[蒼の旋律] 1
闇夜を燭台の光が柔らかに照らしていた。淡い光に照らされた執務室は、無駄なものが一切ないためか、殺伐とした雰囲気を醸し出している。 庚凌[コウリョウ]は視線を書類から少しあげ、報告書を読み上げ終わり反応を待っている部下に移した。「居場所だけ、突き止めておけ」 どうなさいますか、と淡々とした問いにそれだけを告げ、下がらせた。扉に向かっている部下は鼎[テイ]家に仕えて長い。側近として相応の働きぐらいはするであろう。これまでの実績と同等のものがだせれば問題はない。 姿が扉で遮られると、途端に気分が悪くなり、庚凌は書類を再び見たがどうも読む気にはなれなかった。肉体的には、何の問題もない。ただ、精神が非常に不愉快の極みを突き進んでいるだけだ。 庚凌は軽く左右に頭を振り、筆から指を放し、軽くため息をついた。普段は後ろで一つに纏めているが、湯浴みの後なので解いていた髪がうっとうしく感じ、括った。切ってしまえば楽なのだろうが、外聞上それは無理なので庚凌は断念している。 長い髪は、裕福なものの特権だ。そんな莫迦な風習が庚凌の生まれる前から存在していた。庚凌自身としては阿呆らしいことこの上ないと思っているが、貴族の中ではそれが当たり前として受け入れられていた。“髪”は売れるのだ。貧しい者や、臨時の収入がいる者は切って売っている。だから『髪など売らなくても私たちは充分な生活ができる』という主張から始まったようである。庚凌からすればただの“見栄”の延長線上の愚行だ。長髪は女性ならば似合うであろうが、男性が長髪でも似合うものは限られると言うのに、とさえ思う。実際見苦しい者は多い。豚のように肥えており、尚かつうっとうしいだけの長い髪など見るに耐えない。 だが、ここで髪を切ればとやかく周りが五月蠅いのだ。蠅が少々耳障りだろうが気にならない。だが、それが大勢になると耳障りどころではない。鼎家の力にものを言わせて潰すことはできる。けれども今、余計な注目を浴びることは大変まずい。“計画”に支障をきたすものは限りなく排除すべきなのだ。 それよりも、まさか、と言う思いが庚凌の中で渦巻ている。(あの愚か者が、ここまでのことをしでかすとは) 庚凌は、これまであらゆる可能性を考慮していたつもりだった。だが、無意識に仮にも名門中の名門の次期当主が、ここまでの愚行を犯すとはさすがに予想できなかったのだ。今までただの莫迦だと思ってあまり気にかけはしなかったが、今は愚劣な者として侮蔑心しか抱けない。 貴族の中で一部、驕った者、考えることを放棄したようにしか見えない怠惰な者達が民に対し狼藉を働いていることは知っていた。もちろんそれ相応の罰を下した。罪を犯した者を罰するほどの力をまだ、国は持っている。実際庚凌は司法の部署に圧力を加え、さっさと処理させてきた。(だが、よりによって国を支える2大貴族の片割れの子息が、野盗を引き連れ、強盗まがい……) 呆れよりも、苛立ちの方が大きい。 ふざけていると庚凌は思う。自身の立場だけでなく、成すべき、いや成さなければならない義務すらも 忘れ、権力という権利を振りかざしている貴族を、吐き気がするほど庚凌は嫌いだった。庚凌よりも下流の貴族達がやるのならば処分もできるし、勝手にやれと思う。勝手にやり、信望を失ってしまえばよい。そうすれば処分なんて生ぬるいことを言わず、完膚無きまでに潰してやれる名目ができる。 だが、庚凌の上に立つ人間が同じようなことをすることは許し難い。そのような人間の下に甘んじるなど冗談ではないと心から思う。(一体、己がどれほどの地位にいるかも知らずっ) 庚凌が内心怒りを渦巻かせているのは、この度の莫迦な行動のことだけではない。もちろん強盗まがいが良いことでは決してないし、これだけでもいっそ存在を消してやりたくなるほど疎ましい存在となりえる。だが、庚凌が頭を痛めさせている原因は、もっとこれから先の事だった。 もし、このことを他の貴族が知ったら、どうなるか。この一点である。反発心を起こさせ、貴族間の内乱ならばまだよいが、最悪なのはこれに追従したり、大義名分にされることだ。これ幸いと真似をして、羅家もやっていたと威を借りるものがでてきたならば、収拾をどうつけるきなのか。 なぜあの愚か者がこのような行動を起こしたか、庚凌は知っている。焦がれて焦がれてやまない、渇望している存在を求めているからおこったことだ。だがそれは免罪符には到底ならない。欲しいから、そうならば何をやっても許されるというのか。圧倒的な地位の上にいれば、その『欲されているもの』の意思など踏みにじり、不特定多数の人間を傷つけていいのか。本気でそう信じているならば、ふざけているというよりも、傲慢で愚かなだけだ。 頭の中ではどうすれば愚か者を引きずり落とし、庚凌の人生からの接点をなくせるか、つい考えてしまうほどだ。 だが、庚凌は思考を切り捨てるように中断させた。実行に移す気もない-そんな暇な時間はないのだ-計画など空想でしかなく、時間の無駄でしかない。今、やるべきことは目の前に山積みにされた書類を片づけることのほうがよっぽど建設的だからだ。 再び筆に指をかけようとしたとき、庚凌は片頬に強い視線を感じた。軽くため息をついて視線の主に声をかける。「何を、むくれている?」 庚凌に名を呼ばれた少年-采淵-はふてくされた顔をしたまま、控えていた壁際から近づいてきた。青味がかった猫っ毛の銀髪をくしゃくしゃとかき回している。青味がかかった銀髪は普通冷たさを醸し出すのだが、采淵の髪は空の様な柔らかさと爽やかさがあり、庚凌はその色合いを気に入っていた。混ぜられている青を見ていると、采淵は円らなつり上がった猫のような目を更につり上げ、不満の色を滲ませながら口を重たそうに開く。「……なんでだよ?」ぼそりと呟かれた声に、庚凌は眉を寄せることで先を促した。「何で、放っておくんだよ…連れ戻そうぜ」 誰を、と言葉には出さないが誰かは考えるまでもない。采淵の脳裏には、今ではもう見ることができない、自身の服の裾をおどおどと小さく掴み、見上げてきている姿が蘇っているのだろう。大切に、まるで妹のように可愛がっていた存在だ。それ故に、何もできなかった自分を恥じるように、悔しそうにしている。「そしたら、守れるじゃん」 庚凌は、ふと、采淵が手を強く握りしめているのに気付いた。力の限り、爪を掌に食い込ませ、このままだと血が出ることは容易に想像できた。唇を噛み締めて、痛みとやりきれなさを耐えている姿は痛々しさがあるがあえてそっけなく、莫迦な真似はやめろ、と言わんばかりに名を呼んだ。「采淵」「あいつ、莫迦だから……自分が泣きたいことすら気付かないし。全部、いらないものまで抱え込んで押し潰されちまう。相当の莫迦だからっ」 だから、守ってやりたい。傍にいてやりたい。会いたい。 采淵の途中で途切れた言葉に続くものなのど、容易に想像できた。唇をかみしめ、目を伏せている姿は相当打ちひしがれていることがよく分かる。 采淵はくるくると表情がとく変わる人間だった。“守人”としてどうかと思うが、ただの犬に、機械人形にしないようにしようという目論見からすれば、良い傾向だと、庚凌は自身を納得させる。「厄介だろうが、個性が強すぎようが、そんな人間の1人や2人、自由に動かせなくて、何が出来るという」 守人に意思を持たせることに危機を覚えた部下の進言に、そう庚凌は一言で切り捨てた。 意思を持ち、自立し、自らの意見を持つ。全てを言わずとも己がやることを理解し、責任を負える。そう言う人間しか傍にいらない。確かに厄介さは併せ持つが、『駒』なら掃いて捨てるほどいる。「ちびには、あのガキが付いているんだ。野垂れ死にはしないだろう」 血のような赤い目で真っ直ぐ睨み据えることで、庚凌に喧嘩を売ってくるような、無謀で、恐い者知らずな子供だった。嫉妬か、ただの敵意か知らないが、ただ庚凌に真っ正面から、喧嘩を高値でふっかける人間は物珍しく、記憶の片隅に今も残っていた。 采淵はその言葉に反発心を煽られたのか、弾かれるように顔を上げ、反論を叫んだ。「あいつなんかに、朔夜が守れるかっ!!」「人並み以上の手練れだ。生半可な相手ならば、倒せる。現に羅家の愚か者の手を払いのけ、逃げ切っている」「そう言う問題じゃっ………あんな、あんなやつっ。『朔夜を傷つけた奴』なんか、信用できるか!」 采淵の怒りを押し殺したような叫びは、妙に悲しげだった。----------------------------------サンセツキ本編の1話の辺りの時間軸の話しです。これも数話で終了予定ですちなみに、この話で出てくる彼らもしばらくすれば本編にでてくるキャラですサブタイトル、蒼の旋律、はこのシリーズの最後話にきっと分かるはずです何たって単純な意味ですから