[居待月] 1
薄暗い闇の中、霄弥[ショウヤ]はゆっくりと瞼を上げた。岩に預けるようにしなだらせた身体を、気怠げに起こした際、墨染め色の衣の擦れた音だけが空間に響く。何度か瞬きをしていると、紫電の瞳は淡闇に慣れたのか、ぼんやりと周辺の景色を映し出した。 むき出しの岩の中、純白の石を削って作られた神殿が浮かび上がる。東西南北に大きな、細やかに細工を施された柱の中心にそびえ立つ真っ白な神殿は、光源がないはずなのに神殿自体が発光しているかのようである。ぼんやりと淡く光り輝き、薄闇に浮かんいる。洞窟の中とは思えない大神殿である。 その神殿が一望できる場所にある大岩に霄弥は座っていた。美しい細工が目立つ、見栄えの良く、いつまで鑑賞していても飽きない神殿を視界にいれた霄弥は、一つ忌々しげに舌打ちをした。(せっかく…朔夜と会ってきた後だ、と言うのに) 何が悲しくて起きて最初に視界に入れるのがこれなのだろう。 目覚めてすぐに視界にいれたい光景ではなかった。いくら美しくても、霄弥からすればただの忌々しい象徴でしかないのである。 とは言っても、この出口のない洞窟の中にあるのは岩とこの神殿しかないのだが。「………」 霄弥は自身の両手を見つめる。墨染め色の衣から滑り出る己の白い指は、当然のごとく何もなく、ただ空気を乗せているだけだ。「………朔夜」 かすかに温もりが残っていると思うのは、己の勘違いなのだろう。天然の洞窟はただでさえ気温は涼しい。指先は実際は冷え切っているだけだ。だが、そうと霄弥は分かっていながらも幻の温かい残滓をかき集めるようにぎゅっ、と自身の手を握りしめる。「大きく、なっていたな」 霄弥は『夢』を渡り、久しく会っていなかった少女に会いに行った。二度と、会うことはないと思っていた。会わない、と決めていた。ただ遠くから見守る。それだけに留めよう、と。あの少女が笑い、幸せな姿を時折見られればいい、と自身に思い込ませた。 破るつもりは毛頭なかった。 だが、事態は少しおかしくなった。少女-朔夜-の封じていた記憶が解かれかけていたのだ。だから慌てて霄弥は記憶を再び封じに『夢』を渡ったのだった。再び呪をかけるために。 霄弥には『異形の力』がある。これは後天的に備わったものであり、霄弥は疎んでいた。だが、夢を渡ったり、記憶を封じたり、と近頃は大振る舞いである。 苦笑するしかない。「まさか会う、とは思わなかったが」 心の奥底に沈むほど、体が弱っているのだろうか。霄弥は眉を顰める。 あの場で朔夜と出会ったことは、霄弥には意外すぎることだった。 精神的な揺さぶりをかけられ、閉ざしていた扉が綻んでしまった。それは無意識なことであり、朔夜は気が 付いていないはずだった。だから、気が付く前に修復してしまえ、と思ったのだ。 だが、朔夜は心の奥底で倒れていた。 きっと身体が弱っていたせいで、心も不安定になり、奥底まで迷い落ちてきてしまったのだろう。朔夜の心は強いが、脆い。多少の罅には耐えられるだろうが、限界を超えたならば一気に砕け散るだろう。だから、精神的に傷ついたならば、心の奥底には来ない。来れない。「……何があった?」 霄弥には推測しかできない。 最後に朔夜を見たのは、胡家と呼ばれる家で戸惑いながら、失敗したようなどこか奇妙な笑顔だったが笑っていた。ここ数年、泣くのを堪えている姿と脅えたような表情しか見ていなかったので安堵したことを覚えている。 やっと、彼女が笑い始められた。そう思っていたのに。 だが、霄弥が幾らこの場で考えても、明らかに情報が足りず、何も分からない。軽く左右に頭を振り、気持ちを切り替える。(大丈夫だろうが……) 朔夜には、加護がある。加護の主を霄弥はとことん気に入っていなかったが、だがその力の威力はよく知っていた。 それに予想以上に簡単に朔夜を『夢』、いや『心の深淵』から現実に引き戻せれたのだ。それは朔夜の身体がまだ鼓動を刻んでいる何よりの証拠だ。だからそれほど身体のことは心配していなかった。心配ない、と自身に思い込ませた。 それよりも、気にかかることがある。「泣かせてしまった、な」 霄弥はどこか自嘲したような声を小さく吐き出した。白銀色の前髪をさらりと掻き上げ、そのままぐしゃりと握りつぶした。 脳裏に目尻に涙を辛うじて留めている透き通った紫色の瞳と、悲しみに歪んだ幼い顔が蘇る。 泣かせたいわけではなかった。むしろ笑っていて欲しい。幸せであって欲しい。穏やかな日々に浸っていて欲しい。そう願うのに、自身が与えたのは涙と悲しみだった。「いっそ全てを投げ捨て、抱きしめ、愛しみ……そして、自分だけのものにできたなら」 何度もそう思ったが、霄弥はその想いをその都度完膚無きまでに殺してきた。刺し、息の根を止め、細かく切り刻み、そして埋めてなかったことにした。想いを殺すことに初めは抵抗があったが、幾度も幾度もくり返すことで今では効率よく、淡々とこなせるようになっている。そして、その頃になると、想いすらも心の奥底に閉じこめ、表に出てこないようにすることさえできるようになっていたというのに。「たった……あれだけなのに、な」 意識がとぎれるその最後の、その一瞬まで霄弥を直向きに見つめ、忘れたくないと訴えていた瞳と、意識を失ってなお、必死に縋り付いていた指先。 それだけでまた想いが暴れ出している。意外に自分は意思の脆い、と思い知らされてしまう。「けど……な」 脆くても、決してその想いを解き放しはしない。できないのだ。 いくら朔夜が泣きわめこうと、縋ろうと霄弥は何度でもその必死な小さな指を振り解く自分を嫌というほど理解していた。抱きついてき、あの存在が霄弥だけのものになると囁いてきても、突き放すだろうことも。「これだけは、譲れない……我が儘、なんだけどな。貫き通させて貰う」 例え、それで朔夜が深く傷つき、涙しようとも。 霄弥は、すでに覚悟は決めてある。だが、同時に泣かせても、と思ってもできるだけその涙を少なくしたい、とも思う。それが朔夜にとってただの残酷な仕打ちでしかなくとも、自己満足だとしても、だ。 「…………っ」 ぴりり、と皮膚の薄皮を刃物で剥がされるような痛みが腕に走った。忌々しげに自身の腕を見つめれば、そこには漆黒で描かれた紋が浮かび上がっている。紋はすでに腕の半分以上面積を埋め尽くし、肌の白い色を隠している。「俺は、いつまで、持つのか………」 霄弥は小さく笑った。その笑顔に影はない。だが、光もなかった。ただ全てを受け入れたように静かに笑みを浮かべている。 この紋は、残された時間を、いや奪った時間を様々と宿主に知らしめている。この紋が全て身体を埋め尽くした時、霄弥の生きる刻は止まる。 すでに紋は、身体の至る所に現れ初め、身体の先のほう、手のひらや、足、顔以外はほぼ浸食してしまっている。近頃は額や首筋まで、となっている。 特別霄弥はそれを、どう、とは思わない。生をじわじわと奪われる感覚も、奪うために命を半永久的に誓い時間を長らえさせられることも、他者との接触を禁じられ孤独の海に叩き落とされたことも、霄弥の心にもう波立たせることなどできないのだ。嘆き、悲しみ、絶望に暮れることなど、もう飽くほどした。飽き、感情を飽和させるには、時間が充分すぎるほどあったのだから。「こんなものを……こんなものを“あいつ”に背負わせてたまるかよ」 皮肉な口調だが、どこか優しく穏やかな声音だった。 「“あいつ”は、何も知らなくて、いいんだ………“あいつ”が笑顔でいられるならば、俺は何だってしよう。例え、それで他の全てを代償にしようとも…」 霄弥は誓いの言葉のように厳かな声で呟いた。「それが、俺の罪だ…………罪は全て、俺が背負う。俺で、全てを終わらせる。俺だけで、いいんだ……」 こんな想いをするのは。 最後の言葉は声にならず、冷たい空気の中で儚く散った。