サンセツキ [紅の雪 -13-]
麗蘭は裾が翻ることも厭わず、廊下を駆ける。淑女としてあるまじき行動だが、かまっている余裕はなかった。胸の奥から溢れ、喉の辺りまでを埋め尽くすような不安を振り払うかのように、ただ真っ直ぐに目的地に向かい足を動かす。「胡姫様!どちらへ」 常にない麗蘭の慌てように、困惑したように男は尋ねる。「桜玉の間に!」 間、というが胡家に座敷はない。胡家の建造物は皓国ではない国の造りとなっている。数十年前の大改築の際に、畳ではなく木を敷き詰め、足の低い卓を足の高い机に変えたのだ。他にも障子ではなく木の扉にしたり、座布団の変わりに椅子を用意をするよう なったり、と大変貌を遂げたのであった。桜の間、と言うのは十数年前まで使っていた部屋の名称をそのまま現在も使用してのこと、つまり便宜上のことである。 胡家は異人だ。昔は白い目を恐れ、少しでも緩和させようと皓国の仕来りに全て合わせてきた。作法も宗教も、何もかもだ。だが、結局は変わらなかった。言葉の内容が変わるだけで、裏にある悪意は減ることを知らず膨らむばかりであった。 それでも胡家は歯を食いしばり、我慢を続けた。他に行く場所などなかった。 だがこの事態にいい加減怒り心頭したのが、麗蘭の祖父と父であった。 流通の掌握し、胡家は名と地位を手に入れた。それを国に還元し、王を支え、皓国の民を守ってきた。なのに、どうだ。非力で、保護を受けるだけの立場ではもうない。だがそれでも凝り固まり、腐りかけていた貴族達は胡家を認めようとはしなかった。 そんな阿呆どもに気を遣い、下手にでる必要などない。 祖父達はそう考えた上での、大改装であった。「な、何故?!」 部下の問いに、麗蘭は鋭い声で答えた。「この襲撃の狙いは胡家ではないわっ」「なっ…………」 何故、と聞き返すほど部下は愚かではなかった。桜玉の間、その単語と襲撃を組み合わせれば簡単に答はでるのだ。信じがたい答えではあるが。 胡家を狙っての襲撃ではない。この襲撃は、桜玉の間に預かっている子供を狙ってのものだ。その子供を奪取するためだけに、胡家に襲撃をかけたのである。「…………信じられません」「私もよ。だけどあの男はするわ。あの愚かものはっ」 これは、確信だ。 この襲撃の首謀者であろう男とは直接あったことはないが、麗蘭は間違いない、と踏んでいる。櫻妃達に聞き及んだ話が事実なら、疑う余地がないのだ。 廊下を駆け、突き当たりを右に曲がりようやく目的地を視界に入れた。いつもは固く閉ざされている扉が、大きく開いている。扉の前の絨毯にこびり付いた泥が侵入者の存在を示していた。(遅かったと言うのっ) 扉を掴み、忙しなく動いていた足を強制的に止めることに成功した麗蘭は、目の前に飛び込んできた光景に思わず目を瞠った。 細身の男と少女が対峙していた。 それだけであれば、何ら不可思議な光景ではない。だが、麗蘭の眼に映る光景は、異様であった。それは雰囲気と、男と少女の表情が光景に不気味さを生み出している。 客観的に見て、整っている顔立ちをしている男には堪えられないような喜色が溢れ、一方少女には恐怖と絶望を人の顔で表せば、こういった表情になるのでは、と思ってしまう顔だ。「朔夜」 男が名前を紡ぐ声はいかにも優しげで、親しげで、嬉しそうだ。 だが、それがおかしい。 呼ばれた張本人は声もなく青ざめ、身体は小刻みに震え、瞳が焦点がなく彷徨い、足に力が入らなくなったのか座り込んでいる。こんなにも酷い他者への拒否反応は、麗蘭は今までにない。「朔夜………やっと“見つけた”」「…………………………………………っ……」 この男は、それが目に入っていないのであろうか。哀れなほど脅え、今にも消えてしまいそうなほど小さく縮こまってしまった、儚い存在が。男ではない誰かに救いを求めているか細い声が。 男が一歩近寄ろうとする度、無意識だろう、朔夜は後ずさる。「困ったやつだな、朔夜は。見つけるのに苦労した」「…………………っ…………」「帰ろう、朔夜……すまなかった。 ずっと待たせて」 男は、こちらには気が付いていない。 それだけ朔夜しか視界に入ってはいないのであろう。 麗蘭は侵入者から目を離さず、両手首の腕輪に手を這わせた。指先に金属の他に、柔らかな布の感触を感じる。腕輪に絡みつく布を素早く外した。布は右手首から二の腕、そして背中を通り、また左腕を這うように左手首へと通っている。右手首にまとわりつく布を左手で思い切り引いた。はらりと布が宙を舞う。重力に惹かれるように地へ向かう布の端を右手でパシリ、と掴み取り左右の腕を斜めに伸ばして張った。身体を侵入者に対し斜めになるように構え、腕を上半身に平行になるように布を配置した。 胡家の血筋、特に当主を継ぐ者は代々『布術』の使い手である。それは敵の多い境遇から自身の身を守るためであった。なにも敵を全滅することを目的としているわけではない。時間を稼ぎ、命を繋ぎ止めることを一番の目的としているのだ。武器とも盾ともなる布術は、力が弱い女性の身でも扱える点も含めて利点が多いのである。 鋼鉄線を数本潜ませた布を握りしめつつ、麗蘭は凛とした声で首謀者らしき男に一喝した。「離れなさい。その子にそれ以上近寄ることは許しません」 特に荒げた声ではなかった。だが、異様な静寂が支配していた部屋には高らかに響き渡る。 男は眉を顰めつつ、麗蘭を見やる。燃える火のような、鮮やかに咲く華のような赤い髪に目をやり、胡家の者とだいたいわかったのであろう。それでも横柄な態度は崩さず、麗蘭を睨み付けた。「何を言っている?」「聞こえなかった?私は‘その子から離れなさい’と言ったのよ」「………」 言葉を重ねる麗蘭を無視し、男は朔夜に触れるように手を伸ばし、歩み寄る。「警告は、したわよ?」 麗蘭の手首が翻り、腕が大きく弧を描くように振られた。布は空気が流れる合間を縫うように素早く宙を切り、朔夜にあと少しで触れるはずだった腕に絡みついた。麗蘭と男の間にピン、と布が張りつめられる。「このまま腕を、しばらく使用できないようにしてさしあげましょうか?」 艶やかに笑う麗蘭に、男は不快そうに眉を寄せた。「お前が誰だかわからないが、離せ。 胡家は羅家と事を構えるつもりか?」「あら、私は胡家の者として、胡家に従する者達を守る義務があるわ。その義務を守るまでのこと。侵入者さんを追っ払ったとて、それが問題かしら? 幾らあなた方が羅家と通じていようと、羅家がここまで事を起こした者達を庇うかしらね?」「何を言っている? 羅家と通じているんではない。羅家は俺だ」「なんですって…」 聞き捨てならない言葉だ。 平然としている横柄な男を、麗蘭は改めて冷静に観察した。 背に流れる髪は、財に余裕がある証。身なりも綺麗だ。装飾が華美な鞘も、ただの侵入者としての出で立ちとしてはおかしい。 鞘の先から柄に眼を走らせ、麗蘭は絶句した。柄に近い部分にある、翡翠に龍を彫った装飾が意味することはただ一つしかない。その装飾が許され、この態度に、『羅家は俺だ』と言う言葉を繋げると弾き出される答えは、推理した麗蘭でさえ信じがたいものだった。「あなた……羅家の第一子、趙劾[チョウガイ]?」 探るように吐き出された麗蘭の問いに、男はあっさりと頷いた。(愚かだとは聞いていたがっ、これほどまでとはね)「わかったら、離せ」 だから、この態度なのだろう。ここまで横柄な、そして惨事を起こして起きながら、罪の意識も、いや自分が犯した罪もわかっていない。本気でこれが許されることだと、思っている。自分の欲望のため、胡家を踏みにじることを何とも思っていない。 視界が一瞬、赤く染まる。躰の奥底から苛烈な炎が生まれ、内臓を焼き、うちから食い破っていく感覚を必死に麗蘭は押し殺した。炎の名は、激怒と憤怒だ。だが今はそれに翻弄されるわけにはいかない。 麗蘭は無理矢理微笑を湛え、余裕を作った。「わかってないわね。お坊ちゃん」「何?」「仮に私が貴方に害したとしても、羅家当主はこれを表沙汰にはしないわ。決してね」 何を言っているのか、理解できない。そういう表情をする趙劾に麗蘭は嘲笑するように笑う。「胡家の領地、しかも私の家への侵入。及び胡家に属する者への狼藉数々」「それが何だ?」「わからないの? どうしようもないわね。そうね、確かに胡家は羅家には勢力的には到底及ばないわ。でもね、だからといってそれだけが全てじゃないのよ?」「?」「羅家がいくら力を持っていても、それを覆す方法はある、と言う事よ。あまり自分のお家の力を過信しないことね」「何を世迷い言を」「普段ならお情けで父君に助けて貰えたでしょうが、今は無理ね。時期が悪かったのよ。父君はもみ消すわ、貴方が此処にいたことを。全てを。だから私が貴方を多少痛めつけても、羅家は何も言えないの。だって、貴方はここにいなかったことになるのだから」 布を引く力を、少しずつ増やしていく。肌を、間接をきつく締められていく感覚に趙劾が眉を顰める。振り払おうとしているようだが、させるものか。「何故なら羅家は現在、ただでさえ籐家に差をつけられてきている。民衆の支持、という強い後押しが羅家にはないからよ。民衆の支持は、少数の声ならば力を持たぬけれども、多数の声ならば、それは力となるの。そして民衆は今、羅家よりも籐家の味方。この状態が長く続くと羅家は多数の不都合が出てくるの。それを挽回しようと父君は今、必死よ? ねぇ? もし、貴方がここで起こした惨事を民衆が知ったら、どうなるかしらね?」 民は羅家に猜疑心を抱くであろう。一応貴である胡家ですら、自分の為ならば簡単に踏みつぶす。ならば民などもっと簡単に踏みにじると考えてしまう。それが人で、人が集団となれば不安は更にかき立てられ、恐怖と姿を変え、一気に膨れあがる。 そんな愚を羅家現当主は踏まない。羅家現当主とは一度会っただけだが、麗蘭は断言できる。あの『海千山千』の男に、まだ小娘であるとも言える麗蘭が正答できる問題がわからないわけがない。 だが、次期当主は理解できないようだ。訝しげに眉を顰めているのではなく、麗蘭を哀れむような眼で見つめている。麗蘭の言葉が何一つ理解できておらず、莫迦にしくさっているのだ。(………………なめられたものね) 麗蘭が思わず手に力をいれてしまったときだ。「更月っ【コウゲツ】」 骨が軋む感覚に耐えきれなくなったのか、男が切羽詰まった声で何かを呼んだ。 声と同時に、影が動く。辛うじて追えるほど素早い影は、麗蘭と男を駈けた。その瞬間、二人の間で張りつめていた布が弾けるように千切れた。(何ですって?!) 特殊な布は丈夫で、尚かつその中には鋼鉄線を仕込んである。それがいとも簡単に千切られるとは、何事だろう。 麗蘭は影の方向へ咄嗟に視線を向けた。 そこには少年が立っている。まだ幼さが抜けきってはいない少年は、無表情に麗蘭を見ていた。 蝋の炎に照らされる少年は、金色の髪に、薄氷色の瞳を持っていた。(守人?!) この少年は、形勢が逆転してしまうほどの切り札となりうる。 麗蘭は短くなった布を構え直しながらも、思考を必死に駆けめぐらせた。打開策を生み出すために。