない握手を求める手に、緋深は手を差し出した。後ろから聞こえる、獅子が吼えるで獅吼、清涼のリョウで涼、鳥の朱鷺と風で朱鷺風だ、と‘きちん’と楽しげに注釈を入れている獅吼の声は聞こえないふりをしつつ。 ようやく笑いが雪に吸収され、静寂が戻り始めた頃、襖がすっ、と開く。 下半身に届きそうなほどの長く美しい藍墨茶色の髪に覆われた顔にある、一見冷たそうにもとれるほど冷涼とした印象を受ける切れ長の目が印象的な、美しい女性がいた。「雪花」 刺桐の呼びかけに緋深は、いっそ穴があったら入りたい気分になった。--------漢字って、面白いですよね。音が一緒でも、使用される文字で、意味は大違い。
2007年01月06日
この度、茜夜さんの【虚】と作品を連動することになりました。私のほうは、【幻 -ゲン-】というタイトルで、です。よろしくお願いします。
2007年01月04日
雨風に晒され続け色づいた木でできた、立派な門が緋深の目に飛び込んできた。有に高さは3、4間はあるが、重たい雪に押し潰されることない、どっしりとした佇まいから職人芸が見て取れ、見る者が見れば思わず感嘆の息が漏れてしまうであろう代物である。 ここまできたならば、もういいか。 そう言わんばかりの態度で手を離した朱鷺風が、あ~疲れた、と呟きながら緋深を置き去りにし、先に門に向かって歩き出した。「あれが…………」「ああ、僕らの村だ……ようこそ、『禁足地』へ。客人を、僕らは歓迎しよう」 涼はにこやかに緋深に笑みを向け、門へ向かい足を促すが、緋深は半分聞き流していた。 不思議な感覚である。白く雪に染められた門からは、威圧感と和むような優しい雰囲気を緋深は感じていた。いや、違う。門の中からは暖かな光に包まれるような優しさを感じる。だがその周囲、門を取り巻く雰囲気は重苦しく、押し潰されそうな息苦しさを覚えた。(これが………『禁足地』) 神殺しの舞台。神の墓場。神が死の間際、呪詛をかけた、呪われた地。 緋深が信用できる人物から聞いた、禁足地の真実の姿だった。 曰く付きの、どう考えても明るい印象を受けない代名詞を受ける土地なのに、どうして門の中からは、村からはまるで幸せそうな家庭の窓から零れてくる光のような暖かさを感じるのだろう。なまじ門の外が毒素を散りばめたような息苦しい印象を受けるだけに、尚更そう感じて困惑してしまう。 緋深の足が縫い止められたように動けないのは、この先に待ち受けている‘何か’が恐いからではない。確かに村の住人全てが、緋深の出会った4人のような常人離れした力を有している者であるならば、確かに脅威を感じざるえない。獰猛な獣の檻に放り込まれた獲物になりかねないからだ。 だが、緋深には‘そんなこと’よりも恐れるものがある。(朔夜……) 不安だった。朔夜と引き離されたことにもちろん恐怖に似た不安を感じていた。だが、それよりも懸念することがある。 もしも、朔夜の腕か足が、治療の為とは言え切り落とされなどしていたら……。『何より先に治療を施したい。町のほうに戻ってもいいが、ちゃんと医学を修めた医者はいないだろう。あなた方の状態を見れば、温かい湯に放り込んだ後瀉血しようとするだろうが、駄目だ。あんな治療法では身体が弱まるだけだ。それより【禁足地】に連れて行ってセッカに診てもらった方が良い』『だろうな。骨折だけでも足をのこぎり引きで切り落とす医者と汚れた包帯を使って傷口を化膿させる医者しか町にはいないからな』 つい先ほど聞いた、獅吼と女性の会話が脳裏から離れない。 女性は、獅吼はまるで『セッカ』という者に任せれば、大丈夫なのに、と言わんばかりだった。だが、もしも手が尽くせず、それこそ彼らが酷評していた方法を採ったとしたならば……。 考えるだけでも背筋に悪寒が走り、心臓が凍り付く。 怒り狂わない自信がない。そのようなことになっていたならば、緋深はその『セッカ』という人物を殺しかねない。後先を考えず、破壊行動をするだろう。朔夜の立場が危うくなると知りつつ、だ。そして、自身を許すことなどできなくなる。 朔夜が生きてさえいてくれたらいい、と思えない我が儘な、傲慢な自分が恐い。朔夜が笑ってられるためならば、と言う大義名分を掲げ、影を落としかねない要素を徹底的に、容赦なく消滅させかねない自分を、押さえ込められなくなりつつある。 早く会いたい。だが同時に、とても恐い。相反する気持ちに足が竦む。(…………変わった、よな。俺) 少し昔ではあり得ない気持ちだった。誰かを想い、それ故に恐怖を感じるなど。それが自身が傷つくことよりも、死に直面することよりも上回るなど、決してなかった。 どうすればいいか、分からない。 腹を括って、飛び込めばいいと分かっていても、最悪の未来予想図が過ぎり、どうしようもなくなる。「ほら、いくぜ?」「どわっ!!」 急に、緋深より一回りは大きな手が後頭部を覆うように掴み、力任せに前進させた。何をするんだ、と獅吼を睨み上げても、当然のごとく無視をされる。 苛立たしい。だが、どこかで無理矢理連行されて良かった、とも思う。だが決してこれが『獅吼の気遣い』かもしれない、とは思わない緋深であったが。 ぐいぐい、と強い力で押されながら緋深はだんだんと門に近づいていく。それに伴い威圧感が増していくのに眉を顰めていると、獅吼が小さく笑いながら声をかけてきた。「心配すんな。最初はきついかもしれねぇが、直に慣れる」 驚いたように見上げる緋深に、獅吼は言葉を続けた。「ま、一番ここが広かったんだ。毒素が蔓延していたが、な。村の中に入れば、きちんと結界が張ってあるから呼吸は楽になるぜ。それに、こういった場所はここだけだ。他の場所にはきちんと清浄な地もある」「だからすぐに慣れるよ、大丈夫………でも、君は流石というか感覚が鋭い。守人の血かな?」 涼が感心したように呟く。守人の、と言われると腹が立つ緋深が、感情が逆立たない、水の流れるような静かな口調だった。守人、という単語に特別な、それこそ畏怖のような意味を込めてないことも、一因だろう。 圧迫感は増すばかりだが、2人の言葉を‘一応’聞き入れ、全身に感じる重みに耐えながら、獅吼に押されるだけでなく、自身でも緋深は歩き出した。 雪が溶け、その上からまた雪が降り注ぐことで門が凍り付いている様が見えるほど近づいた時だ。 「何だ………あれ」 思わず口に出して、緋深は呟いた。 白い石像があった。門の傍に緋深より一回りも二回りも大きそうな、立派な像が突っ立っている。 はじめ緋深は、白色とは珍しいが仁王像の一種か、と思った。門の傍にある像ならば、護身像であろう、と推定したからだ。なのですぐに興味を無くし、視線を逸らした。 だが横を通りすぎる時、緋深は目を瞠った。「なっ…………な、な………に、人間っ?!」 精巧な石像ではない。人を模して作るにしては、人間ができる技術を大幅に上回っていすぎる。 体温で溶けた水になっては、新たに被さる雪で凍り付いている。透明な氷で包まれた顔は、精悍でまさしく‘もののふ’といった容貌だ。だが大きく目を瞠り、何か悲痛なことでもあったような表情なので魅力は半減されているが。もしくは、頭の上に、柔らかな帽子のように降り積もった雪のせいかもしれない。 服が白く雪に包まれて、重たそうだ。体格がかなり良いだけに、雪で増幅した体積はかなりの存在感を示している。「……おいっ。あれっ……あれは?!」 涼と獅吼は‘雪だるま’に目もくべず、まるで視野に入っていないような態度で悠々と門を通り抜けようとするので、緋深は慌てて注意を促す。 だが反応は素っ気のないものだった。「あぁ~……ほぉっとけ、ほっとけ」「そうだね。今、酉門【ゆうもん】は誰の声も聞かなくて、無駄だから。そのうち、まあ死ぬ前にでも復活して戻ってくるよ」 酷い言われようだ。 思わずまったく面識のない緋深が、本当にいいのか、と思うほど、知人への対応にしては素っ気ない。「何で……あの人」 氷漬けの像になりかけるほど、長時間立ち続けていたのだろう。だが常人なら、冷気による火傷の痛みによりはたと正気に戻っていそうなものを、それすらも忘れているとは。「いつものことだ。どうせ‘先生’に気付いて貰えず、無視されたんだろうよ」「忠犬根性は認めるけど。でもねぇ」 肩を竦める両名は、何ともないように、ごくごく自然な口調である。そこに侮蔑のような意思はない。むしろ呆れ果ててはいるが、どこか優しげな声音すら混じっている。とすれば、少なくとも親愛の情はある、と判断して良いのだろうか。(いつものこと……) 緋深は‘雪だるま’を見送りつつ、思った。 やはり『禁足地』のことも、この村の住人のこともよく分からない。まだ、理解できない。時間をまだ少しも時間を費やしていないから、当然のことだ。 だが、一つだけわかることはある。(やっぱり………『禁足地』って、変な奴らばっかで、変なところだ) 偏見が多少混じっているかもしれないし、あながち間違いではないことであった。-----------------------……何だかこの頃絶好調です。不気味なほどです。首を傾げるぐらい、スラスラと。筆がのってますうぅん…やはりここは、いつまで続くかわからないので今のうちに書ける書こうと思いますノリとイキオイで書き上げているので、後日多少修正があるかもしれませんご了承頂ければ、としっかし……暇だから?ポケポケできるほどの暇が続くと、絶好調になるのかなぁ??まあ、理由はともあれ、この調子で1年、続くと良いなぁ…
2007年01月03日
足を下ろす度に、新雪が無惨に押し潰されたことに反抗するかのように、纏わりつく。分厚い足袋を雪からの冷気が通り抜け、ヒリヒリと悴むような痛みを引き起こす。だが歩む速度だけは低下させず、緋深は足を新雪から出し入れをする。 --遅れるわけにはいかない。 前を飄々と、それこそ柔らかい雪の上を自重などないように歩く3人を見失わないようにするのだけで、悔しいこと緋深の全力だった。有り難いことに獅吼の着物は薄闇の中でも、やはり白銀の世界の中では目立つ。それだけが目印だと言っても過言ではなかった。「大丈夫かい?」 後ろを振り返り涼が尋ねるのに、緋深はどうにか荒い呼吸を収めつつ頷いた。気遣いは有り難いが、今ははっきり言って情けなさが際立ってしまうからか、疎ましくすら感じる。「無理してねぇでも、いいんだぜ?」 にやにやとした笑いを込めた獅吼の言葉に顔を跳ね上げ、緋深は睨み付けた。莫迦じゃねぇの、と少年が呆れたように言うが、表情は同情的だった。 そもそも緋深が無理に無茶を重ねているのは、獅吼が原因だった。 村へ案内する。そう言われた際、緋深はもともと自力で付いていくつもりではあった。身体的に厳しいと自身でわかってはいるが、頼り甘える気は更々なかったのだ。 だがその時、獅吼が緋深の逆鱗を楽しげに引っ張ったのだ。「辛そうだな。‘しょうがねぇな’。‘可愛いお前のため’だ。俺直々に運んでやろうか?」 もちろんからかわれていると緋深はわかっていたが、神経を逆撫でされて黙っていられる性格ではなかった。怒りに任せ、怒鳴りつけるように突っぱねた。しかし、それが原因だった。その勢いのまま、緋深に歩調を合わせるという案まで突っぱねてしまったのだ。いや、勢いというよりも意地の問題であったかもしれないが。 そしてそのまま現状は続いていた。悠々と3人は先を歩き、緋深は必死に後を追うという構図ができあがったのだ。「運んでやるって、言ってるのになぁ」 とても楽しげに提案をする獅吼に、緋深はもう返す言葉もない。ただただ憎たらしい顔を睨み付けるしかなかった。それほどの体力しか残っていない。 だが次の瞬間、そのその僅かな体力を使いきるような愚行を緋深は犯してしまう。「肩や脇に抱えるのは、負担がでかいだろうから、ちゃんと横抱きか背に背負ってやるぜ?」「ふっ、ざけんなっ!!」 雪に包まれた木々の葉を揺らす程の一喝だった。気力を全て注ぎ込んで怒鳴ったせいで、反動で疲れたように緋深はずりずりと傍にあった木に縋るようにして、地面にへたり込んだ。 醜態を晒している緋深とは逆に、呵々と楽しげに笑う元凶を緋深は殺気を込めて睨む。だが、やはり何処吹く風である獅吼には何の効果はない。 流石に緋深を哀れに思ったのか、涼が気遣い気に声をかけてきた。「大丈夫かい?ほら」 手を差し伸べられ、一瞬戸惑うがこのまま座り込んでいるわけにもいかない。-間違いなくこのままだと獅吼のからかいの良い餌食だ。緋深は意を決し涼の手を取り、助けられつつも立ち上がった。「………悪ぃ」「いいよ。それより、どうするかな?」 涼の言い分が分かるだけに、緋深は黙り込むしかない。今の自身の身体がいかに弱り、足手まといかはわかっているだけに、我が儘は言いにくい。 だが、譲れないものもあるのだ。「大丈夫だ…速度を落とさせることになるけど」「意地っ張り」 朱鷺風のきっぱりとした一言に切って捨てられるが、緋深は絶対ぇこれだけは譲れない、と言い張る。「だ・い・じょ・う・ぶ、だと言っているんだ!」「何言ってやがる!てめぇがそんなんだから、ちっとも進まねぇんだっ」 ぐっ、と緋深は反論に言い淀んだ。こちらを半眼で睨み据える朱鷺風の意見は正しい指摘だ。だが、緋深はその指摘を覆すだけの切り札を持っている。朱鷺風を黙り込ませるだけの、威力のある言い分を。「ならっ、お前なら奴に大人しく背負われるってのかよ!」「ひでぇ言い分だな」 絶句の文字を顔に大きく書いた朱鷺風を見つつ、緋深に指を指された獅吼は肩を竦めながら反論をした。だが誰も獅吼の言葉を受け取らない。本人が楽しげに笑っているのだ。相手にするだけ馬鹿を見る、というものだ。 絶句の文字を顔からようやくふき取り消せた朱鷺風は、しばらく苛々と髪をかき混ぜながら思案していたが、何かを吹っ切るように行動を起こした。「だぁっ、もう!」 意味を成さない言葉を叫んだかと思うと、緋深の首根っこを掴む。緋深が驚き、驚愕の声を出そうとお構いなしに歩き出した。「何、すん、だっ、よ!」 襟首が伸びそうなほど、朱鷺風の一見細い腕からは想像できない強い力で引かれているのだ。緋深は首が絞まりそうになりつつも、抗議の声を上げた。 朱鷺風は面倒臭そうに顔だけで振り返り、緋深を半眼で見つめた。「てめぇがとろいからだ」 理由になっていない。 更に反論の声を緋深が上げる前に、朱鷺風は畳み掛けるように怒鳴りつけた。「こうしたほうが速いだろうがっ。つべこべ言わず黙ってろ!」 緋深は目を白黒させるしかない。普通、だからといってこういう扱いをするだろうか。 この状況を打破してくれそうな涼に緋深は視線を向けたが、苦笑を混じらせた穏やかな微笑で黙殺された。むしろ微笑ましい、というような生暖かい視線が向けられているような気がしてならないのは、緋深の疑心暗鬼、もしくは勘ぐりすぎなのであろうか。 当然のことながら獅吼はにやにやと笑いながらこちらを観察している。 緋深は視線を合わせないように、必死で顔を逸らす。(顔が合ったら、ぜってぇ余計なこと言うに決まってるっ) 替わる、と言う最悪な提案、もしくは変な助言をし更に状況を悪化させるか、だ。 緋深はどこか諦めたように、大人しく朱鷺風に引きずられた。引きづられるままだと朱鷺風の身長上、下半身が雪の上を滑ることになってしまうので、足をじたばたと動かしながらであるが。足を上げては下ろす。それを繰り返すだけできちんと足跡が緋深の‘前’にできていた。体勢に無理があり、少々大変ではあるのだが。 緋深が大人しくしているのはよくよく考えてみれば、そう悪いことでもないからだ。 引きずられた当初は時々首は絞まっていたが、今はそうでもない。着物の襟の合わせがだんだんと開いたからだ。その分胸元が大きくはだけていくが、それはしょうがない。 足下は新雪が踏み積もってできた絨毯のように柔らかな、真っ白な道である。これが土と石が混じる獣道で引きずられたならば擦過傷などで足が大怪我を負ったであろうが、柔らかい雪は緋深の足を優しく包みこむので、怪我一つない。ただ足先から凍えるような冷たさが這い上がり、凍傷が少々酷くなりそうなだけだ。 問題は多少あるが、緋深にとっては大したことはなかった。 このまま身を委ねているだけで、朱鷺風の引く力により歩ける。先ほど一人で悪戦苦闘しているよりも、よほど速い。考えてみれば、緋深にとっては得なことだった。(もうぼろぼろなんだ。多少酷くなっても、あんまり変わらない) 問題が有りすぎる考えである。だが緋深にとって、今もっとも最優先するのは速く村に着くことだった。そのためなら、多少の負担も止む終えないことである。 幸いなことに、今朔夜は傍にいない。朔夜が傍にいたるならば、彼女の泣きそうな表情によって、緋深はこのような手段はとれないのだ。まぁ、朔夜が傍にいないから焦り、愚行とも取られかねない選択肢をあっさりと取っているのだが。 急にがくりと重力に引かれ、緋深の身体が新雪の海に投げ出されそうになった。だが寸でのところで腕の付け根のあたりを緋深と変わらない大きさの手が掴み、受け止めた。 朱鷺風が襟首から、腕へと掴む場所を変えたのだ。流石に襟首は手が滑りやすく、持ちにくかったのであろう。 そのまままた歩きだそうとする朱鷺風に、流石に待ったの声がかかる。「いや……ね。そろそろ、それは……」 くつくつと涼は口元を隠しつつも、笑っている。獅吼は肩を震わせつつ、喉の奥で声もなく笑っていた。 ………ここで緋深はようやく気が付いた。第三者の視点を。そしてこの光景がいかに間抜けな光景かを。 どうやら身体が弱り、機能が低下すると脳の半分も働かなるようだ。もしくは長時間この冷たい空気の中にいたせいで、脳が凍り付いているようである。(それか………さっさと村に着くこと以外考えていてなかった…他を排除してたのか) 視野狭窄も甚だしい事態である。 笑われたことに朱鷺風は過剰反応気味に怒り、怒鳴っていた。「てめぇら…………笑うなっ!」「いや……ごめん、ごめん」「だってなぁ」 2人の笑いは止まらない。笑い声はむしろ高らかになっている。「………お、まえらぁっ!!!」 朱鷺風の怒りは更に煽られ、騒がしい状況に成り果てていっている。(……なん、何だよ) 常なら朱鷺風に賛同をし、噛みついているであろう緋深は、この朱鷺ばかりは飽和した頭でさえ感じる違和感に気を取られていた。 緋深は守人のできそこないだ。半分しか守人の血がない、半端者である。それゆえに歩んできた人生は深く、暗いものばかりだ。朔夜と出会い、それを通じて出会ってきた人々は皆緋深が戸惑うほど普通に接してきた。だが、彼らは人の上に立つ“貴の者”だ。穏やかで優しい時間の中であっても『やはり上品』というか、けたたましいとはほど遠い空間だった。それにその空間の中でも、主に『害をなしかねない者』という札を貼り付けられ緋深は彼らの部下から監視されていた。 だからだろうか。目の前のような騒がしいくせに和やかなことなど、今までなかった。 このような『普通』な状況に、緋深は戸惑うしかない。できない。獅吼達と出会ってから感じていたことだった。だが、曖昧でぼんやりとしていたので無視ができていたのだ。けれども、このように騒がしいほど賑やかな状況で、はっきりと戸惑いが輪郭を持ってしまい、取り扱いに困ってしまう事態になってしまった。「てめぇも、何か言えよ!……って、おい?」 援護を要請しようとした朱鷺風がきょんとした表情で、こちらを見ている。よほど間抜けな顔をしていたのであろうか。緋深は思わず顔を手の甲で軽く擦り表情を正した。 朱鷺風は呆れたように、気が抜けた顔になる。涼と獅吼は何故か、背中がむずむずするような和やかな光を秘めた目を細めている。「………はぁ……行くぞ」 朱鷺風は襟元を掴み、そのまま力任せに緋深を引っ張った。 ぐん、と急に力がかかり転けそうになるのを必死に堪えながら、緋深は怪訝そうに、引きずりながら先を行く朱鷺風の後頭部を見た。茶色味の強い、短髪しか見えない。 武道者として実力があるであろう朱鷺風だ。視線に気が付いていないわけではないだろう。 だが決して、朱鷺風は振り返らなかった。
2007年01月02日
音もなく、若い男が目の前に降り立つ。木から飛び立つ音も、雪に降り立つ音もしなかった。空間を渡ってきたかのように、いきなり目の前に現れたのだった。 雪上に、高さのある場所から飛び降りたというのに、粉雪一つ舞っていない。ありえない、と緋深は頭痛のようなものを感じつつも、怪訝そうに目を細めた。 緋深は、若い男を注意深く観察する。 若い男は、どちらかと言えば痩身だった。巫山戯た恰好の、もう一人の男と比べると、であるが。すらりとした、という言葉が似合いそうだ。だが、黒を基調とした、洋装にも似たすっきりとした形の服の下は、引き締められた体だろう。緋深は直感でそう思った。鍛え上げられた体でなければ、あのような動作ができるはずがない。 粉雪一つ舞わさず現れるのは、雪が踏み固められた場所であるならば、可能なのかもしれない。だが高さのある木の上からは、薄闇を纏い始めている空の色で染められた雪の凹凸などわかるはずがない。少なくとも常人、いや緋深でも無理である。地に足がついている今の状態でも、どれだけ目を凝らしても判別が難しいほどだ。雪に馴染みがないからなのかも、しれない。だが雪に慣れているからと言って、可能なものなのだろうか。 訝しげに目を細めていると、若い男は静かに笑った。涼やかな容貌、と言うのだろうか。目を細めるだけの動作であったが、容貌と一致しているからか様になっている。(何なんだよ………) 何故そのように笑われるかわからない緋深は、少々たじろぐ。 ……緋深は、知らなかった。まさかあの女性が、この男に緋深のことを『小さな狼、まだまだ犬のような』のようである、と告げているとは。警戒心を剥き出しに威嚇するように睨み付けたり、からかわれキャンキャン吼えている-実はこの男、しばらく状況を静観していた-姿に、「ああ、言い得て妙だ」と思われているなど。 若い男は、緋深から視線を外し二人に向かい、軽く諫めるような口調で声をかけた。「まあ、それぐらいにしておいたらどうだい?」「涼【リョウ】!」 これが若い男の名前なのだろうか。咎めるように呼ばれ、軽く肩を竦めている。「まあ、彼らにどんな事情があれ、村に連れて行くことはすでに決定されているんだ。その話は後でゆっくりと聞けばいい」「けどなっ」 言い募る少年に、涼は静かな声で、断言した。「氷翠が、決めた。ならばそれが村の決定だ。村は彼らを招き入れる」 少年は舌打ちをしつつも反論はしなかった。(“あまい”のか?) 自身が置かれている立場だと言うのに、客観的にそう思う。緋深は、比較的少年の意見に賛成なのだ。 客観的に見ると、緋深と朔夜は『怪しい』だけではなく『危ない』存在でもある。なのに簡単な誰何だけで招き入れようとする。あまりにも無防備だと、招き入れる立場である緋深でさえ思う。 だがそれは違うのだろう。 もし仮に“何か”があっても、事後処理で充分対応できる、と思われている。緋深は直感的にそう思った。彼らは緋深や朔夜が村で狂乱を巻き起こそうとしても、その場で始末できるだけの力があった。何か不審な行動があれば、村人を傷つけさせる前に、殺せるだけの。緋深からすれば悔しいが、それこそ一矢報いることもできずに、できるであろう。その自信にも似た自負が、無防備にも取れる行動を引き起こしているのかもしれない。 砂を噛んだような苦々しさに眉を顰めている緋深を一瞥した少年は、涼に向かって顔をしかめつつ尋ねた。「というか、涼。なんでてめぇ、こんなとこにいるんだよ」「君こそ」 少年は、黒こげた地面を指さしつつ答えた。「俺は“あいつ”の術が発動したようだから、様子見だ。侵入者かと思ってな。で、お前は?」「氷翠の命令だよ。君と一緒にいる少年を連れてきてくれ、ってね」「おいおい」 君、と指さしながら言われた男が、大げさな動作で“ちょっと待った”と口を挟む。「何でまた?俺がいるってぇのに」「だからじゃないのかい?」 にこやかに、さらりと酷いことを涼は言った。少年もうんうん、と頷き納得している。流れるような動作で自然に涼は人差し指を緋深に向けた。いきなりでつい構えをとりそうになった緋深を見つつ、呆れるように涼は呟きのような声を漏らす。「酷い凍傷を負っていると言うのに…いつまでもここで、遊んでいちゃ駄目だろう?まぁ、氷翠はそこまで見通していたようだから、僕を派遣したんだろうけど」(大正解。良い判断。ありがとう) 緋深は嬉しいような、悲しいような気分で、女性に感謝の意を取りあえず心中で捧げた。女性-きっと翡翠と言う-の洞察眼は、素晴らしいものである。だが、そこまでわかっているなら、できれば男と置き去りにしては欲しくなかった、とも思ってしまうのは、我が儘なのであろうか。「で、獅吼【しこう】。彼の名は?」「あ?」「“君”や“彼”、では呼びづらいし、分かり難いだろう?」 涼に尋ねられた男は、数拍反復し、-にやついた-笑みを消さずに緋深に尋ねた。「そう言やぁ、知らねぇな。で、お前、名前は?」 緋深は半眼で男を見た。涼と少年も呆れたような仕草で男を見ている。 お互い様ではあろう。聞く暇がなかったと言えばそうでもある。だが、あまりに初歩的なことを忘れていたと言わざるえない、というもの事実だ。 男以外のこの場にいる人間の気持ちを代弁するように、涼はため息混じりの声で尋ねた。「何をしていたんだい、君は?名も聞かないなんて…」「『はじめまして、獅吼だ。どうぞ、よろしくな。それで、君の名前はなんて言うんだい?』ってか?」 戯けたように、大根役者のような演じ方で男が言った言葉に、緋深はぞわりと悪寒を感じた。獅吼、と言うらしい男と-嬉しくないが-出会って、まだ数刻も経っていない。だがあまりにも似合わないことで、気色悪いことだというのは、分かった。良かった。そんなことをやられずに。緋深は心底思う。 悪寒を感じたのは、緋深だけではなかったようだ。少年が腕をさすりつつ、顔をしかめつつ獅吼を怒鳴りつける。「獅吼、て、めぇ!…気色悪いこと言うなじゃねぇっ」 じゃあ、どうしろって言うんだ、とからかうように男は言うが、緋深は少年に賛同である。何が悲しくて、刺すように冷たい風に耐えている最中に、悪寒を走らされなければならない。 涼は獅吼や少年を放っておいて話を進めることにしたようだ。五月蠅い外野を無視し、緋深に向き直り声をかけてきた。「涼、と言う。あっちの派手なほうが獅吼で、小さいほうが朱鷺風【トキカゼ】だ」 小さい、と言う単語に反応した朱鷺風の怒鳴り声も何のその、という態度で涼は、君は、と尋ねる。「……俺の名前を聞いても、身元はわれないぜ?」 涼が柳眉を動かしたその一瞬を、緋深は見逃さない。身体に染みついた習性のようなものが見逃すことはなかった。 生意気な子供、と思っているのか、図星を当てたのかまでは判断できない。それほどのほんの些細な動作であった。 だが緋深は警戒をしての言動ではないので 本当に身元などないのだ。ならば素直に返答すればいいが、それはそれだ。侮られないため、などの理由もある。だが一番は勿体ぶりたい、とも思うのだ。緋深は、自分の名に絶対の魅力を感じているのだ。今のところ“一番の宝”と言っても過言ではないそれを、見せびらかしたい気持ちが抑えられない。「……緋深、だ。深い緋色で、緋深」 笑みを湛えつつ、どこか喜色を混じらせた緋深に、好奇が混じった怪訝気な視線が向けられた。「そりゃまた……“分かり易い”な」「そうだな」 獅吼の言葉だが、緋深はこの時だけは不快感を感じなかった。生理的反発を上回るほどの想いがあるのだ。にっ、と余裕な笑みを向けた。「“あいつ”が、言ったんだ。深紅じゃなくて、優しい緋色だって、な。嫌いな“血の色”じゃなくて、好きな“紅葉のような色”に見えるから、だってさ」 あの白く細い指先が、一度だけ頬に触れた瞬間を緋深は思い出す。半ば騙され酒を摂取したからか、真っ直ぐに視線を合わせつつ、ぼんやりと惚けたように呟いた朔夜の声を聞いた、あの初めて得た歓喜の瞬間を。『コキアケ色、をご存じですか?深いに緋色の緋。そう書いて深緋【コキアケ】色と読みます。茜の下染めに紫根を上掛けした、紫みの暗い赤を。緋の色甚だ深くして黒くなりたることを。それが深緋色ですわ。猩々緋【ショウジョウヒ】色のような、血に似た色である雰囲気を纏う貴方が、朔夜と関わることで変わることを願い、貴方を緋深【ヒシン】、とこれから私たちはお呼びいたします。深緋のように黒くなりうるのではなく、白くなりうるように、深緋を逆に書いて、緋深、と』 穏やかで優しい音色で、稟とした芯を覆い隠している女性が、朔夜の言葉を用いて付けられたのが、緋深の名であった。「単純でも、何でもいい。けど、この名は俺の誇りだ。汚すことや、貶めることはぜってぇ、許さない」 誇らしげに笑う緋深に、様々な意味合いが含まれた視線が送られるが、全てあえて無視をした。(……会いたいな) 早く、速く、朔夜に会いたい。先ほど離れたばかりなのに、心だけが急く。雪にまみれ震え、凍え弱っているている姿ではなく、日溜まりの下で戸惑いながらも微笑む、あの姿に。 想いに浸っているこの最中だけは、凍傷の辛さも何もかも、忘れられるような気がした。
2006年12月30日
「お前、村の者じゃないな。誰だよ」 少年は緋深を真っ直ぐな視線で捕らえる。射抜くように強いが、そこに守人の血が混じっている緋深への侮蔑や恐怖はない。 ただ、最後の誰何は緋深にではなく、男に向かってのようだ。少年の視線を受け、男は戯けたように肩を竦めている。「先生の“悪い癖”の産物だな。野良猫みたいで、可愛いだろう?」「また拾ったのかよ……信じられねぇな」 再び突き刺さる少年の視線に、微量の殺気を緋深は感じ取った。警戒をされているのだ。 木から滑り落ちるように滑らかに動き、軽やかに着地をした少年の身のこなしを、緋深は思い出す。着地した際も、すぐさま次の動作に移れることが前提された、完璧な動きだった。それだけでさえ、この目の前の少年が強いことは簡単に判明できる。そして、微量でさえ、肌が粟立つような殺気に、少年の手に取り付けられた年期の入った手甲が、更に緋深の憶測よりも少年は強者であることを知らせる。 緋深と同じ、体術の使い手のようだ。しかも動きから推測するに、古武術である。緋深の我流とは違った、伝統と、先人達からの技の極意を受け継いでいる、正当な流派がある古武術だ。 緋深はつい反射的に微量な殺気に反応し、少しずつ後ずさりつつ距離を取った。少なくとも相手の攻撃の第一撃を避けられるように。それは生来的よりも、習得的に身に付いた行動だった。 警戒心をむき出しにした緋深の行動に、少年はふん、と鼻で笑い飛ばした。小物だな、と思ったのだろうか。『この程度なら、安心だ』と言わんばかりに緋深から視線を逸らし、男に体ごと向き直る。 莫迦にされている。もしくは取るに足りないと思われ、見下されている。 あまりの態度に緋深は眉を跳ね上げるが、すでに少年は男との会話に専念していた。「あいつも、懲りねぇよな。猫が欲しいなら、本物拾ってこいよ」「いいや。只の猫より、こいつの方がつつくと面白れぇ。つくづく先生は良い拾いものしたぜ?」「そうかぁ?」「ああ、何たってもう一匹の小動物と一緒に置いていると、すげぇいい反応するからな」「小動物?」 所々-なんてものではないが-聞き捨てならない会話である。その最中、呆れ果てたように眉を寄せたり、訝しげに目を細めたりと、少年の表情はころころと変わった。素直に、顔にでる。一瞬、緋深はそう思った。だが、同時に妙な違和感を感じる。 緋深にとって、素直に顔に出る人間、と言えば朔夜である。何一つ言葉にしないくせに、表情で、瞳で雄弁に語りかけてくるのだ。緋深を拒絶する感情も。その奥にある、本人は隠し通せていると思っている緋深への親愛に近い感情も。 朔夜と比べると少年の表情は、どことなくだが不自然な感じがするのだ。少年の表情から感情が読みとれるはずなのに、どうも雲を掴んでいるようだ。目の奥にある、心が読みとれない。 朔夜という特例と比べているからの、違和感なのだろうか。 一見訝しげな少年に、男は喉の奥で笑いながらもったいぶるように間をおいて、答えを口にした。「ああ、あれは間違いなく小動物だ。兎…猫…まあ、そこらへんの、銀色の毛並みをした、ふるふる震えるちっこいやつ、だな」「なっ………銀色、って。守人かよっ!!」 少年は本気で驚いた表情で叫び、ありえない、と何度も呟いた。狼狽しているようにも見えたが、それは一瞬で、少年はすぐさま男に食いかかった。「何考えてんだ、氷翠のやつ。しかも今回は、寄りによって守人と、守人擬きだって?何で、止めなかった!」「しょうがねぇだろ?…手負いの迷い子だ。先生は放っておける性格じゃねぇだろ」「だぁああっ!!どんな状況でも、五月蠅いだろうが、“あいつら”はっ!」 肩を竦める男に苛立ちをぶつけるように叫びつつ、新雪を踏みにじるように地団駄を踏む。忌々しい、という感情をむき出しにして、だ。(……これは、心からの感情、なんだろうな…) ぼんやりと、だが冷静に思った。どこに、どう口を挟めばいいのかわからず、ただ傍観者に徹するしかないのだ。緋深は木にでももたれ掛かりたいな、と思いつつも、立ち竦むように微動だりしない。動くことで体力の消耗をしたくないからだ。「冗談じゃねぇっ。“あいつら”、氷翠に苦言を突っぱねられ、しばらく陰気を撒き散らすんだ。ああ、鬱陶しいっ!」「まあ、気持ちは分からないでもねぇな。先生は、一度こう決めたら絶対譲らなねぇからなぁ。折角、先生を思って忠言したのにけんもほろろに、だ。報われねぇよな」 うんうん、と自身の言葉を自身で肯定するように頷く男に、少年は大きく舌打ちをする。否定しきれないのだろうか。それ以上少年は、男に対して言い返しはしなかった。 少年は頭をかきむしるかのように、がりがりと掻きつつ、緋深に視線を移した。「で、お前!」「は?」 いきなり話しかけられ、緋深は目を瞬いた。まさか急にこちらに矛先が向くとは。自覚はなかったが、少々気が抜けてしまっていたようだ。間抜けな返答をしてしまう。「お前だよ、お前。そこの『守人擬き』」「なっ?!」 あまりな言いぐさに緋深がぎょっ、とするのも構わず、少年は捲し立てるように言葉を続けた。「お前、連れが『守人』なら………そいつは『はぐれ』なのか?」 はぐれ、とは主を持たない、という意味なのだろう。色々と言いたいことが緋深にはあるが、ぐっと耐えつつ小さく頷いた。頷くとすぐさま、射殺すような強い視線が突き刺さった。視線で緋深を縫い止めつつ、問いかけられる。「なら、『主』は死んでいるなだろうな?」 少年の心配は当然だった。『主』は『守人』にとっては、『絶対』だ。絶対服従なんてものではない。そんな生ぬるいものではない。主に死ねと言われれば、躊躇無く死ねる。主の言葉を微塵すら疑わない。言葉にすれば簡単だが、実際には不可能に近いことをやってのけるのが守人だ。 もし主が命じれば、守人は躊躇無く、恩人である禁足地の人間を殺す。敵わないとわかっても、手足がもげ、内臓をはみ出したままでも、何としても完遂しようとする。 その危険性はないのか。 少年はそう問いかけている。 禁足地では何も、問われない。女性はそう言っていた。少年の態度はその言葉を裏切るものだ。 だが、緋深は少年の態度を不快に思わない。むしろ当然と思った。禁足地や、あの女性、村人を大切に思っているならば、必ず確認しなければならないことだ。「生きている」 緋深の返答に、少年も男も小さくだが眉を跳ね上げた。男も朔夜を『はぐれ』だと思っていたのだろう。でなければ守人は主から離れるわけがないのだ。 何か、命令を受けていない限り。「お前が、『主』か?」 探るような視線に、緋深は首を横に振ることで否定をした。 少年から発せられる殺気の濃度が、少し増す。 緋深は動じず、ゆっくりと言葉を紡いでいく。「朔夜の、主は生きている。今も。けど、朔夜は主の下には戻らない。絶対、戻らせや、しない」 一言一言を噛み締めつつ、宣言するように告げた。 だが、緋深の宣言を冷静に、残酷に指摘される。「お前の、願望だろう。それは」 そうなのかもしれない。 確かに願望も、混じっている。 けれど。「違う。願望じゃない」 冷ややかな視線と、どこか面白がっている視線に晒されながらも、緋深は笑った。自分が思う以上に、何故か冷静だった。 願望には、ならない。何故なら主が朔夜を取り戻しにきて、渡すつもりは毛頭ないからだ。そのような状況になったならば、主を、緋深は殺す。どうしても無理ならば、奪われる前に、朔夜を殺しかねない。あの『莫迦』にだけは、朔夜を決して触れさせてなるものか、と心底思うのだ。願望という言葉で、今まで隠し通していたこの狂気に似た想いは表せられない。 だが、それは目の前の人間達には関係がない。公言するつもりもない。 少年達の懸念していることを払拭すべく、言葉を重ねた。「朔夜は、異質な守人だ。『主』を恐れ、脅え、そして今は逃げてる」「……確かに守人にしちゃ、あり得ない行動だな」「ちゃんと、その『主』が最初の、だ」 稀に、本当に稀に守人は『使い回し』にあうことがある。その際、守人は後者の主に対して、どうしても捧げる崇拝に似た感情薄くなるのだ。 その点の心配はない、と緋深は念を押す。そして少年達を納得させようと、更に言葉を繋ぐ。「朔夜は、大丈夫だ。あの『莫迦』の命令を鵜呑みにし、行動しない。てか、できない」「……守人が、か?」 少年は訝しげな声である。当然だ。守人が主の言うとおり行動できないなんて、守人失格も良いところである。 怪訝そうな少年の心情など知ったことではないし、何より『莫迦=主』と‘きちん’と解釈されたことに緋深は内心、少し気をよくしていた。「守人が、だ。ま、朔夜が例外中の例外なんだろうけど…朔夜は、あの莫迦を視界に入れると、呼吸困難、思考停止、発作が起きたように震え、精神崩壊に向かって歩み出すからな」「は?」「そんな状態じゃあ、いくら命令を受けても、実行できないし。何より命令が耳に届いているか、理解できているかすら怪しい」「何だそりゃ…」 少年と男の少々呆気に取られた表情に、緋深はまあ、妥当な反応だな、と思った。そして、男も妥当な反応をするものなのだな、と妙な感心をし、驚かせれたことに妙な達成感さえ感じた。「へぇ。“彼女”も変わった守人だと思っていたけれど…上には上がいるものだね」 頭上から、若い男の声が降ってきた。 緋深は、内心驚愕したが、あえて何も行動はしなかった。(……どうせ、お仲間だろう?) ならば慌てふためくだけ、体力の無駄である。 それにしても--『禁足地』では、木の上にいるのが、格好良く木から“降って”くるのが流行りなのだろうか。 だったらやだな、と思いつつ、緋深はため息を吐いた。
2006年12月28日
白煙を立てつつ、雪が溶けている。溶けた場所から、雪に覆われていた地面は焼けこげつつも姿を現した。有機物が焦げた独特の匂いが、静寂が支配する雪景色の中、異様な存在感を誇っている。(一体何が起こったんだ……?!) 緋深は座り込んだまま、呆然と目を見開き、黒こげの土を見つめた。あまりにも非現実的すぎる光景に、脳がついていかない。 一瞬の出来事だった。 男が楽しげに言葉を吐き出した瞬間、視界を埋め尽くすほどの閃光が急に炸裂したのだ。閃光に少々遅れ、轟音が追いかけてきて、目についで耳を潰した。さすがの緋深も、五感のうち、二つを潰されては、事態の把握が難しかった。 は、と緋深は顔をあげ、この事態の原因であろう、男を見つめた。男は飄々とさえしつつ、この事態を当然のごとく受け入れているようだ。 男は、人差し指と中指で挟んでいた、黒こげになった縦長の紙切れを風に乗せるように、はらりと地に落とす。風で、ふわり、と何度か浮いては沈みつつ、ゆっくりと紙切れは白い雪の上に乗る。黒こげの紙は、炭の役割を果たしているのだろうか。落下地点の周囲の雪を、小さく黒く染めていく。「ったく。容赦ねぇな、相変わらず。せっかくの符が、台無しだ」 せっかくの、と言いつつも全然堪えてないようだ。喉の奥で、笑っている。言葉にまったく信用性はない。「……何だよ、今の……」「ん?ああ、『悪口』を聞きつけた何処ぞの術師が、警告代わりに雷を一発落としただけだ」「……だけ?」 緋深は、訝しげに言葉を返す。 雷、とは何事か。雷など、人に操れるものではない。それをたかが悪口の警告のためだけに『落とした』となれば、緋深の中で猜疑心が膨れあがる。「ま、見かけは派手だが、死にはしねぇだろうよ。符一枚で、防げる程度だしな。ま、『悪口』に対する警告だ。こんなもんだろう」「…………」「“あいつ”が本気を出せば、今頃二人揃ってお陀仏だっただろうからな」(何なんだ、そいつはっ…あんたらはっ) 喉の奥で愉快気に笑う男に、緋深はそう叫びたかった。 あの雷は、落ちた場所から推測するに、男に当てるつもりで撃っていた。男はああ言っているが、下手をすれば、死んでしまいかねない。容赦も、躊躇いも一欠片すらない攻撃だった。少なくとも緋深にはそう見えた。 男の口振りからすれば、『術師』と知り合い程度の関係はあるのだろう。すくなくとも顔見知り以上だと推測できる。男の声には、僅かだが親しみのようなものが含まれていたのだ。「ありえないだろう……」「何がだ?」「雷って……」「あいつにかかれば、雷の一つや二つ落とすのは簡単だぜ?まだ可愛げのある、生ぬるい攻撃の分類だしな」「………」 どこが。 即答したくとも緋深はもう、呆れるやら、諦めやらで声もでない。(こいつらに常識を求めるな。いちいち気にするなっ、考えるなっ!!) 緋深は必死に、何度も同じ言葉を繰り返し、自分を納得させる。 小さく、だが深く数度ため息に似た深呼吸をし、緋深は脳内を整理するために、男に向かい口を開いた。「あんた、どうやって防いだんだよ」「ん?ああ、この符でな」「ふ?」 懐から男は、縦長の紙切れを取り出した。真っ白な紙に、墨で古い漢字と不可思議な模様が描かれている。形状は把握はできるが、使用方法はさっぱり検討がつかない。 怪訝そうな緋深の視線に気が付いたのか、男は人差し指と中指で挟んだ紙切れを揺らしつつ、にやりと笑った。「これが『符』だ。俺は符術師なんでな。符さえあれば、大抵のことはできるぜ?」(………お前もかっ) 男もまた、不可思議な技を使う者なのか。(何たってこいつは…さっきの女性といい、こいつといい、術師とやらといい……この禁足地の人間ってのは皆こんなんなのかよっ……何で、こんなっ……) 緋深は守人の血を半分引いており、常人よりも突出した身体能力を有している。その緋深ですら、彼らは驚異的に思ってしまう。 だが、そこに嫌悪も畏怖の念もない。ただ緋深が彼らを見て思うのは、憧れであった。いや、ただ純粋に羨ましいと思う。守人を凌駕しかねない力。それは今、喉から手がでるほど欲しい力だ。 それさえあれば、もっと上手く朔夜を助け出せる。もっと優しく包み込むように守れる。 なのに守人という驚異の血を半分も持っている自分にはできない。力を得られない。それが歯がゆくて、仕方がないのだ。 だから、余計目の前の男が腹立たしい。性格的、生理的に合わないのは前提としてあるが、それ以上にこの一見巫山戯た男が、緋深がまだ手が届かないものを持っているのが、理不尽に感じてしまう。 そして、そうを感じることに己の未熟さや幼さが垣間見てしまい、更にどうしようもない気持ちに陥る。 鬱屈とした気分を振り払うように、緋深は口を開いた。「……何で悪口如きで、雷が降ってくるんだよ」「まったくだな」「…やりすぎじゃないのかよ?……」「そうだな、まったくだ」 緋深と同じ立場のように、そう、常識の範疇にいるような-緋深も人のことは言えない。だが目の前の男と比較すると緋深は範疇に立派に入る-発言を、男は口にする。図々しいことだ。「…………人のことはまったく言えないくせに」 なのでつい口にしてしまった。それは小さい声だったが、男は耳ざとく聞きつけたようだ。右手で緋深の首根っこを掴み、左手の握力をふんだんに使い締め付ける。「何か言ったか?」「っ…いてでててぇ!!」 痛い。半端無く痛い。 頭部に男の節だったごつい指が食い込み、そのまま型が残ってしまいそうである。只でさえ混乱と困惑で脳が粘土のように、形を留めていないのだ。指の跡が残っても不思議ではない、と真面目に緋深は思った。冗談ではない。 男に抗うが、力量の差がそれこそ天と地ほどあるが上に、緋深は今は手負いだ。勝てるわけがない。「離しやがれっ!!」「その前に、言うことがあるよなぁ?」「ふざけんなっ!」 男は楽しげに呵々と笑う。何が楽しいのか、まったく緋深には理解できない。目の前の男は、尽く人の逆鱗を楽しげに逆撫でする、不貞不貞しい男でしかない。それ以上の理解などする気はなかった。 下手に近寄ると、こちらまで深入りされる。それを緋深は避けたかった。 緋深の心に踏み込んでくるのは、朔夜と、朔夜を取り巻く彼女を愛情を注ぐ人物たちだけでいい。その人数だけで、緋深の許容量は今、いっぱいなのだ。余計なものなどいらない。「おい」 ふと、声が空から落ちてきた。声と共に男の指の力が、急に抜ける。緋深は男の手を振り払い、後方へ飛び、距離を置いた。 頭を後ろに反らせるように、空を仰ぐ。左右に視線を移すと、木の葉が揺れている針葉樹があった。「獅吼。だれだよ、そいつ」 声と共に影が木の上から落ちてきた。誰も踏み荒らしていない新雪の上に飛び降りたせいで、粉雪が宙に軽やかに飛ぶ。幾多の小さな雪の欠片でできた帳の向こう側に、千草色を基調とした道着姿の少年が立っていた。 皓国では少し珍しい、明るい茶色の癖のない短髪が、緋深の目を引いた。色に気を引かれたのもあるが、実際は木を見上げていた角度から、少し斜め上に面を上げたときに丁度いい位置に頭があったからにすぎない。背丈は緋深よりも、少し高い。小作りな印象を受ける顔を、訝しげにしかめ、こちらを睨み付けるように値踏みしている。「お前、誰だ?」(また……増えた。増えやがったっ) 一見普通の少年だが、『禁足地』のお仲間なのだろう。緋深は、ひしひしと、やはり朔夜に意地でも着いていけば良かったと、切実に思った。------------------レポート終了後の、妙なハイテンションで書き上げたものなので後日訂正する可能性があります……ご了承下さい
2006年12月19日
幾重にも漆が塗られた艶のある碗を軽く揺らすと、とろりとした液体が音を立てて跳ねた。湯気からは芳香が溢れんばかりに漂い、緋深の鼻をくすぐった。とても美味しそうな粥が、食べてくれ、と訴えてきている。だが、緋深はどうにも食べる気にはなれなかった。 胃は先ほどの汁物で食事の準備を整え、今すぐにでも、と訴えてきている。だが緋深にとってその訴えよりも、後頭部に突き刺さる視線に含まれる訴えのほうが比重は重く、気にかかるのだ。「さ…朔夜?」 なるべく笑顔をつくりつつ-したつもりがどうしても張り付けたようなものになってしまった-、どうしたんだ、と緋深は首を傾げながら、朔夜の目を見つめながら尋ねた。だが、朔夜のほうが不思議そうな表情で小首を傾げている。「えっと……な。どうしたんだ?」「?」「……じっと見て無くても、ちゃんと食べるから、さ」(だから凝視するのを、止めてくれ) 表面上は苦笑しつつも、内心では懇願したいほどだ。朔夜の真っ直ぐな視線は、気になってしかたがない。 心配し、様子が気にしてくれている。そのことは胸の奥底から温かい気持ちが溢れ、満たしていく。この暖かさに包まれ、思わず口元が綻んでしまうことが『幸せ』という定義ならば、緋深は確かに『幸福』である。それは間違いなのだが。 緋深は他人の視線など、気にする方ではない。気にしても、しかたがないのだ。自身が目立つことなど、緋深は先刻承知である。いちいち嫌悪や侮蔑の視線を相手になどしてられない。だが、朔夜の、という形容詞が視線につくと、事態は変わってくるのだ。 朔夜はいつもこれでもか、というほど避け、逃げるくせに、視線だけはふいに、真っ直ぐに投げかけてくるのだ。何かを伝えたいときだけは、いつも逸れ、伏せられる瞳を、しっかりと開けて。その視線は緋深を捕らえ、逃がさない。透明な紫色は、緋深が知っている中で一番綺麗だと思えた色である。つい魅入ってしまう。だから緋深は朔夜の視線が愛おしいと同時に苦手なのである。 昔、つい本音を口にしてしまった際、聞いていた之推は大笑いしたものだ。『お前は……本当に儚月の姫君に盲愛だね。お前にかかれば、姫君には欠点一つなくなってしまうよ』 悪いか。緋深は即答した。胸を張り自慢するのではなく、当然のことだ、と声一つ変えることなく。『欠点ごと愛せているのか。欠点がないと思えているのか』 あきれ果てたような之推に、緋深は内心嗤ったものだ。 朔夜に欠点など、両手で数え切れないほどある。だが欠点を見つめていても嫌いになれない。欠点がありすぎると分かっていても、気持ちが微細も動かないのだ。これは、『欠点ごと愛している』のではない。『欠点すら愛しい』のだ。朔夜の欠点には、どれも腹立たしいさや悔しさを味合わされてきたが、その発生の理由を知ってしまうと、途端に慈しみたいものに変わってしまう。 自分でも、相当狂っていると思いつつも、もう仕方がないことなのだ。緋深が緋深となれたのは、朔夜と出会えたからなのだ。その代償が、この狂いならば、緋深は歓迎して迎え入れるだろう。たったそんな代償で、得られるのならば、安いものだ。「緋、深……?」「…………食べるから、ちゃんと……だから、な?」「???」 きょとんとした瞳を見て、緋深はがっくりと肩を落としつつ、諦めたようにため息を吐いた。首を直角を曲げそうになるほど、朔夜は疑問符を頭に浮かべつつ傾げている。緋深からしてみればたまったものではないであろうが、第三者から見れば、まったく微笑ましい光景だ。 その穏やかな光景の目撃者となった千波は、目を和ませ、楽しげにくすくすと笑った。おかしな沈黙を纏い見つめ合っていた子供達は紛れ込んだ音に、揃って視線を向ける。一人は憮然と、一人は困惑気味に。「ごめんね」 千波そう言いつつも、口元と目元はまだ笑みを湛えている。「ほら、緋深君。食べなきゃ。彼女も心配し続けなくちゃいけないし。ね?」「………」 緋深はむすりとしつつも、碗を傾け、食事を始めた。朔夜の興味、もとい意識の対象が増えたことで、ようやく視線から解放されたのだ。この機会を逃す手はない。「……君は、朔夜ちゃん、でいいんだよね?」 千波が、朔夜に話しかける。緋深が何を気にし、食事を出来なかったのか、正確に把握しているようだ。それはそれで、緋深からすればもどかしい思いもあるが、正直ありがたい。朔夜は見知らぬ人にたじろいではいるが、千波の外見とは正反対の、穏やかで暖かな、人をほっとさせる雰囲気のため、脅えてはないようだ。それを確認した緋深はゆっくりと碗を傾けた。 少しずつ、慌てずに口に含み、ほとんど汁状の粥をよく噛み砕く。すりつぶすようにし、そしてようやく胃に流し入れる。その悠長な行為を緋深は、黙々と繰り返した。胃が速度を速めよ、もっともっと、と指令をだすが、無視をして。体の負担を考えると、そのような指令は到底聞けないのだ。(本当に………千波、ってやつが朔夜の気を引いててくれて、良かったよ) 少しずつ胃にものが溜まる感触に、緋深は軽くため息をついた。朔夜があの調子のままなら、緋深は一気飲みをしかねなかったのだ。瞬間的に食事を終えるために。後で胃の中で食べ物が大暴れしようと、胃が負担に叫びだそうと。 ふと、視線を朔夜と千波に向けた。「朔夜ちゃんは、幾つ?12、13ぐらいかな?」「………」「そっか。緋深君もそれぐらい?もうちょっと年上?」「………」「そうなんだ。あ、体は大丈夫?辛いところはない?」「………」「良かった。何か、必要なものがある?あったら何でも言ってね」 声だけを聞いていると、会話は成り立っていない。千波からの一方通行のものである。だが、朔夜は小さく、だがきちんと首を縦に振り、横に振り、千波の問いに答えていた。 珍しい光景だ。朔夜が初対面の人間と接触が持てている。緋深はざらりとした感情が、胸の奥で生まれそうになるのに気が付いた。だが、よく考えてみると何てことはない。(………あの、うろうろ彷徨っている瞳。そうとう内心動揺して、混乱してるな) 朔夜からしてみれば、袋小路に追いつめられているようなものなのだ。 体はまだ自由に動かない以上、逃げられない。小さな敷布の中、隠れられる場所もない。自然と千波と対面しなければならなくなり、……自分に大きな優しさを降り注いでくれようとする人物を、正面から朔夜は拒絶できないのである。 朔夜らしい、弱く、脆い、卑怯な部分だ。緋深はそう思った。 朔夜が逃げる理由は簡単だ。傷つけたくないから。自分と関わってはいけないから。そして『他人を傷つけたくないために、あえて傷つける』という矛盾を飲み込めるほど大人でも、賢くもないからだ。朔夜は自身といることで他人に大きな災厄を呼び寄せるとわかっている。けれどその為に、相手を遠ざけるために、小さな傷をつけることも厭うのだ。自身がだれ一人として、傷つける権利など持っていないと思っているからでもあろう。 覚悟がない、と言ってしまえばそれまでだ。嵐で大怪我を負うことと、擦り傷を負うこと。どちらが辛いか、といえばどう考えても前者である。合理的な判断をすることで、後者だけですむのであれば、そちらを取るべきだ。嫌われることなどの、覚悟を決めて。だが、嵐は肉体的に負う怪我で、擦り傷は精神的に負う傷なのだ。精神的な傷は治ることなく、いつまでもあり続け、下手をすると膿んでいく。それを良く知っている、知りすぎている朔夜はどうしても、擦り傷すら相手の心に負わせることに躊躇する。胸の奥で膿む傷跡が疼いてしまうのだ。相手が傷つくぐらいなら、自分が負うほうが良い。その覚悟は簡単にできたというのに。まったく、朔夜は矛盾しているとしか、『変』な存在としか言いようがない。 だが、その弱さと矛盾が、辛うじて緋深や、その他の人達との接点を作っている。ならば緋深はその弱さにすら感謝したぐらいだ。これ以上、これ以上避けることを徹底されてしまうと、朔夜は本当に消えてしまうのだから。 仮に、その弱さや脆さ、卑怯さに、文句や批判する者がいたら、緋深は真っ向から対峙し、叩きのめすであろう。予想であるが、確実な未来だ。「何一つ禍のない、平穏な日々に浸っている奴が、朔夜の何を知って批判する!朔夜の何を知っている!13の子供に何を求める、ってんだっ!!『完璧』な強さか?!守人だから強く、揺らいではいけないのか?朔夜が弱さや脆さを持っていてはいけないのかよ!それは朔夜に『人形』になれ、『死ね』といっていると同義語なんだぞっ!!その弱さも何もかも引っくるめて、朔夜なんだろうがっ」 緋深は碗を傾け終わり、飲み干し、立ち上がった。栄養が少しだが吸収されたおかげか、先ほどより足取りが軽い気がしつつ、迷い無く朔夜達のほうに歩み寄った。「……なんかもうちょっと、腹にたまるもの、欲しいんだけど」 碗を無遠慮な仕草と声で、千波に突きつける。千波は憤慨するわけでもなく、ただ穏やかに嬉しそうに空になった碗を見つめた。「御些末さまでした…じゃあ、ちょっと待っててね?」 長い手足を器用に折り畳んで座っていたが、千波すくりと立ち上がる。意外と素早い動作に、緋深は少し驚きつつも、細長い指に碗を渡した。 朔夜は千波の穏やかな質問責め-とは言い過ぎな感もある。だが朔夜からすれば切実になのだ。長時間の会話(にもなってはなかったが)は-ほっ、と肩の力を抜いたようだ。緋深はそれを確認し、小さく安堵すると朔夜の近くに腰を下ろした。朔夜を寝かしつけようと思ったからだ。先ほどのような状態を回避するためにも。 朔夜が穏やかに眠り、緋深も食事を満足にとり、睡眠を取る。そして体調を整えて、これからを考える。 緋深が脳内で簡単な予定の筋書きを立てたときだ。 部屋から出ようと、障子を引いた千波と入れ替わるように、“影”が夕日を背負い室内に乱入してきたのは。「お?起きたのか、嬢ちゃん」「っ?!」 緋深は天敵の来襲に愕然とし。「……………」 朔夜は初めて知覚した、獅吼の煌びやかでけたたましい衣装に、呆気半分見取れたのであった。
2006年11月30日
チリチリと微かな音が之推の耳に届く。蝋燭の火が埃と空気を焼いている音だ。 之推は突き刺すような緋深の鋭い視線に、軽く肩を竦める。視線が知覚できるのであれば、熱を孕むものならば、之推はとっくに焼け焦げ、穴が空いていただろう。それこそ今、耳に聞こえる音と同じ音を立てながら。 不躾な視線を向けられることなど、之推にとっては日常茶飯事の出来事だ。不快だと思うこともなくなるほどに。けれど緋深の視線はどこまでも真っ直ぐで、新鮮な感じがするので悪くはない、とさえ思う。 之推はひねくれているわりには真っ直ぐな少年に向かい、目を眇めつつ口を開いた。「で、おおまかなことを聞いたって?どこまで『朧月夜の姫君』はお前に手の内を明かしたのかな?」「“おおまか”」「水掛け論をするきはないんだ。俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。お前のことだ。わからない、そういうことじゃないだろう?」 少し凄んだ口調で問いかける之推に、緋深は小さくため息を吐いた。凄く嫌そうに。「だから、本当に。別に、何も。計画がどういうものか。どういう筋立てなのかぐらいだ………あと何でそんな計画を考えているかも一応喋ってはくれたけど、抽象的な言葉すぎて、わけが分からなかったんだよ………ただ」「ただ?」「その中に、『贖罪』やら『罪』やら『成さなければならないもの』やら『望む未来』やら。聞いていて“オカシク”なったね」「へぇ?」 くっ、と唇の端を持ち上げ嗤う緋深を、之推は興味深げに見やった。確かにそれは之推も聞いたことがある単語の数々だった。と、いうよりも之推もそれしか聞いていないというのが正しい。 櫻妃を筆頭にした、それこそ数十年単位でこの計画を目論んでいる人間達は、皆“秘密主義者だ。そうでなければ長い時間をかけ、少しずつ包囲網を張り巡らせ、着々と計画への準備などできなかっただろう。祖父母から父母へ、そして子へ。謀略と策略を紡いで、計画の基盤を強固なものへと変えてきた。之推からしてみれば『ご大層』なこと、と拍手の一つでも送りたい。 一体何がここまで、『国の崩壊』を望ませるのか。之推には計り知れないことだ。下手をしたら、この計画には百年以上の刻がかけている。一体いつの代の櫻妃達の先祖が計画を打ち立て、どうやって曲がることなく、歪むことなく受け継がせたのか。どう考えても並大抵なことではない。 だからか、たった二、三十年前からの協力者の萱家にはまだあまり手の内が明かされていないのだ。緋深に明かされるわけがない。慎重なことである。(まぁ、別に萱家としてはそれでもかまわないんだけどね。動機なんて、どうでもいい。ただ、結果が萱家にとって良いものであれば、ね) 萱家は櫻妃達のほうに分があると踏んだから、味方をしているのだから。 ただ一度好奇心に負け、何故国の中枢部の権力を握っている櫻妃達が、その地位を投げ捨てるようなこの壮大な計画を目論んだか尋ねたことがあった。『私たちが、成さねばならぬことだからですわ。他の誰でもない『私達』が。これは、この国が胎動した時から、決まっていたことですわ。それが私たちの負う『罪』で、『役割』です。もちろん、このままではいけない、という想いもあります。このまま何もせず、目を瞑り続けて得られる未来の結果を知っていますから。それは私たちの望むものではありません。そのような未来、私は欲しくありません。だから私達はもう立ち止まれないのです。『望む未来』のために』 緋深が同じような問いをし、返答がこれならば、確かにわけがわからないだろう。きちんと説明しているようで、具体的な言葉を一切明かしていない。罪、という穏やかではない言葉を手がかりに、一度之推は様々なことを調べたが、巧妙に隠されていて何も洗い出さなかった。不審が多いことだ。「で、何が“オカシイ”のかな?お前は」「どこが、って全部に決まってる。“お綺麗な言葉”ばかりだからだよ。何が『贖罪』だ。何が『望む未来』だ。そんなのは、あの人達の自分勝手な想いだ。贖罪をして許されたいのも、別の未来を望むのも、それは春呼び姫達の願いで、叶えたいものだ。そんなもん、朔夜には関係ないだろうっ!勝手にしろ、ってんだ。何が『巻き込みたくはない。けれど、朔夜はもう、渦中にいる』だよ。ふざけんな。守れ、なんて言うなら最初から巻き込むなよっ」 不機嫌そうに、はっきりと言い切った緋深の言葉に之推は軽く目を瞠る。‘あの’籐家の人間に喧嘩を売っていると取られかねない言葉だ。威勢のいい、というよりも無謀、無鉄砲な子供である。 これが影でこそこそとしか言えない愚かな人間なら之推は何も思わなかっただろう。だが、口にしたのは目の前の少年だ。緋深のことだ、下手をしたら櫻妃に直接言っている可能性は非常に高い。 本当に、朔夜が絡むと直情的になってしまうやつである。「ま、それはそうだね。けどね、緋深。お前、分かったるんだろう?あの朧月夜の姫君達は、何か俺達には想像もつかないものを抱えている。それこそ普通の人間なら押し潰されかねない、ような、ね。」 之推の言葉にむすっ、と緋深は黙り込んだ。それが、答えだった。「……かもしれない。だけどそれとこれとは別問題だ。朔夜を傷つけるなら、俺は……あの人を許せなくなる。あの人がいたから、今、朔夜は生きている。今の朔夜がいる。計画に荷担している胡家の人々に助けられたから俺は生きている。………それはわかっている。けど…」 緋深の自分の心のうちを整理するように、ゆっくりと、手探りで言葉を紡ぎ、吐き捨てるように呟いていく。緋深の声の裏にある戸惑いは、之推にも伝わり、黙って耳を傾ける。「あの人達は本当のところ、朔夜を巻き込みたくない、と思ってる。そんなことぐらいわかってる。不可避だから俺に『守れ』と言っているってことも。けど……認められるかよ、そんな主張」 「緋深」「本当に守りたいなら、最後まで足掻けよ。ことをさっさと終わらせるなよ……」 緋深は口の端を小さく噛み締めた。 緋深にとって、過去周りの人間は『敵』であった。だが朔夜と出会ってから、緋深にとって『敵』ではない人間が増えていった。櫻妃や、麗蘭達はその筆頭格なのだろう。だから戸惑う。はじめてとも言える『敵』-緋深にはまだ、『味方』という概念はない-と言えない存在だからこそ、判断にいまいち迷うのだ。ちなみに、朔夜は緋深の中で、敵味方を通り越した枠組みに存在している。その朔夜が櫻妃のことも麗蘭のことも好いていることも大きな-と言うよりも9割を占めているに違いない-原因だろう。(本当に…こいつは。こいつらは) 之推は小さく、内心笑った。緋深といい、朔夜といい、何故此処まで清々しいほどに真っ直ぐで、純粋で微笑ましいのだろう。 緋深はきっと、櫻妃の前でも「足掻け」「諦めるな」と怒鳴ったのであろう。簡単にそれは想像できる。 櫻妃も、之推も状況と人、環境など情報さえあればある程度の未来を予想でき、当てることできてしまう。だからこその諦観もある。諦観をしなければならないことがあるのだ。 けれどこの目の前の生意気な子供は、子供の我が儘を振りかざして、その諦観を壊せと言う。 少々腹が立つこともあるが、面白い人間ではないか。「で、緋深?」 之推は緋深の迷いを断ち切るほどの、晴れやか(に一見見える)笑顔を向けた。 不審なまでに-之推の満面の笑顔など、女性以外なら滅多に見られない-いい笑顔に、緋深は何か嫌なものを感じたのか、数歩後ずさる。「な、何だよ」「俺を嵌めようなんて、お前にはまだまだ早いよ」 緋深が言葉を返すより素早く、腕の中の朔夜を奪い取った。之推は海賊じみた行為を何度も行ったことがある。‘お宝’の強奪などお手の物だ。「なっ……」 驚き声もない緋深を之推は無視し、朔夜に柔らかな声をかける。「おはよう、姫君」 声にぴくりと反応し、恐る恐る目を開ける仕草が子供のようで、小動物のようで可愛いな、と之推は笑みを零した。
2006年11月15日
目の前を漆黒の艶がある髪が ふわりと揺れた。そう知覚した瞬間には、女性の姿は消えていた。緋深は視線をすっ、と横にずらす。視界の端を黒馬の後ろ姿が白銀に染められた木々の間に消えていくのが辛うじて見えた。(…………速ぇ…) 緋深はもう呆れるしかなかった。 気を失った人間を膝に乗せるようにして抱えているにも関わらず、馬を自身の手足のように自由に扱い、足場の悪い雪の上を軽やかに駆けさせる。正直緋深は人間技じゃない、と思う。だが、あの女人に対しいちいち驚いたり、呆気に取られるのは疲れるだけだ、とも同時に思うのだ。深く考えたり、気を取られるだけ莫迦をみるだけである。もう、あの人は『あんな人』なんだ。考えても仕方がないんだ。そう思い込むしかない。 朔夜と出会ってから、緋深は“非常識”な人間と多く出会うことが多くなった。なので対処方法を自然と身についていた。悟り、諦め、深く考えない。これに限る。そういう人だ、で納得するしかないのだ。ちなみに、この場合の“非常識”は、常識がないわけではない。常識で図れないほど器が広かったり、身体的に優れていることを指す。(…………結局、こいつと二人、残されてしまった) 緋深は憮然と立ち尽くす。ちらりと視線を横に移すと、男が気が付いたのかにやりと笑う姿が映る。それに苛々とし、血圧が上げるのを感じながらも、なるべく平坦な声を投げつけた。「………おい」「目上に対する態度じゃねぇな。ちっとは礼儀の一つでも身につけねぇと」「あんただけには、言われたくない」 ぴしゃりと緋深は男の言葉を跳ね返した。 何が悲しくてこの常識と、良識と、礼儀ととっくの昔に縁を切った、いや三行半をつきつけられた男にそういう言葉を言われなくてはならない。 緋深は改めて男を真正面から見た。いや、睨み付けるように観察した。 華美、というよりも『度が過ぎた派手』という言葉がしっくりくる服を、自然に着こなし、華麗な印象に昇華させている。緋深から見ると趣味が悪い、としか言いようがない服がどうしてそういう印象に変わってしまうか大変不思議なのだが、だが客観的に見てみると、どうもこの男にしっくりとくる服に見えてくるので妙なものである。 そんな莫迦みたいに値がかかりそうな服を着ている割には男は他に何ら着飾ったところはなかった。化粧や装飾品を付けていない、だけではなく顔には無精髭すら生やしている。髪も軽くなでつけた程度だ。普通ならば、そのちぐはぐ感に不相応な服を無理して着ているように取られかねないほどだ。 だが、男は違った。無精髭がうっすらと顎と頬の線に沿うように生え、それが妙な色気を発している(と緋深が女性ならば思っただろう。だが実際、緋深が思ったのは怪しい雰囲気を纏っている、であった。)撫でつけただけの髪も、とても自然なように映るだろう。真面目な顔さえしていれば、女性が放って置かないような色男だ。けれどもにやにやと笑う表情や、色悪な雰囲気などのせいで、どう考えても遊び人である。(なのに……力がある。俺を凌ぐほどの) 緋深からしてみれば詐欺だ、卑怯だ、ずるいなど色々と文句を付けたくなる。それが八つ当たりであろうが、的はずれな文句であろうが知ったことではない。「その村とやらの方角はどっちだ」 緋深は早く朔夜を追いたい一心で、目の前の男を無礼なまでに直球な言葉で問いただした。男は軽く目を瞠り、くつくつと楽しげ-何が面白いか緋深にはさっぱりわからないが-に笑う。「やめといたほうがいいぜ?あの嬢ちゃんと、また再会したいなら、な」 緋深は眉を跳ね上げ、男を睨み付ける。その不穏な言葉を聞き流すわけにはいかなかった。朔夜と出会えなくなる。その言葉は緋深にとって逆鱗と言っても過言ではない。「どういう、意味だ…」 地に這うような声にも、膨れ上げる研ぎ澄まされた殺気にも男は動じず、むしろそのある種、健気とも言える反応に目を細めた。見る者によってはそこに暖かな光が見え隠れすることに気がついたが、あいにくと緋深は気がつかない。天敵とも言っていいほど生理的に合わない―と思っているのは緋深だけだが。何せ男は『気に入った』そうなのだから―男は緋深をからかう色を消していないので、ただおちょくっているようにしか思えないのだ。「これは冗談じゃねぇよ。まぁ、話を聞け」「あんたが村の在り場所を吐くなら聞くが、それ以外に耳を傾けるつもりはないっ!」 緋深の怒鳴り声にも飄々と男は肩を竦める。「落ち着きな、坊主……お前一人だと、村までたどり着くことはできないぜ。これは、絶対だ」「……っ…………何故?」「お?ちゃんと話を聞く気になったようだな」「っ…………!!!」 緋深は必死に、何度も切れている忍耐の糸を紡ぎあわせつつ、怒りを宥める。小刻みに震えている肩が、その努力のほどを示していた。「結論からいうとな、村周辺には結界が張ってあるからだ」「………は、ぁ?」「うちの村には、な。大変優秀な術師集団がいてな。そいつらが年がら年中結界を張り巡らせている」「…………」 緋深は盛大に顔を顰めながら訝しげに男を見た。冗談だ。そうとしか思えない内容なのに男は若輩者を言い聞かせるようで、それでいて仰々しい態度でこちらを見ている。 緋深は、基本的にそういった不可思議なものを認めていない性質だった。理由は単純にそういった類のものと遭遇したことがないからではある。 皓国は、王族、貴族を中心とした一般的な王政国家と思われている。それは間違いではない。だが根本を辿ってみると宗教国家色も多大に含んだ国でもあった。三神を王よりも上に奉り、王はその加護を受ける。その構造は皓国建国以来、揺るがない。辺鄙な場所にある村人や、愚かな貴族でさえ、三神の存在を認め、信じ、奉った。そこまで三神の存在が信じられているのは、架空の存在ではなく実在するからである。そして幾度も国を救ってきた。その実績と、圧倒的な力に、皓国の民はひれ伏し、畏怖するのであった。 神が信じられ、不可思議な力を使う。神が使うのでそんな原理が不明な力も信じられる。なので、神の力をかり奇跡を起こす神官や、摩訶不思議な力を使う術師の存在も皓国の者ならば誰でも信じた。 緋深はその点から考えれば、変わった存在であった。緋深は自身で経験したことしか信じない。自分の勘と経験と思考にしか信用ならない。他人の言葉など、信じらない。そんな過去を送ってきた緋深からすれば、見たこともない奇跡も摩訶不思議な力も、眉唾ものでしかない。「結界…ねぇ」 漠然とした想像しか浮かばない。しかもそれは見えぬ衝立程度であろう、という想像力の乏しい考えである。想像力が欠如しているわけではなく、真面目に考えていないのだ。 まるでそれを見越したかのように、男はにやりと笑った。「あんま侮んないほうがいいぜぇ?何たってたちの悪い結界だからな」 そうはいわれても、である。見えぬ衝立のたちが悪い、とはどういうことだろう。ただ立ちふさがるだけでなく追い掛け回されたりするのであろうか。粘着質で一度触れると離れない衝立だろうか。近寄ると侵入者に向かい倒れ、押し潰すのであろうか。 なるほど。もしそうなら確かにたちは悪いだろう。(……………すげー、笑える光景) 自身のあまりにあまりすぎる考えに、緋深は小さく、苦く笑った。「たちが悪い?」「ああ。何たって招かれざる客が一度で結界内に入ったら最後。霧の迷宮に迷い込んだかのように、永遠と結界内を彷徨い続ける羽目になるぜ?しかも同じようなところを彷徨っている感覚じゃないときた。歩いても歩いても、変化がない。確かに地面を蹴り歩いているはずなのに、視界に写る光景はほとんど変わらない。気色悪ぃよな。そのうち自分の感覚が信じられなくなってくる。野垂れ死ぬか、狂い死ぬか。どっちも俺なら遠慮したいねぇ」「……」 緋深は口元が引きつるのを感じた。前面的に男の話を信じたわけではない。だが、もしその話が正しい、とすれば大そう捻くれ、たちの悪いものである。悪いにもほどがある。とても目の前の男のようにどこか楽しげに軽々しく口にするものではない。笑い話、というよりはむしろ怪談か拷問である。「何だよ、それ……」「ん?」「なんで、そんな…なんて言うか、妙に手の込んだもんがあんだよ」「“禁足地”と“先生”を守るためだな」「そういうことかよ」 緋深は男を睥睨しつつ、一気に思考をまとめ上げた。「適当に迷わせて帰らせるより、侵入者が帰ってこないほうが都合が良い、というわけかよ。確かにそんな怪奇現象が起きていたら、誰も近寄りもしない、ってことか」 そして、そのような些細なことで手を血に染めても、守りたいと、守り抜かないといけないわけだ。“禁足地”と“あの女性”を。 緋深の出した答えに男はにやりと笑った。「半分は正解、といったところだな」「……もう半分は?」 男が更に意地の悪そうな笑みを浮かべる。緋深は咄嗟に嫌な予感を感じ取り、距離を置こうとしたが遅かった。 男が急に緋深の胸を突いた。体勢が崩れ、思わず緋深は尻餅をつく。緋深の体はすでにボロボロで受身を取ることさえできなかったのだ。「なにをっ……」 緋深の怒声が発せられそうになるのを、片手で男は制し、にんまりと笑って、口を開いた。「それはな、その結界を作った張本人である術師自身が『性格が悪く』て、『たちが悪い』からだ」 言葉が男の口の中から楽しげに飛び出すと同時に、網膜を焼きつくすような閃光が周囲に弾けた。
2006年11月03日
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「うん。頑張ったな」 緋深は軽く咳き込んでいる朔夜の背を撫でながら、もう片方の手で、先ほど受け取った空になった碗を掲げながら、にこりと笑った。その笑顔に朔夜は何とも表現しにくい表情を浮かべる。労いに笑みを返すべきか、この状況を作り出した緋深に不服を伝える表情をすべきか。どちらにすべきか迷い、結果がでなかった、という所だろう。 緋深は苦笑しながら、優しく頭を撫でてやる。「もう一回、寝るか?」 朔夜はふるり、と小さく横に頭を振った。意外な反応に緋深は小さく目を瞠る。心身共にまだ疲れているであろうことは、朔夜を見ると簡単にわかった。実際、紫色の瞳はうつらうつらしていて、危なっかしい。「?………まだ、眠いだろう?」「おな、か…いっぱい…だ、から……」「少し苦しくて、眠れない、か?」 こくりと今度は上下に銀灰色の頭が動いた。そっか、と小さく呟き、緋深は小さな罪悪感を抱きつつ、朔夜をそっと褥に横たえた。「取りあえず、転がっとけ。眠くなったら、いつでも寝て良いから」 こちらを見上げてくる朔夜に、緋深は小さく笑み、銀糸のような髪に指を絡ませた。 髪を梳かれる。朔夜はそれを好んでいた。一度も「気持ちいい」とは口にはしないが、髪を弄られるとほんの少しだが目尻を緩ませ、固まっている表情が少し柔らかになるのだ。まるで頭を撫でられた犬、喉を撫でられた猫、のように、(朔夜を知っている者しか分からないほど些細だが)どこかうっとりと目を細める。 もちろん、朔夜は髪を撫でるのが“誰でも”良いわけではない。触れることが許された者だけの、特権だった。(気持ちいいな) 緋深はさらり、さらりと指で掬っては、逃げていく柔らかな髪の感触を楽しむ。最初は腹痛を少しでも紛らわせるために、ととった行動であった。が、これでは誰のためだか、である。(取りあえず……まぁ、朔夜も嬉しそうだし。一石二鳥、か?) 朔夜は目をとろりとさせ、余程心地よいのか、そのまま眠ってしまいそうだ。その様子にほっ、と緋深は胸をなで下ろす。 襖の向こうから入ってくる夕日の光に照らされた、韓紅花色を含んだ銀灰色の髪が揺れるたび、きらきらと光っているようにさえ見え、その美しさに緋深は目を細めていた。(けど……) 緋深は内心ため息をつき、朔夜にばれぬように気を遣いつつも、一瞬眉を顰めた。 朔夜の髪が、緋深は好きだった。柔らかく手に馴染む感触。銀、という派手なはずだが、どこか目に優しい色。朔夜を彩るもの、という理由もあるが、それを抜いてもあのさらさらした長い髪が好きだった。(せっかく……綺麗な髪だったのに) 見つめる先にある朔夜の髪は、左右不揃いな状況だった。 緋深が、斬った。結果的には朔夜を助けるためだったとはいえ、感情の荒波に身を任せ斬ったのだ。怒気で鋭く研ぎ澄まされた剣筋だったからか、なくなった髪と繋がっていた毛先は目に余るほど射たんではいない。だが、やはり旋毛から右側は背まで、左側は肩までの長さでは不自然この上ない。 緋深は、本当に今更ながら罪悪感がじわじわと背筋がはい上がるのを感じた。今の今までは、慌ただしすぎて忘れていたのだ。いや、視線を逸らしていたのだ。(けど……俺は、後悔してないん、だよな) あの綺麗な髪がなくなったのが、悲しくどこか寂しい。だが、『あいつ』が触れた部分の髪がなくなったことを考えると、まあ仕方がないか、と思ってしまっている自分がいる。 そんな自身の醜悪さと我が儘さに緋深は吐き気を感じていると、背後から声がかかった。「緋深君?」「………っ?!」 振り向いた先には、背の高い男が立っていた。 緋深は必死にあげかけた悲鳴を押し殺す。背後を取られたことに驚いたのではない。歪でいた顔を見られたことでもない。失礼極まりないことだが、振り返り男の顔を見たからだ。 だが、誰も緋深を責められはしないであろう。何故ならそれほど男の顔は、驚くに値するものであった。 青白い肌に痩せこけた頬、目の下に大きな‘くま’の顔だけでも一瞬目にいれただけでもぎょっ、とするほど病的だ。躰も骨が浮かび上がるほど痩せている。しかも男は猫背、というよりも前屈みの姿勢で、だらりと長い腕を垂らしている姿は、少々どころかかなり幽霊じみた印象を受けるのだ。 まっすぐ背筋を伸ばせば、男は緋深が今まで見た中で一番の長身であろう。そうすれば、少しは印象もすっきりとしたものになり、雰囲気も変わるであろうに。(ああ、驚いた……確か千波[チハ]、と言ったっけ) 驚きに踊る心臓を押さえている緋深に、千波は首を傾げつつもす、と長い手を動かして何かを差し出した。「はい」 青白く細長い指が支えているのは、先ほど朔夜に与えた汁物が入っているのより少し大振りの碗だ。その中に入っている液体は波打ち、芳香のする湯気を放っている。朔夜に飲ませたものと、同じもののようだ。「すぐにもうちょっと胃に溜まるようなのを持ってくるから、それまでに取りあえずこれを飲んで、胃を落ち着かせておいてね」 端正だがすっきり、と言うよりはげっそりとした風にも見える容貌に優しげな笑みをたたえつつ、千波は手渡そうとしてくる。別にいらない、と緋深は手で拒否の意を表すと、やんわりと言葉を続けられた。「君もきちんと食べないと、身体がもたないよ?」 緋深は黙り込み、視線を逸らすしかない。返す言葉がないからだ。 助けられてから、緋深は白湯と薬以外一切を口にしていなかった。この村にどうにか-道中、肉体的より精神的に、とても疲れたのだ-着き、医者から手当を施されたすぐ、この千波と言う男は病人食にしては美味しそうな食事を与えようとしてくれた。 だが、緋深は意固地なまでに断り続けたのだ。 この目の前の男、千波はそんな緋深を見てられなかったのだろう。戸惑うほど心配をし、世話を焼いてくれようとした。何度も差し伸べてくる細長い優しい手を何度-朔夜のことが不安で苛立っていたから-邪険にはね除けようとそれでも心配を続けてくれた。 何度も何度も繰り返された押し問答に、根負けした緋深は言ったのだった。 「朔夜が起きて、何か食べたら…………俺も食べる。それまでは、食べない。この条件が飲めないなら、俺は白湯も薬も断る」 緋深に取って、数日何も食べないと言うことはきついが、できないことではなかった。白湯はいくらでも飲めるのならば、たった数日などで、死にはしない。緋深は朔夜を残して野垂れ死ぬ気はまったくないのだから、問題はないのだ。……緋深にとっては。 だが、千波にとっては大問題だったのだろう。さあ、ようやく、といったのだろう。千波は更に言葉を重ね、緋深に食事を要求してくる。「約束、してくれたよね?その子が起きたら、食事をしたら、君も食事をしてくれる、って」「……あ、ああ」 心配をしてくれていることは、緋深は痛いほどわかっている。別に返事を言い淀んでいるのは、千波を困らせたいわけではない。緋深も空腹の限界寸前で、食事をすることに否はないのだ。 だが、緋深にも言い分はあるのだ。(…………何で、今、ここで言うんだよっ!!) 朔夜の意識があり、千波の声が聞こえる場所にいるというのに。 沸々とする怒りを抑えながらも、意識を集中すると背後に視線が突き刺さっていることに緋深は気付いた。言うまでもない。朔夜だ。紫の瞳いっぱいに気遣わしげな色を浮かべ、不安そうに揺れているに違いない。想像するだけで、緋深はため息が喉奥から溢れてきそうである。 だが、だからといって緋深は千波を責める気にはなれなかった。 緋深は今思えば、これでもか、というほど親切にしてくれていたのに、あまりな態度をとってしまったことの負い目か、この目の前の青年にどうも強気にでられない。それはこの青年の人柄故かもしれないが、妙に調子が狂ってしまうのだ。 これが獅吼ならば、盛大に罵れたというのに。 うう、と唸っている緋深に、千波は更に言葉を重ねてくる。「君も食べないと……薬も、何か胃に入れてから飲まないと本当は悪いのに。ずっと無茶をしてたんだ。いい加減、何か口にしないと、君。今度は栄養失調で倒れちゃうよ?」(わざとかっ!わざとなのかっ!) 内心、悲鳴をあげる。 緋深の恨みがましい視線も何のその、と言わんばかりに千波は微笑みを崩さない。「食べるよね?」 とどめだった。 目の前の穏やかな笑顔と、背後からの訴えるような視線に、緋深は敗北を悟り、深々とため息をついた。---------------やっぱり、こうなります 緋深は(笑)
2006年10月23日
ぼんやりとした湯気に視界を阻まれて、ただでさえ儚く危うげな朔夜の様子に拍車がかかって見えた。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる朔夜の顔は、どこか寝起きのせいか虚ろで、消えてしまいそうな錯覚に陥いる。 緋深のこの言いようも無い不安を辛うじて表に出さないのは、腕にかかる朔夜の以前より軽くなっている重みと、低い体温があるからだった。(………これじゃあ、華奢を通り越して、病的一歩手前だ) こくり、と汁物を朔夜が危うげに飲み込むことに安堵しつつも、白湯の時よりも咀嚼が遅いことが気にかかる。燃費が良い、とは朔夜は言えない体質なので正直なところ、こんな小振りの碗一杯よりも、もっと沢山食べて欲しいと願う。だが、必死に飲み込んでいることはよく分かっているので、せかしかねない要求の言葉を無理矢理喉の奥へと押し込んだ。 茶碗一杯ほどの大きさである小ぶりの碗に浪波と注がれていた汁物をようやく半分ほどまで飲み干すと、朔夜は心底申し訳ない顔をしながらも、嫌だ、と小さく意思表明するかのように首をゆるりと横に軽く振った。「……朔夜」 荒々しく波打つ激情を押さえ、小さな音で、そして優しさをふんだんに込め名前を呼ぶと、少し腕にかかる朔夜の身体が一瞬震えた。 罪悪感にさいなまれ、見捨てられるのを恐がっている子犬のような朔夜の表情を見ると、わがままを通してやってもいいか、と言う誘惑にかられるが、緋深はあえて優しく、だが残酷に朔夜の淡い願いを打ち砕いた。「食べて」 その言葉に反抗するように朔夜は唇を噛み締めてしまうが、緋深は咎めるようにもう一度口を開く。「朔夜?」「…………」 朔夜は瞳を惑わせつつ、何度か口を薄く開ける。だが、そこから何も声はでなかった。朔夜が、一言でも拒絶の言葉を吐けば、緋深は無理強いできない。朔夜はそれを承知なはずであった。だが、その一言が言えないのであろう。どうすべきか、と軽い困惑に陥っていることは端から見れば一目瞭然な姿に、緋深は軽く笑った。 紅い瞳を穏やかに細め、椀を持っていない右手を動かした。右腕と肩に上半身を預けている朔夜が、その動きにつられるように微かに揺れる。 やはり、軽い。緋深は朔夜にばれないよう一瞬眉を顰めた。(………やっぱ、無理にでも食べささなきゃな) 緋深は右手の人差し指を、朔夜の唇に触れさせた。朔夜は驚きに目を瞠りつつも、それでも口元を閉ざしている。その様子に軽くため息をつきつつも、緋深は強硬手段に出ることをあっさりと決めた。「朔夜…自分で、きちんと食べる気になったら、言えよ?」「……?」 緋深は小さな唇に軽く触れていた指に力を込めた。さして労せず人差し指を口内に進入させることに成功する。軽く歯を叩くと唖然としていた朔夜が、反論しようとして上下の歯の間に隙間ができた。「莫迦だな……嫌なら、噛み締めていれば良かったのに」 小さく呟くのと同時に、更に指を進入させる。人差し指で上唇と上顎を押し上げ、親指で下唇と下顎を押し下げることで口を無理矢理開けさせた。朔夜はあまりのことに目を白黒させる。そして少しは動くようになったらしい小さな手で緋深の腕を掴み剥がそうとし、指を排除しようと湿った舌で押し、単に力が入らないのか入れてないのか軽く指を噛んでくる。そんな拙い、というよりも弱々しい攻撃に緋深は苦笑した。 緋深は問答無用に朔夜の口に碗をあて、だが加減を充分すぎるほど配慮した速度で、汁物を流し込んだ。喉に滑りこんでくる食物に朔夜は必死に飲み込んだ。緋深の指が邪魔をするので咀嚼はできない。だが、もともと病人食なのであろう汁物は、咀嚼をせずにも飲み込めるようなものである。特に大きく咳き込むことなく、汁物は朔夜は喉の奥に通った。 やっと碗半分の量が消えたことを確認し、緋深は一度朔夜の口から碗を外し、床に置いた。唇の端に微かについてしまった汁物を指でぐっ、と拭ってやる。 小さくこほこほ、と咳き込みつつ、なお抵抗を開始した朔夜に、緋深は苦笑する。「これ、嫌か…なら自分で喰うか?」 朔夜は一瞬頷きかけたが、眉を顰め小さく首を振った。「どっちも嫌は、なし……どうしても嫌なら俺の指、噛み千切るぐらいの抵抗するんだな」 透明度の強い紫色の瞳大きく見開かれ、困惑したように顔を歪めた。 緋深はその反応ににこりと笑った。予想的中の反応である。朔夜にそんなことはできない、と踏んで言ったのだからその分かり易い反応は、次に話しをとてももっていきやすい。「後で吐いてしまっても、いい。取りあえず胃に何かいれるんだ…飲んでくれ」 朔夜の胃は弱っている。無理に流しこんで食べさせても後で吐いてしまいかねない。そこまで認識していても緋深は朔夜に食べることを強要した。 もちろん、いいわけがない、と朔夜は瞳で訴えてくる。だから、諦めて。だがら、もう食べなくていいでしょう。そう言いたいであろう朔夜の気持ちは、手で水を汲み取るよりよほど容易にできた。「いいんだ」 きっぱりと告げた、その言葉に一切の嘘は無かった。緋深からすれば、本当に構わないのだ。 吐けば、いい。胃にものをいれられるだけいれ、後で吐いてしまえばいいのだ。 胃にものを入れれば入れるだけ胃壁との接触面積が増え、少しは栄養は吸収される。詰め込めれられるだけ詰め込めば、しぼみかけている胃袋は拡張される。(吐けば、汚れる。けど、そんなものあとで洗えばいい。清めればいい) “そんなこと”で躊躇し、弱らせてしまうことより、よほどいい。 助けてくれた人の家で、迷惑をかけることになるが、そんな責ならばいくらでも緋深は負う覚悟は、今更用意しなくても有り余るほどある。「……朔夜。“また”食べられなくなるだろう?」「っ!」 驚いたように紫色の瞳を瞠り、何故知っているのか、という無言の問いかけに、緋深は苦笑にも似た表情で答えた。 朔夜は一時、摂食障害に陥っていた。いたらしい、というのが正確である。その現状を緋深は見たわけではないのだ。だが、かなり酷かったんだな、と話を聞いただけでも思うほどだった。 血色の悪い痩けた顔、骨が浮かび上がった身体、ふらつく足取り、か細い声。 そんな姿を想像するだけで緋深は臓器がまるで凍ったかのように、ぞわぞわと体中に悪寒が走った。朔夜は、摂食障害になる『引き金』と言ってもよい元凶と出会ってしまっている。引き金は、すでに引かれてしまっているのではないか。その不安が緋深に強行な態度を取らせていた。「どうする?自分で食べる、か?」 戸惑うように、だが小さく頷いた姿に、緋深は優しい笑みを浮かべた。----------------- 字数制限上、一旦区切ります 珍しく朔夜に対して強気の緋深です。 けど、続きを読んで貰えればわかりますが、一瞬芸だったようです(苦笑)
麗蘭は薄暗い廊下を半ば早足でつかつかと進みながら、家臣達の報告を聞いていた。「侵入者は複数。推測として十数人は最低いるかと。門は半壊しており、門番は負傷。程度はわかりません。邸内のいたるところで狼藉者と衛兵が戦闘をおこなっている模様。幾人か捕らえたようではありますが、目的はまだ」 報告に麗蘭は眉を顰めた。だが不安も不信も表には決して出さず、てきぱきと指示を采配していく。「兵は狼藉者の捕縛を優先に。なるべく殺されぬようにさせて。聞き出せることは全て引き出すためにも。文官は女中などの護衛しつつ避難するように伝えて。狼藉者と出会っても無理に戦闘は行わず、生きることを優先すべし、とも。ああ、兵の一部は医師達と共に行動し、負傷者の手当するようにしてちょうだい」「畏まりました」「玲鈴、怜蓮はどうしているかしら?」「はっ、もう夜も深まっています。部屋にいらっしゃるかと」「そう。ならば兵の一部を裂いてあの二人の身柄を確保してちょうだい。人質にされたらこちらの部が悪くなるわ。そしてそのまま文官、女官達と合流させて。以上よ。行って!」 命が下ると家臣達は己のすることを行動に起こすため、麗蘭の護衛以外の姿は廊下の奥に消えていった。それでも足を止めはせずに闊歩しながら思案する。(何が………何かが引っかかる) 何が妙なのか。それは麗蘭も正確に言えない。だが、直感とも言えないのだ。 その違和感の正体を掴もうとも情報が足りなさすぎるである。舌打ちしたいのを堪えた。「胡姫[コキ]様!」 後方から聞こえてきた声に、麗蘭は歩みを止めた。胡姫、とは主君である胡家の女性を指す、尊称であり、愛称のようなものである。そして現在胡姫という称が指すのは麗蘭のことだ。 弾き飛ばされたように駆けてきた男は麗蘭の前で急に速度を落とし、勢いのまま平伏する。「損害をご報告します。負傷者5名。死者3名です」「…そう。詳細はわかる?」「文官、女官、衛兵に死傷をしたものもはございません。いずれの死傷者も門を守っていた者達です。経緯はまだ判明してはおりませんが、どうやら不意打ちにあったようで。負傷者も重体とのこと」「不意打ち?」 麗蘭は聞き流せない単語に眉を跳ね上げた。「はい。ですが彼らは怠慢をしたわけではございません。先ほども申し上げましたが、詳細を知る負傷者はいずれも重体故、判明はしていませんが、それなりの理由があるかと。譫言のように忠告のようなものを必死に喋っております。ただ、聞き取ることは困難でして………信じてくださいますか?」「当然よ。疑っているわけではないわ」「ありがとうございます」 麗蘭の言葉に男は安堵したような表情を、強張っていた表情筋に一瞬乗せた。「断片的なものでもいいわ。彼らが何を口にしていたか、分からないかしら?」「はっ………確か、『スイ』、『キラケ』、『ホコ』です。それのみを何度も繰り返している模様で。繰り返すことでどうにか聞き取れたものなので、間違いはないか、と」「そう」 麗蘭は脳細胞を活性化させ、急速に考えを収束し始める。(不意打ち、『スイ』、『キラケ』、『ホコ』) この四つの手がかりを、今までの情報を組み合わせる。胡家に襲撃をしてきた愚かな、後先を考えない行動。狼藉者達の団結。胡家の敷地内にあった不審な影。(後先考えないのは、本当に愚かだから?考えなくとも大丈夫な理由がある可能性もあるわね。これは窃盗ではない。強盗だ。そして胡家は紛れもなく『貴族』。秋官が必ず動く。それを恐れていない行動を見ると、逃れる手がある、という自信があるわけね) 秋官は十数年前ならば体たらく、としか評せない輩の集団であったが、今は改革が行われたか精鋭集団となるべく絶え間なく鍛えている、という風に変貌している。これは皓国内では誰もが知っていることだ。 秋官の手から逃れることは今では難しい。(それは何か策があるから?いや、策が自信の元であれば、彼らは間違いを犯したことになる。殺人。これがあるのとないのとでは秋官の動きが変わってくるわ。これは不確定要素だったのかしら。…いや、違うわね。大きな間違いを最初の段階で犯してしまったならば、撤収するべきだったわ。殺人は、確定要素?…そうであるならば自信の源は別ね) 麗蘭はどんどんと思考の意図を紡ぐ。「侵入者はどうやって胡家まで来たの?」「は?」 男は急に話しかけられたことに驚いてか、目を忙しなく瞬きさせた。だが麗蘭はそんな男の都合を無視して言葉を投げかける。「徒?馬?」「あ……はい。馬です」「全員?」「はい」 麗蘭は男の断言を聞いて、ある有力な考えを導き出す。(後ろ盾、ね。しかもかなり強い。少なくとも秋官を抑えるだけの、でしょうね。そうなればかなり数はかぎられるけど………どこの『貴族』かしら?) 麗蘭は最初から裏街などの表には在られない有力者は排除していた。彼らがこんな山に手をかけるわけがない、と思うからでもある。だが何よりの理由は別にあった。 貴族の中では胡家を逆恨むものも少なくないのだ。見下す対象である異人の集団、胡家が栄えていることが腹立たしい、という短絡的かつ非常に情けない輩が、意外に数多く存在するのだ。(貴族には莫迦が多いけど…それでもここまで非常識なことをしでかす輩に覚えはないわね) 狼藉者、というのは金で簡単に動いてくれる。後腐れもない。だから、利用する人物は多そうだが実はそうでもない。後腐れがないからこそ「内密に」と頼んだことすらも秋官から持ちかけられた「取引」で簡単に口を割ってしまうのだ。彼らは己の「利益」、いや「欲望」に忠実すぎるのだ。だから多量の金を積まれて簡単に危険な山にも手を出すし、簡単に裏切る。 胡家を敵視する貴族は愚かだが、それぐらいのことは承知しているだろう。 あまりにも今回の愚行は危険が多すぎることは火を見るよりも明らかだ。「後……お耳に入れておきたいことが」 ふと呟くように小さな声にふと麗蘭は思考を止め、顔を上げた。言い淀むように視線を伏せている男に怪訝そうに眉を顰めた。 目の前で跪いている男は、胡家に長く使えている者で、麗蘭もよく知っているものだ。知っているからこそ、不審に思う。竹を割ったような言動で、周りを先導している男がこれほど惑っている姿は初めてだ。「何かしら?」 問う声に、男の顔に翳りが色濃く現れる。「実は………怜蓮、様の」「…怜蓮に何かあったの?」 思わず声を上げそうになるのを麗蘭はぐっ、と堪え、冷静に言葉を吐き出した。上に立つ者として慌てたり、不安がる姿を見せるわけにはいかない。 だが、やはり肉親を心配する気持ちがないわけではないのだ。「いえ……いいえ。怜蓮様は、無事、です」「…『は』?」「はい……あの、その……蘇櫂[ソカイ]が」「蘇櫂が?」 何故この名が今、出てくるのだろう。麗蘭は内心首を傾げた。 蘇櫂、という名の男は胡家に長年使えている文官である。手腕が良く、穏やかな人柄、と麗蘭は記憶していた。顔は際立って良い、というわけでなくむしろ凡庸だ。だが、相手に威圧感を決して与えない物腰なのでその凡庸な顔が、とても暖かなものに見えてくる、人格者、と呼べる者だ。 その蘇櫂は、怜蓮の恋人である。なので麗蘭とも関係がないわけでもない。 だが今此処で聞く名ではないはずだ。「………蘇櫂が、亡くなったのです」「っ…何故?」 麗蘭は目を見開く。「あの者はいつものよう、夜半まで仕事をしていたようで…そのせいで襲撃にいち早く気付いたようです。そしてそのまま事実を確認しにいこう、と門まで咄嗟に駆けつけてしまい…そのまま巻き込まれた模様。怜蓮様は蘇櫂の屍を見て…それで」「……半狂乱に?」「いえ…そのほうがまだ、良かったです。放心して、まるで魂が抜けたようになっているようで…」「そう」 麗蘭は目を伏せた。男の死を残念だと思う気持ちと、妹の痛ましい様子に胸が痛む。 だが、麗蘭は今、感傷に浸る暇などない。麗蘭は思考を急ぎ切り替える。「怜蓮は、玲鈴や女中達に任せましょう。私たちは同じ犠牲がもう出ぬよう、この騒ぎを急ぎ収束させねば」「はっ………その、蘇櫂の親族に」「わかっているわ。親族には手厚い保証を約束をしましょう。彼は親兄弟をいつも心配していたものね」 悲しげな麗蘭の微笑に、男はほっ、としたように顔を弛めた。「さぁ、あなたも女中や文官達の元へ…彼らを守ってちょうだい。貴方に与えた剣は、彼らを守るため、その為にあるのだから」「いえ。文官達の元へは私が心から信頼し、鍛え上げた部下がすでに駆けつけております。ここで胡姫様を守る許可を下さい。貴方様に何かあれば、胡家は崩れ、多くの者が危機に陥ります。彼らの未来を守るためにも、どうぞ許可を」 麗蘭は苦笑した。この男、意外と口が回ることに驚き、珍しいことに言い返せないからだ。 ええ、と麗蘭が頷き、男が喜色を浮かべ立ち上がり、脇に控えようとしたときだ。「っ?!今のは」 甲高く細い悲鳴が、確かに麗蘭の耳に届いた。は、と周りの人間に視線で問いかけると皆一様に頷いた、ということは聞き間違いではない。 弾かれるように麗蘭達は駆ける。「逃げ遅れた女中でしょうか?」「いいえ……あれは」 男には誰か判別できないようであったが、麗蘭はあの声に聞き覚えがあった。男が知らないことも仕方がない。麗蘭も咄嗟に判断ができなかったのだ。 何故なら、その声の主は滅多に声を出さないだけでなく、あんな大きな-悲鳴だが-声を出すなど始めてのことだった。(朔夜っ) 何故、彼女が。 守人である彼女は狼藉者ごときに脅えることなどないはずなのに。自身を守ることなど容易く、そもそも狼藉者ごときに気配を察せられるほど弱くもない。 疑問に思いつつも、麗蘭は廊下を駆けた。
2006年10月10日
廊下を照らす炎が之推のわずかな怒気、いや殺気に反応したかのように、小さくばちりと音を立て大きく揺れた。炎に照らされた之推と緋深の顔に濃い影が浮かびあがる。「“計画”のため、かよ」 もう一度言葉を緋深は重ねる。 之推は顔には出さぬが、内心舌打ちを盛大に鳴らしていた。緋深が声にだしてしまった『計画』とは、そう簡単に口にしていいものではない。(何故、知っている?) 教えたと思われる人物の候補はいまいち之推には図れなかった。『計画』を知っている人物は、皆弁別のある人間で数少ない信頼できる人物たちである。(……確かにこいつも、巻き込むことができ、戦力とはなるけどね。一体誰が………) ついつい視線がとがりそうになるのを、之推は無理矢理曖昧さをかぶせることで隠した。 だが育ち故か、妙に負の感情に聡すぎるほど聡い緋深は、之推の不愉快さに気が付いたようであった。ふんと軽く鼻で笑い飛ばす態度に、とうとう之推は視線を冷たく細めた。 緋深は一瞬嘲るように笑うが、次の瞬間には眉を顰めた。之推が緋深の挑発に踊らされ本性を垣間見せたのではなく、わざわざ見せてくれていることに気が付いたのだろう。(本当に……こいつといい、姫君といい。どうしてここまで人の感情に敏感なのか) 一瞬、守人の血のせいか、とも思ったが、すぐに之推は考えを改める。 幾人か之推は『守人』と呼ばれる人種にあってきた。確かに彼らは機敏ではあったが、それは周囲の人間の行動に関してのみだ。感情を察することに長けてはいなかった。と言うことは、この二人特有の能力、いや技なのだろう。積み上げられてきた過去と、経験の賜物というわけだ。「さて…それを何処で聞いたんだい?緋深」「さあね。あんたに教える義理はない」「それは困った。なら排除しなきゃならないな。俺はお前のこと、結構気に入ってはいるんだけどな?」 赤い目から発せられる鋭く冷たい視線がじくじくと刺さる。一触即発、と表現するしかない雰囲気が廊下の一部を支配しはじめる。重圧に空気は押し潰され、密度を増し、重苦しいものへと変わっていく。「へぇ…俺は、あんたなんかに殺されるほど弱くはないだけどな」 「愚かだね。別に正面から挑むだけが闘いじゃないよ。そもそも俺は『排除』と言ったんだ。誰も殺すとは言ってないんだけど?」「同義語じゃねぇか…違うか?排除するため、と言いながら武器を持ち出す。その際、例え途中で殺したとしても『排除』したことには変わりはない。そして肉体を殺さなかったとしても、排除したいと存在を頭から、記憶から、環境から、社会から消す。それはある意味『殺す』ことだ」「極論だね。まぁ、間違ってはないけど、正解とも、言えないってところかな。まぁ、いい。で、どうする?言う気はあるのかい?」「さあ?あんたこそ知ってどうするんだ」「別に。ただ把握のためだな」 之推の言葉に嘘はなかった。緋深が『同盟者』とも呼べる人間から計画のあらましを教えて貰っているならば、本当にただの把握のためだけなのだ。取り立て騒ぎ立てる気も、処罰するつもりも、何もない。 盗み聞きや、どこかからの情報漏洩でないならば、ではあるが。「さぁ、どうするつもりだい?姫君と離れる気、ないんならさっさと白状しちまいな」 之推は表情筋だけで笑いながら、緋深の弱点である一番脆い部分を刺した。微妙に歪んだ顔に之推は軍配がこちらにあがったことを確信する。 緋深は莫迦でも、愚かでも、阿呆でもない。客観的に己を見ることもでき、現状をきちんと把握することも可能だ。ここで無駄に抗っても緋深にとって良い道にならないことは分かり切っているだろう。感情さえ抜きにすれば、簡単すぎる答えだ。 だがその感情というものが一番人間に影響する。もちろん緋深も例外ではないので、大変渋った顔へとなっていた。だがここで意地を張っても仕方ない、と諦めたのか不承不承口を開く。「籐家の春呼び姫」「……あの姫君、かよ」 之推は深い深いため息をついた。脳裏に淡い色の長い髪の風に遊ばせながら、優雅に笑っている女性がどうかなさいまして、と小首を傾げている。(なさいました、だ) 春呼び姫。籐家の姫、櫻妃は「春」そのものを身に纏ったような美しいことからそう呼ばれていた。春の暖かな陽射しのような雰囲気、咲き誇る春の花々のような柔らかで優しい笑顔、春風のように心地の良い声、そして包み込むような春の陽気のように温かく、優しく包容してくれる慈悲深い人柄、と誰からも口を揃えて呼ばれるような存在である。 だが之推は知っていた。それは彼女の一面にしかすぎないのだと。 一見穏やかな眼差しだが、その奥には深い深い想いと全てを見透かすような光を宿している、聡明で気高く強い女性。それが之推の認識だ。巷で言われているようなただほわほわした少女では決してない。 だから之推は彼女をこう評した。優しい光で全ての者を照らすが、朧で自身の包み、真の姿を月は彼女そのもの。そして穏やかな気候と優しい色の闇で人々を包むが、暁と共に消えてしまう春の夜もまた彼女そのものだ。故に『朧月夜』と。「で、朧月夜の姫君は何とお前に言ったんだ?」「……別に。大まかなことだけだ……あんたらがとんでもないこと、企んでいる。そしてそれに「朔夜」が、朔夜の意思に関係なく巻き込まれかねない。無関係じゃない、いられないらしい、と。だから……守れと言われた。『朔夜を大切に想うならば、守ってさしあげてくださいませ』と言われ頼まれた」 之推は眉を跳ね上げた。緋深の言葉に嘘を見出したからではない。ただ、何故櫻妃が「よりによって」緋深に託したか、が気にかかったのだ。(緋深にとって、朔夜は唯一、ともいえる存在だと言うのに?託した?) 唯一を選べる者は、選んでしまった者は、恐い。之推はそう考えていた。 捨てられないものを、大切なものだと思えるものを、人は皆持っている。それは両手でどれだけ一生懸命に抱えても、こぼれ落ちそうなほど沢山あり、それを一つでも落とさないよう必死になって抱きしめている。だがどれだけ頑張っても指から擦り抜け、落ちて壊れてしまう。だから人は泣き嘆き、残ったものだけは、それだけはと、他には何もいらないから、と思って、だがまた新しいものを抱えてしまい、何度も繰り返す。それが当たり前なことだと之推は思っている。 だから数少ない、唯一を選んでしまった奇人達を之推は素直に恐いと思うのだ。 唯一を選んでしまった者、と言うとただ一人に忠誠を誓った「忠臣」と呼ばれるものを連想するが、それとはまったくの別物である。忠臣、と呼ばれる者は主に忠誠を誓い、尽くすが大切なものは主だけではない。家族を持っているものも、部下に心砕いているもの多くいる。彼らは最後に主を選んだとしても、決して家族や部下を蔑ろにしているわけではないのだ。 だが、緋深のような選んでしまった者は、違う。最初から唯一以外いらないのだ。 空っぽの両手でただ唯一だけを抱きしめる。余裕があっても、他のものには見向きもしない。ただ何かを恐れるように一心に唯一だけに縋り付く。その存在がいて始めて呼吸ができ、感情が動き出すと言わんばかりに。だから、その唯一を亡くしたとき、壊れ、死んでしまう。 空恐ろしいことだ。 之推も「絶対」のものがある。だが、それは「萱家の一族として守るべき領地と民と部下」だ。唯一ではない。複数に分散されたものだ。それにもし失ったとしても、多大な傷を負うことにはなるが、死にはしないだろう。奪ったものに復讐をし、決着をつける。そして残された欠片を拾い集め、また立ち上がり歩きだすに違いない。 だから、緋深のような人間の理解に苦しむのだ。之推は理解できたとしても、同じ生き方をすることは不可能である。(まぁ、緋深の過去を聞けば、納得できないこともないんだけど) 孤独の底に生まれ落ちた瞬間から落とされたと聞く。信じられるものは己しかおらず、優しさの意味も人を愛する喜びも知らなかったそうだ。与えられたものは他者からの冷たい視線と態度しかなく、心は凍え、感覚すらなくなっていたのだろう。そんな中、ようやく与えられた温もりだ。少しでも力を緩めたり、視線を逸らせば失ってしまうのではないか、と不安なのである。 之推は相手が悪かったと思う。これが朔夜ではなく、それこそ櫻妃であれば。ならば、少しでも心に余裕が生まれる余地があったはずだ。包まれるような大きな温もりで、充分すぎる安堵も与えられたはずである。だが、朔夜には無理だ。朔夜も朔夜で心に深い傷を負っており、まだ自身のことで手一杯の子供なのである。小さな温もりでは、緋深の心の奥底にある凍えた闇を全て解かすにはまだ時間が必要なのだ。(それは朧月夜の姫君も承知だ。聡すぎるほど聡い人だからね) そんな幼い子供の危うい必死さに、何を託したのか。(まあ、あとで朧月夜の姫君に真意を聞いてみるか) 之推は小さく肩を竦め、こちらを半ば睨んでいる緋深に忠告をした。「野郎に親切にしすぎるのは、俺の主義に反するけどな、良いこと教えてやるよ。むやみやたらに何でも口にしないほうがいい」「言われるまでもねぇよ」「なら、いいんだけど」 ぎろりと睨んでくる紅い目に、之推は内心苦笑する。(まぁ、番犬程度なら、ちょうどいいかもね) と緋深が聞いたら怒りそうな台詞を考えながら。
2006年10月07日
薄暗い闇の中、霄弥[ショウヤ]はゆっくりと瞼を上げた。岩に預けるようにしなだらせた身体を、気怠げに起こした際、墨染め色の衣の擦れた音だけが空間に響く。何度か瞬きをしていると、紫電の瞳は淡闇に慣れたのか、ぼんやりと周辺の景色を映し出した。 むき出しの岩の中、純白の石を削って作られた神殿が浮かび上がる。東西南北に大きな、細やかに細工を施された柱の中心にそびえ立つ真っ白な神殿は、光源がないはずなのに神殿自体が発光しているかのようである。ぼんやりと淡く光り輝き、薄闇に浮かんいる。洞窟の中とは思えない大神殿である。 その神殿が一望できる場所にある大岩に霄弥は座っていた。美しい細工が目立つ、見栄えの良く、いつまで鑑賞していても飽きない神殿を視界にいれた霄弥は、一つ忌々しげに舌打ちをした。(せっかく…朔夜と会ってきた後だ、と言うのに) 何が悲しくて起きて最初に視界に入れるのがこれなのだろう。 目覚めてすぐに視界にいれたい光景ではなかった。いくら美しくても、霄弥からすればただの忌々しい象徴でしかないのである。 とは言っても、この出口のない洞窟の中にあるのは岩とこの神殿しかないのだが。「………」 霄弥は自身の両手を見つめる。墨染め色の衣から滑り出る己の白い指は、当然のごとく何もなく、ただ空気を乗せているだけだ。「………朔夜」 かすかに温もりが残っていると思うのは、己の勘違いなのだろう。天然の洞窟はただでさえ気温は涼しい。指先は実際は冷え切っているだけだ。だが、そうと霄弥は分かっていながらも幻の温かい残滓をかき集めるようにぎゅっ、と自身の手を握りしめる。「大きく、なっていたな」 霄弥は『夢』を渡り、久しく会っていなかった少女に会いに行った。二度と、会うことはないと思っていた。会わない、と決めていた。ただ遠くから見守る。それだけに留めよう、と。あの少女が笑い、幸せな姿を時折見られればいい、と自身に思い込ませた。 破るつもりは毛頭なかった。 だが、事態は少しおかしくなった。少女-朔夜-の封じていた記憶が解かれかけていたのだ。だから慌てて霄弥は記憶を再び封じに『夢』を渡ったのだった。再び呪をかけるために。 霄弥には『異形の力』がある。これは後天的に備わったものであり、霄弥は疎んでいた。だが、夢を渡ったり、記憶を封じたり、と近頃は大振る舞いである。 苦笑するしかない。「まさか会う、とは思わなかったが」 心の奥底に沈むほど、体が弱っているのだろうか。霄弥は眉を顰める。 あの場で朔夜と出会ったことは、霄弥には意外すぎることだった。 精神的な揺さぶりをかけられ、閉ざしていた扉が綻んでしまった。それは無意識なことであり、朔夜は気が 付いていないはずだった。だから、気が付く前に修復してしまえ、と思ったのだ。 だが、朔夜は心の奥底で倒れていた。 きっと身体が弱っていたせいで、心も不安定になり、奥底まで迷い落ちてきてしまったのだろう。朔夜の心は強いが、脆い。多少の罅には耐えられるだろうが、限界を超えたならば一気に砕け散るだろう。だから、精神的に傷ついたならば、心の奥底には来ない。来れない。「……何があった?」 霄弥には推測しかできない。 最後に朔夜を見たのは、胡家と呼ばれる家で戸惑いながら、失敗したようなどこか奇妙な笑顔だったが笑っていた。ここ数年、泣くのを堪えている姿と脅えたような表情しか見ていなかったので安堵したことを覚えている。 やっと、彼女が笑い始められた。そう思っていたのに。 だが、霄弥が幾らこの場で考えても、明らかに情報が足りず、何も分からない。軽く左右に頭を振り、気持ちを切り替える。(大丈夫だろうが……) 朔夜には、加護がある。加護の主を霄弥はとことん気に入っていなかったが、だがその力の威力はよく知っていた。 それに予想以上に簡単に朔夜を『夢』、いや『心の深淵』から現実に引き戻せれたのだ。それは朔夜の身体がまだ鼓動を刻んでいる何よりの証拠だ。だからそれほど身体のことは心配していなかった。心配ない、と自身に思い込ませた。 それよりも、気にかかることがある。「泣かせてしまった、な」 霄弥はどこか自嘲したような声を小さく吐き出した。白銀色の前髪をさらりと掻き上げ、そのままぐしゃりと握りつぶした。 脳裏に目尻に涙を辛うじて留めている透き通った紫色の瞳と、悲しみに歪んだ幼い顔が蘇る。 泣かせたいわけではなかった。むしろ笑っていて欲しい。幸せであって欲しい。穏やかな日々に浸っていて欲しい。そう願うのに、自身が与えたのは涙と悲しみだった。「いっそ全てを投げ捨て、抱きしめ、愛しみ……そして、自分だけのものにできたなら」 何度もそう思ったが、霄弥はその想いをその都度完膚無きまでに殺してきた。刺し、息の根を止め、細かく切り刻み、そして埋めてなかったことにした。想いを殺すことに初めは抵抗があったが、幾度も幾度もくり返すことで今では効率よく、淡々とこなせるようになっている。そして、その頃になると、想いすらも心の奥底に閉じこめ、表に出てこないようにすることさえできるようになっていたというのに。「たった……あれだけなのに、な」 意識がとぎれるその最後の、その一瞬まで霄弥を直向きに見つめ、忘れたくないと訴えていた瞳と、意識を失ってなお、必死に縋り付いていた指先。 それだけでまた想いが暴れ出している。意外に自分は意思の脆い、と思い知らされてしまう。「けど……な」 脆くても、決してその想いを解き放しはしない。できないのだ。 いくら朔夜が泣きわめこうと、縋ろうと霄弥は何度でもその必死な小さな指を振り解く自分を嫌というほど理解していた。抱きついてき、あの存在が霄弥だけのものになると囁いてきても、突き放すだろうことも。「これだけは、譲れない……我が儘、なんだけどな。貫き通させて貰う」 例え、それで朔夜が深く傷つき、涙しようとも。 霄弥は、すでに覚悟は決めてある。だが、同時に泣かせても、と思ってもできるだけその涙を少なくしたい、とも思う。それが朔夜にとってただの残酷な仕打ちでしかなくとも、自己満足だとしても、だ。 「…………っ」 ぴりり、と皮膚の薄皮を刃物で剥がされるような痛みが腕に走った。忌々しげに自身の腕を見つめれば、そこには漆黒で描かれた紋が浮かび上がっている。紋はすでに腕の半分以上面積を埋め尽くし、肌の白い色を隠している。「俺は、いつまで、持つのか………」 霄弥は小さく笑った。その笑顔に影はない。だが、光もなかった。ただ全てを受け入れたように静かに笑みを浮かべている。 この紋は、残された時間を、いや奪った時間を様々と宿主に知らしめている。この紋が全て身体を埋め尽くした時、霄弥の生きる刻は止まる。 すでに紋は、身体の至る所に現れ初め、身体の先のほう、手のひらや、足、顔以外はほぼ浸食してしまっている。近頃は額や首筋まで、となっている。 特別霄弥はそれを、どう、とは思わない。生をじわじわと奪われる感覚も、奪うために命を半永久的に誓い時間を長らえさせられることも、他者との接触を禁じられ孤独の海に叩き落とされたことも、霄弥の心にもう波立たせることなどできないのだ。嘆き、悲しみ、絶望に暮れることなど、もう飽くほどした。飽き、感情を飽和させるには、時間が充分すぎるほどあったのだから。「こんなものを……こんなものを“あいつ”に背負わせてたまるかよ」 皮肉な口調だが、どこか優しく穏やかな声音だった。 「“あいつ”は、何も知らなくて、いいんだ………“あいつ”が笑顔でいられるならば、俺は何だってしよう。例え、それで他の全てを代償にしようとも…」 霄弥は誓いの言葉のように厳かな声で呟いた。「それが、俺の罪だ…………罪は全て、俺が背負う。俺で、全てを終わらせる。俺だけで、いいんだ……」 こんな想いをするのは。 最後の言葉は声にならず、冷たい空気の中で儚く散った。
2006年10月05日
「………頼む。朔夜を……助けて、くれ」 緋深の決意をこめた一言で静かで、どこか重く張りつめた空気が一気に入れ替わった。息苦しさは消え、雪以上に冷たく感じていた凍えるような威圧感は消える。 肌に感じる空気の変化にふと緋深が顔を上げると、慈愛に満ちた光を湛えた瞳がこちらを見つめている。ふっ、と浮かべた女性の笑みは、さすが顔立ちが美人、としか評せない-の割には緋深は今の今まで全然気付いてなかったが-からか思わず向けられる緋深は意味もなく照れそうになった。 綺麗だ、と緋深は素直に思った。白い肌の輪郭に漆黒の髪が滑り落ちるように沿う。先ほど見透かすようで恐ろしい、と思った瞳も今は夜の闇の色で、まるで包み込むようだ。白い雪の上に椿の花が一輪落ちたように紅い唇が描く弧は美しく、先ほどまで緋深を苦しめていたものと同じとは思えない。 透明で、皓く眩い笑みだった。まるで月のようだ、と思ったのに緋深は驚く。(……同じだ…) 緋深は月のようだ、感じる笑みを見たことが以前あった。(朔夜と、同じだ………) いつも歪んだり翳ったりしていた朔夜が初めて緋深に向かってふわり、ほわりと初めて笑った時、緋深は同じことを思ったのだ。たった片手で数える程度しか見たことがないが、今も決して色あせることなく心の奥底に刻まれている。 目の前の女性が稟と空気の張りつめた冬の満月ならば、朔夜は新月だ。緋深がこよなく愛する新月は、ときどき、本当に稀にだが太陽の光をその身に受け、綺羅と輝く。柔らかで、儚く、小さな光だ。だが、その輝きが緋深にとってはとても尊く、愛おしい。 思わぬ一致に緋深が驚いていたが、それはほんの数秒だった。はたと自身を取り戻した緋深は、何故か悔しく思い-何にかは本人にもよくわかっていなかった-ぶっきらぼうな雰囲気を纏い直す。 女性は朔夜を楽な体勢にするように抱え直しながら、緋深に向かい尋ねた。「すまないが、馬は一頭しかいない。この子を一足先につれていくが、いいだろうか?」 緋深は咄嗟に首を横に振りそうになるのを、怒鳴ることを必死に留めた。わざわざ緋深-自身より歳が下である小僧-に断りを入れてくれる誠意に、敵意を向けることはさすがにできない。 だが、女性を信用したわけではないのだ。朔夜と引き離されるのは、認めがたい。 どうすべきか。 そのような緋深の感情を読みとったのか、女性は苦笑する。「この子の症状は、かなり悪化している。これ以上、雪に晒したくない…大丈夫だ、ちゃんとこの子と同じ場所へあなたもつれていく。そう遠く離れた場所に村があるわけではない。足で追いかけてもすぐに追いつく。そんなに心配なら早くこの子のもとへ頑張って、歩いてきてくれないか?」 緋深は、内心白旗をあげた。青ざめ、震えている朔夜を見てしまうと、反論のしようがない。不承不承頷く緋深に女性はふ、と小さく笑い頷き、馬を連れてくる、と朔夜を緋深の腕に預けた。女性の黒衣に縋っていた小さな指先はするりとほどけるのが緋深の目に、妙に印象深く残った。 腕の中に、体温こそ感じないが確かな重みが伝わった。首を少し下に俯かせれば青白い朔夜の顔が近くにあり、小さくか細いが吐息が聞こえる。思わず腕に力が入った。それに安心したように、朔夜の身体が弛緩し、重みが増したと思うのは、思い上がりだろうか。「それでも…………」(縋ってはくれないんだな) 骨が入っていないのではないか。そう思ってしまうほど指は力無くだらりと宙を浮いている。先ほどしっかりと黒衣を握っていたとは思えないほどだ。 寂しい、と緋深は心痛に思う。悔しさも、何でだ、という怒りもある。やりきれない思いだけが胸の奥底を渦巻いて、正直この想いを投げ出したいとさえ何度か思った。だが、それでも。(この腕の重みが……愛しいと、大切だと、思ってしまう………捨てられないんだ) 一度強く瞳を閉じ、緋深は気持ちを切り替える。今は、考えたくなかった。少なくとも、朔夜の傍で、こんなことを考えたくはない。 八つ当たり-と緋深は思うが、第三者が考えてみればそうでもない-怒りを緋深は朔夜にぶつけたくはなかった。朔夜の心の奥に残る傷が、緋深が刻みつけられるもの、というならばかなりの魅力を感じる。だが、決してそうはならないことを緋深は知っていた。傷つけることすらもできないのであれば、朔夜にとっては苦痛でしかないかもしれぬが、温もりを少しでも与え、身体に記憶させるだけだ。優しい言葉、温かな手の温度、抱きしめてくれる腕の強さ。それらは決して忘れようとしても、忘れられないものだと緋深はよく知っていた。朔夜に『拾われた』あの時から、体験を通し教え諭さたことだ。(いっそ…馬の横を併走してみるか?) 気持ちを切り替えようと思い、これからどうすべきか。そう考えてみたとき、ふと、そう思った。最初は何をばかばかしいことを自身は考えているのだろう、と思ったがふ、と緋深は真面目にその案を考え直してみる。 病人の朔夜を抱えて馬に乗るのだ。急ぐ、とは行っても揺れなどを気にすればそう大した速度は出せない。普段の緋深ならば可能である。だが雪で足取りは悪いし、何より緋深の身体事態も病人、と言っても過言ではない。すでに弱った体を酷使しすぎている。まだ鞭を打てば動かないことはないだろう。だがそうしてしまえば、緋深にとって良い結果にはなりえないだろう。 緋深の莫迦な-本人は至極真面目で、しかも莫迦だという自覚症状はあるから厄介な-考えを更に煮詰めようとするのをくい止めるように、急に頭が重たくなった。ずしん、いきなりと重たくなった頭に驚いていると耳に低く響く声が飛び込んできた。「安心しな、坊主。俺がちゃんと、村まで連れて行ってやるんだからな」「っ?!」 緋深は思わず顔を上げる。こちらをにやにやとした笑みを浮かべながら頭に体重をのし掛からせている男の言葉に愕然とした。目に飛び込む金糸や銀糸の豪奢な刺繍の衣が、目の奥でちかちか写り痛い。 少し考えるとわかるが、まさかなのだろうか。緋深は内心、否定してくれ、と思いつつも考える。 四から二を引けば、二が残るのは当たり前だ。わかっているはずのことだが、どうやら無意識にその可能性を排除していたようである。「冗談だろう……」 唖然とした緋深の言葉に、男は何を思ってだろうか、尚更楽しそうに極悪-緋深にとっては、だが-を表情に上乗せする。「何だなんだ?俺がいなけりゃ、『大事な嬢ちゃん』に追いつけないんだぜ。わざわざこの俺が道案内を買って出るんだ、ありがたくおもいな」「頼んでいない!そんなもんっ」「ほお…雪山の中を惑いに惑ってでも村に辿り着く気か?それとも根性で先生の馬を追いかけるつもりか?」「っ!」「図星か」 にやにやと楽しげに笑う男に緋深は怒りが我慢と言う枷を振り切りそうになるのを感じた。男はそんな緋深に気がつかないのか緋深の頭に大きな手を髪をぐしゃぐしゃにする。「やめっ」「阿呆なことを考えるな。何というか、青いねぇ」 褒めたように、感心したかのような口調すら、怒りを煽るしかしない。紅い瞳をきっ、とつり上げ、緋深は蹴りを繰り出す。怒りに身を任せた、というにはあまりにも冷静に急所を狙っており、更に人一人を抱えているとは思えないほど軽やかで素早い攻撃だった。だが奇襲にも似た攻撃を男は悠々と避ける。「お前に貸しを作るぐらいなら!………阿呆で結構だっ」 あまりにもはっきりと言い切った緋深の宣言に、男は一瞬目を見開き、次の瞬間呵々と楽しげに大笑いをした。緋深は豪快な男の笑いに、朔夜さえ抱えていなければ今すぐにでも殴りかかるほどの怒りと反発を覚える。「おまえ……いい反応するな。気に入った」 緋深としては全然嬉しくない。性格の不一致からか、生理的に合わないとしか言いようがない男から気に入られても緋深からすれば願い下げである。 近寄られ、首根っこを掴まれ引き寄せられても、ただでさえ男に触れられて嬉しいわけがないのに、この男だと尚更だ。頭を撫でる手も、子供扱いで気に入らない。しかも「暴れると、『大切お嬢ちゃん』に響くぜ?」 と脅してくるのだ。あまりにも目の前の男を緋深は好きになれるはずがないので、嫌いになる要素しかわざと提示して来ているのではないか、と疑ってしまうほどである。「獅吼……あまり、苛めるなよ?」 清廉な声と共に、真っ白な世界の中から女性が現れた。全ての景色が白い中、黒衣を纏った細い肢体と黒毛の良馬は異質だ、と一瞬思う。だがすぐに考えを改めた。まるで一枚の風景画のように自然と溶け込んでいるように見えてきたのである。不思議な人だ、と緋深は妙な気持ちで感心をした。 女性は男に首を掴まれ、雁字搦めになっている緋深を見て困った奴だ、と言わんばかりの表情である。「人聞き悪いぜ、先生。誰か苛めてるってんだ?」 首の辺りを太い腕で締め上げられながら、更に頭をぐしゃぐしゃにされる。怒鳴りつけようとしても上手いことに、息は辛うじてできるが喋ることは難しい案配に首が絞まっている。 じたばたと藻掻くが、それでも腕は離れず-当たり前だ、朔夜を両手に抱えたままなのだから-、大人しくしろと言わんばかりに力が加わってくる。「な?見えないだろう?」「お前が、その子を苛めている。と、いうより遊んでいる、か。まあ、どちらにしろそうとしかみえないのだが」 男の白々しい言葉を、女性はあきれかえったような口調で否定した。男は悲しいな、とおどけたように言い肩を竦める。「年輩者として下のものを可愛がってるだけだぜ、俺は」「言動が伴っているように思えないがな。それにお前がそう言うことを口にすると、嘘臭い」「ひでぇな」「結構だ。とりあえず、放してやれ」 女性の一言で、するりと男の手は首もとからなくなった。あまりのあっけなさに緋深は呆気に取られる。 何なのだ、この態度の差は。いや、差があるのは当然すぎるとしても、だ。この野生の肉食獣のような男の手綱を取っている女性は一体、何なのだ。「大丈夫か?」 女性は男をあっさりと従えたことに当たり前のように平然と、微笑みすら浮かべながら緋深の安否を問いかけてきた。 それにまだ驚きに瞬きつつも頷くと女性はするりと指を差し出してきた。「責任をもって、預かると約束しよう」 女性の言葉に緋深は、一瞬腕の中で気を失っている朔夜を見つめた。青白く、まるで蝋人形のような朔夜に生気が感じられなかった。 助けるには、預けるしかない。 理性では分かっているのだが、感情が緋深の邪魔をしていた。(………我が儘を、言っている場合じゃない) 緋深はそう言い聞かせ、ゆっくりと朔夜を黒衣に包まれた腕に預ける。(……朔夜に、何かあったら………殺してやる) 殺気すら混じった強い感情を紅い瞳に込め、緋深は女性を見つめた。 相手を灼き殺さんばかりの視線に、女性は淡く微笑んだ。
2006年10月02日
薄く開けた瞳に映ったのは、睫毛で縁取られた薄暗い風景だった。(………どこ、だろ…う?) 未だ混濁気味の思考で朔夜はぼんやりと思った。 右横のほうからゆらりゆらりと揺れる炎で仄かに照らされた暗闇は充分すぎるとは言えない光量で、朔夜が視界の先にある光景が、自身がいる場所が何処であるかを把握するには幾分か時間が必要だった。 高い位置にある天井の造りから、ここが小屋などではなく構造がしっかりした、大きめの家であろうと推測できた。肌に触れる感触と、重さから厚めの掛け布団が被されており、背中に感じる敷布も厚く感触も良い。 どうやら、助かったようである。ここが誰の家か分からないが、雪山で凍死はしなかったことだけは分かる。(死な、なかった……死ね…な…たんだ、私は) 死にたいとは思わない。だが、何処かでこんな目にあったのにまだ執念深く、浅ましく生きている自身に泣きだしたい衝動に駆られる。何て自分は醜いのだろう、と自身に吐き気すら感じた。 意識が失う前の朧気な記憶をぼんやりと朔夜は思い出す。また人に縋り付いてしまったのか、と思うと不安が心を浸食していった。 縋ってしまった人の顔はよく覚えていないが、綺麗な人だった。纏う空気が清廉な人だった。その人にまで災厄をまき散らしてしまう。巻き込んでしまう。そう思うと胸の奥底が握りつぶされそうだ。(あ……れ……?) 何故か、涙腺が弱っている。いつもならしっかりとしまっている元栓が、緩んで、気を抜けば角膜から雫が零れ出しそうだ。朔夜は困惑し、それに呼応したかのように角膜には雫が溜まっていく。(……え?……え?…) 朔夜は泣くことを自身に禁じていた。泣くことは弱さを晒すことだ。別に晒すことが恐ろしいのではない。その弱さを拭いとってくれる温かい指が恐いのだ。その温かさは全身ごと抱きすくめられるように心地よく、そのままで、と願ってしまう。 だが、それはしてはいけないことだ。甘え、縋ることは、その温もりを壊してしまうことに繋がるのだから。だから涙は枯れた、いや涸らしたはずであった。なのに。(何……で………?) 朔夜はふと、自身が『悲しい』と思っていることに気が付いた。その悲しみは今まで体験したことがないほど、底がないほど深すぎて、見渡せないほど広すぎて、すぐ正体がわからなかった。正体がわかっても、何故悲しいのかわからない。 自分の感情が、わからない。自分自身がわからない。こんなこと初めてで、朔夜は戸惑う。(……こ、わ……い)「朔夜っ!!」 混乱する思考を切り裂く鮮烈な声が頭の中に飛び込んできた。一瞬、朔夜の思考が止まる。(………え?) 頭の中の霧を一陣の風のように吹き払った声は、切なさが多大に含まれていて、けれど悲しいほど優しかった。そしてその悲しいほどの優しさの持ち主を朔夜は知っている。だから、応えたい、と思った。だが、声の主の顔を横に向けようとしても、身体の神経全てが切断されたかのように一指すら朔夜は動かせない。 絞り出すように力をこめてどうにかしよう。そう思った朔夜に、声の主はそんな無茶を窘めるように、柔らかい声と指で制止をかけた。「いい……辛いだろ?……いいから」 目覚めて、答えてくれようとしてくれただけでいい、とため息のような吐息と共に紡がれた言葉はか細く切なく、僅かに揺れていて、朔夜の胸を締め付ける。(緋、深……) 声帯を振るわせたつもりだが、干涸らびた喉では声にならなかった。朔夜は自身の不甲斐なさに思わず眉を寄せ、瞳を強く閉じた。(これ…で、何度、目………だろ、う?) 数え切れない程、幾度も名を呼ぼうとして、言えずに終わってしまったのは。 緋深だけではない。何度も名を紡ごうとし、何度も失敗してきた。声を、言葉を殺すことに慣れてしまったことで、伝えられず、悲しませ、不安に思わせたのは。少しは、ほんの少しは思いを伝えられるようになったと思い込んでしまった自分は何と自惚れていたのだろう。 一瞬唇を噛み締めることで自身の中の暴れる感情に朔夜は耐えた。これ以上緋深に心配をかけることだけでもしないでいようと思ったからである。 だが、その一瞬の動作にも緋深は気付いたのか、そっと額の辺りの髪を梳き、宥めるように手の温もりを分け与えてくれる。驚き、重たい瞼を精一杯開けて緋深を見つめると、優しい笑顔さえも注いでくれた。「ここの家人が、飯用意してくれたってさ。飯、と言っても汁物だけどな。まだ、固形物は無理だろ?……飲む、よな?」 問いかけではなく、準備はいいか、と聞く確認である緋深の声に、小さく頷いた。 だらりと力無い朔夜の身体は、まるで首が座ってない赤ん坊のようである。緋深はそっと背に右腕を回し、左手で上体を起こすのを手伝った。朔夜の頭部が緋深の肩にもたれかかるように固定し、背に腕が回して、半ば朔夜は抱き上げらるように緋深は支えた。 触れた場所から緋深の温もりが朔夜の冷えた肌に移ってくる。雪が舞い降りる空の下にいた時より余程温かい体温にほっとすると同時に恐ろしを朔夜は感じた。 この温もりもいつか散ってしまうのだろうか。 そう思うだけで心の奥底に冷たい剣が突き刺さる。不安に朔夜は緋深を見つめた。まっすぐ見つめてくる緋深の紅い瞳の奥に炎が見えた。焼かれるのではないか、と錯覚するほどだ。その苛烈な煌めきに無意識に朔夜は逃げだしたくなり、思わず少し藻掻く。「朔夜………少しだけだから、我慢、してくれ」 悲しげな声に、はっと朔夜は瞳を開けた。困ったような、痛みに耐えているような緋深の笑顔は、どこまでも優しさしか感じられず、思わず首を横に振りそうになる。(ちがっ………そうじゃ、そうじゃ…ない……緋深のこと、嫌いなんじゃ……) 嫌いなのは、嫌なのは緋深ではない。それだけは絶対ない。 どうすればここまで他者に心を砕け、慈しんでくれる優しい人物を嫌いになれるというのだろう。(きらいっ……なの、は…弱い…わた、しでっ………)「分かってる」「…え?」 驚きに瞬いた朔夜が顔をあげると、そこには少し困ったように笑う緋深がいた。「大丈夫。それより、ほら。まず、水な?」「……ぅ、ん」 冷まされた白湯が、少しずつ慎重に朔夜の口に注がれる。喉の渇きを潤すように含み、少し傷みを感じるが飲み下していくと、切断された神経が水の糸で紡がれ繋ぎあわせっていくようだ。 碗一杯分を飲み干した朔夜に満足げに緋深は笑う。「じゃあ、次は汁物……食べられるか?」 暖かくやわらかで、とても良い香りのする湯気は、食欲をそそるものがある。だが、朔夜は欲しくない、と感情が拒否しているのを感じた。身体は、胃は食物を求めて切実な願いを込め、懇願しているが、それでも口は、感情はかたくななまでにいらない、と自身でも不思議なほどに思っていた。 以前にも、同じ現象があった。どれだけ空腹で辛くとも、口に頑張りものを含めても、全て吐き戻してしまった。今、ものが食べられない状況なのは、痛感するほど理解していた。 本心を言えば、食べたくはない。拒絶したい。だが、それでも。「朔夜…」 声に促されるように、朔夜は少しだけ顔を前に傾け碗に唇を当てた。 強制されたわけではない。だが、朔夜は碗の中に入っているものが例え毒だろうと何だろうと、飲まなければならない気がした。緋深は決してそんなことをしないと分かっているが、それでもその掠れるように呟かれた名前は、わずかな反抗心を消し去ってしまう効果があるのだ。 緋深はそっと碗を傾けてくれ、一口、また一口とゆっくりと喉を通す。 口に含むと、味は薄いが純粋に美味しいと思った。だが、同時に吐き出してしまいたい。 まるで異物を無理矢理対内にねじ込まれているようだ。身体の細胞は求めているはずなのに、脳がそれを否定するという相反する命令に挟まれ、二つに千切れてしまいそうだ。 思わず感覚のない手を動かし、止めてと懇願したくなる。だが、朔夜よりもよほど辛そうな緋深の、紅い揺れる瞳に朔夜の言葉と身体は力を無くし、頭の中からこの苦痛から逃れる術が消えていく。 己の体温より熱いものを摂取したせいか、生理的にまぶたと眼球の間の水分が増え、視界が歪んだ。
2006年10月01日
右足を一歩ほど後ろに引き、重心を落とす。顎を引き、構える。 それだけでも身体は悲鳴を上げ、軋みを訴えてくる。だが緋深はあえて無視した。身体の訴えを聞かないことで、どういう結果になろうとかまいやしなかった。ここで引き、もしも朔夜が危険な目に会うことを考えればどうということはない。どう考えても後者のほうが後悔の度合いが酷いに決まっている。 緋深は殺気を纏い、射殺すように睨み付けた。 目の前の男は、緋深の行動を見て、軽く驚いたように目を見開いた。闘争心を未だ滾らせる緋深を見て、愉快そうに、肉食獣のような笑みを浮かべる。「へぇ………、粋な口を利きやがる。その意気の良さと無鉄砲さは認めるが、引き際を誤る馬鹿は一番に死ぬぞ、生憎とな」「黙れよ。あんたも、金掴まされて頼まれた口だろうがっ!」 そう反射的に怒鳴り返したが、心のどこかでそうではないのかもしれない、と思うところも緋深にはあった。だが視界に男を入れるとうっすらと無精髭をはやし、紅と白の生地に派手などという問題ではないほど過剰なほど豪奢な金と銀の刺繍で飾られた服を見ていると裏町の人間にしか見えないのだ。 緋深が敵意をふんだんに込めて睨む視線は、はらはらと目の前を舞う雪を通すことで緩和してしまったのか、男はにやりと余裕の笑みを浮かべている。 いや、違う。この男が鈍いと思われるほど不貞不貞しいだけだ。 緋深はそう、思いたかった。分かっている。この男は強く、実力があり、器も大きいので、不貞不貞しいと思うほどの余裕がある。だが、それを緋深は認めるわけにはいかない。認めたくなどない。もはやこれは、意地に近いものがある。「賢明だな。“深慮”、それだけが自分の身を守ってくれる。もちろんそれ以外を守るためにはそれを更に利刃のように砥いでおかないと、生きてはいけない」 先ほどより黙り込む、と言うよりも傍観していた女性が段々と剣呑な雰囲気になっていた空間を切り裂くように、清廉とした声を発した。賢明、という単語などを使っているあたり、言葉そのままととれば褒めているように思われる。だが、それにはあまりにも声が裏切っている。 皮肉が含まれている。それは緋深の勘違いかもしれなかった。だが、含みがあることには違いない。暗に朔夜のことを指され言われているには間違いない。 わかっている。先ほどまで己の腕で抱きしめていた存在が今どれほど危険な状態かなど、わかりきっている。だが、それでも緋深は抵抗しなければならない。 もしも、もしもだ。目の前の二人が善良、に分類される人種で、朔夜の生命の危機を救ってくれたとする。けれども、そのあとが問題なのだ。 いくら善良であっても、もし『あいつ』らが表れたならば、どうなるのか。莫大な金と引き替えに、引き渡すのではないか。もし、二人が緋深が驚くほど善良で引き渡すのを拒否したとしても、いくらこの二人が強すぎるほどの力の持ち主でも『あいつ』に対抗するのは難しすぎる。どちらの未来にしろ、朔夜の心に多大な傷を負わせることになってしまう。 朔夜が壊れてしまう。 それだけはあってはならない。だから、緋深は女性が示す安楽の場へ朔夜を連れて行くことを拒絶しなければならない。「そこまであなた達には利用価値があるのか?」 緋深はその言葉にはっとしたように面を上げ、女性を凝視した。まるで心を見透かされたのかと思った。 だが、緋深の行動で女性は何かを確信したようだった。自身に舌打ちしたくなるのを必死に抑え、緋深は女性を睨み付けた。 緋深には、利用価値などない。だが、朔夜にはあるのだ。それがばれた今、朔夜を助けようとする二人は緋深にとって更に危険な人間と認識された。朔夜の利用価値の意味を知り、無視をするなど余程無欲な人間か、世俗に興味がないもの以外ほとんどいないであろう。 どうすべきか、と悩む緋深の思考を断ち切るように女性は声を更に発した。だが、それはあまりにも緋深の予想を裏切るものだった。 「私たちは【禁足地】に住む者だ」(何だって……?) 緋深は思わず女性の顔をまじまじと見た。 禁足地と言う言葉は、緋深はもちろん、皓国にいる大抵の人間が一度は耳にした単語である。文字道理、只人が足を踏み込むことを禁じられた場所だ。だが、その実体を知っているものはいない。何せ足を踏み入れたことがある人間がいないのだ。噂が噂を呼び、今では怪奇現象や怪談、ある種の伝説の様な語り草の一種である。 それだけであるならば、緋深は何ら興味は持たず、忘れていただろう。だが、緋深はとある人物から禁足地の話を聞いたばかりであった。その者の話が真実であり、女性の言葉が真実ならば、何となく目の前の女性の正体を緋深は察することができる。だがそれは、あまりにも不確かすぎる。「そこにはあなたたちのように行き場のない者が、大勢いる。彼らは、外の何にも服従しない。己の名の下に戦う者ばかりだ。自分の足で立ち、己の信念にしか従わない。身分や名や地を問わない。過去も、髪や瞳の色も。失いかけたものは、守ることで再び取り戻せる。欲しいものがあるのなら、戦えばいい」 女性は、言葉を重ねる。その言葉の数々に、緋深はまるで理想郷かよ、と皮肉った。 身分や、名、地、髪や瞳の色を問わない。言葉では簡単だが、それはあまりにも現在の皓国では難しいことだ。小さい頃から植え付けられた固定概念という名の偏見。きっちり割り振られ、崩れることない身分。それが一切ない、ということは緋深や朔夜のような偏見の視線に晒されるものからすればある意味理想の場所だ。だが、ありえるとは緋深は思わない。思えない。 「確かに初対面の人間を信用などできないだろう。追われているならなおさら用心深くならなければならない。だが、ではそれを何で測る。今、ここで」「…………」「道は二つ。このまま此処でのたれ死ぬか、私たちと共に来るか。徒に此処で待ってもあなたの望むものは手に入らない。ならば、まだ可能性のある方に賭けてみるのも一興だとは思うがな。まあ………、あなた次第だ」 緋深は朔夜によって傷つけられ、未だ血を流している場所を抉られたような、塩を塗りたくられたような痛みを感じた。じくじくと傷が膿むように、痛い。それだけ女性の言葉は今の緋深には凶器であった。(………わかってる) 本当は分かっている。緋深が望む行動は野垂れ死ぬ可能性のほうが高く、万が一山の麓の村に辿り着いたところで、事態は一向に良くならないかも知れないと。 目の前の女性の差し出す手に縋った方が可能性がある、と。 緋深の戸惑いに揺れる瞳に気が付いたのか、女性は言葉を重ねる。「同じ戦うなら、残るもののために戦え………私はその機会を与えてやれるぞ。そしてその賭けに勝てばあなたは居場所を作れる。この子が、生きているのだから」 痛恨の一撃だった。 朔夜は生きているのだ。その可能性を繋げられるのは緋深だけなのだから。本当に朔夜が大切ならば先の見えない場所へ飛び込み、そこで賭に勝て。未知を恐れるのか。そんなものを恐れて、朔夜を野垂れ死なせるな。 そう告げる女性の言葉は、何よりも緋深の心の奥底を切り裂く。 何も知らないくせに、と叫ぶのは簡単だ。その手を振り払うことも。この女性は、今手を振り払えば、もう押しつけがましく手を掴んではこないだろう。そうすれば、この見透かすような静かな瞳から逃れることができる。 だが、なぜかそれは躊躇われる。緋深自身、もう半分以上選んでしまっているからだろうか。 この手を取ることを。「………なんでだ?」「何がだ」「こんなことして得があんのか?口調からして本当に俺たちのこと何も知らないんだろ?…………なんでそんなこと………」 半ば差し伸べられる手に抗うために思わず口にしたことばだった。だがそうだとしても、あまりに直球すぎる質問だ。思わず尋ねていたことに、緋深自身が顔に出さないが驚いたほどである。真意を探るためならば、もっと誘導するような上手い尋ねかたならいくらでもある。だが、気付けば何も飾らない言葉を口にしていた。 正直緋深は疲れていた。体力的にも限界が近いのもあるが、何より精神的にずたずただった。朔夜の無意識の行動による先制攻撃による大打撃から始まり、ずっとその傷口を抉られ続けてきたようなものだ。 この女性の言葉は正しすぎて、鼓膜が裂かれたように痛い。黒い瞳は静かすぎ、まるで揺れない水面で緋深の愚かさを映し出しており、目の奥が潰されるようだ。纏う雰囲気が静謐すぎて、疑ってばかりの自身の弱さをつきつけられるようで息苦しくてしかたがない。 朔夜が居らず、緋深ただ一人でこの女性に対峙していたならば、とっくに逃げ出していた。振り払っていた。 女性は少し不思議そうな顔をし、穏やかに緋深の偽りないむきだしの問いに応えた。「別に困らないからな、私は」「なぜ?」 どうみても訳ありの子供、しかも一人は生粋の守人、もう片方は守人の血を半分継いでいると来た。それを好きこのんで招き入れる酔狂な人間が、そうそういるものか。 だが女性はその根本の問題をわかっていないような声で、言葉を続ける。「私はあなたにどうこうされてたりはしていないからな」(……いや、うん。それもあるよな……たしかにどうこう、あんたらをできないよ、俺に。けど、そうじゃなくて……俺が聞きたいのは、そういうことを聞きたいなじゃなくて) あまりにも緋深の質問の意図と違いすぎる答えに、一瞬呆れそうになり、そして気付いた。この女性には本当に、身分や過去、髪の色や瞳にまったく気にかけていないのだ。最初から問題視していないわけだ。だから緋深が尋ねた意図を誤解している。 問題視がない。だから、簡単に手を差し伸べることができる。それこそ迷い子や、捨て犬、捨て猫を拾うように容易く。 この皓国という国で、緋深達のような外見を問題視しないことは、簡単なことのようで、実際はかなり困難である。生まれつきながら他者から少しずつ築かれる偏見の壁を容易く乗り越えてしまうこの女性は、剛胆なのか、おおらかなのか。それとも器が広すぎて、深すぎるだけなのか。 もう、何でも良いか、と緋深は思い始めている自身に気がついた。「さっき攻撃をしかけただろう」「別に死んでいないからな。獅吼も私も。問題ない」 打てば響く、というよりも投げつけた言葉をあっさりと打ち返すかのように軽々と言われる。「………本気か」「ああ」 もう緋深に返す言葉が見つからない。あんたは莫迦か、と怒鳴ることさえできない。目の前の女性に飲まれている自身に緋深はどうすればよいかわからない。 女性はとどめを刺すかのように、静かな瞳に強い光を宿しながら言葉を投げつけた。「局を見れず、感情ばかりに走るならばこのまま其処に死ぬまでいればいい……“生きたい”なら、来い。最大限の助力を約束しよう」 卑怯だと思う。ここで朔夜を引き合いに出すなど、緋深からすれば卑怯だとしか言いようがない。別に自身が野垂れ死ぬことを指摘されても、ここまでは揺るがなかっただろう。だが、女性が与えた選択肢の『生きるか、死ぬか』は、緋深のみでなく、朔夜のことも指している。 どうして、断ることができるか。「………こいつに、危害は加えないんだな」「約束しよう」 断言された言葉は、心強いものだった。 緋深は強く瞳を閉じ、肩の力を抜き、女性に向かい力無く頷いた。
2006年09月26日
-事件の数時間前 麗蘭の執務室- 麗蘭は、ようやく後十数枚となった書類を横目に湯飲みに入ったお茶をすすった。 今日は先日あった風害の一件があったせいか、百枚を軽く越えていた書類を黙々と片づけていたのだ。さすがの麗蘭も疲労を感じ、肩に重みを感じていた。 ふう、とひとつため息を落とし、麗蘭は筆を取った。もう夕餉を食べてもう一刻ほど経つ。書類の他にもまだ多少仕事が残っているのだ。そろそろ書類を片づけ終わらねば、明日に響いてしまう。(この頃は……妙に書類が多いわね) ふと筆を滑らしながら思う。 今日のは確かに破格の多さだったが、それがあまり苦に思わないのは近頃書類量が少しずつだが、罅確実に増えていっていたからだ。今日の書類が数ヶ月前に出されていたならば、かなり悪戦苦闘していただろう。 前々からかすかに疑問に思っていたことが、膨れあがるように存在感を主張しはじめる。 不審者や狼藉者、浮浪者の増加による街への被害、流通への圧力、異常気象。それらが少しずつ間隔をずらしながら波状攻撃をしかけてきている。それは目を凝らさないとわからないよう、「些細さ」という衣を被ることで今は形を潜めている。 何が起ころうとしているのだろう。 異常気象はまだよいとしよう。麗蘭の執務室の窓から見える季節はずれの冬の豪雨は、人間が何か関与できる問題ではない。 だが、他のものはどうだろう。浮浪者達は麗蘭はまだ情報を掴んではいないが、流通の圧力の原因、というよりも元凶はわかっている。この二つに関連性はないのだろうか。麗蘭は疑り深いと自身思いながらも更に思案を深める。 浮浪者、はまだよい。だが問題は狼藉者と不審者である。胡家の収める土地の住人は、-収める胡家がないがしろにされていた過去があり、その余波がまだ残っているからか-この地にしっかりと土着している。隣人や近隣住民は皆、顔見知りと言っても良いほどだ。だからかまったく問題がない、というわけではないがそれなりに治安は良い。少なくとも問題を起こした人間の名前と顔など調べれば次の瞬間にはあがるほどだ。 だが、此処最近暴れ回っている狼藉者達を知っている者はこの地にはいなかった。不審者もだ。何故、この胡家地にそんな輩が現れたのだろうか。 確かに治安が良く、流通の要を握り始めた胡家の恩恵を預かっている胡家の地は豊かだ。単純に考えれば狙い目だろう。だが、胡家の土地は今は薄らぎつつあるが、未だどこか排他的な空気が確かに存在する。見知らぬ者がいれば、監視の目が否応なしに付きまとう。その中で事件を起こすのはある種無謀だ。一度でも些細な事件を起こせば、次の瞬間冷たい視線と更なる重度な監視の視線で見えぬ檻が作り上げられるのだ。 一体何が目的でこの地に表れたのか。 そこがいまいち麗蘭には読めない。自身の思考を軽く飛び越えるほどの阿呆なのだろうか、その者達は、とさえ考えてしまう。 そう切り捨ててしまえば楽ではある。だが、そうできない理由が麗蘭にはあった。 狼藉者達が現れ始めたと同時に、しっぽを掴むことにかなり腐心しなければならなかった羅家の間者ぱたりと消えたのだ。まるで刻を合わせたかのように。それが妙に麗蘭には引っかかる。「……これで、終わり」 ぴっ、と墨を硯の上で切り、全てやり遂げた書類を片づけた。それと同時に思考の渦の流れも止めた。 今は考えてもしかたがない。情報の数が少なすぎる。直属の者達にその件についての情報収集を任せてあった。今は余計な推測をし、妙な、それでいて強固になってしまう予測などしないほうがよい。 だが、気を抜くと妙に考え込んでしまう。麗蘭は、さてどうするか、と思い、ふと執務室の扉を出た。 闇を照らす燭台の炎の灯を頼りに数個扉を通りこし、目的の部屋に辿り着く。そのまま声もかけることなく扉を勝手に開けた。この部屋の持ち主は、鍵をかけるということを基本的にしない。はじめは不用心かと思ったが、彼女にとっては鍵を『信用ならぬ』、というよりも『あってもなくても同じもの』という認識で、それを覆すのは無理だったので諦めた。声をかけぬのも、返事をしないからだ。無視をしているわけではない。彼女にとって部屋とは『睡眠をとるための場所』でしかないのだ。つまり、部屋に籠もっている間は確実に寝ているのだ。声をかけるだけ無駄だ。 麗蘭は扉を大きく開けた。廊下からわずかに入ってくる灯だけを頼りにし、部屋のあかりは灯さなかった。 睡眠をとっている部屋の主への配慮だ。 麗蘭は褥には目を向けもせずそのまま部屋の四隅や天井、褥の影、天井など子供が隠れられそうな空間がある場所に目を凝らした。いない、と理解するとそのまま机、収納箱などをこんこん、と手の甲で軽く叩いていく。「見つけた」 静かに呟き、麗蘭は衣類をしまう棚の扉を開け、隅で小さく、身体を丸めている少女に微笑みかける。ようやく見つけた部屋の主-朔夜-は穏やかに眠っているとは、言えなかった。表情が抜け落ちた、人形じみたように眠っている。だが、麗蘭はそれでも笑みが零れ出た。ようやくみつけた、という苛立ちも当然ない。 むしろ、ここで朔夜が眠っているということが嬉しかった。 実はこれでも、かなりましになったのだ。最初のほうはいくらいくら探しても見つかることはなく、翌日埃まみれになった-思わず何処で寝てたんだと言わんばかりの-姿で見つかることもしばしばだった。そのことを考えると少しは心開いてくれている、と思い上がっては良いのだろう。 少々行儀が悪いが棚に軽く腰掛け、麗蘭は朔夜を見つめた。見ているとわかりにくいが、少しずつ、本当に少しずつだが歩み触れることを許容する-わかりやすくいうと懐く-朔夜が、麗蘭には可愛くてたまらない。「…櫻妃が言っていた意味が、ようやくわかったわ」『この子が穏やかに眠っている姿を見ていると、私はとても安堵できますの』 脳裏に柔らかな声音が蘇る。緩やかな波状の長い髪をふわりと動かしながら、歌声のような優しい声の親友は滅多に見せない、心からの微笑みを顔に乗せていた。 ふと、麗蘭はそのとき親友がしていた動作を真似るように朔夜を触った。すっと髪を梳き、そのまま指を頬にそっと滑らせる。ぴくりと一瞬震えたが、またくうくうと眠り出す姿に思わずどこか温かい気持ちが生まれる。 多少寝顔が穏やかになったように思うのは、自意識過剰だろうか。『本当に、この子が大切、というより愛おしいのね』『私達は……』 朔夜とは数度しか面識がないない頃、珍しい姿を惜しみなく見せてくれる親友に対し、麗蘭は思わず呆れた、と言うよりも感心したように呟いたことがあった。 親友は苦笑に似た笑みを一瞬浮かべ(それは心許す親友、麗蘭だったからだ。他の者なら完璧な微笑で首を傾げ、はぐらかしていたはずだ)どこか沈痛な表情で朔夜を見つめていた。『私達は……この子が本当に大切ですわ。でも、それは今でだからこそ、そう言えるのです』『……櫻妃?』『はじめは、贖罪、に似た気持ちで、この子を助けました』『贖、罪?』『ええ……この子が苦しんでいる顔を見ていると、胸が痛みました。でも、それは哀れさや同情からなどではなく、長い間持ち続けた私たちの持っている傷が疼いたから。この子に笑って欲しいと願いました。でも、それもこの子が涙を忘れ、穏やかに微笑むことができるなら、私たちが抱えている罪が許されると思ったから。この子を助けたいと思いました。これも…本当は私たちが許されるため。全てを終わらせるためです』『ちょ……櫻、妃?それは、どういう…』『ですが…今は違います。この子がこの子だから、私たちは愛おしい。慈しみたいと思うのですわ。偽ることを知らず、欺くことを知らず、自身を守ることを知らず……傷ついていく。けれどそれでも人を疑うことを知らず、他者を責めることができない。そんな不器用で、良く言えば純粋…悪く言えば単純な人間、他に知りません』『…………褒めてる、のよね?』『ええ。もちろんですわ』 ほんわりとした、完璧な微笑だった。 この後、朔夜という人間の人となりをあらまし語った後、散々いかに可愛いかをまるで惚気るように聞かされたのだった。 (あの時は、話半分で聞いて…呆れて…何処か不可思議がっていたのに……ね) 今では同じ穴の狢だ。 麗蘭は苦笑しながら髪を梳き続けた。 朔夜の寝息をかき消すような豪雨が窓を叩きつけ、少々耳障りだが、それ以外の音はない。薄闇を淡く照らす廊下からの灯がゆらゆらと揺れている。まるでここだけが時間の流れが緩やかになっているようだ。 このまま穏やかな時間にたゆたっていたい。いつまでも、という訳にもいかないのでせめて今日の疲れが癒せるまでは。そう思っていた矢先だ。 豪雨の音を切り裂く、いや打ち壊すような金属を打ち鳴らす音と、悲鳴と、胡家の重たき門を開ける音がいびつな三重奏を奏でたのであった。それはあまりにも静寂とは相容れない音だ。「一体何がっ……」 眉を顰め、麗蘭は舌打ちしそうになる。不吉な音など、胡家には必要ない。 天災や事故ではない。人災だろう。 そう判断できたのは麗蘭の直感もあるし、豪雨の狭間からかすかに聞こえてくる音に耳を傾け得られた情報を総合した判断である。それに何よりの証拠が麗蘭の横にあった。 横に顔を青ざめ、震えている朔夜がいる。音が聞こえた瞬間、弾かれたように起きたのだ。 麗蘭はそっと手を伸ばし、朔夜を引き寄せ抱きしめた。脅えたように大きく震えるが、かまわず腕の力を強める。 この脅えようが何よりの証拠なのだ。 守人の聴覚は常人を上回る。幼い頃から武器を扱う守人ならば、外から聞こえるかすかな金属の打ち鳴らす音を何が奏でているか明確なのだろう。 だが、どこかおかしい。脅えかたが異常すぎる。「朔夜?どうかして?」 過剰反応をし過ぎている。朔夜は自身のせいで起こった事象で人が傷つくことに、何よりも悲しみを覚え、そうなってしまうことを脅える。だがここまで脅えるということは だが、それは「今」ではない。今起こっている人災が朔夜のせいである根拠はないというのに。 麗蘭は落ち着けるように朔夜を強く、強く抱きしめていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。麗蘭は当主なのだ。胡家の衛兵達に信を置き、その実力を認めているからこそ今はこうしている。だが、もう時間がない。 朔夜のことは心配だ。特に今の朔夜の様子はおかしい。放っていくことは心配すぎる。だが。「怜蓮を、呼ぶわ……朔夜、大丈夫、すぐ騒ぎを収めてくるわ。この部屋で、じっとしてなさい」 麗蘭は朔夜を安心させるように微笑んだ。
2006年09月22日
[…………思い出すな。思い出さなくて、いい] 男にしては高め-まだ変声期前なのだろう-で透き通った声が、朔夜の鼓膜を優しく震わせる。その声は困惑で、波立たせていた心を静め、はたと朔夜を正気に戻させた。朔夜の呼吸と鼓動が穏やかになったのがわかったのか、白い指はするりと朔夜の視界から消え、背後に感じていた体温ごと1、2歩分遠のいてしまう。 事態がまったく把握できていない朔夜の視界の端に、声と共に人影が映った。[………まさか、閉ざした記憶の扉が開きかけるとは、な] 真っ白な少年だった。朔夜よりも高い、そうちょうど緋深と同じほどの身長で、細い体つきだが、それでも貧弱さではなくしなやかさを感じる。まるで髪も、肌も、少年自体が雪でできているかのようだと、朔夜は感じた。 白銀の絹糸でできた髪は前髪が後ろに流されて額が露わになっており、その額には白い肌とは対極の色である黒で入れ墨があった。それは何かの紋であろう。宗教色が強い形だと感じられるのは、どこか世離れしたような少年の雰囲気からであろうか。 人でありながら人でないように感じられる少年をはっきりと認識させるためか、少年の纏う衣は墨染め色でできている。少年の歩みと共に揺れる着流しは、軽やかな動きとは違いどこか重たそうな印象だ。まるで少年を地上に繋ぎ止める鎖のようである。 少年は独白のように色々と呟いているかと思うと、急にはたと視線を合わせ、そのまま朔夜には理解が不能な言葉を紡ぐ。[今、お前は身体が余程疲れているんだな…そのせいで、扉が綻んで、夢に出てきた、ってとこだな](あな、たは…誰?……扉?)[……その様子なら、完全に、ではなく朧気ながら思い出した、ってとこか]「あ……」[……好都合、なんだがな](何故………そんな…悲しそ、うな顔、する…の?)「……な…」 呂律が上手く、回らない。言葉が上手く舌に乗らず、口から出せない。 目の前の少年を見ていると、朔夜は胸が締め付けられるように痛み、激しい困惑に襲われる。その痛みは底がないほどの深い切なさと、何処か優しい感情を思い出させる感じられるものだ。朔夜は自身の感情がまったく理解できず、不安すら感じていた。 だが、決してそれは、目の前の少年と会わなければ良かったとは思わない。むしろ、会えなかった今までよく平気だった、とさえ思うほど、この少年との再会に喜びで、胸は温かい感情で満ちている。(………再、会?私は、何処かで…会った、ことが、ある?) 無意識に、朔夜は少年との出会いを、“再会”だと感じた。何故だろう、と疑問に思い思惑するが、どうしても上手く考えが纏まらない。まるでばらばらの事柄を繋ぎ合わせようとするたびに、するり、するりと手からこぼれ落ち、解けてしまうようだ。(あの、かたの屋、敷で?……うう、ん、ずっと…もっと、前…まだ里に、いた、頃?) そう確かに目の前の少年と出会ったのだ。ずっと昔に。それは間違いないはずなのに、何故思い出せないのであろう。両手で数えられるほどの年月ほどでしかないはずなのに。 どんどんと疑問を紐解こうとする思考を断ち切るかのように、そっと頭部に温かい感触が触れる。はっ、と面を上げると、深い、深い色合いの紫色の-自分と同じ紫色なのに、どこか違った印象を受ける-瞳と真っ正面からかち合う。 朔夜は思わず、目を瞬かせた。 視線は、文字に線という字が使われているように、線でできていたのだろうか。朔夜はふとそう思った。紫色の瞳から生まれ出たその瞳と同様の糸に絡み取られてしまい、動けない。顔も、足も、手も、瞼すらも動くことが叶わない。[いい、忘れろ](……え?) 朔夜の頭においた手で髪を撫でながら、少年は声を発した。先ほど独り言のように呟いていた声音とは違う、優しく心地よい熱を孕んだ声音で紡がれた言葉を理解するには朔夜は少し時間を要してしまった。 朔夜は、それがあまりに声とは違う、残酷で冷たい言葉だと直感すると、慌てて首を左右に必死に振った。何を、何故、忘れろと言うのかすらはっきりと分かっていないというのに、否定しなければならないと、脳が、身体が、細胞が、全てが命じるのだ。咄嗟の身体の行動にようやく感情が追いつくと、無性に悲しく、切なくなり、瞳が水分で埋め尽くされそうになる。 まるで、親に置いていかれそうな子供のように朔夜はいやいや、と必死に少年の言葉を否定する。 少年は困ったように少し笑い、困ったと言わんばかりに肩を竦めた。それはどこか演技じみていて、どうしてそんなことをするのだろう、と朔夜は思いつつも左右に首を振り続ける。 瞳に浮かぶ感情は喜色なのに、どうして少年は、困りはて、悲しげに目を眇めるのだろう。[……思い出すな。出す必要なんかない]「や、だ……」[……忘れたままでも、今まで大丈夫だっただろう?困らなかっただろう?辛くなかっただろう?だから、このままでいいんだ]「よく、ない…よ……」[…今、忘れていて、辛いと思うのは、思い出しかけているからだ。今の今まで、忘れていて辛いなんて、思いもしなかっただろう?]「ちが……違う……ちが、うよぉ」 そんなのは、何かが違う。 言い聞かせるように、重ねられる言葉が、妙に鋭く朔夜の心を抉っていく。 少年の言葉は、何かが違うと朔夜の心が叫ぶ。確かに、過去を忘れていたことが、今、朔夜にとってとても辛いことだと思う。この感情は少年のいう『今の今』まで感じはしなかった。だが、それは忘却された記憶自体が辛いのではなく、忘れていたことが辛いのだ。 忘却されていた記憶はまだよく思い出せないが、どれも温かく優しいものだ。とても尊く、愛おしい記憶だ。何故かと言われたら、直感したとしか言いようがない。けれども、決して間違ってないと断言できる。 それを忘れていたのが辛い、と言っているのに、またそれを失えというのか。 確かに失ったこと自体忘れてしまえば、辛いとは思わないであろう。だが、それでも喪失感は残る。幼い頃からあった、あの空虚感は残るのだ。自身の中に虚ろな部分を、どうしろという。決して埋まらない穴を、どうすればよい。 そもそも何故、忘れなければならないのだろうか。少年のことも、温かい過去も、幸せだった記憶も。(…約束…だって、忘れ、ちゃうの?……なくな、ちゃうの?) そうだ。約束したのだ。あの幼い頃にした、ずっと大切に思っていた約束すらなかったことになるのか。 数年、もう8年ほど前になるのか。まだ幼すぎた朔夜に、守人になる朔夜に対し、守人の性である“主のためならば自身の命など”を心配した少年がかけた言葉がきっかけで交わした約束が。(だから…だか、ら……私はっ) 無意識に朔夜は約束を覚え続けていた。だから、今まで何度死のうと考えても、みっともないほど足掻き、生に執着した。だから、大切な人々に、朔夜という存在がある限り迷惑をかけ続けると自覚しながらも、死ぬに死ねなかったのだ。朔夜という意思が、何度死を望んでも、莫迦な脳とは違い約束を覚えていた身体が拒絶し、無自覚に生きる道を探し、どうにか生命を繋いできた。 たった一度はるか昔、忘却すらしてしまった約束を守り続けるためだけに。(なのに……今まで、ずっと、守ってき…た……約束さ、え…なかったこ、とに………する、の?) 少年を責める気持ちはまったく起きず、ただ、ただ悲しい思いだけが朔夜を支配する。他者からの忘却は、幾度も朔夜が願い続けてきたことだと言うのに。 朔夜はずっと、願ってきた。朔夜を庇護してくれる優しい人々が、いっそ朔夜のことなどを忘れ去ってくれないかと、神へ懇願するかのように祈り続けた。朔夜のことなど忘れてしまえば、彼らは災厄から、少なくとも朔夜が引き起こす大きな禍からは遠ざかれる。 もし、彼らから自身のことを忘却できたならば、忘れられることは辛いが、それ以上の安堵感を朔夜は手に入れられただろう。悲しみもするが、そんなこと-自身の悲しみなんか-よりも、重荷が彼らから取り除けたことに喜びを感じただろう。 なのに、だと言うのに目の前の少年に、同じことをされると考えるだけで、何故こんなに悲しいのか。底のない純粋な悲しみと痛みだけしか感じないのか。どうしても、安堵感や喜びがまったく感じられない。 朔夜は縋るように、少年の墨染め色の衣の端を握りしめた。誰かに縋る、ということを普段しない朔夜はそんなことをする自分に戸惑い、混乱もするが、それはあっという間に悲しみに飲み込まれ、消え去る。 少年はそっと朔夜の固く握った手に触れた。引き剥がされるとか思い一瞬震えるが、朔夜の予想とは違い、強く握りすぎ冷えた手を温めるように重ねられるだけだった。[……お前は…そう言えば守人だったな](それは、あな、たもで、しょう?)[お前には俺以外にも、もう“本当の意味”で大切に思える人間が一杯いるだろう?](もう、私、は……いらな、い、の?)[……最初に、お前に触れた人間だからってだけで、お前が俺の為に全てを捨てる必要も、投げ出す必要もないんだぞ?]「……っ?!」 朔夜ははっ、と大きく目を瞠り少年を仰ぎ見た。少年は、ただ静かに朔夜を見つめる。穏やか、とも言えて、決してそうは言えない、奇妙な静けさのある感情は、どこか諦観ささえ感じられた。 その諦めに似た感情に悲しい、と感じはしなかった。そのような感情が入る余地が、朔夜の心には今はなかったのだ。何故、忘れていたのだろう。その感情で一杯だった。(この人は……私のっ) 朔夜は里が引き合わせた己の“主”を、心のどこかで絶対と思えなかったことに悩んだ時期があった。絶対で、唯一で、己の全て。そうであるはずだが、朔夜は“主”を主として認めていたのに、そうは思えず、自身は欠陥のある守人ではないか、と考えたのだ。 だが、それは欠陥があったからではない。ただ、“主”より先に出会った目の前の少年に、すでに朔夜は無意識に全てを捧げていたのだ。既に全てを捧げているのだから、“主”に捧げるものを朔夜は持ってい。だから、捧げられない。当たり前のことだったのだ。「あ……な、たは………」[守人の性分、ってのは……残酷だよな] 「え…?」[全てを捧げ、尽くす。そこにある愛情や思慕は、本物なのか?]「………」 何が言いたいのであろう。 朔夜は首をかしげそうになる。 少年の言葉に、本物だと言いたい。本物になるかもしれない、と言いその悲しげな言葉を否定したい。だが、あまりにも深い意味と感情が込められており、かけたい言葉が喉の奥で消えていく。[悪いな……]「……っ?!」 するりとずっと頭を撫でていた手が朔夜の視界を覆った。白い指先しか見えず困惑する朔夜に少年は泣きたくなる残酷な言葉を吐く。[目覚めたら……お前は、『いつものお前』だ] それは、朔夜の願いなど無視をするという宣告だ。「やっ………嫌だっ!」 少年の手を剥がし、身じろぎし、少年を見つめた。まっすぐに見つめる朔夜の瞳に、少年は顔を一瞬歪める。だが、それも本当に一瞬にすぎなかった。すぐに困ったような、だがどこか慈愛に満ちた笑顔にとって変わられる。[………おやすみ、はおかしいな。早く目覚めてこい] 最終宣告だった。その言葉とともに朔夜の視界はぼやけていく。膝の感覚がなくなり、背骨が砕けてかのように上半身が揺れ、首が赤ん坊のように座らない。目の前が暗くなり、意識が混濁してくる。 朔夜は悲しみに埋め尽くされ、今なら悲しみから生まれる息苦しさで窒息死できそうだ、と思う。だが、そんな中でも唯一の救いがあった。それだけが折れそうな心を支え、辛うじて砕けそうな心を繋いでいた。 それは、朔夜の思い違いなのかもしれない。だが、ぼんやりとした意識のなかで感じた朔夜を包み込むような他者の体温は、きっと幻ではない。 朔夜はそう信じたかった。
2006年09月16日
だだ深くへ。深淵の意識の海の底へと朔夜は沈んでいっていた。 (何、で……だっけ………?) 自分が海へ沈んでいくように、落ちているのは、何故だったのか。 朔夜はふと奇妙な浮遊感に身を委ねながら、ついほんの数分前のできごとを思い出した。 そう確か、漆黒の闇に招かれるように、ゆっくりとゆっくりと朔夜は夢の世界から引き離されたのだ。 朔夜の足下だけが、底なしの沼に変わってしまったかのようにゆるやかに沈んだ。最初は驚き瞳を瞬かせていたが、先ほどまでいた場所がうっすらと靄がかかったかのように見えた瞬間、朔夜は全身の力を抜いた。(これ、で…いい……) そう思い、ただ静かに緩やかな落下を受け入れる。 朔夜のいた場所以外、何一つ光景は変化しなかった。その事実だけで朔夜は満足感のようなもので一杯になる。驚きも戸惑いも、ほんの少しだけあった抵抗する意思さえ、満足感の前では、輝く太陽と対面した新雪のように儚く消えていく。 あの美しい光景が、変わらない。消えない。壊れていない。 その事実が、朔夜に予想以上の幸福をもたらした。わずかに、あの光景を眺められなくなる寂しさと、やはり自分はいらないのだという悲しみが過ぎるが、そんなもの朔夜にとっては大したことではない。 ゆるやかな落下はゆりかごのようで、とても心地よい。いつも朔夜にまとわりつく不安や恐怖が、例え夢の中とはいえ、ないのだ。久しぶりに安堵と安心感がわき出ている状態で、その心地よさはある意味凶器だと朔夜は感じた。なし崩しに眠らされてしまい、そのまま目覚めることができないのではないかとさえ思ってしまう。「いっそ……目覚め、なけ、れば………この夢の、よー、に…なにも…壊さ、ずに…すむ、の、か……な?」 途切れ途切れ紡がれる言葉は、決して普段は朔夜が口にしないものだった。 何度となく考え、夢想したことはある。だが声に出してしまうと、朔夜の周囲の人間はよい顔をしない。だから、朔夜は思いを声にはできなかった。それが今頃わかったのか、という表情ならば朔夜は躊躇いはしなかった。だが-本来ならそういう顔をするのが当然すぎるのに-それなのに、周囲の人間達は皆、怒った表情で、なのに瞳だけは今にも泣き出しそうなほどの悲しみを湛えているのだ。朔夜には蔑まれる、などは幾らでも耐えられるが、悲しみで揺れる瞳にはどうしても、ほんの少しでさえも耐えられない。(……だ…たら、いっそ……いっそ?) うつらうつらと、すでに脳は眠りを誘う腕に攫われかけているようだ。いっそ、何と自分は考えたのかさえ朔夜は分からなかった。 そのまま闇に身を、頭を、心を委ねてしまおうか、と思ったときだった。 夏の青々と多い茂った芝生の上に寝転がったような、やわらかな感触のものが背後を覆った。眠たいと言う願望から褥でも表れたのか-夢だから、それもありかな-と思ったが、どうやらそうではないようだ。しばらくぼんやりと考え、朔夜はようやくここが“心の底”だということに気が付いた。 意外と自分の心、というものは深いのだな、と一瞬思いはした。だが、浅いのかもしれないのかも、とも同時に思った。一体どちらなのだろうか、とつらつらと、取り留めもなく思っていた時だ。(……どっち、で…も……いい、よ、ね?………………ん、ん?) ふと、周りが漆黒の闇だけではないことに朔夜は気が付いた。鈍い動作で身体を起こす。後ろ手についた腕だけで上半身を支えた体勢で、ゆるりと周りを見渡し、そのまま首を横に傾げた。(これ……って) 鈍い灰色の色の球体が浮かんでいる。先ほどの光の珠と形は似ているので、きっと同じようなものだろう。だが、あまりに輝きがない、まるで闇と同化しているようで、どうも『違うもの』という印象になってしまう。 まるで、蔵の奥深くに閉じこめられ、放置されたせいで錆び付いてしまった“もの”のようだ。 朔夜はそれに吸い寄せられるように手を伸ばした。 好奇心ではない。好奇心などで“何か”に手を伸ばすなど、朔夜はしない。できない。 だがそれでも朔夜は手を伸ばした。伸ばさなければならない。そうふと感じたからだ。感じ、理性が触れることを少し待つように信号を出すが、制止にすらならなかった。 躊躇いがちに、だが真っ直ぐに朔夜は指先を進めていく。「………っ!?……つっ」 それは朔夜の指の皮膚一枚ほどが珠に触れたときだ。ばちりと言う音と共に、珠と朔夜の間に鋭い閃光が走る。驚きで朔夜は声もなく、固まった。痛みはまったくないせいか、条件反射はおきない。だがそれが悪かった。触れ続けていたせいで、閃光はどんどんと大きくなり、白色の雷に姿を変え、朔夜を取り巻くように存在を誇示し続ける。 瞬くような光が目の奥に焼き付いたせいだろうか。脳裏に白い閃光が、花火のように弾けては消えていく。意識を塗り替えていくような閃光は、脳の奥底になる何かを揺さぶろうとしているように朔夜は感じた。揺さぶられると同時に、割れるような、ではなく切り裂くような痛みが頭を襲う。 咄嗟に手を珠から放し、痛みを少しでも抑えるために頭を抱え込む。珠は朔夜の指が触れなくなると、力つきたかのように輝きを失せさせ、元の鈍色に戻っていた。だが、朔夜の頭の中の閃光は消えない。 脳裏に様々な光景が瞬きより速く浮かんでは消えていく。あまりにも速すぎいつ、どの、何の光景かはわからない。だが、その光景を一瞬でも認識してしまうと、何とも言えない感情が溢れ出していく。 恐い。 朔夜はただ怯えた。 頭に許容量以上の情報を無理矢理流し込まれ、溺れてしまいそうだった。何かを『思い出すこと』で、自身が変わってしまいそうだった。久しくなかった激しい感情の渦に、流されてしまいそうだった。 その全てが、とても恐かった。「………だぁ、れ…?」 (あなた…は、誰、なの?) 朔夜は顔も、姿も分からない、だが頭の中で強烈すぎるほど、存在を主張する者に問いかけた。 ぼんやりと、まるで蜃気楼のような後ろ姿が何かを訴えるように脳裏にちかちかと浮かんでは消える。「知って……る?あなた…を、わた、し……は?」 だんだんとはっきりと焦点の合ってくる姿。それを朔夜は確かに知っていた。 思い出したい。 朔夜は強く願う。だが、願えば願うほど頭痛は酷くなり、意識すら朦朧としてきた。「……っ!!!」 けれど。けれども。それでも、と朔夜は願い続けた。後少しなのだ。どうしても、思い出したい。朔夜はただ、ただ強く望んだ。 渇望、と言ってもいいほどの強い願いだった。 だが、そんな願いを断ち切らせるかのように、すっと白いものが視界を覆う。「っ?!」[…………思い出すな。思い出さなくて、いい] あまりにも透き通った声に、朔夜は思考を止めさせられた。
2006年09月07日
之推は走り去る後ろ姿を見つめながら、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。玲鈴が去ってしまい、元から人気がなかった場所が、花-蕾であろうと咲いてなかろうと花は花だ-がないせいで更に殺風景で、味気のないものとなってしまったのと、玲鈴の弱さと脆さをまじまじと見せられてしまったせいだ。之推はため息をつかなかったことが、自分自身不思議なほどである。 玲鈴は淡い紅色のいつか大輪の華になるであろう蕾のはずだ。これは之推の推測でしかないが、あながち勘違いではない。“あの”胡家の女主の妹だという事実や之推自身が有する観察眼の裏打ちがあるのだ。(だが、まだまだ蕾は固く、咲くには時が必要かな?) 之推は目を伏せ、瞼の裏に先ほどの玲鈴の顔を思い出した。蒼白な顔に揺れる眼とわななく唇が飾られ、哀れなほど傷ついていた。 玲鈴はまだまだ視野が狭く、己の見て知っている世界が全てだ。だから玲鈴の力量では真実、いや事実を知ることすら難しい。“守人”と言う名の強い偏見に惑わされてしまう。 だが本来、性根は心優しい、良くも悪くも“普通”の女の子である。そんな彼女は、緋深により強制的に偏見の膜をはぎ取られ見せられた朔夜の姿を見てしまった。貴族特有の過剰なほどの傲慢さも、歪んだ視野も持っていない玲鈴は、畏怖、いや恐怖の対象である守人ではなく、本来の弱々しく小さな朔夜の姿を認識してしまった。一度認識してしまえば、自分勝手に歪めることもできない真っ直ぐさを持ち合わせている玲鈴ならば、もう朔夜を以前のように扱うことはないだろう。(これを機に成長すれば良い、んだけどね) 之推のただの期待にしかすぎない。だが、之推は今後の玲鈴の行動次第により、玲鈴の力量の限界を見極めようと思っている。(もしも、期待をはるかに下回る結果にしかならないのであれば……) 之推はそのまま思考の海に浸ろうとしていると、正面から強い視線を感じ、面を上げた。緋深である。こちらを半眼になり、睨み付けていた。「早く、お前もいなくなれ」 そう言わんばかりの、明け透けすぎる敵意の視線に之推は思わず笑いが零れそうになる。なんと必死で、がむしゃらで、たどたどしいものなのか。純粋な朔夜への好意から生まれたであろう敵意は、あまりに幼くて、綺麗で、脆くて、之推からすれば微笑ましいものでしかない。 緋深がもしも之推の内心を知ることができるならば、怒りを覚えたかもしれない。之推と緋深は10歳、いや5歳も歳が離れていないというのに、子供扱いをされているのだから。 その姿がありありと想像できた之推は、賢明にもそれを隠すため-時間が惜しいのと、夜が遅いからか眠く、少しめんどくさいと感じたからだ-、気を逸らすためにも緋深に言葉をかけた。笑いを堪えているせいで目を細め、笑みを浮かべていることになったが。「か弱い女性に対して、あまりにも酷いんじゃないのか?あれは」 之推の言葉に対し、緋深は鼻で笑った。「思ってもねぇこと、言うな」 その不貞不貞しい態度に可愛げがないな、と思いつつも余裕の笑みを之推は返してやった。もちろん、緋深が嫌がることを承知、というよりも分かり切っての行動だ。 案の定、緋深は眉を顰め、瞳の奥に怒りの色を見せた。 之推は緋深の行動に満足し、緋深の咎める視線を無視し、悠々と朔夜の方に歩み始める。廊下から扉をくぐり部屋に入り、扉と朔夜の眠っている褥を直線で結んだ中心のあたりで、一度歩みを止めた。 朔夜に配慮しての為ではない。緋深に対する『当てつけ』だ。 之推は朔夜が目を覚まさないと知っている。之推は朔夜の中に踏みはいることを緋深よりも先に許されているのだ。 緋深もそれを知っているから何も言わず、苦虫を噛みつぶした様な顔をしている。「へぇ、俺は近寄ってもいいんだ?」 からかう様な声音のせいか、言い返せないせいか、思い切り睥睨してくる緋深に、之推は忍び笑いが漏れる。自身があまり大人げないというよりも、意地の悪いことをしている自覚があり少々緋深に悪いとも思うが、それでも笑いは収まらない。(ガキだな、まだまだ…) 之推は緋深よりも先に出会っているが、今では緋深の方が距離を縮めているくせに嫉妬するとはまだまだ子供だとしか言いようがない。最初は緋深は驚くほど大人で冷徹な態度をとる少年だと思っていたが、近頃は子供っぽい一面をこうやって覗かせる。いや、だんだんと年相応の反応を見せるようになってきているのだ。それが面白くて、之推はついその、緋深のまだまだ柔らかく綺麗な部分を突っついてしまうのだ。(さすがは儚月の姫君……かな) 手負いの獣、しかも将来は獰猛な狼、もしくは虎に化けそうなものを手なずけてしまうとは、見事なお手並みとしか言いようがない。何処をどうやったら能面のような表情だった緋深から感情を引っ張り出し、緋深が幼い頃得ることができなかった幼さなどを与えられたのだろうか。 きっと朔夜は無意識でやってのけた。意図してなどおらず、無意識だからこそ、緋深はかなり振り回されたに違いない。想像するだけでも笑いが止まらないのだ、よほど面白い光景だったのだろう。その現場を見られなかったことが残念なぐらいだ。 くつくつと笑う之推が気に入らないのか、緋深はその笑顔を切り崩すかのように刺々しい声音の言葉を投げつけてきた。「酷い、なんて…微塵も思ってもないくせに」 的を射すぎた意見である。少なくとも之推にとっては『図星』と言えるものだ。 鋭い、と思いつつも表情には出さず、之推は肩を竦めた。緋深の疑問が入り交じった言葉の返事に、分かってないな、とわざと呆れたような響きを含ませれば、緋深は眉を跳ねさせる。「華は、大切に手入れをし、水をあげてこそ、綺麗に咲くものさ」「…かったくせに」「ん?」「止めなかったくせに何、偉そうなこと、言ってるんだよ」 之推は薄っぺらな-そのくせ完全な-笑みを浮かべた。それは緋深の言葉を肯定したも同然のものであった。 そう、之推は止めようと思えば、止められたのだ。それが一言すらも口を挟まず緋深の好きなようにさせたのは、まったく止める気はなかったからだ。「ただ綺麗な華になってほしいなら、止めていたな」「どういう意味だ」 之推の言葉に、緋深は疑惑と薄い嫌悪にも似た感情がくみ取れる声音で疑問をぶつけた。之推はあっさりと緋深の疑問に答える。「“綺麗”で“強い”華になってもらいたいからね、彼女には」 綺麗なだけの華になどなってもらっては困るのだから、ね。 副音声が聞こえたのか、緋深は怪訝そうな表情で、探るように之推を見つめてくる。副音声を隠したつもりはなかったが、気付くようにした覚えもない。本当に勘の良い、というよりも機敏な少年だと、之推は感心しそうになる。 之推には、之推の思惑がある。そのためにも、早いところ玲鈴には立派に華となってもらい、動いて貰わなければならないのだ。もしも、之推が期待している華となれそうにないならば、早々に見切りを付け、代理案を考え、動かなければならないのだ。 時間はない。刻は限りなく近づいているのだから。 緋深は之推の考えを察するにはあまりにも材料がないはずだ。僅かな困惑を瞳の奥で揺らしているか、之推の発言を色好みからのものと判断し、嫌悪感を露わにしているのだろう。 之推は緋深の反応は、さてどうなのか、と思い視線を合わせて、少し驚いた。之推は自身が驚くことがあまりない-これは之推があまりにも察しがよかったり、落ち着いているからだが-ので、少しへぇ、と妙な感心のような感情を覚え、緋深の意外な反応は何故かと考え出す。 緋深は確かに緋深に好ましい、とは逆の感情を露わにしている。だが、少し嫌悪とは違った。むしろそれは、怒りと表現するほうのがまだ当てはまる、というものだ。 軽く小首を傾げ、何を考えているのかを読みとろうと、紅い瞳の奥底を見つめていると、緋深はぷい、と顔を逸らした。首を横に振ると同時に、吐き捨てるように口にした緋深の言葉に、之推は先ほどよりも強い、ここしばらくありえなかったほど酷く驚くことになった。「“計画”のため、かよ」 之推は驚きを隠すことに成功はした。だが、それは滅多にないことに、自身の感情と反した仮面を被ることに多大な労力が必要となった。(…………空耳では、ないようだな) 之推は決して他人には分からないように、だがしっかりと緋深を睨み据えたのだった。--------更新が遅れましてすみませんでした軽いスランプ、と言うか脳内がゲシュタルト崩壊起こしていた、と言うか忙しかった、と言うか………………言い訳にしかすぎないま、まぁ何であれこれからはもうちょっと、早く更新します……きっと
2006年08月14日
青ざめ白くなった玲鈴の肌を、暖色の蝋の炎が覆う。その姿はまるで陶磁器の人形のように見える。驚きのあまりで瞬きの回数が減っているからでもあろう。(もう用はない) 日常の玲鈴の姿と比べれば生気があまり感じられないが、緋深は何の感情も抱かない。緋深は興味の欠片もない視線を玲鈴に一度投げかけると、さっと踵を返し、朔夜の部屋の中に入った。 もう幾度も訪れた朔夜の部屋は、相変わらず人の気配を感じられない。緋深はそれが妙に悲しい、と思った。しわ一つはいっていない褥。使われた形跡のない妙に整い過ぎた家具の数々。ほんの少しだけ感じる人の気配の残滓は、朔夜のものではなく、胡家の女中の者である。 朔夜は意図してやっているわけではない。無意識の行動の積み重ねの結果だ。だが、まるで“朔夜がいた形跡”を微塵も残さないようしているように思えてしまう行動は、いつか、ここから消え出ていくことを示唆しているように見えてしまう。緋深ですらその姿に痛みを覚えるのだ。朔夜の部屋、いや“居場所”を提供し、慈しんでいる麗蘭達は、どれほどの空しさに似た痛みを感じているのだ、と思う。よく耐えられると感心さえする。(だけど……その痛みに耐えてさえ、引き留めたいものが、朔夜にはある) 緋深は、慈しむように朔夜を見つめた。 そっと褥の中央に朔夜を横たわらせる。眠りきった後に移動させるならば-床や木の板よりとても身体に負担が少ない-朔夜は褥で眠ることができる。己の手よりも小さく細い手に指を絡ませるように握り、もう片方の手で優しく髪を梳く。無表情の寝顔が、わずかだがふわりと穏やかな寝顔に変わる。 それは緋深を心の奥に入れ、信用し、安心できる存在と認めてくれている何よりの、無意識の証拠だった。それが、何処までも緋深にとっては愛おしい。自分を許し、許容してくれている。その事実が緋深の居場所を作り出してくれる。自然と目元が綻び、心の奥に優しい灯火が輝き始める。 普段は手を握ると、戸惑いに目を泳がせ、指先は固かった。髪を梳けば、困ったように見上げてくる。傍にいても穏やな表情と言うよりも、何かに耐えるように眉を顰めていた。 はじめは、嫌われているかと思った。緋深は、自身のしたことを思い返せば当然だと思ったが、どうやら嫌われていたのではない、と分かるのにそう時間はいらなかった。 朔夜は、決して他人を嫌わない。嫌えない。朔夜が嫌い、嫌悪するのは朔夜自身だけなのだ。(ずるい……よな) 緋深の温かな笑みに、翳りがさっと通りぬけた。 相手の人間の人格を全てを受け入れるくせに、自身が受け入れられることを良しとしない。それだけでも空しさを感じてしまう。だがそれ以外にも、朔夜は色々と問題がある。例えば相手からの悪意は受け入れるくせに、好意は受け取らないのだ。自身が受け取るに値しないと思っているのか、理解していないのか。何度緋深はやっていられるか、と思ったことだろう。 それでも、離れられない。 どんなに暗い感情も、歪んだ心も、朔夜は目を背けない。深淵の闇にさえあっさりと身を浸し、その奥にいる緋深を見つけてくれる。行動を、人格を一切否定されず、嫌悪なしに受け入れられることが何と甘美なことなのだろう。 緋深には、今までそんな人間を知らなかった。少しでさえも受け入れてくれる人間などいやしなかった。だから、こんな甘美な毒に似た朔夜の優しさにどこまでも浸食されてしまう。 朔夜の周りに集い、愛しみ、庇護する人間は、皆そんな人間達だ。毒になるかもしれないとわかっていても、いつか今まで意図して作り上げた自身を壊されるかもしれないと分かっていても、どうしても捨てられない。偽りを積み重ねた奥にある自分を見つけて貰えることの喜びを知ってしまったのだから。(なぁ………受けいれてくれよ、眠っているときのように、さ……お前に影を落とす元凶は、排除する。傷つけるだけの主なんてもう近づけやしない。だから……そんなに怯えるなよ。朔夜、恐がることを止めろなんて言わない。けど………せめて俺の、俺達の前では安心してくれ。少しでもいいから、この、やり場のない感情を受け入れてくれ…お前を大切に想う心を、否定しないでくれ) 我が儘なのだろうか。望んでばかりの自身の思いは。 朔夜の髪を梳きながら、緋深は声なき声で、訴え、問いかけた。答えるはずがないと知って行っているというのに、意味をわかっていなくてもいいから「うん」と言ってくれないかと思うのは、矛盾している。 緋深は自嘲を顔に刻もうとして、はっと表情を厳しくし、改めた。 素早い動作で背後に振り返ると、朔夜の部屋から出てこない緋深を不審に思ってか、こちらを伺おうと朔夜の部屋に足を踏み入れようとしている玲鈴がいた。「そこから、入ってくるなッ!……朔夜は、その範囲に入れば、目を覚ましてしまう」「……え?」「“あんた”が、近づくと目を覚ます」 玲鈴は驚き、瞳を瞠るのに、引き下がる様子はない。吐き捨てるように緋深の声は充分な抑止力になったようだ。気圧されたように2、3歩後ろに引き下がる。「何を……変なことを…」 玲鈴の呟きは、正当なものではある。だが、緋深には嘲笑する主張でしかない。 朔夜のことを何も知らない、無知なものだからこそ、言える言葉だからだ。「自己防衛じゃねぇ?“知らない人”が入ってくると、自然と目が覚めるだよ。それ以上、踏み込んだら、気配を察して、起きるから、近づくな」 緋深の言葉に玲鈴は、理解しにくいのか、怪訝そうな顔をする。切れそうになることを必死に押さえながら、冷え冷えとした温度の声を緋深は玲鈴に投げつけ、言葉を重ねた。「あんたは、朔夜にとって“知らない人間”なんだよ…そこが、限界ぎりぎりの範囲だ。それ以上、一歩でも近づいて見ろ…強制的にでも排除してやる」 緋深は、玲鈴から視線を逸らさずに掌で包み込める朔夜の手を先ほどより強く握りしめた。温度を分け与えるとともに、安心さえも与えるために。 今は緋深が手を繋いでいるからこそ、玲鈴が部屋の前に立っていても、目を覚まさないのだ。一人であれば、とっくに気づき跳ね起きていただろう。朔夜の察知する範囲は足音が緋深が聞き取れるほどの範囲という広さである。 だが、これでも察知する範囲は狭まっているほうなのだ。以前はもっと酷かった。人の体温が、息づかいが緋深でさえ聞こえない場所でさえ、その守人としての身体能力でか察知し、怯えて起きていた。 緋深が朔夜と始めて見た時、朔夜はいつも寝不足なようにぽけぽけした、いやぼーっと態度だった。遠目で朔夜の姿を知覚した際は、いつも眠っていた。のんきなものだと、緋深は呆れていた時期があった。 惰眠をむさぼっているようにしか見えなかったのだ。玲鈴と同じ様に。 だが、真実は違う。朔夜は、眠れなかったのだ。女中が日夜控え働き、夜に警備で見回る者がいる。夜中に朔夜の部屋の廊下の前を通り過ぎる人間が必ずおり、その都度怯え、起きていたのだ。満足な睡眠がとれるわけがない。(まぁ……この頃は、過去の睡眠不足を解消するが如く、寝てるけど。夜も寝てるのに) 何か理由があるのだろうか。 ふと、緋深はそう思い、苦笑しそうになるが、表情には一切ださず、玲鈴を睨み続けた。「そ、それだけ、今まで、大きな声を、出しておいて……本当に、敏感なら……今も、起きてないなんて……そんなわけっ」 まったくだ。 緋深は心の中でのみ賛同した。玲鈴の言葉はいつも薄っぺらいが正論である。だがそんなもの緋深は笑い飛ばすように、不敵さを滲ませた笑みを浮かべた。「覚ますかよ……“知らない人”だと、声や気配、何でさえも敏感に反応するくせに、“知っている、近しい人”だと声や気配にすらまったく反応しないんだ。怒鳴ろうが、少々乱暴に扱おうが…まあ、殺気にはさすがに反応するようだけど…」 朔夜は主に使えていた時に、幾度も、幾十度も裏切られ、その恐ろしさを知っている。そんなこと、身にしみて分かっているのに、朔夜は安心して緋深の腕で眠る。裏切られたら、朔夜の命など簡単に奪われるということに気付いていないかのように。人が恐いくせに、人が嫌いになれない。人を恨んでもよいはずなのに、人を憎めない。一度信じてしまった人を疑えない、不器用な生き方がらしい、と緋深は思う。(……信頼してるからじゃなくて。空気のように感じ、存在を意識していないだけかもしれない、けど) だが、それではあまりにも虚しいような、切ないような気がするので、緋深はそうでないと思いたい。「本当は、あんたの声も、聞かせたくない」「…………っ」 言葉を詰まらせた玲鈴に、緋深は最終告知をした。「………あんたにこんな話、したのは別に朔夜を哀れんでもらうためじゃない。あの“異端”を見るような目で見ないようにするためだ……“守人”って言う畏怖、いや忌避される存在の範疇で見るんじゃなくて、“朔夜”として認めろよ」「……わ、私、は」「別に、あんたなんかに朔夜を理解なんてして欲しいとは思わねぇけど…ただ、朔夜にこれから近寄るなら……朔夜は今心理面が危うい状態なんだ。考慮し、配慮できないなら、朔夜に関わるな……近づくな。朔夜の視界に入るなよ」「…………っ」 声を詰まらせて、顔を歪め、踵を返して駆けだした玲鈴を冷めた瞳で緋深は見つめた。
2006年07月22日
柔らかい蝋燭の炎の煌めきが朔夜の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。温かみのある光は、普段の朔夜の儚さを包み隠し、無機質な寝顔に人らしさを与える。 朔夜はいつも寝顔は人形のようで、寝息もほとんど聞こえないほど小さなものだ。だから普段よりも穏やかに見える寝顔は、緋深を安堵させ、穏やかな気分にさせる。 いつも、朔夜が眠っている姿を見ると不安が緋深を襲う。この腕から擦り抜けていくのではないか、と胸がざわめき、確認したくて朔夜に触れる。感じる体温にやっと肩の力が抜けるのだ。 できることならば、このまま回れ右をして朔夜の部屋に戻り、柔らかい褥に朔夜を寝かしつけてやりたい。穏やかな朔夜の寝顔を見つつ、髪を梳いてやる時間は、緋深にとっては何にも代え難い時間だ。(……けど、それは後回し、だな) 呆然と立ち竦み、碧眼を大きく見開いている玲鈴に緋深は無理矢理視線を移した。 そう思いつつも緋深は玲鈴を睨み据えた。普段ならば睨み返すか、顔をしかめるか、傷ついた顔をする玲鈴だが、困惑の極みなのだろう、反応がない。(何に、驚いてるだよ) 玲鈴への苛立ちが新しく生まれては、蓄積されていく。(何かに驚くほど、朔夜のことを、何も知らないくせに) 緋深には、玲鈴が何故驚き、困惑しているか手に取るように分かる。偏見と先入観をこね合わせ、塗り固め作った壁に罅が入ってきているのだ。分かっているから、緋深は不愉快なのだ。玲鈴自体への苛立ちももちろんあるが、それ以上の苛立ちは玲鈴の姿に重なる影だ。(俺も…………こんなん、だったのか?) 緋深は強く瞳を一度瞑った。 乱暴な気持ちが、解放を訴え暴れている。見たくないものは壊してしまえばいい、と叫んでいる。だが、緋深はそれを理性で鎖を雁字搦めにするように無理矢理かけた。それでは、前のままでは駄目なのだ、と必死に宥める。 だが、どうやら成功したのは身体面だけのようで-朔夜を両腕に抱えていることが、かなりの抑止力になっているようだ-、視線はもちろん、喉から声を出せばもどうしても鋭く光る刃が見え隠れしてしまうだろうことが簡単に推測ができる。(いっそ、砕いてしまうか……) ひび割れはじめた壁を、歪んだ価値観を、粉々になるほど。 緋深はそう考えて、あっさりと決めた、と思われるほど短時間でその案を可決した。残虐な気持ちを少しは発露したいと思っていたことだし、何よりこれで玲鈴の態度が変わるなら朔夜にとっても良い方向にことは進むだろう。徹底的に砕いて、朔夜を直視すれば良し。尚も目を背けるならば、近寄らせない策を取ることもできる。 ようするに、今までは麗蘭の妹ということで無視する方向できたが、そろそろ緋深にとって我慢の限界が近かったのだ。朔夜への態度が気に入らないのが何よりだが、細々と目に付くことも多く、不要なものは排除する、という風に生きてきた緋深にしてはかなり我慢を強いられてきた。いや、強制はされていない。だが緋深は胡家で波風を立てることを良しと自身の中でしなかった。波風がもし下手をして津波にでもなれば、緋深だけではなく、緋深を拾った朔夜にまで迷惑がかかってしまうではないか。(けど、ひび、入れたの俺じゃないし。何より、こいつは朔夜の心の領域に足を踏み入れようとしているんだ。何も知らないまま、土足で踏みこませるなんて、させるかよ) 今、無意識に朔夜を理解しようとし始めている玲鈴は、朔夜にとって良い方向に進む可能性もないことはないが、同時に悪い方向にも進ませる諸刃の刃だ。まだ無菌室で療養しなくてはならないのに、土のついた足で入られると、せっかく治りかけている朔夜の心の傷が化膿し、抉る結果になる。 ならば防波堤として、朔夜と玲鈴の間に新しい境界線を緋深が引いてしまおう。「麗蘭様に、聞いてたこと、ないのかよ」 唐突な質問の声で玲鈴は困惑が断ち切れたのか、目を数度瞬き、何のことだ、と問い返してきた。 緋深は内心、少しは何のことか考えてから聞き返せ、と思いつつ言葉を重ねた。「朔夜は、眠れないんだよ。褥では」「え?」 きょとりと見開かれた瞳が、無知を露呈させていることに気付かないのだろうか。 そう思いつつも、緋深は憎々しげに睨み付けはしなかった。するだけ時間の無駄であると考えたからだ。ようするに真面目に相手する価値がない、と思ったのだ。思うようにした。そうすれば気分はもう無機物に話しかけているようなものになるはずだ。そうしなかれば話しが進められない。 荒々しい感情で責め立てるよりも淡々と告げられ、自分の中でかみ砕かせるほうが効果がある場合がある。少しぐらい頭が回る者が相手ならば、人の話をきちんと受け入れられる者ならば、だ。 緋深はそこまで玲鈴を高評価していない。麗蘭の妹なのでわずかな期待を込めて、である。「前使えていた主。その親の手下に、何度も、何十度も殺されかけてるから」「っ?!」「暗殺、ってやつ……最初は毒だった。けど朔夜は守人だったし、耐性あったから失敗。で……ああ、次は昼間、一人きりのとき上から落下物で狙った、けどやっぱ守人相手に意味なし。直接真っ正面から狙うのも成功確立0。んじゃ、狙うは人が一番無防備になる。夜、寝てる時間」 息を呑み、目を見開き、顔色を失っている玲鈴に何ら感情の波は緋深の中ではおきない。今、緋深の心の中で嵐の様に波立っているのは、朔夜へ行われてきた数々の悪意への怒りからだ。「守人は主の部屋の傍に部屋を用意される。おかしいよな……守人と主の部屋は基本、繋がってるんだってよ。だから守人の部屋も頑丈な錠、ほどこされてるのにさ、あっさり毎回侵入されるだぜ?錠もこじ開けられた形跡なし。ずたずたに切り裂かれた敷布見ても、女中は何も言わない。むしろ、むしろ主に気づかれないようにさっさと証拠隠滅だってよ」「………っ………………」「主、って名ばかりの奴は朔夜のこと“大切”と宣りながら、朔夜の身に降り注ぐ厄に気付かなかったんだ。屋敷ぐるみで隠していたからって…“大切”だ、なんだ言うなら気付よ……しっかり朔夜のこと見て、守れってんだよ」 吐き捨てるように言葉を放つと、自然と視線は下を向いた。そして緋深は慌てた。無意識に掌に力を入れ得そうになっていたのだ。自身の掌を傷つけるだけならまだしも、朔夜の肩などに手の痕を付けるところだった。起きた様子のない朔夜に安堵のため息を軽くつく。 緋深は自分の話が脱線しはじめ、頭の熱が上がりすぎそうになっていることに気付いた。もう一度軽くため息を吐き出して、玲鈴に視線を向けた。「ああ……それで、毎晩毎晩やってきては刃を褥に突き刺してくる不審者との攻防……まあ、主に気付かれないようにするためにかなり静かな戦いをやってたんだってよ。御貴族様の家の壁が厚いから、防音は良いほうだったから結構相手はやりたい放題だったらしいけどな。“主”ってのは、普通守人の部屋に入らず、呼びつけるのが普通らしいからもあるらしいけど」「けどっ……何故そのことを、主に、言わなかったの、よ」 ようやく纏り文章となった言葉を玲鈴が口にした。 緋深は表面上は無表情だが、内心その意見にはその通りだと思ったことがあったな、と思っていた。緋深も麗蘭に聞いた当初、同じ質問を返したことがある。「…卑怯なことに、主にこのことがばれたらまずい、不審者を殺したならば主のためにならない、と疑うこともしらない小さい子供に少しずつ刷り込んでた。ああ、喋ったら、主に攻撃をかける、ってのもあったって聞いた。性質、悪ぃことこの上ないよな。助けを求める声をひとつひとつ潰していったんだ……しかも主が莫迦だから気付かないし……多分言ったとしても、『気のせい』程度に取っただろうな」「……そん、な……」「毎晩防戦一方しかない戦いを強いられ、しかも昼間も狙われ続け。寝不足の朔夜は夜、自然と息を殺し、隠れるようになった。けど、心理的負担を与えたかったんだろうな。朝起きて、敷布を見ると無惨なほどに切り裂かれ、血で呪の言葉が書かれてる。しかも主が起きる前にさっさと女中が来て、何事でもないように、朔夜があんな目にあうことが当然のような顔して、片づけていくだってさ………最悪だよな」 だから、朔夜は自然と褥で眠れない習慣が身に付いてしまった。 緋深は、麗蘭から聞かされたことを基本的に淡々告げ終わった。所々に緋深の感情論が入ってしまったのは、途中で毒を吐き出さなければとてもこんな話しをしていられないからだ。話し終わった今も、まだ吐き気にも似た気持ち悪さが体中を駆けめぐる。 話の内容が意外すぎたのだろう。玲鈴は呆然と立ち竦んでいた。(当然だ) 緋深も、最初麗蘭から聞いた際、あまりの卑劣さに強烈な怒りと、様々な負の感情が混ぜ合わった名前も分からない感情により、目の前が真っ赤に染まった。 可哀想だけど、幸せな守人。主から理由があり引き離されたが、優しい人達に大切にされている、そのくせ大切にされるという幸福に感謝しているようには見えない、いつも俯いる。それが玲鈴と…昔の緋深の朔夜の認識だった。そのせいからか、と引き離された『理由』もどこかで軽いものだと思っていた節もあった。 誤認も甚だしいではないか。貴族の都合でボロボロにされ、数え切れないほど殺意と悪意を向けられ続けられ、何度も瀕死の状態になり、あげく、まだ“影”は朔夜に付きまとい、大切なものを奪っていく。朔夜を不幸だと緋深は哀れむ気はない。朔夜以上に不幸な人間などは探せば出てくるだろうから、一番可哀想とも思わない。だが、幸せと、何も苦労がない幸福な人間と、もう思えない。(……ごめん、な。朔夜) 緋深はずきりと胸の奥が痛むのをはっきりと知覚した。 無知と言うことは、何と残酷で愚かなのだろう。緋深は一度、無知であったことを良いことに酷く辛い態度で朔夜に挑み、心ない言葉で傷つけた。後悔先に立たず、と言うが後悔するだけで許されるものではない。 朔夜はきっと許すだろう。何で自分が緋深を罰せなければならない、と首を小さく傾げ、謝罪に困惑しつつ-理由も分かっていないくせに-大丈夫だ、と小さく笑うに決まっている。だが緋深は自分が許せないのだ。 一度、朔夜にそこまで甲斐甲斐しく優しくするのは贖いのつもりか、と聞かれたことがある。(………贖いの、ためなんかじゃない。俺が、ただ、もう朔夜に傷ついて欲しくないと思うだけだ。俺なんかが優しくして、朔夜が笑うなら、幸せになれるなら、嬉しい……それだけだ) 腕の中の朔夜を見つめ、緋深は目を細めた。-------------------------------------------------3と4で、一つの話なので少し中途半端です長かったので、取りあえずここまで、と言うことで
2006年07月08日
仄暗い、だが優しく包み込むような深い闇の中、遠くで淡い光の群舞を朔夜は膝を抱えながら眺めていた。 淡く発光する石がある場所は一部だけだったようで、逃げ出した朔夜のいる場所は上下左右もない、と感じられるような漆黒の空間だった。よくできた夢だなぁ、とぼんやりと思う。 この美しい光景をどれほどの時間眺め続けただろう。正確にはわからないがかなり時間が経っている。だが朔夜は、いつまでも飽くことなく、ただ一心に見つめ、時折幸せそうに小さく微笑む。 幸せだな、と思った。いや、幸せと言うにはあまりにも切なさの成分が多すぎた。それは、幸せだった日々を光景に重ねて、思いだしているからだろうか。 どちらでもかまわない。 朔夜は深く考えてしまうことを恐れるかのように、考えを振り切るために数度強く左右に頭を振り、膝を抱え直し、身を小さくした。 様々な光の珠の中で、仄かな薄紅色の光が三つあった。少しずつ濃さが違う、だが似通った雰囲気の光の珠を見ており、朔夜はふとその輝きから連想された人物に想いを馳せた。(胡家は……麗蘭様、や怜蓮様…玲鈴様は、…………皆は、大丈夫、なのか、な?) 一瞬『あの人』を思いだし身が強張ったが、それでも唇を噛み締めることで耐え、薄く目を開く。朔夜の目に映っているのは幻想のような目の前の光景ではなく、赤い色に彩られたほんの少し前の、過去の記憶だった。 女中が毎日丁寧に掃除している床や壁が、泥水と雨水で汚れていた。部屋内にあるはずのない水たまりは時に赤く染まったものもあった。守人の発達した能力、聴覚故に聞き取った沢山の悲鳴と、剣戟と、涙声。 体中の血が凍ってしまったように動けなくなった朔夜の手を、緋深の温かい手が力強く引っ張り、胡家の敷地を駆け抜けた時に、朔夜が見た光景だった。(…また、壊して、しまった……私がいたせいで………) 朔夜は強く瞼の上下を合わせた。涙をこぼさないためか、思い出したくなかったからなのか、朔夜にもどちらか分からなかった。いや、両方の理由からかもしれない。「………いつも、そう、だ」 『朔夜』という“異分子”が温かくも美しい光景に混じる。すると一枚絵の様な穏やかな光景に罅を入れてしまい、それは少しずつ、少しずつ浸食し、最後には木っ端微塵にまでしてしまう。いくら両手を広げ、欠片がばらばらにならないように必死にしがみついても、擦り抜ける。 欠片が掌から滑り落ちる感覚をまた味合うぐらいならば、最初から美しい光景から弾かれるほうがましだ、とさえ朔夜は何度も思った。だがいつもそう決意をしても、美しい光景の住人は優しく朔夜の手を引き、招き入れてくれる。その手を振り払えばいい。そんな簡単なこと、朔夜は分かっている。 だが、朔夜にはできなかった。朔夜が弱いからもある。だが、幾ら振り払っても嫌な顔一つせず、手を握り直される。心を必死に押し殺して温かい手を振り払い、逃げだそうとするとそっと抱きしめる。そうされてしまえば、朔夜は振り払わなければならないと命じる冷静な理性と、縋ってしまいたいと願う弱い心が鬩ぎ合ってしまい、混乱に陥る。そして半ば呆然としている朔夜に“とどめ”と言わんばかりに優しい言葉を尽くし、温もりを分け与え、額にふわりとした口づけが落とされる。そうやって朔夜の心を優しく手折ってしまう。 残酷だよ、と朔夜は何度思っただろう。八つ当たりじみていることは分かっている。招き入れてくれて嬉しいと、心からも思っているのだから。(でも………やっぱり、壊れた、よ………壊しちゃ、ったよ) 大丈夫だ、と言われた。だから手を取ってくれ、と。一緒にいよう、と。幾度も、飽くことなく与えられた優しい言葉が今、刃に姿を変えて朔夜に襲いかかる。 どうしてこうなるのだろう、とは朔夜は思わない。そんな自身への問いかけなど2年前、もう考える余地がないほど考え抜いたからだ。考え抜いた結果は、理由などない、だ。『朔夜』と言う存在があったから災厄は引き起こされる。なら災厄の根源たる己が、破壊が起きることへ理不尽さを感じるのはおかしいのだ。 少しでも朔夜の事情を知っている者-とても優しいと朔夜が思う人々-は言葉を重ねて否定してくれた。だが、現実はどうだろう。朔夜に痛いほど現実が訴えかけてくる。だから、どうしても朔夜は否定の言葉を受け入れられない。 朔夜は頭を膝に押し付けるようにして、身を更に、更に小さくした。 今、あの光の珠を見たら大切な人達を連想してしまい辛くなる。自身を抱きしめる力を緩めれば震えてしまう。 朔夜はただ、悲しみに似た身を切り裂くような痛みに耐える為、更に膝を抱える腕の力を強くした。 このまま、早く夢から覚めてしまいたいと思いながら。いつまでも見ていたい、と先ほどまで考えていたことと違うな、と小さく自嘲しながら。---------------------------------------------------- ……前回のとあまり内容的に変わらなく、短いですが… 次の話と前回の話の繋ぎなので、目を瞑って頂ければ、と 次か、次の次で夢編を終わらせて、朔夜を起こして本編をさかさか進めます。 が、頑張るぞぉ
2006年07月05日
艶のあるゆったりとした髪が狼暉の視界の中で揺れた。紅い花のような色の髪の中から徐々に顔の輪郭が見えるのが妙にゆっくりと見えるのは狼暉に後ろめたさがあるからかもしれない。 狼暉達は玲鈴を助けた後、狼藉者達を排除しつつも、最速速度で胡主である麗蘭の執務室に駆け込んだのだ。駆け込んだまでは、いい。だが、実際に入って麗蘭の後ろ姿を見た瞬間、いや気配を察した時点で思わず回れ右をしたくなった。その衝動を必死に押さえる。 羅家の無機質な執務室とは違い、華が飾られたり、女性らしい気遣いがかいま見える置物などがあり温かみがある空間の窓際に麗蘭は立っていた。麗蘭がこちらを見据えていることに狼暉ははたと気づき、さっと礼をした。「これは、これは。“何か”御用かしら?羅家近衛軍の方々?」 輝かんばかりの艶やかな笑顔に狼暉は引きつった笑顔を返した。冷や汗が背中を伝う。そっと目線を汪燕にずらせば、汪燕すらも形勢不利なこの状態に顔を微妙に歪めている。 無理だとは分かっているが、いっそ睨み付けるなり、睥睨するなりしてくれたほうが、よほど今よりも気分は少しは楽であろう。「御当主殿……」 生来真っ直ぐな気質なほうである狼暉には、麗蘭に返す言葉が思いつかない。しかも麗蘭は狼暉にとっては特別な意味合いを含む人物だ。狼暉にとって“至上”の人の友人。それだけで、怒らせたことに凄まじい罪悪感と居たたまれなさを覚える。「しかし…………この方は“あの方”の流石ご友人と言うか…何というか……」 狼暉は内心、声なき声でぼやく。 大勢の、しかも屈強な兵士達を前に悠然とした態度は女性ながら、立派な覇気を備えている。生粋の戦士である狼暉からすれば、その覇気の強さがよく分かり、感嘆するしかない。(普段ならば、感嘆だけですんだのだが……) 今の状況では、それだけではすまない。 麗蘭から顔を逸らさないで、すっと気配を感じ取れるように神経を研ぎ澄まして、後ろの様子を伺った。後ろで控えていた部下が麗蘭の覇気に圧倒され、困惑を通り越して硬直している。だから覇気の裏に微かに存在を匂わせる怒気に気付いていない。感じ取れ、と部下に言うのはあまりにも無茶だろう。だが、ある意味幸福だな、と狼暉は思う。うらやましい。 微かに感じる怒気は密度が高くて、と言うより微かだからこそ恐い。 どうも狼暉の親しくしている人間は、幸か不幸か、笑顔のまま内心怒り狂っているという器用な人間が多いようだ。しかもその怒りを鎮めるのではなく、冷やし、怜悧な刃に変えて、必ず報復する。物騒なことこのうえないような者ばかりだ。もちろん麗蘭も当てはまるだろう。推測だが経験に裏打ちされているので、多分間違いはない。「この度は“とんだ災難”にお会いしたようで……“たまたま”“危険を察して駆けつけたのですが間に合わなかったようで」 喉の奥にであげかけた悲鳴を押し殺しつつ、狼暉は汪燕に思い切り振り返った。 白々しいにもほどがある台詞を、狼暉からしてみれば胡散臭い爽やかな笑みを浮かべながら、のうのうと言ってのけている神経に唖然とする。 災難の大本も大本。それは羅家の襲撃だ。それを知らぬ存ぜぬと言わんばかりな態度とは一体何を考えているのかと狼暉は思う。汪燕はもとから火が燃えていたならば喜んで油を盛大にかける性格であると狼暉はよく、よく知っている。そのせいで迷惑を被ったことは一度二度ではない。 だが、それを、今、ここでするのか。 盛大な文句が頭の中にある言語が収納された引き出しから溢れ出してくるのを狼暉は必死に押さえつつ、狼暉は麗蘭の様子を窺った。 汪燕のふてぶてしい態度に麗蘭は眉一筋不快そうに動かさず、むしろ笑みを浮かべていた。「いえ……狼藉者達を大勢捕らえてくださったそうで……感謝してもしきれない、ですわ」 何故微笑みが般若の如く恐く、ほう、とため息をつかれつつされる柔らかな感謝の言葉が刺々しく感じるのだろう。 狼暉は辛うじて-己を精一杯制御した結果-表情に出さない。だが後ろの方から、部下か胡家の者であろう引きつった小さな悲鳴が幾つか聞こえた。気のせいだと狼暉は思いたいが、後ろで硬直し青ざめているであろう姿がありありと想像ができ、気を抜くとため息がでそうだ。 どうにかしてくれ、と後ろからちりちりと視線が熱を持ち、後頭部を焦がす。麗蘭と汪燕を止めろ、と言う声なき声がきちんと鼓膜に届いてはいる。だが、どうしろというんだ、と言うのが正直な狼暉の思いだ。 冷えた麗蘭達の空気と、部下や胡家の人々の暑い視線が混じり合いこのまま雷雨を引き起こす雲でもできるのではないかと狼暉が半ばやけ、半ば真面目に思った時だ。 不毛な空気を断ち切る、凛然とした麗蘭の声が部屋に響いた。「あなた達は下がって……御二方、話があります。こちらへ」 狼暉の部下たちだけでなく、胡家の者達さえでさえ反論を許さない笑顔だ。この場を支配している女帝は沈黙した場に満足気に頷き、すっと裾を翻し、執務室の更に奥にある-多分私室の1つであろう-扉の向こうに歩き出す。 狼暉と汪燕は付いていくしか道はない。 狼暉はここまできたら、きちんと麗蘭と汪燕の意図を理解していた。狼暉はようやく気が付いた自身に苦笑しかける。余程己は胡家が襲撃されたことに動揺していたようだ。だが、自身が動揺していると察知したからといってその感情を遠慮なく揺さぶる波が凪ぐことはない。凪ぐ時は、狼暉の“至上の人”の“愛し子”の無事を知った時であろうな、と確信している。狼暉はそんな自分に苦笑はしても、決して自嘲はしない。こんなことを考えるようになるほど変わった自分がどうやら誇ることはあっても、嫌うことは、嘲ることはないようだ。 麗蘭と汪燕はこの場、“双方の部下がいる場所ではできない話”をしようとしていた。 だから汪燕はきっかけを与え、麗蘭は酌み取った。理解はできたのだが、どうもそのきっかけは地雷すれすれのところにかするようにわざと投げられたかのように見える。いや、間違いなく確信犯だ。でなければ冬の風や雨に晒されるよりもよほど冷え冷えとした空気など発生しなかったはずだ。 だがそれが幸いしてか、誰も疑いはしないだろうな、と狼暉は後ろに感じる残された者達の思考を正確に読みとった。麗蘭は三人きりになったならば羅家への警告と文句を狼暉達に伝え、狼暉達は反論し譲歩を求める、と言ったような部下達が介入できないことが行われるのだと思っているだろう。だから誰も何も言わないし、止めない。 好都合なことだ、と思った狼暉は、ふと汪燕を見て、そして後悔した。汪燕は何を楽しんでいるのかわからないが、楽しげな笑みを浮かべている。狼暉は何故、この男と組んでいるのか今更ながら疑問に思い、すぐに考えることを放棄した。考えるだけ虚しくなるだけなのを、よく知っていたからだ。-------------------------------------------- 落ち着いた色合いで統一された麗蘭の一つの私室は、女性らしさが垣間見えた。「あなた達の手落ちよ、これは」「返す言葉もありません」 他者がいなくなった途端、麗蘭は怒りを少しも隠さない視線で狼暉達を眺めた。狼暉は明け透けな態度の方が、気が楽なので、先ほどより落ち着いた態度で返答した。 その率直すぎる、と言うよりも素直すぎる返答に気が抜けたのか、己の態度に反省したのか麗蘭は軽く肩を竦めると右手で紅い華のような髪を掻き上げた。 「……悪いわね、気が立ってるの」「でしょうね……」 狼暉は苦笑するでなく、真顔で頷いた。 怒らないわけがないのだ。自分の配下の者を傷つけ、屋敷に土足で上がられた今回のことは、麗蘭の矜持心を踏みにじっただけではなく、胡家に関連する全てを踏みにじられたも同然だ。胡家を愛している麗蘭にとって許せるものでは決してない。 だが、それでも怒鳴り散らしもせず、不平不満を狼暉達に漏らすのでない。ただ怒りを自分の中に収め、鎮火しようとする麗蘭の態度は立派である。それ故に駆けつけることが遅くなったことへ対しての罪悪感が疼きだす。「……何があったか、聞いてもよいだろうか、胡主殿?」 汪燕が多少砕けた敬語で麗蘭に問いかけた。 麗蘭は怒るわけでなく、むしろ当然のように頷いて返事をする。 そう、麗蘭は怒るわけがないのだ。汪燕の“以前”性格を知った時、非公式かつ人目をはばからない場所ならば狼暉共々別に敬称及び敬語は構わないとあっさりと言ってのけたのだ。 だが、麗蘭を認め、多少気に入っている汪燕は別に敬語を使うことが-どこぞの莫迦相手の時と違って-苦ではないようなので仰々しい言葉を砕くに留めたようだ。 汪燕と言う人間は構わないと言われれば、つい反対に顔を向けたくなるようだ。まったくひねくれた人間である。「見ての通りよ…羅家の世間知らずのお坊ちゃんが、凶行を行った………あの執着を甘くみていたわね」 狼暉は麗蘭から語られる惨劇の現状に耳を傾けるべく、麗蘭に視線で勧められた椅子に腰をかけ、姿勢を正した。
2006年06月30日
闇夜を燭台の光が柔らかに照らしていた。淡い光に照らされた執務室は、無駄なものが一切ないためか、殺伐とした雰囲気を醸し出している。 庚凌[コウリョウ]は視線を書類から少しあげ、報告書を読み上げ終わり反応を待っている部下に移した。「居場所だけ、突き止めておけ」 どうなさいますか、と淡々とした問いにそれだけを告げ、下がらせた。扉に向かっている部下は鼎[テイ]家に仕えて長い。側近として相応の働きぐらいはするであろう。これまでの実績と同等のものがだせれば問題はない。 姿が扉で遮られると、途端に気分が悪くなり、庚凌は書類を再び見たがどうも読む気にはなれなかった。肉体的には、何の問題もない。ただ、精神が非常に不愉快の極みを突き進んでいるだけだ。 庚凌は軽く左右に頭を振り、筆から指を放し、軽くため息をついた。普段は後ろで一つに纏めているが、湯浴みの後なので解いていた髪がうっとうしく感じ、括った。切ってしまえば楽なのだろうが、外聞上それは無理なので庚凌は断念している。 長い髪は、裕福なものの特権だ。そんな莫迦な風習が庚凌の生まれる前から存在していた。庚凌自身としては阿呆らしいことこの上ないと思っているが、貴族の中ではそれが当たり前として受け入れられていた。“髪”は売れるのだ。貧しい者や、臨時の収入がいる者は切って売っている。だから『髪など売らなくても私たちは充分な生活ができる』という主張から始まったようである。庚凌からすればただの“見栄”の延長線上の愚行だ。長髪は女性ならば似合うであろうが、男性が長髪でも似合うものは限られると言うのに、とさえ思う。実際見苦しい者は多い。豚のように肥えており、尚かつうっとうしいだけの長い髪など見るに耐えない。 だが、ここで髪を切ればとやかく周りが五月蠅いのだ。蠅が少々耳障りだろうが気にならない。だが、それが大勢になると耳障りどころではない。鼎家の力にものを言わせて潰すことはできる。けれども今、余計な注目を浴びることは大変まずい。“計画”に支障をきたすものは限りなく排除すべきなのだ。 それよりも、まさか、と言う思いが庚凌の中で渦巻ている。(あの愚か者が、ここまでのことをしでかすとは) 庚凌は、これまであらゆる可能性を考慮していたつもりだった。だが、無意識に仮にも名門中の名門の次期当主が、ここまでの愚行を犯すとはさすがに予想できなかったのだ。今までただの莫迦だと思ってあまり気にかけはしなかったが、今は愚劣な者として侮蔑心しか抱けない。 貴族の中で一部、驕った者、考えることを放棄したようにしか見えない怠惰な者達が民に対し狼藉を働いていることは知っていた。もちろんそれ相応の罰を下した。罪を犯した者を罰するほどの力をまだ、国は持っている。実際庚凌は司法の部署に圧力を加え、さっさと処理させてきた。(だが、よりによって国を支える2大貴族の片割れの子息が、野盗を引き連れ、強盗まがい……) 呆れよりも、苛立ちの方が大きい。 ふざけていると庚凌は思う。自身の立場だけでなく、成すべき、いや成さなければならない義務すらも 忘れ、権力という権利を振りかざしている貴族を、吐き気がするほど庚凌は嫌いだった。庚凌よりも下流の貴族達がやるのならば処分もできるし、勝手にやれと思う。勝手にやり、信望を失ってしまえばよい。そうすれば処分なんて生ぬるいことを言わず、完膚無きまでに潰してやれる名目ができる。 だが、庚凌の上に立つ人間が同じようなことをすることは許し難い。そのような人間の下に甘んじるなど冗談ではないと心から思う。(一体、己がどれほどの地位にいるかも知らずっ) 庚凌が内心怒りを渦巻かせているのは、この度の莫迦な行動のことだけではない。もちろん強盗まがいが良いことでは決してないし、これだけでもいっそ存在を消してやりたくなるほど疎ましい存在となりえる。だが、庚凌が頭を痛めさせている原因は、もっとこれから先の事だった。 もし、このことを他の貴族が知ったら、どうなるか。この一点である。反発心を起こさせ、貴族間の内乱ならばまだよいが、最悪なのはこれに追従したり、大義名分にされることだ。これ幸いと真似をして、羅家もやっていたと威を借りるものがでてきたならば、収拾をどうつけるきなのか。 なぜあの愚か者がこのような行動を起こしたか、庚凌は知っている。焦がれて焦がれてやまない、渇望している存在を求めているからおこったことだ。だがそれは免罪符には到底ならない。欲しいから、そうならば何をやっても許されるというのか。圧倒的な地位の上にいれば、その『欲されているもの』の意思など踏みにじり、不特定多数の人間を傷つけていいのか。本気でそう信じているならば、ふざけているというよりも、傲慢で愚かなだけだ。 頭の中ではどうすれば愚か者を引きずり落とし、庚凌の人生からの接点をなくせるか、つい考えてしまうほどだ。 だが、庚凌は思考を切り捨てるように中断させた。実行に移す気もない-そんな暇な時間はないのだ-計画など空想でしかなく、時間の無駄でしかない。今、やるべきことは目の前に山積みにされた書類を片づけることのほうがよっぽど建設的だからだ。 再び筆に指をかけようとしたとき、庚凌は片頬に強い視線を感じた。軽くため息をついて視線の主に声をかける。「何を、むくれている?」 庚凌に名を呼ばれた少年-采淵-はふてくされた顔をしたまま、控えていた壁際から近づいてきた。青味がかった猫っ毛の銀髪をくしゃくしゃとかき回している。青味がかかった銀髪は普通冷たさを醸し出すのだが、采淵の髪は空の様な柔らかさと爽やかさがあり、庚凌はその色合いを気に入っていた。混ぜられている青を見ていると、采淵は円らなつり上がった猫のような目を更につり上げ、不満の色を滲ませながら口を重たそうに開く。「……なんでだよ?」ぼそりと呟かれた声に、庚凌は眉を寄せることで先を促した。「何で、放っておくんだよ…連れ戻そうぜ」 誰を、と言葉には出さないが誰かは考えるまでもない。采淵の脳裏には、今ではもう見ることができない、自身の服の裾をおどおどと小さく掴み、見上げてきている姿が蘇っているのだろう。大切に、まるで妹のように可愛がっていた存在だ。それ故に、何もできなかった自分を恥じるように、悔しそうにしている。「そしたら、守れるじゃん」 庚凌は、ふと、采淵が手を強く握りしめているのに気付いた。力の限り、爪を掌に食い込ませ、このままだと血が出ることは容易に想像できた。唇を噛み締めて、痛みとやりきれなさを耐えている姿は痛々しさがあるがあえてそっけなく、莫迦な真似はやめろ、と言わんばかりに名を呼んだ。「采淵」「あいつ、莫迦だから……自分が泣きたいことすら気付かないし。全部、いらないものまで抱え込んで押し潰されちまう。相当の莫迦だからっ」 だから、守ってやりたい。傍にいてやりたい。会いたい。 采淵の途中で途切れた言葉に続くものなのど、容易に想像できた。唇をかみしめ、目を伏せている姿は相当打ちひしがれていることがよく分かる。 采淵はくるくると表情がとく変わる人間だった。“守人”としてどうかと思うが、ただの犬に、機械人形にしないようにしようという目論見からすれば、良い傾向だと、庚凌は自身を納得させる。「厄介だろうが、個性が強すぎようが、そんな人間の1人や2人、自由に動かせなくて、何が出来るという」 守人に意思を持たせることに危機を覚えた部下の進言に、そう庚凌は一言で切り捨てた。 意思を持ち、自立し、自らの意見を持つ。全てを言わずとも己がやることを理解し、責任を負える。そう言う人間しか傍にいらない。確かに厄介さは併せ持つが、『駒』なら掃いて捨てるほどいる。「ちびには、あのガキが付いているんだ。野垂れ死にはしないだろう」 血のような赤い目で真っ直ぐ睨み据えることで、庚凌に喧嘩を売ってくるような、無謀で、恐い者知らずな子供だった。嫉妬か、ただの敵意か知らないが、ただ庚凌に真っ正面から、喧嘩を高値でふっかける人間は物珍しく、記憶の片隅に今も残っていた。 采淵はその言葉に反発心を煽られたのか、弾かれるように顔を上げ、反論を叫んだ。「あいつなんかに、朔夜が守れるかっ!!」「人並み以上の手練れだ。生半可な相手ならば、倒せる。現に羅家の愚か者の手を払いのけ、逃げ切っている」「そう言う問題じゃっ………あんな、あんなやつっ。『朔夜を傷つけた奴』なんか、信用できるか!」 采淵の怒りを押し殺したような叫びは、妙に悲しげだった。----------------------------------サンセツキ本編の1話の辺りの時間軸の話しです。これも数話で終了予定ですちなみに、この話で出てくる彼らもしばらくすれば本編にでてくるキャラですサブタイトル、蒼の旋律、はこのシリーズの最後話にきっと分かるはずです何たって単純な意味ですから
2006年06月24日
雪で白く染まった景色が、一瞬黒く色を変えたように見えた。 錯覚に瞬間意識が止まる。生存本能か、反射的に意識を現実に緋深は切り替えた。戦闘時、気を散らすことは死や怪我に直結するからだ。今までどれほど、この本能に助けられてきたかわからない。 だが、初めて緋深はこの能力に後悔した。意識を切り替えたと同時に周囲を把握を無意識にしてしまった。何故、景色が黒く染まったのか、考えもせずに。 悲鳴をあげそうになる。それは、一瞬こちらから目を離した男に挑み掛かり、返り討ちにされた攻撃によってではない。そんな肉体的な痛みなら、悲鳴などあげることなどない。そんな痛みをはるかにこえる、致命傷に似た痛みが緋深は囚われていた。 緋深は紅色の瞳は大きく見開き、ただ愕然と目の前の光景を見つめるしかできなかった。心臓を、鋭利で、磨き上げられた刃で切り裂かれ、そこから絶え間なく血が流れている。(う………そ、だ……ろう?) 黒い洋装の服を縋るように握りしめている、白く細い指が、緋深の思考を占拠し停止させた。 緋深の手より小さく、白く、柔らかい手は確かに朔夜のものだ。差し出された手に触れることをしない、誰にも縋ることをしない手のはずだった。(それなのにっ………) 目の前の光景は、まるで悪夢のようだと緋深は思った。 艶やかで長い黒髪の麗人の腕に、朔夜は抱かれていた。糸の切れた操り人形のように、力がまったく入っていないのであろう。朔夜は全身を自分を支えてくれている女性に委ねている。 先ほどまで、緋深にそうしていたように。 いや、それ以上なのだ。何故なら朔夜はよく見ればその女性に縋り付くように、皓国では珍しい洋装の黒服を握りしめている。 緋深は信じられなかった。 緋深が朔夜に触れられるまで、かなりの時を要した。伸ばした指の先から逃げられることは辛かったが、それは緋深だけではなく、万人にそうであることで耐えたことを今でもはっきりと覚えている。辛さに耐えて、焦る気持ちを宥めて、そうしてやっと今がある。 なのに、目の前の女性はあっさりと数刻もかけずに成し遂げてしまっている。しかも、縋られていることから、緋深よりも朔夜の深みに入ることを許されている。 自分ではなく、目の前の女性が朔夜に望まれているのだ。 その事実が、緋深の心に刃を突き立てる。(ずるい) 心が悲鳴を、絶叫を上げる。 『服を握っている』些細なことだ。だが、そんな些細なことでも、朔夜ならそれは緋深にとっては重大な意味をもつのだ。これが生死の境という特殊な状況であろうと代わりはない。自分がいくら瀕死の状態であろうと、決して縋らないのが朔夜である。そうであるはずだ。 だが、無慈悲にも現実はその考えを根底から崩していく。(ずるい) その言葉だけが緋深の脳裏で、他の言葉など知らないかのように、繰り返される。(…………くそっ!!) 朔夜が縋るのが、自分でないことが、悔しくて、何より情けない。 不思議なことに緋深の中に嫉妬心は欠片もなかった。ただ今緋深の中にあるのは、嫉妬以上に苛烈な、名前を付けられない感情だった。 やり場のない、何に向けてか分からない怒りや憎しみなどの感情が胸のうちの中で飽和してしまい、緋深自身も自分が分からなくなっている。ぐるぐると気分が悪く、吐き気すらする。 だが、そんな弱った姿を見せるわけにもいかないので、必死に自分を緋深は奮い立たせた。 だからか、苛立ちぶつけるような視線で相手を見据えることしか、今の緋深にはできなかった。 刺々しいなんてものじゃない視線を浴びながらも平然と、いやどこか泰然とした雰囲気のまま、女性はゆっくりと口を開いた。「あなた方に危害を加えるつもりはない。行く当てがあるのならば、そこへ無事に辿り着けるよう、取り計らおう」 思わず、目を瞠り、耳を疑った。 通常ならば耳に心地よさを感じるであろう声も、この時ばかりは緋深には凶器に思えた。(……こいつも、なのか?) 優しくて、甘いだけの言葉。淡い温かい色に染められた言葉。緋深には信じられないものだ。 緋深の知っている、そう言った言葉を吐き出す人間は、偽善者とすら称せない輩だ。(朔夜が……縋ったのが、“そんな輩”なのか?) だが、そうではないのだろう、と分かるから緋深は更に困惑する。『動物は、人よりもよっぽど本能が強いからな』 朔夜を『動物』と称した男がそう言っていた。それは、限りなく正しい。 朔夜は本能とも呼べる直感が、とても強い。本人は無意識だが、自分にとって害のある人間を察する能力に長けているのだ。 それは何度も暗殺されかけた頃、自身を守るために発達した能力なのかもしれない。 だが、朔夜が縋っているということで目の前の人間が『朔夜にとって害のない人間』だとしたならば、何を考えているかが分からない。 素直に善意を信じれば、話はすっきりと解決するのだが、見知らぬ他人からの胡散臭いほどの善意を緋深は簡単に信じられるわけがないのだ。「悪意のない人間に随分な態度だな。それとも怯えなきゃいけねえ理由でもあるのか?」「うるせぇ。誰が初対面なのに『はい、そうですか』って、てめぇを信用するのかよ。どう贔屓目に見たって、てめぇは堅気じゃねぇだろうがっ!!」 悩んでいるところに茶々を-しかも図星をつかれているーを入れられ、しかも緋深にとって反発心しか抱かせない男の言葉に、思わず緋深は怒鳴りかえしていた。 普段ならば、こんな迷っているときにこそ冷静に、と緋深は心がける人間だった。 だが、今、そんな余裕などどこにもない。 緋深をいつもいつも振り回す、かき乱す存在が、今回、今まで以上の衝撃を与えてくれたのだ。余裕などあるほうがおかしいではないか、と緋深自身は思うほどだ。「おいおい。言うに事欠いてそれかよ。何で分からないかねぇ。ぱっと一目で正確に俺の性格を分からせてやろうという俺の優しさが」 目の前の男は神経をこれでもか、と言うほど的確に逆撫でてくれる。なので理不尽な八つ当たりと分かっていても、容赦なくぶつけられる。 さあ、反論してやろう。巫山戯たことを言うんじゃねぇ、と。 そう思った瞬間、出鼻をくじかれた。黙って緋深と男のやり取りを傍観していた女性-腕に子供とは言え、意識のない人間をずっと抱えたままなのに、平然としている-が口を開いたのだ。「そうなのか?…………まあ、お前の格好を見て控え目で大人しい男だ、と言う者はいないだろうが……知らなかった」「先生。それは一応、執り成しているつもりかい?」「いいや。執り成して欲しいのか?」 自分の後始末ぐらい自分でできるだろう。 そう女性は言って、少し笑ったように見えた。間を置かず、ぽん、ぽん、とやり取りされる会話は、かなり親しい者だとよく分かる。 緋深は、この女性と、-凄く腹の立つ-男の接点が分からずに、更に素性の不明さを怪しいものにさせ、信用できるかどうかがわからなくなる。 ひょっとして、困惑させるためにわざとやっているのではないか。「で?先生、どうするつもりだ?」「何より先に治療を施したい。町のほうに戻ってもいいが、ちゃんと医学を修めた医者はいないだろう。あなた方の状態を見れば、温かい湯に放り込んだ後瀉血しようとするだろうが、駄目だ。あんな治療法では身体が弱まるだけだ。それより【禁足地】に連れて行って雪花【セッカ】に診てもらった方が良い」「だろうな。骨折だけでも足をのこぎり引きで切り落とす医者と汚れた包帯を使って傷口を化膿させる医者しか町にはいないからな」 ぐるぐると思惑が空転していた脳の動きが止まった。緋深にとって珍しいことに思わず素の表情が出てしまうほどであった。 確かに村や街に医学を修めているものは少ない。正規の医師よりも経験が豊富な裏町の医者の方が腕がよほど良いなど-分かどうかわからないが莫大な金がかかるのだが-ありえるのだ。腕の良い、きちんと学んだ者はだいたい貴族や大都市に引き抜かれて、辺鄙な村では医師がいないなどもありえる。 朔夜がそんな医者にかかるなど、冗談ではない。 想像するだけで臓腑全てを内側から冷えた手で撫で上げられた気がした。そしてそんな医者とも言えないやからに預けるぐらいならば、一瞬目の前の人物に預けた方がましな気がした。 だが“雪花”とやらがどれほどの腕か怪しい。国の中央地から遠く離れた場所に名医と呼ばれる腕を持つものがいるとは思えないし、名が女性だと言うことも緋深が気にかかるところだ。 緋深は男尊女卑の思想などまったくない。だが、皓国でも今はないがつい最近と呼べる、つい数十年まではあったのだ。建前上なくなっているが、女性が医学を学ぶことは、よほど地位か学がない限り難しく、大抵が貴族お抱えになってしまう。(信じて………その医者が助けようとして、殺されでもしたら……) 悔やんでも、悔やみきれない結果になってしまう。 どうすれば、良いのだろうか。 視線を女性の腕に眠る朔夜の姿に移す。未だ黒い洋装を握ったままでぐったりとした姿は弱々しく、気配もほとんどないほど薄い。 時間がない。 血を未だ流し続ける心が、慌てることで更に出血を増し、血の海で溺れそうだ。 息が、苦しい。「何処に連れて行くつもりなのか知らねぇが、俺はあんたたちに付いてはいかない………そいつを、放せ」 緋深は、そう選択した。 あまりにも不安要因が多すぎる方を選択するわけにはいかないのだ。朔夜を背負い、山を駆け下り、朔夜を心から大切に思っている人間の息のかかった場所に駆け込むほうが、安全だ。面倒ごとを持ち込むことになり、“朔夜”が -あの人たちは口でどうこう言っても朔夜に甘いほど甘すぎるので問題はないだろう-気に病むことになるが問題だが、まあどうとでも説得出来る。腕の良い医者もいる。 ただ、自身の体力がどこまでもつか、が問題なのだ。賭に近いものがある。(例え……足が、身体が壊れようと…死のうと、絶対朔夜は死なせないっ…送り届けてみせるっ) 緋深は生まれて初めて、“半端者”であることに感謝した。自身に半分、守人の血が流れていることで、賭の勝敗を少しでも上げることができる。 力が入りにくくなってきた身体に活を入れ、目の前の二人を睨みつけた。
2006年06月22日
薄暗い廊下からこちらに近づいてくる細身の影は、燭台の炎に照らされ、揺らめき、妙に不気味に玲鈴には思えた。柔らかく温かい炎の光に照らされているはずなのに、とても不思議だ。「こんなところで、何をなさっているのですか?」 紅い瞳が、斬りつけるような鋭さでこちらを見ていた。緋深の言葉遣いこそは丁寧だが、言葉と言う薄い膜を捲れば、裏に隠されているのは侮蔑だ。視線に含まれた侮蔑の眼差しは隠そうともされていないので、勘違いなどではない。 異人だから、との侮蔑ではない。 幾度も浴びた侮蔑とは、また違うものだと直感で分かる。『異人』という薄膜に通された視線などではなく、直接玲鈴を斬りつけてくるものだ。あのじくじくと膿むような痛みではなく、一刀両断するかのようにばっさりと切り裂かれるような痛みなので間違いない。致命傷を与えようとしているような視線は、いつも喉元に刃を突きつけられているような息苦しさを覚える。 だから、玲鈴は緋深が苦手だった。元々侮蔑の視線が気持ちの良いわけがないし、第一何故か理由がわからないのだ。 玲鈴だけなのだ。緋深は麗蘭にも怜蓮にも、そして之推達にさえ向けない。 緋深は胡家に来た当初、全てを敵とし、睨み付けていた。鋭く光る瞳が、恐かったことを覚えている。少しでも視線を合わせれば、敵と認識され倒されそうだった。 いつからだただろう。緋深の視線に侮蔑を感じ、それが己のものだけだと気付いたのは。はじめは異人だから、またかとも思った。だが、緋深もまた、異端なのだ。玲鈴をその理由で侮蔑すれば、それは磨き抜かれた鏡に写されたように、それは緋深に直接跳ね返る。 ならば、何故だろう。 玲鈴は幾度くり返したかわからない疑問を心の中で思いながら、緋深に少しだけ視線を合わせる。だが、やはり緋深の視線は鋭すぎて逃げるように逸らしてしまい、それを誤魔化すように口を開いた。「……麗蘭姉上に言われて、あの子を呼びにきたのよ」「だから?」「……あの子、またいなくなったみたいで。どうしようかと思っていただけよ」 丁寧に、と心がけてもどうしても刺々しい言い方になるのを必死に自身に玲鈴は言い聞かせる。 玲鈴は、教えられてきた。感情を制御することは重要なことなのだと。何故なら感情を明け透けに出すことは、敵に弱みを見せることになるだけではないのだ。感情を顔に出すことは、特にそれが不安や恐怖ならなおさら、他者の上に立つ者としてあってはならない。「常に悠然と。そして私達は女は女であることに誇りを持ち、婉然たる態度で嫣然としてなくてはならないの」 玲鈴は長姉の言葉をくり返し心の中でくり返す。「いなくなった?」 訝しげな緋深の声に、玲鈴は頷いた。「そう……幾ら扉を叩いても、声をかけても返事はなかったわ」「…それだけか」 何がだ。 玲鈴は反射的に言い返しそうになった。 之推といい、緋深といいなんなのだと思う。玲鈴は普通に人を呼ぶ際の手順を踏んでいる。扉を軽く叩き、夜の帳が下ろされているので他者にはじめは迷惑をかけないように控えめに。そして幾度か試した後に、眠っていることを考慮し、少し大きめな声で。 間違った手順ではないはずだ。なのに、何故過ちを犯してしまっているようなことを言われるのだろう。(それに……あの子が、朔夜が脱走するなんて……珍しくもなんともないじゃない) 今はそれほどでもないが、以前の朔夜はしょっちゅういなくなると言っても過言ではなかった。姉たちがよく探していたのを覚えている。朔夜に興味があったわけではない。多忙などという言葉で言いきれないほどの仕事を抱えている姉たちが、何故あんな少女にこだわり、振り回されているのだろう、と嫉妬にも似た感情が胸の奥に渦巻いたことがあったからだ。 『またか』と思われる、幾度目かの脱走の際、朔夜は緋深を拾ってきた。泥まみれな黒い髪をした少年が、守人と人との半血とはその時思わなかったので、緋深が瞳を開けたとき悲鳴を上げそうになったのを必死で堪えたのを、今でも覚えている。(そうだ……) 玲鈴は思い出した。 そう言えば緋深は、朔夜を嫌っていたのだ。目が覚めた瞬間、視界に朔夜を入れた途端、暴言などよりよほど汚く鋭い言葉を投げつけていたではないか。あれ以外姿を見るたび、言葉で、拳で朔夜を傷つけ、その存在を認めないと言わんばかりに拒絶していたのは、緋深だったではないか。 それがいつからだろう。視線が和らぎ、殴るための拳が開いて、朔夜に恐る恐る触れるようになったのは。何があったかは、玲鈴は知らない。唯一分かることは、緋深が、玲鈴をあの視線で見るようになったのは、朔夜に対する態度が激変した後だということだけだ。 玲鈴が思考の海に浸っていると、ガチャッと金属を動かした音がした。 びっくりして顔をあげると、緋深が何の声もかけずに朔夜の部屋の扉を開けていた。「ちょっ」「あんたは、あんたらはそこから、入ってくるな」 緋深の声はどこまでも、静かだった。小石を投げ込まれ、水面で揺るれる波面より穏やかすぎるものだ。だが、その声を強烈な命令として耳は捕らえ、玲鈴の足を床に縫い止める。 玲鈴が立ち竦んでいると、緋深はゆっくりとした足取りで開いた扉から部屋に入っていく。(やっぱり、いないんじゃない……) 開けっ放しにされた扉から玲鈴が見た光景は、人がいない部屋だった。褥に人の姿らしきものは見えず、人の吐息すらはっきりと聞き取れるほどの静寂さが場を支配してる。(あの子も、怒るのかしら…) 女中でもない人間に勝手に部屋に入られるなど、玲鈴でも嫌気がさす。親しき仲にも礼儀あり、だ。いくら距離を縮めた仲である人間であっても、嫌だと思う。 だが、玲鈴には朔夜が怒る姿など想像がつかない。いや、怒る姿だけではない。喜怒哀楽どれも想像がつかないのだ。玲鈴が知っている朔夜の姿とは、俯き、言葉をほとんど発せず、気配すら危ういものだ。 そんなものだろう。 玲鈴はそう思った。守人とは、主の命令に絶対服従で、能面のような顔で、感情がないような、まるで人間以外の生き物だ。だから主の命令とあれば、戦場に行き、腕が飛ぼうと、内蔵を引きづり出されようと表情一つ変えず命がとぎれ得るまで敵の命を奪う。普通の感性ではありえない。 ぼんやりと玲鈴がそう思っていると、静寂の中で異質な音がした。「っ?!」 玲鈴は顔を上げると、緋深の行動にぎょっ、と目を見開いた。 緋深は衣装棚の扉を開けている。他人の衣装棚を勝手に開けるなど玲鈴にとっては、部屋を勝手にあけるよりよほどありえない暴挙であった。 さすがに止めに入ろうとすると、今まで一切口を開かず、まるで存在が無いように振る舞っていた之推が、玲鈴の肩を掴み、動きを封じる。「之……」 之推殿。 思わず言葉を張り上げ、之推を咎めようとしたが、それは咎められようとしてた張本人の手によって遮られた。男にしては綺麗な、だがやはり所々傷がある男の手で口が塞がれたのだ。 その手を払いのけようとする。「落ち着け」 耳元で思わずぞくりとする、まだ低く成りきっていない声で囁かれる。 大人しくなどできるわけがない。 反論の意思を示そうと之推を見上げると、之推はにこりと笑い、玲鈴の目の前に指先を向け、それをゆっくりと朔夜の部屋の方向に移す。 それにつられるように視線を移し、玲鈴の身体は強張った。「えっ?」 目を瞠った。声が妙に引きつっていたことにさえ、気付かないほど玲鈴は驚いた。 緋深の腕が柔らかく包んでいるのは、抱かれているのは、間違いなく己が探していた少女だった。 驚愕に玲鈴の身体の力が抜けるのを、そっと之推が支えた。普段より密着する身体に普段の玲鈴ならば鼓動が高鳴り、顔が火照ったであろう。 だが、傍にいる之推など気にならないほど、玲鈴は朔夜に囚われていた。「何で……」 心の中で何度も浮かんでは消える、言葉がつい口にでた。 呆然としている玲鈴に向かって緋深は睥睨した。「いつものこと、ですよ?」 いつもは僅かな反発心を抱かせる尊敬の念も微塵も含んでいない声でさえ、玲鈴には届かなかった。
2006年06月17日
「おや?」 ふと呟いた声はそれほど大きくなかったが、秋虫の音しか聞こえない穏やかな静寂の帳を切り裂くには充分だったようだ。之推[シスイ]の声に誘われるように、僅かに幼さを印象づける原因であろう大きな瞳を瞬かせながら玲鈴は俯いていた顔をあげた。 廊下の至る所に暗闇を照らすために設置された燭台の柔らかい光は、玲鈴の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、幼さの残る顔立ちを普段よりも大人びて見せた。 之推の存在を認識できたのか、困惑気に眉を顰めている。 遅い。之推はそう思った。 瞬時に事態を把握する事ぐらいやってくれるようになるには、彼女はまだまだ未熟だ。そう知りつつも之推は内心玲鈴に軽く失望した。 玲鈴の姉という規格外の人物と比べてはならないと思いつつも、せめて麗蘭の背中が見える距離に近づけるほど成長して貰わなければならない。(時間は、限られているからね……)「之推殿……」「どうしたんだい?可憐な顔を歪ませて…」 僅かな年齢差を見せ付けるかのように、声に怪しげな色気を意図を持って滲ませてみれば、玲鈴はさっと頬に紅を浮かべた。その単純で少々過剰な反応は、何処か滑稽だが年相応に可愛らしく、之推は笑った。 だが、同時に困ったとも思う。 一体この少女は、いつ立派な淑女になるのだろうか。 蕾が華麗な花になるのは、ゆっくりと手塩にかけて咲かせてやるのが之推の主義だが、例外として急いでいるというのに、どうやらこの蕾は頑ななほど固いようだ。「いえ…別に。之推殿は、何か御用でこちらへ?」「用事がなけりゃ、来ちゃ駄目なのかい?」「そういうわけじゃ……萱家は、胡家にとってとても良き友ですもの」 玲鈴の返答に、之推は口の端をあげて笑う事で答えた。 胡家の家を平然と萱家の者が悠々と歩いているなど、数十年前では考えられないことだった。今では胡家の者も、萱家の者も、そして周りの者達さえ不思議に思わない光景だ。 周知の仲。そうなるようになるまでに、時間がかなりかかった。急激に近づいて怪しまれぬよう、数代前から心を砕いて、ようやくここまできた。(---そう、刻は近い。遅くて俺達の次の代。早くて、数年後) 刻が満ちたとき、胡家の役割は大きいものとなる。 家督の麗蘭殿は充分すぎるほどの戦力だ。次女も数年前からぐんぐんと成長し、あと今一歩だ。だが三女の成長が間に合うか、否か。「じゃあ、何で玲鈴殿は、“この”扉の前で親からはぐれてしまった子供のように途方に暮れているのかな?」 之推の紡ぐ言の葉に、玲鈴は言葉を詰まらせた。その反応に之推の瞳の奥が鋭く光る。 胡家の敷地内である屋敷の中で、家督の妹君、三女である玲鈴が何処にいてもさして問題はない。之推よりよっぽど、だ。だが、この部屋の扉の前ということが、どうにも之推の気になったのだ。「この部屋は……儚月の姫君の、だよね?」 之推が『姫』と称する女性は少なくない。むしろ認めた人物ならば、誰でもその女性を最も表す名称を添え『姫君』と呼んだ。例えば、目の前で沈黙を貫いている玲鈴の長姉には、『紅華の姫君』と呼ぶように。 之推が、部屋の持ち主を姫と呼ぶことを、玲鈴は理解できないらしい。玲鈴とそのすぐ上の姉には決して呼ばない、尊称にも似た『姫』という言葉が、似つかわしくないのではさえ、思っているだろう。 之推があの玲鈴よりも年下の少女を姫と呼ぶ理由は、実は自身もよく分かっていない。強い人間か、と言われれば弱い。顔立ちは良いほうだが、笑うことがないので魅力的とは言い難い。手を繋いでいないと離れていくくせに、少しでも力を入れてしまえば怯えて逃げようとする矛盾で、之推を簡単に翻弄する。 之推は女性に対してある程度自信があったのだが、初対面の際、いきなり距離をつめたのが悪かったのか脱兎の如く逃げられた。あの時、逃げられたからだろうか。半ば興味、半ば意地で少しずつ距離を縮めていった。 そして知った。小さく儚いが、とても純粋で温かな存在だと。 之推にとって、大切な存在となった。そうなれば、その存在を認めないわけにはいかない。之推の心にいつの間にか居着いていることに敬意を称して、『姫君』と呼ぼうと決めたのだ。 之推は、まだ姫君とは言えない少女を見つめた。まだまだ狭い視野、度量に、何より自分の中に一本の強い芯がまだない。 之推に見つめられて居心地が悪いのか、玲鈴はしばし躊躇し、ぽつりと口を開いた。「……麗蘭姉上に、あの子を呼んできなさい、と言われたんですが……いなくて、またか、と思って」「いないのかい?」「…何度も声をかけたのですが、返答はなかったんです」 また、ね。 之推は玲鈴には聞こえないように、小さく呟いた。 確かに“また”だ。 之推は玲鈴の傍にある扉の取っ手にすっ、と手をかけた。この扉には鍵がかけられることはいないのだ。そのまま扉を押して入ろうとすると慌てたように玲鈴の手が之推の腕に添えられた。 添えられた手には微妙に力が入り、静止をうながしていることは簡単に分かる。だが、之推は軽く肩を竦め、玲鈴を無視して扉を開けようとすると玲鈴が声を張り上げた。「之推殿?!」「何だい?邪魔しないでくれると、有り難いんだけど」「しますよ!!」「何故?」「何度も呼びましたが、返事がなかったんですよ?部屋主がいないのに勝手に部屋に入るのは、あまりにもそれは、不作法では?」 玲鈴の言うことは、正論だ。之推も常識はわきまえているので、それぐらい分かっている。 だが、例外というものはあるのだ。 それが 儚月の姫君への対応だ。 「知らないんだ、玲鈴殿は」「え?」 之推の確信を秘め、自信に満ちた声と眼差しに玲鈴がきょとんとした。「姫君は、眠っているんだよ、きっと……だから、返事がない」「え……え?眠ってる?」「そう…こんな夜半に紅華の姫君が呼んでいるんだ。起こして連れて行ったほうが良いと思わないかい?」「え、あ……でも、眠ってるって。そんなはずないです、だって」「……やっぱり知らないんだね」 無知な子供を見るような視線は、玲鈴を更に困惑させるには充分だったようだ。しどろもどろに言葉を紡いでいる。「あの子が、よく眠っているのは知ってますけど、けど、あれだけ呼んで気付かないわけ……」 玲鈴の言うように朔夜は、よく眠る少女だった。 寝る子は育つというが、あれは嘘だと証明するかのように、小さく細い朔夜はよく寝た。下手をすれば半日以上眠り続けた。人が傍に寄ればすぐに目覚めるのに、いなくなるとぱたりと眠ることも度々だった。 小さく丸まって眠る姿は、まるで何かを拒絶するかのようにも見える。だが之推には自身を癒す、回復を試みているようにも見えた。何かに抵抗し疲れ、眠りにつき、眠ることで回復している最中にも抵抗しているように見えるのだ。 朔夜と言う少女は、之推が名付けたように『儚い月』のように脆そうにみえるが、そうではない。誰かの庇護がなくてもまっすぐに立ち、前を向き、進める強さを秘めている。そう見えないのは、周りが幾重にもの紗で覆い隠しているからだ。悪意からではない。朔夜に悪意を向けるものから守るためだ。「こんなところで、何をなさっているんですか?」 どう玲鈴に説明したものかな。 そう考えていると、之推と玲鈴の耳に刺々しさを隠しもしない声が飛び込んできた。 視線を声の方向に移すと鍛え上げた剣のような鋭さを秘めた紅い瞳がそこにあった。----------------------本編の半年~1年前の物語・玲鈴の朔夜への偏見の改善の兆しを各(まだ玲鈴が守人への偏見を持っていたころの話です)・本編ではまだまだ現れることがない人物を出すを目標に数話で終わらせたいと思ってます
2006年06月01日
茜夜さんとのリレー作品、サンセツキとうとう本編のバトンが回ってきたので、本編をこれから上げていきます更新速度、遅くなっていますがのんびりと待っていてくれたらなぁ、と思ってます今後の予定1,本編をさっさと茜夜さんに押し付ける(笑)2,紅の邂逅も、さかさか上げないと。本編1と3の繋ぎだから。3,紅の雪も、いい加減終わらせないと……4,後、至急上げないと話がおかしくなるのが、数話…………大丈夫なのだろうか?……………が、頑張りますので良かったら読んでやってください
2006年05月22日
淡く優しい光を灯した岩が、洞窟の暗闇をぼんやりと照らし、幻想的な世界を醸し出している。(ここ、どこ?) 朔夜はあまり夢を見たことがなかった。眠りはいつも朔夜を深く深く誘うくせに、体は、本能は他者に敏感だった。夢を見ぬほど深い深い、居心地の良すぎる眠り海にたゆたっている最中、何度、何十度跳ね起き、強制的に覚醒しただろう。悪意を持たぬ人間の気配にさえ、怯えて。 朔夜はしばらく困惑していたが、夢だとようやく分かり、肩の力を抜き、辺りを見回した。「なんでだろう………ここ、は、とても」 懐かしい。 何故か郷愁にも似た切なさは、胸の奥深くを締め付けるようだ。何がそんなに懐かしく、恋しいか、朔夜自身にも分からない。帰りたいと、思う気持ちさえあることに、戸惑いすら感じた。「帰りたい?………どこ、に?」 帰れる場所など、ない。帰っていい場所など、ありはしないと言うのに。 『あの人』のところにも、優しい人達のところにも、いくら居場所を用意してくれようと、居ていいはずがないのだから。(だ、め………駄目………絶対、駄目………望んじゃ……) 言い聞かせるように、誓うように、祈るように、心で何度も呟いた。 忘れるな、と強く思う。 胡家の惨劇の光景が、強く蘇る。血と雨の混じった川が流れる廊下、人形のように転がっていた遺体、壊された胡家の美しい家、遠くから聞こえた大切な人の慟哭。脳裏に過ぎった光景に、呼吸が狂いそうになる。 その酷い光景と連動するように、『あの人』の顔が蘇った。一瞬、白く思考が塗りつぶされ、息が止まった。気づけば胸のあたりに朔夜の指先は惑い、いつの間にか握り締めて服はしわになっていた。気を抜けば、ぽろぽろと流れ出しそうな涙をぐっ、ときつく瞳を閉じて堪える。 涙を零さぬよう、上を向いていると、優しい光がふわりと視界を過ぎった。一瞬瞳に入ってくる光の量が変わったことで、瞳孔が閉じ開きした。 驚き、きょとりとして視線を前に戻すと、ふわりふわりとあたりを生き物のように飛ぶ光の珠が目の前を過ぎさっていた。何だろう、と思い周りを見渡すと、数多の淡い光の珠が蛍の様に漂っていた。幻想的な光景が、更に現実味を失い、美しかった。 蛍のような光に、触ってみたいと心が動いた。(触っても、いいの、か、な) これは、触っても、壊れないのかな。 夢ならば、自分のせいで、壊れたりするものは、ないのかな。 そうであって欲しい、と期待にも似た感情に支配され、恐る恐る朔夜は手を伸ばした。 指先が光に届いた瞬間、温もりだけは指先に伝わったが、触れることは叶わなかった。残念だと思う気持ちもあったが、指先に淡い温もりを感じられたことだけで妙に満足感を覚え、触れられなかったことに、安堵もした。 砕けなかった。消えなかった。壊れなかった。 それだけで充分すぎた。 触れられない、と分かったが、それでも、朔夜は光の珠に近づいた。いや、触れられないことが、近づいても壊れないことが分かったことで、尚更傍に寄って見たいと思ったのだ。許された、気がしたのだ。 柔らかく温かい光をそっと覗き込んでみて、朔夜は目を見張った。 淡い色の長い髪の女性。白い肌のその美しい女性を昨夜はよく知っていた。とても淡いが微かに桃色の光に映っているのその姿は、見間違いようがない。「櫻妃様……」 朔夜は呆然と彼女の名前を呟いた。 浮かぶ優しい笑みの姿に、思わず手を伸ばしたが、寸前で留まった。怯えで、指先が固まったのだ。 その眩すぎる光に、触れたいと言う、沸き上がる望みを押し殺さなくてはと思い、無理矢理目を背けた。見ていたら、甘く優しい誘惑に負けてしまいそうだったからだ。(……だめ………幻であっても、櫻妃様に、触れては、だめ………頼っちゃ、縋っちゃ、駄目だよ) だが、視線を動かしたことを朔夜は後悔した。目眩すらしそうだった。 よくよく見てみれば、全ての光には、人の姿が見えたのだ。それも、他人ではなく、朔夜と浅からぬ繋がりがある人物ばかりだ。「………っ、………ぁ、っっ!」 気を抜けば、名を呼び、駆け寄ってしまいそうだった。それほどに、ただの幻でもここまで心を揺さぶる者達ばかりだった。 朔夜は自戒するように、自身の身体を抱きしめ蹲った。 だか、そんな朔夜の必死の抵抗を無視するように、光の珠は擦り寄ってきた。 そんなことをされたら、反抗し続ける辛い。だが、それ以上に喜びを感じてしまった。 見捨てられてない、と。こんなに優しく、温かな人々が手を差しのべてくれている現実を思い起こさせ、なんて、自分は幸せなのだろうと、感慨の波が体中を駆けめぐる。 朔夜はそっと、無意識に両手を重ね合わせていた。この奇跡のような幸せを、誰かに感謝するように。「だから…………だから……………」 近づいてはいけない。遠くから、見ているだけでいい。 朔夜は、そう強く思い、光の渦から抜け出した。光が戸惑うように、動きを止めていた。 それにほっ、として朔夜は淡く微笑んだ。 目が潤むが、愛おしい人々の姿が滲むが温かなその光を纏った姿が消えることはない。それが、とても嬉しくて、切ない。「綺麗………」 よく見れば光の珠はそれぞれの色を纏って、お互いを更に引き立てるという相乗効果を起こしている。とてもその光景は美しく、永遠にこの輝きを見てみたいと朔夜は思った。 と、同時に何があっても壊してはならないのだと。 朔夜は恐かった。己の存在で、傷つけてしまうことが。朔夜は、自身が危険な存在だと嫌というほど理解していた。台風のような叩きつける豪雨と切り裂くような風が纏わりつき、近づいてきた人を止める間もなく傷つける。自身などいくら傷ついても構わないと言うのに、いつも被害にあうのは周りで。そのことがいつもいつも朔夜の喉元を締め付け、言葉を奪っていった。 だが、傷つくだけなのに、手を伸ばしてくれる人達がいた。 そのことは、朔夜のボロボロの心を優しく包み、癒してくれる。だが、同時に不安も積もっていった。傷ついて、なお手を差し伸べてくれる人の好意に依存してしまうのではないかと。「私は…………弱、い」 温かな手を振り払らえる強さも、傍に寄って依存してしまわない強さもない。相手を守る術も、強さもないといやというほど思い知らされたというのに。 それでも、分かっていても、手を握ってしまう自分が、とても嫌いだった。
はらはらと今も眼前を舞い降り続けている新雪が降り積もった足場は、少し体重をかけるだけで脆く姿を変える。戦うには、特に武器はこの身だけの戦い方をする自分には最悪の条件と言える。 身体の隅々まで神経を過敏に張りつめさせ、すぐに戦闘になっても良いよう体勢を整えた。 背後にか細い息が聞こえるだけが、朔夜の存在を教えていた。気配が限りなく薄くなっている。急がなくては、と焦る心を冷静であれ、と必死に鎮める。「おいおい……大丈夫か?」 低く響く声に視線だけをすっと向けた。厚みのある声は、己のものとは違う大人の男で憧れるものがある。声変わりも終わり、声を響かせるだけのしっかりとした身体。今すぐにでも欲しくてたまらないが、決して手を伸ばしてもまだ届かないものだ。 だが、憧れるものがあるはずなのに、どうしてこの耳に残った声は《あいつ》へ感じていた燻っていた怒りを煽るのだろうか。一瞬、決して手に入らないものを持っていることに対する反発だろうかと思ったが、違う。絶対違う。生理的に合わないのだ。視界に相手の姿を捉えた瞬間、それを確信した。 目が痛くなるほど鮮やかな赤に、何を考えているのか金糸の刺繍がふんだんに施されている。どうやら金糸で表されているのは、優美な鶴のようだ。その上に羽織られた新雪に溶け込みそうなほどの純白の着物には、銀糸でよく分からないが多種の華が施されている。 何なんだろ、この目を痛めつけることを目的としたと言わんばかりの対照的な色使いは。「何だって、こんなとこにガキが……」 視界に姿を、聴覚に声を捉えるだけで、苛々としてくるのは、決して目の前の人物が敵だからだけではない。冷静さがこのままだとすり減る一方だ、と気づきなるべく視界に入れないようにする。だが、いつ襲ってくるか分からないので、完全に見ないわけにはいかない。隅の方に、と視界を調整すると、派手な男の横にもう一人いることに気付いた。 完全に、分からなかった。男の方は、気配はほんの微かで、緋深が普段より過敏なほどに神経を張り巡らせていたので辛うじて分かった。だが、派手な男とは対照的な全身を黒い外来風の装束で纏めて静かな印象を受ける女性の存在は、このような状態でも気付けなかった。(-------強い、この二人) 巫山戯た恰好をしている男も、静謐な空気を纏った女性も見かけ以上、いや驚異的なほど強いと本能が教えようと警鐘を鳴らし続けている。彼らがしている、あいつらしくない、など緋深には意味の理解できない会話が、神経をとぎすまさないと聞こえないほど、危機を告げる音は痛いほど五月蠅い。 倒すのではなく、殺すつもりでいかなくてはならない。最初から全力でいかなければ、微かでしかない勝機が完全に消え去ってしまう。完全な体調でないという不利を緋深は負っているのだから。(----いや、完全な体調でも、勝てるかどうか) 弱気ではない。相手と自身の力の差を見極められない愚を犯したくないだけだ。実力に差があろうとも、勝敗がそれだけで決まるわけではないのだ。見極め、どう行動するかが勝敗を定める。「うおっ」 一撃で仕留めようと、急所を狙い、力があまり入らない代わり、速度を付けた拳を男は軽々とかわした。緋深は小さく舌打ちをうち、後ろに飛んで男との距離を置いて、体勢を整え直す。「おいおい」「それ以上……近寄るな」 呆れたように呟く声は、緊張が含まれていないどころか余裕で溢れ満ちていた。その証拠に巫山戯たように両手をあげ、こちらに近寄ろうとしている。 鋭く声で制すると、男はにやにやと笑う。睨み付けると、更にその笑みは深く、楽しげになり、更に怒りを煽る。「別に、取って食いはしないぜ?」「うるせぇ」「人の親切は、素直に受け取っておくべきだぜ。子供は」 子供、と言う言葉に過剰反応しそうになるのを、緋深はぐっと堪えた。まだ、自身が心身ともに未熟と嫌というほど分かっているが、それを目の前のこの男だけには言われたくない。 苛立ちは冷静さを浸食していくのを感じながらも、怒りに飲み込まれぬように、と相手をぎっと睨みつけた。「親切?……はっ、親切ってのは、いつから人さらいを指すことになったんだ」「言うに事欠いて、人さらいかよ」 緋深はだんだんと目が据わっているのを妙に冷静に感じた。人さらいではない、とどの口が言うのか。あの女性だけならばここまで確信しなかっただろうが、この男の存在は胡散臭すぎる。この胡散臭すぎさは裏街に通じるものがある。 緋深達、いや朔夜を追ってきたあの連中は裏街の人間だった。幾人か返り討ちにし、聞き出したのだから間違いはない。「……金、掴まされて、頼まれたくちだろうがっ!てめぇもっ」「人間不信だねぇ。善良な一般市民をつかまえて」 ぷちり、と何かが切れる音が脳裏に聞こえた。わなわなと震える口と拳をぐっと握りしめ、緋深は男の懐に飛び込み殴りかかった。 「そんな趣味の悪い着物なんか着ておいて、一般人と言い張るのかっ?!」 緋深の絶叫にまだ嫌な笑いを更に深めた男は、やはり強かった。間髪いれず繰り出す技を尽く、軽々と言うよりひょうひょうと男は避けていく。肉体を限界まで酷使しての攻撃は決して弱いものではないはずだ。(くやしい) 負けるわけには、いかなかった。負け、倒れ、朔夜が連れて行かれる結果だけは何があっても避けなければならない。 朔夜を、緋深の腕の中から奪い取られるのも、もちろん我慢ならない。 けれども、奪われたら取り戻せばいい。ちょっかいを出してくるならば、完膚無きまでに叩きつぶす方法を考えるだけだ。だから、ここで負けたとしてもまだ方法がある。 この男は《あいつ》に朔夜を渡し、金を貰い、それきりになる。これほど強い男はそうはいないだろう。《あいつ》の家来を相手にするほうがよほど勝機が高い。ならば、本来なら勝機の高い方を選び、更にその勝機を高めるために肉体を回復させるために撤退を選んだだろう。 最後には必ず勝つ。それが緋深の考え方だった。 だが、今回だけはそうも行かないのだ。連れて行かれたら、最後なのだ。 《あいつ》は朔夜を殺さない。傷つけさえしないだろう。だが、《あいつ》は間違いなく、肉体を傷つけないくても、朔夜と言う存在を殺すのだ。朔夜は連れて行かれたら、きっと抜け殻になり、朔夜と言う名の人形になってしまう。 冗談ではない。 朔夜は朔夜だからこそ、意味があるのだ。朔夜だからこそ、その存在が尊いのだ。(だから、守り通すっ!) いくら自身でも最高の技を繰り出しても、目の前の男に一掠りすらしない。悔しさと連れて行かれるかもしれない焦燥にじりじりと神経が焼き切れそうだ。目の前が真っ暗になりそうなのを、必死に耐える。追いつめられている、と実感しているが、どうしようもない。(だが、守り、きれるのか…守ることができるのか、俺にっ--) 一瞬顔を見せた弱気に、緋深は自嘲した。何を莫迦なことを、と思う。 守ることができる、できないではないの問題ではないのだ。どちらであってもやることに変わりない。できようが、できまいが何が何でも守っているだろう。 だが、それは守りたいからはない。胸の奥底から沸き上がる激情にも似た思いは、願望で終わらせるような生ぬるい感情ではない。守りたい、などでは終わらせやしない。それはもう息をするように当然なことだった。何を犠牲にしても、何があっても守る。それだけだった。(何故、俺はここまで朔夜を傷つけたくないと願うのだろうか) ふと、そう緋深は思った。えらく、妙に余裕があるなと思い笑いそうになる。(何があっても守る、か) 誓いと言うには、この感情は汚すぎるし、決意と言うには、この感情は脆いのではないか。(もし俺がつけた傷が一生朔夜に刻みつけられ、忘れられないとしたら…) 選んでしまいそうな自分がいた。他人からの傷は一切つけさせたくないと言うのに、己ならばいいのか、と緋深は己に自嘲する。 だが、そう願ってしまった自身の思いも切実なものなのだ。(朔夜は、理解してくれない、微塵も) 朔夜と共にありたいと、願う。 そう何度言葉を重ねても、朔夜は悲しげに笑うだけだ。共にあることだけが緋深の望みであり、生きている希望だと言うのに。なのに、緋深の痛切な願いを込めた言葉を朔夜は理解しないのだ。 朔夜は一言一句言葉を聞き逃さず、何一つ零さず受け止めてくれる。だが、自身を疫病神と、周りからの愛情を、その人の溢れような優しさと思い込んでいるのが朔夜だ。受け止めるくせに、理解はしてくれないのだ。いや、理解できないのだ。 莫迦だと緋深は思う。 朔夜を溺愛している面々のどこを見て、優しいと思えるのだ。あの一癖、二癖どころではない奴らのどこに溢れるような、普遍的な優しさがあると言う。思い込みが激しいと言う問題ではないのでは、と思うほどだ。(優しいから、朔夜を傍に置く?優しいから、朔夜の存在を許容する?) どこをどうしたらそう思えるのか、今でも朔夜の思考回路は不明だ。 朔夜は、共にいることを今は許容している。だが、それは細い蜘蛛の糸のようなもので辛うじて保たれていることが嫌というほど緋深は理解していた。 共に、傍にいることを選択したのは、緋深だと言うのに。何度怒鳴りそうになっただろう。自分が傍にいるのは、守っているのは優しいからではないのだと、どうして解らないと。 朔夜は《あいつ》が再び目の前に現れ、緋深を傷つけたら、姿を眩ますだろう。残酷で、憎らしい、朔夜らしい優しさだ。そして同時にそれはただの弱さでもある。だがそれすらも、憎らしい、と思うことさえも愛おしく思える自分は、末期だろう。 自嘲するように一瞬笑い、目の前の巫山戯た男に蹴りを繰り出した。
2006年05月14日
目の前の鳶色の目の男が、助けてくれたのは明白だった。耳鳴りと勘違いしたのは、刃が互いを弾きあった音で、間違いない。玲鈴は、今まで剣戟を目にしたこともないので、分からなかったのだ。 今更ながら、ほっと肩の力が抜けてくる。呆然としていたが、肩の力は抜けてなかったのだ。冷え強張っていた前進がようやく氷解していく。 ふと、玲鈴はたわいのない疑問が脳裏に過ぎった。「命の危機を、間一髪のところで魅力的な男性に救われ、恋に落ちる。そんなこと、あるんだ、って憧れたこともあったけど………現実には起こらないものね」 物語を、特に貴族の女性達の間で流行っている恋が強調され、冒険ものと言うよりは恋物語的な話を一時期嵌って読みふけったことがあった。流行りだからでもあったが、どこかで『運命』や『宿命』と言うのに幼い自分は憧れていたのかもしれない。 数多いる人達から選ばれ、決して解かれることない強固な『運命』と言う絆に繋がれた仲間や恋人。劇的に変わる日常。そして何より自分と同じ『異端』であるのに、特別視されているのに、それが酷く優しく心地よさそうな特別視に見え、うらやましかった。今ならそんな莫迦げたことと思う。特別視に良いものなどなく、やはり区別され、理解されにくいことなど分かり切っているから、苦笑するしかない。 そんなありきたりな物語な、ありきたりな場面。それを今、どこか冷めた視線で玲鈴は見つめていた。 確かに救出してくれた人に対し、深い感謝の念を覚える。だがそれをはっきり認識するには時間が必要だった。認識できるほど、恐怖で雁字搦めにされ動かない思考は急速に回復できない。 それに今も相変わらず心臓は早鐘をうっているが、甘い気持ちにより高鳴る鼓動など錯覚できるない。鼓動が間を空けず弾み続けるのは、すぐに拭い去ることなどできない恐怖からだ。この不安の暗い影しか呼び起こさない音は、どうやっても明るく温かな気持ちを生まれさせることなどできやしない。「ひょっとしたら、この嫌な気持ちを誤魔化すために、塗り隠すために無理矢理勘違いするのかしら」 そんなことをぼんやりと考えていたが、玲鈴は知らない。己を救助した男達が、気遣わしげにこちらを見ていることを。 玲鈴のこの思考の突拍子なさを知ることができたなら、男達は呆れるか、大物と感心するか、どちらかで二の句が続かないであっただろう。玲鈴の姉たちならば、「このお馬鹿さん………どうしてそう、変な方向に突き進む、と言うか突拍子もないことばかり考えられるの。特に非常事態になると、逃避するかの如く…………絶対に、長生きするわね、あなたは」 と本人の前で断言し、隠さずため息の一つもついただろう。 暗い感情に囚われないよう、考えないようにするためにか、どうやっても生命の危機の後とは思えないことを考えている玲鈴に近づくものがいた。「お、おい…汪燕?」 鳶色の男のどこか焦った声に、ふ、と視線を上げようとした玲鈴の耳に美声が飛び込んできた。「大丈夫か、お嬢さん」 言葉と共に、腕を掴まれ身体ごと引き寄せられる。視界が玲鈴の身体とはまるで違うしっかりとした厚みのある胸で埋まり真っ暗になり、呆気にとられ、言葉もない。 あまりの状況の急変に頭の機能が停止し、抵抗することを忘れ、玲鈴はなすがままになっていた。 玲鈴の赤い華のような色をした髪に、美声の主の男の長い指先が絡む。さらり、さらりと指の間から零れる髪の感触を楽しむかのように幾度も掬っては、逃げていく髪で遊んでいる。 後ろ髪を優しく梳かれ、確かな音を刻む心音に安堵することに気づき、慰めれれているのだろうか、と思うほどの余裕がでた瞬間だった。「ここより先の廊下の隅に、これを落とす。後で拾って胡主に渡しおけ」 耳元に小さく落とされた声に、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。 これ、とは何だ。 そう思い、必死に『これ』と言われたものを知覚しようとし、更に玲鈴は混乱した。玲鈴と男との間は、他者からは完全に死角になっている。その空間でさっ、と長い指が動き示したものは、玲鈴に、今日数え切れないほど体験した、頭が真っ白になるということを再度強制的に体験させた。「………ぅ、え?…ええっ?…な、何なのっ!え、何でっ?!嘘でしょう!『これ』、ってこれ?!冗談でしょうっ?!」 玲鈴はもし、声帯が常が如く働いてくれるのならば、淑女としての嗜みなんてもの綺麗に忘れ、心の中だけでなく声にだしても絶叫していたであろう。声なき絶叫が頭のなかで響き、脳細胞を破壊していく。 そんな玲鈴に対し、男は身体をそっと離すと、一度も振り返ることなく鳶色の目をした精悍な男-こちらは玲鈴を気にかけ何度か振り返っていたが-を連れ、廊下の奥にある闇に姿が溶け消えていった。 慌てて部下達が後を追っているのをぼんやりと見ているうちに、ゆっくりと脳に言の葉が染みこんでいく。ようやく理解し、弾かれるように顔を上げたときには、もう廊下には姿はない。いつの間にか-隠れていたのか、駆けつけたのかすら分からない-現れた女中達が、身を案じ口々に言葉を投げかけてくるが、玲鈴には答える余裕はなかった。 あまりに都合がよい救出劇は、まるで夢幻のようで、彼らの存在も現のものだったのか、一瞬不安になる。 だが、玲鈴の身体にあるあの男の体温の残滓があっさりとそれを否定する。その温もりをまるで逃がさぬ、と言うように己の身体を抱きしめた。夢だった、と思い込み逃避しないように。戒めの為、きつく、痛いほどに力を込めた。 じくり、とした痛みに玲鈴は眉を顰めるが、痛みを脳がきちんと感知できた。少しずつだが冷静さを司る脳の部分も、連動したかのように正常化してくる。 しっかりと己の仕事を思い出し、動きだしてきた頭を占領するのは、何を企んでいるのだろう、と言う思いだ。「なぜ……」 それ以外、玲鈴は言葉にできない。 確かにあの長い指が指したのは、外套の飾り紐についていた止め具だった。彫りが繊細で、それだけであっても値打ちものであろうが、その細工が施されている宝石もそうとう高価だ。宝石や洋服など、胡家の中でも女性らしくお洒落に一番興味を持っており、目の肥えた玲鈴が呻りそうなほどの品物である。そうとうなものだ。 そんな高価なものだが、拾って置け、それ言われただけならば不思議がるだけですんだのだ。それに、家紋が刻まれてさえいなければ。 各々の貴族は、通称[上流貴族]と呼ばれる数が限られた名実ともに莫大な豊と権力を持ったものたちには特にだが、家紋というものがある。中流、下流、武家にももちろん存在しているが、案外似たり寄ったりのものが多い。だが、決して真似ることができない紋と言うものも確かにあった。 他に真似を許さない図柄の家紋は、見るだけでどこの家紋かがはっきりわかるものだ。特に、誰にでも一目で分かる家紋があった。それは三神を象ったものだ。三神を象ることは、不遜故、決して一般には許されていない。例外は、三神を祭る祭壇、祭壇に祭る像などだけだ。家紋にしてしまう、と言う不遜が許されるものは、三家しかない。 一つは王家。黄金の輝きを纏い皓国の広大な大地を収める颯狼〈ソウロウ〉は、王家の証だ。 その大地に接し、数多の恵みと守護を与えてくれる空と海をそれぞれ収める 純白の羽に虹のような尾を持ち空を自由に舞う霓鳥〈ゲイチョウ〉と、黒真珠を散りばめたような鱗と黄金の眼を持ち海を見守る黎龍〈レイロン〉を家紋にすることを特別に許された、皓国建国以来王家に忠誠を誓い、尽くしてきた羅家と籐〈トウ〉家、所謂御二家だ。「黎龍〈レイロン〉の盾……」 確かに、あの男が、指さした留め具は、翠色の宝石で、そこに盾の形が刻まれて、その中央に神々しい龍が描かれていた。 龍を守る、翠色の盾。 それは、羅家に使える近衛の中の近衛の証だ。「何故………」 玲鈴はこの時、この襲撃が羅家の御曹司によるものだとは知らなかった。だからこそ、余計に混乱する。いきなり現れ、助けくれるなど、一体何が起こっているのだ。 羅家と胡家は、交流はないわけではない。だが、それは外面を飾っただけにすぎない。ここ数十年で、胡家の力を他の貴族達が認めずにはいられない状況になり、にこやかに握手は交わすようになった。が、掌を返したような態度に胡家は冷ややかな感情しか浮かばず、あちらも胡家が実力者でなければ歯牙にもかけなかっただろう。胡家が移住してきてから、長い年月がたっても一切、本当に、胡家など口すら聞いたこともなければ、顔もしらないし、名も知らない、という態度を貫いてきた羅家だ。あの胡家の被害妄想ではない。つまりにこやかに微笑みつつも、腹のさぐり合いをする仲なのだ。 その羅家が、襲撃されている胡家の近くを通ったから、見て見ぬ振りができないから助けてくれたなど、助けてもらっておいて言えることではないが、玲鈴から見てもどこか滑稽で、薄気味悪いのだ。「っ?!…………ま、さか………」 薄気味悪さの中から、最悪の未来予想図が見え隠れるしているのを感じ、玲鈴は握りしめていた肩に更に力を入れた。痛みが少しの不安を紛らすが、反面脳の奥底でか細く鳴り響く警鐘の存在を教えた。 警鐘の音が、一本の細く儚い糸を揺らす。「…………あった」 巧妙に隠してあるが、羅家と胡家を繋ぐ確かな糸があることを玲鈴は思いだした。今にも切り裂けてしまいそうな糸が、助けを求めるが如く、震えている。 不安そうに声をかける女中の声は、愕然とした玲鈴に届かない。「…………るの?」「玲鈴様?」「麗蘭姉様は、どうなっているのっ?!」「だ、大丈夫ですよ」 玲鈴の気迫に飲まれ、言葉に詰まりつつも女中は答えた。「胡家の近衛が、ついておりますし、他の兵も向かっているはずですので、大丈夫です。狼藉者たちなど、すぐに追い払ってくれるでしょう」 落ち着けようと、穏やかで包容の響きがある声に玲鈴は、「違うっ!そうじゃない」 反射的にそう答えそうになるのを必死に言葉を飲み込んだ。 姉の無事は、確かに安心できる。だが、そうではないのだ。 胡家の近衛がついている限り、狼藉者など髪の毛一本すら麗蘭に触れさせないだろう。実力が違いすぎる。だから、あまり心配は今の今までしていなかった。 だが、玲鈴の予想があっているのなら、あの『黎龍の盾』の狙いが、胡家の危機を助けるためではないならば。助けてくれたのは、ついでなのならば。 玲鈴の顔から血の気が引いていく。「次期羅主か、羅主か………どっちの命令でも、まずすぎる」 戸惑ったように、だが無防備にふにゃりと笑う少女が脳裏によぎる。次期羅家当主ならば、あの子を奪うため、現羅家当主ならば、あの子を殺しためにきた。 どちらにしても衝突することに違いはない。しかもこのような緊急事態ならば、麗蘭は少女の様子を見に行ったであろう。彼女を守ると、盟友と約束をしたと、にこやかに笑っていた姉ならば。 それはつまり、姉を守るため傍に控える胡家の近衛と、姉の傍にいる少女に用がある羅家の近衛がぶつかるのは避けにくい事態である。どうやっても、交渉しても成立しない。 どこから少女が胡家にいるという情報を掴んだのか、と疑問に一瞬思うが、それどころではない。「姉様…………朔夜っ」 どうか、どうか無事で。 切実な願いと共に呼ばれた名の存在が、玲鈴の脳裏から翠色の宝石のことも、羅家のことも、あの不可思議な男達のことも忘れさせた。
2006年04月23日
低い分、厚みのある声が頭の中で木霊するように響くが、玲鈴は反応できなかった。脳が消えてなくなってしまったから、空っぽの頭の中で声が盛大に反響しているのではないかとさえ思った。「怪我はないか?」 幾度も言われている同じ言葉がやっと脳に浸透し、理解できたので恐る恐る、そして半信半疑に頷いた。不思議なことに疑っているのは声の主ではなく、自分自身なのに玲鈴は困惑する。やっと反応した玲鈴に良かった、と優しげな光を灯した鳶色の瞳の方が、簡単すぎる計算でさえできないほど動揺している自身より信頼できるような気がしたのだ。 立てるか、と節くれ立った武骨な手が差し伸べられるが玲鈴はその手を取れなかった。情けないことに、気力を使い果たしたのか、気が抜けたのか、あまりの驚きでか腰が抜けてしまったのだ。「あ、あ……あ、の」「隊長、どうしますか、こいつら」 声帯をようやくのことで振るわせ、何を問えば良いかわからずのままだったか、とにかく玲鈴は声をかけようとしたが、か細かった声はそれをはるかに上回る威勢の良い声に塗りつぶされた。 何事かと思えば、鳶色の瞳の男の部下らしき男が破落戸どもを足蹴にしていた。薄汚れた服に不似合いな鈍い光を放つ武器を握ったまま倒れてる破落戸は、確かに先ほどまで玲鈴が対峙していた者達だった。 そうなのだ。いや、そうだったのだ。 今更ながらだが、玲鈴はようやく状況が飲み込めてきた。「私は、この人達に、救われたのだ」 心の中で反芻することで、ようやく現実と言う色を帯び、質感を伴ってくる。波のように打ち寄せは引いてを繰り返す安堵と、その下で見え隠れする、安全になっても消えることない恐怖に、まだ夢現のような気分が抜けない。泥沼のようにぬかるみ不安定な足元、と言うよりは雲の上で漂っているような危うさの上に立っている感じがする。 脳が、許容量を越え、壊れる際に発した熱で溶けてしまったようだ。しかもその爆発的な熱は溶かしどろどろにするだけでは収まりきらず、跡形もなく昇華させてしまっている。 ふわふわと言うよりもつかみ所のない、それどころかつかみ縋るものが一切ない思考の中で、必死につい先ほどのことを思い出す。--------------------------------------------「偉そうなことをっ」 実は虚勢なのだが、凛とした態度を崩さない玲鈴に狼藉者たちは、逆上したのだ。目をぎらつかせ、顔からは知的なものが一切消え、まるで獣のようだ。見下されたと勝手に思い込んだのも怒りの理由だが、それを上回ったのは正論を突きつけられ答えを返せないことに対する逆恨みだった。 狼藉者達は、強面で相手を威嚇し、怯えさせることで相対的に自分の立ち位置を上げて優越感に浸ることに喜びを感じる人であった。それ故、己より確固たる地位のあるものや、腕っ節の立ちそうなものには喧嘩を売ることはなかった。いくら脅かそうとしても、腰が引けるのはどう考えようが狼藉者達なのだから。 だが、今はどうだ。確固たる地位である貴族であろうが、異端で、おこぼれに預かっている胡家-あまりにも古びた偏見の目で見たらであるが-で、しかも己よりよっぽど年端もいかぬ少女が、悠然と、剣をつきつけようとそれがどうした、と言わんばかりに構えている。己の全てが否定された気がし、足場が揺らぐ恐怖を、怒りで誤魔化す。 一時的にすぎない、だが爆発的な怒りの熱に煽られて、狼藉者は短絡にも悔しさを晴らすためだけに玲鈴に剣を振り上げた。だが、それは脅しにすぎないはずだった。玲鈴が泣き喚き、懇願したならば狼藉者たちは満足するはずであった。怯えた顔は、間違いなく自分達を肯定してくれただろうから。 鈍くきらめく剣に玲鈴は凄まじい恐怖に襲われ、足元が竦み動けなかった。だが、決してそれを表面に出さなかった-出す暇もなかったのだ-のが、狼藉者たちの怒りを更に加熱してしまった。冷ややかな反応、と思い違いをし、脅しのためだけだった剣をよりによっても振り下ろそうとしたのだ。 悲鳴をあげることも、瞬きをすることさえも玲鈴にはできなかった。「………っ!」 命を、失ってしまう。死んでしまうのだ、自分は。 必死で作り上げた虚勢が、己の中で脆く崩れていくのを、視界が涙で埋め尽くされたことで玲鈴は自覚した。咄嗟に腕を振り上げ、頭を庇うことも、縫いつけられたように動かない足で逃げることもできない。 死ぬ間際、走馬燈が見えると言うが、そんな暇あるか、と思う。一気に駆けめぐると言うが、一向に訪れる気配はない。うそつき、と逃避したいのか怒鳴り散らしたくなる。 恐怖や混乱を混ぜ合わせた波に、極限まで追いつめられたのか甲高い耳鳴りが聞こえた。 うわああ、や、あうわぁともう言葉にすらならない事を頭の中でわめき散らしていて、ふと、玲鈴は違和感に気付いた。走馬燈どころか、痛みも感じもしない。ばっさりと綺麗に斬られ、絶命すれば痛みも感じない、と風聞で聞いたことがあるが、それなのだろうか。いや、あの狼藉者にそんな腕があるとは思えない。 ならば、どうして。 その疑問を解決するには、強く閉ざした目を開けるしかない。人間の五感でこの状態を一番明確に伝えてくれるだろう視覚に頼らなければならないと、気持ちでは分かっていた。 だが、目を開けるのが、たまらなく恐ろしい。 もし、目を開けて見えたのが所謂『死後の世界』と言うものであれば、二度と立ち直れない気がした。「二度と立ち直れなくても、別にかまいはしないじゃない。死んでるのだから。ずっと座り込んでいても誰にも迷惑かけないわ、きっと!」 玲鈴はそう思うことで自身を無理矢理奮い立たせ、恐る恐る瞳に光を注ぎ込んだ。 網膜に入り込んできた光が教えてくれたのは、広く逞しい背中だった。--------------------------------------------
な、何故?8話は、ひとつだったはずなのに、いつの間にか3つに分けなければならない事態に…み、短かったはずなのに…だって、本当は6.7.8話が一話だった、と言う無謀な考えも本来なら予定だったんですよ?長くなりすぎですよ…汪燕の性格、歪ませすぎたから……?紅の雪も当初の予定よりも、かなり長くなってるし……困ったなぁ、もう少しで本編、バトンタッチされるのに……まあ、愚痴はここまでにして、と更新、遅くなりましてすみません予想以上に難産してしまってああ、頭の中で考えるだけで文章になってくれたらなぁ…どんなにいいだろう…なんて、逃避したりしていて…気持ちを切り替えてこれから頑張ります……頑張りたいですのんびりと、待っていてくだされば幸いです
2006年03月29日
興味深さが未だにつきない狼暉から視線を逸らし、少し斜めに上げれば、胡家の屋敷が視界を満たす。 もう一人ここには、気に入いっている人物がいるはずだ。そう思うと、口の端が吊り上がるのを感じた。まだまだあどけなさが残る顔が脳裏に蘇る。 強く握れば、砕けて壊れてしまいそうなあの子供の何処を気に入りだしたのかいつだったか、はっきりしたことは覚えていなかった。 確か数奇な運命、と言う荒波に放り出された一艘の小さな小舟がどうして沈まなかったのか、それが興味の対象となったのが始まりだった気がした。 小さく未熟な身体に幾多もの傷を刻まれた持つ子供は、ある特定の人物達に対し、強烈な庇護欲をかき立てる存在だった。傷だらけでも立ち上がり、歩み続け倒れない、輝きを纏った、そう、汪燕の好む人が集まっていた。眩すぎる輝きの下に数多の傷を隠し持っている彼らは、痛みを共感してか-それだけでは決してないのだろうが-汪燕から見てみれば大切に大切にされていた。眩すぎる輝きの発生地の中心となっている、それだけしかはじめは認識しておらず、気付けば認めていた、だった気もする。 きっかけは何だったか、とあやふやな記憶を辿る。汪燕の余計なことまで抜群な記憶力がここまであやふやなのは、過程を余り気にとめない人柄と、そんなことを覚えているよりは、武器となる情報や弱みを覚えている方が楽しいといった思考の持ち主だからであった。 過程などより汪燕にとっては、あの子供が予想以上な強さを秘めた意外性のある人間であり、予想外の、しかも面白いことばかり引き起こしてくれ、尚かつ自身の好みに当てはまると言う素晴らしく、そして色々と期待さえできる人間だと言うことが重要なのだ。「おい………」 地を這うような低い声に汪燕は思考を中断すると、声の主に視線だけで何だ、と返答をする。突入するぞ、と言われ軽く頷き、心なしか足早に進む狼暉の横を位置取りながらも、ふと疑問が脳裏に過ぎる。「お前は、何に対し、そんなに怒り、慌てているんだ?」「何だ、いきなり?」「人情に厚い狼暉隊長は、一体何に対し、そんなに心を乱しているのかと思ってな……虐げられた胡家の人々への同情か、莫迦の狼藉への怒りか、それとも」 まるで歌うかのように楽しげに、だが部下には聞こえないように配慮され音量が落とされた流暢な響きに、狼暉は眉を跳ね上げる。「それとも…“月のない夜”を壊されそうなことへの焦りか?」 試すように、だがどこか独白のようにさえも聞こえる汪燕の声に、狼暉は呆れたように鼻で笑った。「そんなの決まっているだろうが」「ほう?」「胡家の人々への謝罪の気持ちも、莫迦への怒りも確かにある……だが、比べようがないだろうが。最後の理由に決まっている」 一切の迷いも、淀みもない澄み切った声に、汪燕はいつもの偽りの笑みに少しの本当を滲ませた。 ああ、だから狼暉は面白いんだ。「戯けたことを行っている暇があれば、急ぐぞ」 心底、変な質問だと言わんばかりな態度だった狼暉はさらに歩調を早めた。汪燕も歩幅を広げた。 何と言っても、これからが面白いことになる。一幕すらも見逃すつもりは汪燕には毛頭ないのだから。
現時点では解決されない疑問に汪燕が内心首を捻っている最中、血生臭い幻惑から目が覚めた部下達に、狼暉は迅速かつ的確に指示を続ける。「部隊編成はできたな?」「はっ、命じられたように医療の心得のある者をまんべんなく配置しております」「よし、人命救助を第一にしろ。救える者は、必ず救え。破落戸どもなんぞの相手は後でも充分できる。優先順位を間違えぬよう、しっかりと言い聞かせろ」 部下達はやりきれなさを使命感に昇華できたのか、呆然としていた先ほどとは見違えるほど、羅家の兵士として相応しい行動だった。 だが、汪燕はそんな姿を見て、少し顎を掴み、狼暉に命じられ今にも駆け出す部隊長達を呼び寄せた。疑問符を顔に浮かべているのも気にせず、端的に汪燕は静かに命じた。「破落戸どもを発見しても、痛めつけようが、苦しませようが好きなようにしていい。だが、決して殺すな」 疑問符が一気に消え、その下の表情に何とも言えない色が滲んだ。それは不可解な命令への憤怒ではなく、義憤から生まれた汪燕に対しての抗議したい、と言う気持ちだった。不可解な命を何故出すのかが分からなく、反発したい心と上司へ忠義心が交互に浮かんでは消えていた。 狼暉は理由を言わずとも理解したようで、助けを求めるように仰ぎ見ていた部下達に首肯することで汪燕の意見に賛同の意を伝える。 迅速な事態収拾の為には、正確な事実を知ることが不可避だ。そしてその知り得た事実に穴があってはならない。その為にも、当事者達の言葉はかなりの情報源となるのだ。 そして何より、破落戸どもは絶好の取引の餌になる。 憎むべき敵を引き渡すのと、引き渡さないのでは大きな違いとなる。憎しみの矛先は当然そちらに向くので交渉を進めやすくなり、丸め込みやすくもなる。あなた達の憎い者達は全て倒した、もう安全だ、では、生存者はいません、ではすまされない。 が、表立っての理由であった。 胡主がそんなことで丸め込まれる御仁ではないことは、汪燕はよく知っている。破落戸どもの使い道は他にもあるのだ。 今にも反論を騒ぎ立てそうな部下達に、汪燕は説明するのが時間の無駄だろうに、と思うので一瞬で片を付けることに決めた。「殺すなど、そんな楽、許さん」 酷薄な微笑を付属させた、冷めたいが裏に一抹の愉快さを滲ませた声は、雨の滴の冷たさよりも鋭く部下達に突き刺さり、凍り付かせた。 少しは鑑賞しがいのある愉快な表情ではあるが、物足りない。先ほどの狼暉の顔と比べたら幾分劣るな、と奇妙な悦楽に、瞳の奥底に楽しげな光を一瞬だけ汪燕は灯した。 次期羅主が胡家に向かったと言う情報を得たときの狼暉の表情は、それはそれは見物だった。 くすんだ黒い髪から流れ伝う雨に眉を寄せていた表情とはかけ離れた、無防備なところをざっくりと傷つけられた顔は鑑賞に値するものだったが、特に目を引いたのは瞳だった。近くで見れば鳶色に見える瞳の奥には、純粋な怒りだけではなく、苛立ちや憤りで濁らせていた。複雑な感情が浮き沈みし、複雑な模様を醸し出す瞳は、それはもう、美しかった。もうすぐ三十路になると言うのにまだどこか若々しく、汪燕にはとうてい及ばないが比較的整った顔から、いつもは有り余っている余裕がなくなり、その空いた隙間に次期羅主への嫌悪感が支配していた。 滅多に見ることができない表情に、充実感と満足感をはっきりと感じたのだった。あの表情は思い出すだけでも、しばらく悦楽に浸れるほどだ。 ふと、狼暉が断言して憚らない自身の『歪み』具合を再認識し、口元が上がる。薄暗い夜空の下、自嘲にも見えないことはなかったが、光の下できちんとみれば皮肉な笑みだと聡い者は気付くようなものだった。 人間は、いくらでも己を偽ることが可能な生き物だ。それは高度な知能が可能にするのだ、と何処かの名ばかりは高名な学者が言っているようだが、汪燕にしてみれば人間が無意識に見下している動物より臆病な生き物にすぎないのではないか、と思う。 だからか、汪燕は信じられない。他人の表情や言葉や態度がそのまま本心であるなどとは。塗り固められた虚像にしか感じられない。 特に笑顔などと言った喜の感情は負の感情より偽り易く、仮面にしか見えない。汪燕自身も、よく笑うことがある。だが心から楽しくて笑ったことなど両手で足りるだろう。頻繁に浮かべるのは、場に合わせた笑顔、拒絶の笑顔、部下など下の者を安堵させるために楽しくもないのに無理矢理浮かべた笑顔だった。 だが、唯一信じられる表情があった。負の感情の極致である絶望に直面した悲壮な顔や呆然とした顔などだ。 心底傷つけられたり、恐怖を味わうと人間は偽る余裕がなくなる。仮面をつけ忘れ、素の表情となる。その瞬間は、汪燕にとって素直に他人の感情を信じられ、表情に魅せられる。まるであの歪んだ表情が心の純粋な一欠片のように錯覚しそうになるほどだ。 魅せられる内に『美しい』と思うようになった自分は、どこかおかしいのかもしれない。 だが、魅せられるのも、美しいと思うのも、偽られていない心に触れられたと思う、と言う感情が大前提にあるようで、どうやらどんな人間でも良いわけではないようだ。懐に入れてもいい、と思える人間にのみ歪んだ顔が見たい、と思うのはそうとう質が悪いのだろう。 優秀で有能な部下達の先ほどの顔は、気が向き、時間があれば見てもいいかな、と思う。以前金品を奪い取ろうとした野盗などは、最悪だ。あの醜悪さは二度と見たいとも思わない。性別が女であり、顔も整い見れる相手ならまだ考慮の余地は多少あった。だが、似たり寄ったりの下品な顔の男で、少々『苛めた』だけで情けなく泣き懇願する姿は気色の悪い顔以上にひどく癇に障ったので、忘れたくても未だに覚えていた。 汪燕は、自身が軽く『苛めた』つもりでも相手により深く致命傷を与えていることは自覚していた。そしてそれぐらいで傷つく者達を軟弱、と思い、切り捨てきた。大抵そう感じる輩は汪燕が相手を試した時に、一番虫唾が走る方法で反論してくる連中であった。 相手を試すのは、簡単だった。相手の弱く脆いところを狙いを集中し、そこに反論のしようがない証拠や言葉を投げかけてやればよい。目を逸らしていた、もしくは気付いていなかった部分を無理矢理明るみに引っ張りだし、突きつける。そうすれば、その後の反応さえ観察すれば大抵その人間の真価を見極められた。 己の言葉で意思と考えを表せ、逃げず、目を逸らさず、きちんと汪燕と向き合える者が最低限の合格の判定を押せる者なのだが、滅多にいない。砂粒の中から砂金を探すほうが、まだ楽だ。金山や宝山などではない鉱山で一人で岩を砕き、その中から希少で素晴らしい輝きを持った宝石の原石を見つけるよりは、ずっとましではないか。 ため息を吐きたくなるほどの手間と苦労だけならば、汪燕は自身の楽しみと、発掘した時の喜びのために決して時間をおしまずにした。だが、それは過程の途中で余計な価値すらない異物が見つからない、と言う前提がついた。価値すらない、見出せない異物は、醜悪で、見るに耐えないばかりか余計な囀りにより汪燕に頭痛や吐き気を催した。 泣きわめくだけならば、良い。視界にも聴覚にも存在を入れなければ良いからだ。逆上するのもしかりだ。あしらうことなど呼吸をするより楽にできる。だが己の言葉ではない言葉で、薄っぺらい正論などで汪燕を非難するのは頂けなかった。私は間違っていない、こんなことをする貴方が間違っている、と頭ごなしに否定し、哀れみ、見下す輩が必ずいた。己の絶対的な正しさを過信、いや盲信しているのか好き勝手に耳障りなことを、こちらの意見など一切聞かず糾弾し続けるのだ。そこに諭し、導いてやろう、と言う気持ちが見え隠れすれば嫌悪感で思考が埋め尽くされる。諭すことが、悪いのではない。だが、諭すと言うよりも己の正しさを自慢したいのでは、としか思えないそれは、偽善者と言うよりも、『正しい位置にいる自分』に自己陶酔している阿呆だ。理不尽な言葉でもただ怒り狂っている輩の方が何倍も可愛げのあると言うものだ。 怒ったり、泣いたり、理不尽に傷つけた汪燕を侮蔑、非難されることは、汪燕自身承知していた。傷つけられ、壊れそうな自身を守ろうとすることを-それぐらいで壊れるのかという呆れや嘲りなどはあるが-否定はしない。我慢もできる。だが、そこに純粋な怒りや悲しみ以外の、例えば汪燕への哀れみや苛められた『可哀想な自分』への哀れみなどが混じるとどうしても我慢できないのは、あまりに理不尽すぎるだろうか。「しかし、まぁ……当たりがでる確立がもっと高ければ苛立ちがあれほど募らないのだろうがな」 思い返してみれば、一体己が求めている存在と言うのはどれほど稀有なのだろう、と汪燕は思う。数多の貴族を、人を魅了してきた宝石などより、比べものにならない輝きをもつ、貴重すぎる人ひとは、いくら汪燕が心の奥底の弱いところを傷つけられようと、揺さぶろうとも、その輝きは翳ることを知らない。むしろそれすらも輝く為の、より強くなる為への糧となってしまう。「多少苛めたぐらいでは、壊れたりしない強さを秘めている人間だからこそ、惹かれるのかもしれないが…」 ふと視線を動かせば、氷の彫像と化した部下を溶かし、現実に立ち返らせた狼暉が、細かく道筋などを指示している姿が見えた。 明るく闊達とした、剛胆な頼りがいのある兄貴肌である狼暉のことを、あちらがどう思おうと汪燕は気に入っていた。数少ない、稀有な輝きを放つ人種だと思っている。 目を背け、忘れてしまいたいであろう過去を武器に突っついてみれば、あっさりと「そうだ」と揺るぎない口調で認め、「最低だろう」と汪燕にすら感情の読めなかった表情で呟き、「だが、これでも使い道はあるのでな、こんな男でもな」と妙ににこやかに言うなと思った瞬間、「だからな、ばらそうとしてみろ?俺は一向に構わないが、それで迷惑のかかる人が……こんな男でも必要としている人がいるのでな。どんな手段を使ってでもその前にお前を潰してやる」と刀を突きつけ脅して来たことは、汪燕にとって衝撃で、とても愉快であったのを今でもはっきりと覚えている。 狼暉に裏表があるのか、と一時期疑ったが、そうではなかった。ただ何よりも大切なものを心にすでに定め、優先順位があまりにもはっきりとしているだけだった。あまりにはっきりしていて清々しくさえ汪燕には思えた。
鈍色の空から絶え間なく降り注ぐ雨が髪に纏い付くのが不快で、汪燕は頭を振った。 それでも顎を伝い外套や服を擦り抜け、素肌を滑る雨粒の感触に眉を顰めたまま、ちらりと横を見ると、言葉を無くし呆然と佇む狼暉が視界の端を掠めた。 剛胆な男の思考と言葉を一瞬ならずと奪ったのは、目の前の惨劇の跡であった。 門は強引にこじ開けられたと訴えるかのように曲がり、倒れた門衛の下から溢れ零れ出す血が水たまりに混じり流れ、血の川を作っている。門衛を助けようとしている女中達は冷静さを欠いており、半狂乱に揺り動かしている姿は痛々しいが、救助にはなっておらず、むしろその怪我を悪化させているようにしか見えない。 捻れこじ開けられた門に縁取られた胡家の家督の住む家の敷地内では、豪奢ではないが細工の美しい扉は半壊し、手塩を込められていたであろう木々や花は暴風のせいだけでは決してない傷を負っている。所々の硝子は割れ、玄関の扉の先に見える繊細な刺繍が施された絨毯の上には不似合いな泥の足跡が不揃いに落ちておりり、泥からしみ出る水分が絨毯を醜く汚していた。 鈍色の雨が、他の全ての音を消し、強制的に静寂をもたらしている。 以前、何度か見たことがある美しい光景は、無惨に、そして悲惨に切り裂かれていた。 さすがの汪燕も目を瞠ったが、狼暉の様に次期羅主の胡家に対する仕打ちの酷さからではなく、予想以上すぎる暴走の結果に軽く驚いたからだったが。「…………おい、これは……」 微かに震える狼暉の声は、怯えでも悲しみでも寒さからでもなく、対極にある怒りや憤りを秘めていた。濃い鳶色の瞳を覆っていた濁りが消え、澄んだ色の奥には苛烈な意思が揺らめいている。 咄嗟に気持ちを切り替え、現実を見据える態度を好評しつつも、必死に狼暉が押さえている怒りと憤りの堰を切ったらどうなるだろう、と思い、その想像は思わず汪燕の口元を綻ばす。 狼暉は汪燕に問いかけているのではなく、気持ちを鎮静化させるために声をだしたにすぎなかった。 だが少々愉快な気持ちなので、汪燕は極端な解を親切にも与えてやった。「莫迦に刃物、の結果だ」「有り難くない、正確な状況説明だっ」 やりきれないように言い捨てると、馬の手綱を絞り嘶かせることにより部下の注目を集め、素早く狼暉は命を下した。「俺と汪燕は、直接胡主に話をつけてくる。一部の者達は俺達と来い。それ以外はこの混乱を制圧しろ、いいな!胡家に関連する人々の救助及び保護を最優先しろっ!」 常から張りのある声が、怒りに縁取りにより浮き彫りになり、鋭く異常な静寂を打ち払った。 未だ呆然としていた部下達も、はっとその声に活を入れられ、抜けていた肩の力を戻し、型にきっちりはまったかのような完璧な敬礼をした。 部下達は、弱くもなければ、臆病でもない。次期羅主の護衛のように、武よりも知を重んじるのではなく、兵[つわもの]としての強さを求められているのだ。兵と成れぬ者は一人としていない。 それでも、この光景は衝撃が強かったようだ。 汪燕は、なんとなくは部下の落ち込みの理由を推察できたが、完全にはできなかった。「死体もそう大した量ではなかったし、家などいくら壊れようと修復はいくらでもできるだろうに。もっと残酷な光景など、いくらでもあるし、見てきたこともあろうに」 後にそう言うと、狼暉は思い出すことさえ嫌そうな顔をしつつも、言ったのだった。「そうだな。戦場では、もっと惨く、残忍な光景などいくらでもある。人を殺し合うことが、戦だ。血で血を洗う光景に慣れているさ。そんなことで精神に異常をきたしたならば、己が死ぬ。慣れるしかない」 狼暉にしては冷静と言うよりも冷たい口調だが、それはかなり内心押さえ込んでいたようだ。次の瞬間には、一気に加熱された声が汪燕の耳を焼くように飛び込んできた。「だがな!あそこは戦場ではない。胡家の人間が微笑みながら、笑いながら、時には怒り、泣きながら、そんな日常を織りなしていた場所なんだっ!無惨な光景からは想像しにくいほどの、普遍的な日常と、ありきたりな幸せが確かに存在していたんだ!!」 だから、胸の奥底の弱いところを斬りつけられたかのように、痛むのだと狼暉は叩きつけるような口調で続ける。「主の為、その理想と主張、目的の為に俺達は闘う。けれでも、たったそれだけで闘うことは、戦い続けることは無理だ。主に命を捧げるほどに心酔していなければな………根底を見つめれば、本当は、主の語るその理想の先にある、自身の大切な者達が送れるであろう幸せな日々の為だ。大切な誰かの為だからこそ、戦の連戦に心が挫けず、俯かず、血生臭い空気の中でも呼吸ができる」 一般論で正論なのだろうが、全ての者に当てはまるとは限らないものだな、と皮肉気に思う。 人殺しを遊びと思う者もいれば、弱者を踏みにじることに悦楽を見いだす者もいる。血に美しさを見出し心を奪われた者、戦争と言う異常な周囲に弱い心が飲まれ何も感じなくなった者、相手の命を奪うことに何の良心の呵責もない者など、当てはまらない者達を嫌というほど知っている。「そんな些細な幸せな日々を守るために戦っているのに、それを踏みにじられる光景は、動揺したとしても仕方ないだろう。しかも己が主の息子が引き起こしたんだ、尚更だ」 戦場のような異常な環境のの中ではなく、蠢きながら徐々に支配下を広げていく戦渦の渦の中でもない。当たり前の様にあるはずの、ささやかな平和だった。胡家には、豪奢に煌びやかに彩られ、その実裏では汚水の如く濁り腐った貴族社会特有の場所とは縁遠い清らかさがあった。その清らかさは、慎ましい平和を享受する数多くいる平民に通じるものがある。 汪燕は記憶を辿り、そう言えば過去に一度部下達と共に、羅主の命で胡家に立ち寄ったことがあったな、と思い、その豪奢ではないが質素でもなく、穏やかな胡家の在りように部下達の好評を得ていたことを思い出した。 部下達の動揺の原因は、胡家に自身の大切な者の幸せを重ね合わせたにすぎない、と言うことか。 納得できた、と汪燕の疑問は晴れ晴れとしたが、もし狼暉が汪燕の声になっていない言葉を聞いていたら違うっ、と盛大に反論しただろう。「違う、何かが絶対違う!何故、そうなるんだ?!」 と。----------------------------------------------------------------中途半端ですが、今回はここまでです続きは後日上げます………しっかし、話が延びていく予定ではあと数話で終わるはずなのにもう一回計算しなおすと、数話で終わらない可能性が非常に高い計算ミスのレベルじゃなくなっている書くのは、楽しいのだが………困ったなぁ
2006年03月12日