サンセツキ 第三章-2 [儚月の目覚め -5-]
鮮やかに染めた紺青色の衣に、丁寧に銀糸で華々しい-緋深からすれば『変』な、にしか見えない-複雑な模様が刺繍が施されている。いかにも値段が張りそうな羽織だ。それを白練の上品な着物のうえに、無造作に掛けている。 緋深は思わず眉を顰めた。 この男が派手好きなのは、初対面から-分かりたくなくとも-分かっていたが、普段着でさえこのようなけたたましい衣装なのだろうか。これはある意味視界の暴力だ。病人がいる部屋に何を考えてきてやがる、と緋深は内心思った。 銀糸は上等なものが使われているからか、光を受けるたび、鏡のように反射し、輝く。直視し続けると目を痛めるのでは、と思う。絢爛豪華な羽織を見ているだけ何だか疲れるような気さえする。 はた、と緋深は顔をあげ、朔夜を振り返った。「さくっ………っ!」 予想通り、ただでさえ丸い目を、更に真ん丸にした朔夜が獅吼の姿を見つめていた。朔夜が初対面の人間を真っ正面から、視線を逸らさずにいる。珍しい光景だ。 獅吼の装束に耐性がまったくない朔夜は、頭の中で大きな疑問符を浮かべ、困惑しているのである。「ちっ……」 朔夜の視界を塞ぐため、手を伸ばした。 困惑しているのは、まだいい。そんなことよりも恐れているものが緋深にはあった。 澄んだ紫色の瞳に、黒い影が覆った。朔夜の白く柔らかな肌に指が触れそうになる瞬間、緋深の耳に恐ろしい言葉が飛び込んでくる。それは思わず触れる寸前で、身体が固まるほどの破壊力を持った、恐ろしい単語が。「……ご……ぃ…な」「っ!!!」 凄いな。 そう、朔夜の口が動いた。 朔夜の声を、聞き逃すはずがない。どんな音よりも、真っ直ぐに届く、澄んだ声を、聞き間違えるわけがない。その澄んだ声を脳が知覚した瞬間、緋深は全身の血の気が引くのを感じた。惚けた声でも、感心した声でもない、ただ単純に思っての言葉だろうが、緋深にとっては口元が戦慄いてしまう。 朔夜の感覚は、特に美に関するものは、おかしい。それは、歪まされているからだ、と緋深は思っている。「とある莫迦」が朔夜の幼い頃、四六時中傍にいたせいだ。 およそ1年ほど前だろうか。緋深と朔夜が打ち解け始めた頃、であった。緋深は朔夜の、服の趣味に多大な疑問を持った。服装にあまり気を遣っていないのだろう、とは前々から思ってはいたが、明るみになった実状のあまりさに頭を抱えたのだ。 朔夜は置いてある服を上から順に取り、羽織っているだけだった。つまり服の趣味もへったくれもない。服に対して何も関心を抱いていないだけである。だが、だからといってどう考えても外を歩くことを憚るような、‘普通’ならそう思う服装を平然と着ている剛胆さ、鈍感さはどうなのだろう。人目を嫌う朔夜にとっては、あまりにちぐはぐな行動ではないか。『黄檗色の生地で作られた衣、紅掛花色の袴に、臙脂色の羽織』 その答えは、渋い表情と声で麗蘭が呟くように教えてくれた。 それぞれ黄、青紫、赤が基になっている色だ。視界への暴力のような最悪な組み合わせに、まず緋深は首を傾げたのだった。想像するだけで、あまりにも滑稽な服装だ。麗蘭の言葉を聞いた瞬間、真意が分からなかった。 過去に、朔夜がそういう恰好をしたのだろうか。緋深はまず、そう考えた。嫌がらせで、服をそう言う順に上から並べれられたのではないか、と。それならば朔夜は何の感情も抱かずに着かねない。 だがそれを普段着として着ている美術音痴がいたとは、まさか緋深も思わなかった。美術的に音痴の中の音痴な主の傍にいたせいで、朔夜はあの‘黄檗色の生地で作られた衣、紅掛花色の袴に、臙脂色の羽織’を不思議にも、不審にも思わなくなっているのだ。趣味の悪い服を着ているせいで人目を引いても、不思議に思い首を傾げるのだ。慣れとは恐ろしい。 なので一見派手で悪趣味な獅吼の服装も、朔夜からすれば輝く変わった服でしかないのだ。金糸と銀糸をふんだんに使った服を、手間がかかった凄い服なのだろう、と捉えている。(止めてくれっ!) 寄りによって獅吼に対して、どんな理由であっても‘凄い’という感情を持つなど、緋深からすればたまったものではない。心が狭い自分勝手な思いだとしても譲りたくない一線だ。 取りあえず、睦月を寝かせよう。緋深はそう思考を切り替えた。(そうだ。これ以上、見せたら、朔夜の目の毒だっ) 「朔夜、俺も飯を食い終わったことだし、朔夜もそろそろ胃が落ち着いたよな? 多分もう少ししたらまた、雪花っていう女性が薬を塗りにくるけど、やっぱ病み上がりだからしっかり睡眠取ったほうがいいし。な?」 いきなり肩をしっかりと掴み捲し立てる緋深に、朔夜は目を見張っている。急なことに眉を顰め、身体を強張らせているが気にして入られない。むしろ緋深に気を取られている好都合だ。朔夜の視野から巫山戯た男を排除できたのだから。 そこで安堵したのが、油断の元だった。そもそも天敵と認識されている獅吼は、緋深より格段上の実力者である。そうであるのに『ふざけた男』と認識しているせいで、ついつい失念していた部分もあった。これらの要因により、緋深は獅吼に背を向けてしまったのだった。 朔夜の視線がいつの間にか緋深ではなく、その後ろに向けられていると気が付いたときには遅かった。「…っ?! ぐっ…ぁっ」 襟首ではなく首を、直接大きな手で掴まれた。緋深は驚きつつも、体勢を整えようとしたがその前に後ろに引き倒される。背中から畳に少々叩きつけられ、緋深は少し息を呑んだ。倒された衝撃は少なかったが、弱った体は簡単に悲鳴をあげる。 痛ぇ、と小さく呟いて、緋深は素早い動作で躰を起こした。躰が軋む感覚に眉を寄せつつも、犯人であろう獅吼のいた方角に視線をやる。だが、視線の先には淡く朱に色づいた障子しかなかった。 嫌な予感が、一瞬にして躰全体を走る。 慌てて視線の矛先を朔夜に戻し、緋深は固まった。 よりによって、という言葉が的確すぎる光景だった。天敵が、一番大切な少女に触れているという、信じたくないものが視界一杯に埋まる。「お、意外に大丈夫そうだな」 獅吼は楽しげにがしがしと朔夜の髪を撫でているが、撫でられている朔夜といえば目を白黒させている。もちろん-獅吼は知っていても、朔夜は気絶していてたのだ。覚えているわけがない-見知らぬ人間に触れられ躰は固まっている。まるで達磨のようだ。硬直した朔夜は起きあがり達磨のように獅吼の手の下で、ぐらんぐらんと揺れていた。 獅吼はこの上なく楽しげだが、緋深からすれば冗談ではない。あまりのことに文句の声さえでず、呻き声しか口から発せられなかった。「~っ!!!」「どうした?」 にやにやと笑っている獅吼は、緋深の感情など簡単に把握しているのだろう。逆撫でする、と分かっていてにやついているのだ。 沸点の限界で、ぎりぎり暴発に耐えている緋深を嘲笑うかのように、獅吼は朔夜の頭を自分の胸の辺りに寄せた。身体を硬直させている朔夜は奇妙な体勢にはなったが、獅吼の腕の中に簡単に収まる。朔夜の鼻先が獅吼の着物に触れた瞬間、朔夜は混乱の極みに達し、声にならない声を上げた。空気を震わせることができなかった声は、だがそれでも緋深に耳には届く。届いてしまった。 張りつめた糸を切ったような音が、躰の中でする。音と同時に激情が堰を切ったように溢れ出し、流れに背を押されたかのように、怒声を緋深は張り上げた。「ふっ、ざけんな!!てめぇ」 首に腕を回し、しっかりと固定した状態で朔夜の頭を撫でている獅吼に、半ば飛びかかるように駆け寄り、朔夜を獅吼の腕から助け出そうとする。獅吼がもとより抵抗する気がなかったのだろう。あっさりと取り戻せた朔夜を庇うようにしつつ、獅吼から距離を取った。「大丈夫かっ?!」 獅吼の気配に注意しつつも、朔夜に目をやる。緋深の問いに、間接が固まってしまったかのようにぎこちない動きで朔夜は頷いた。それに安心して、大きく息を吐く。そして気持ちを落ち着かせようと息を吸った瞬間、緋深は絶句した。「………っ。さ、朔夜?」 驚きに目を瞬かせながら朔夜を見つめても、彼女はきょとりとするだけだ。瞼を忙しなく上下させながら、首を傾げる朔夜はあどけなく、幼い。その様はいつもと何一つ変わらなく緋深の目に映るのに、何故だろう。とてもない違和感を朔夜に感じてしまうのだ。(何が………--っ、これだ。この匂いだっ!) 朔夜にまとわりつくように、鼻につく匂いが存在した。裏町や遊郭特有の淫靡な、色香を強調する匂いだ。朔夜にはまだ当分早く、縁遠いものである。緋深からすれば、できれば一生似合うようなことにはなって欲しくはないが。 何故こんなものが。こんな匂いが。 獅吼からの移り香だろうか。一瞬そう考えたが、移るにはほんの少しの接触しかない。不思議に思い、悪い、と一声かけ、緋深は朔夜に顔を寄せた。急な接近に身を強張らせた朔夜の背を撫で宥めつつも、匂いの元を探る。頭部や肩からは仄かに薫るが、匂いのもとではない。身体の前面からではなく、どうやら朔夜の背後からだ。 緋深は身体をずらし、朔夜の背後をのぞき込み、帯の部分に栞状になった和紙が挟まっているのを発見した。ちょっとごめん、と緋深は呟くと同時にその紙を挟み取る。そのまま和紙を鼻先に近づけ、緋深は眉を顰めた。「これかっ」 蘇芳色を上品に染めた和紙からは、緋深が探していた薫りがした。(いつの間に) 舌打ちをしつつ、獅吼を睨み付ける。その刺々しい視線すらも可笑しい、と言わんばかりに呵々と笑い始めた。それが、男の今までの行動の理由であったことをありありと証明する。分かっていたことだったが、多分、いや間違いなく緋深をからかうためだけに行ったのだ。 鼓膜が笑声に震わされた瞬間、何かが緋深の中で弾けた。「……………るな」 緋深は肩を小さく震わせながら、ぼそりと呟いた。俯いており、表情は周囲からは窺えない。だが緋深の纏う雰囲気は張りつめ、まるで静電気が走っているかのように帯電している。 鬼気迫る様子の緋深を周囲は目を瞠り、見つめた。獅吼は面白そうに、朔夜は心配そうに、そしていつの間にか部屋に戻ってきた千波は驚きに。 朔夜が不安そうな表情を浮かべつつ、緋深に声をかけようとしたときだった。「ふざけるなっ!!!」 緋深の声が襖を、部屋全体を揺らした。咄嗟に耳を塞ぎしゃがみ込んだ朔夜の横を緋深は走り、獅吼に殴りかかる。(許さねぇ!!) いい加減、緋深も我慢の限界だった。 自分をからかうだけならば、まだよい。だがそれだけのために、何故朔夜を用いようとする。よりによって獅吼の薫りを纏わせたり、触れたりする。緋深をからかい遊ぶためだけか。そんなことのために?(冗談じゃねぇッ) 緋深は、獅吼のにやけた顔を目掛け、怒りに身を任せ手刀を繰り出した。