[紗の帳]-7-
チリチリと微かな音が之推の耳に届く。蝋燭の火が埃と空気を焼いている音だ。 之推は突き刺すような緋深の鋭い視線に、軽く肩を竦める。視線が知覚できるのであれば、熱を孕むものならば、之推はとっくに焼け焦げ、穴が空いていただろう。それこそ今、耳に聞こえる音と同じ音を立てながら。 不躾な視線を向けられることなど、之推にとっては日常茶飯事の出来事だ。不快だと思うこともなくなるほどに。けれど緋深の視線はどこまでも真っ直ぐで、新鮮な感じがするので悪くはない、とさえ思う。 之推はひねくれているわりには真っ直ぐな少年に向かい、目を眇めつつ口を開いた。「で、おおまかなことを聞いたって?どこまで『朧月夜の姫君』はお前に手の内を明かしたのかな?」「“おおまか”」「水掛け論をするきはないんだ。俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。お前のことだ。わからない、そういうことじゃないだろう?」 少し凄んだ口調で問いかける之推に、緋深は小さくため息を吐いた。凄く嫌そうに。「だから、本当に。別に、何も。計画がどういうものか。どういう筋立てなのかぐらいだ………あと何でそんな計画を考えているかも一応喋ってはくれたけど、抽象的な言葉すぎて、わけが分からなかったんだよ………ただ」「ただ?」「その中に、『贖罪』やら『罪』やら『成さなければならないもの』やら『望む未来』やら。聞いていて“オカシク”なったね」「へぇ?」 くっ、と唇の端を持ち上げ嗤う緋深を、之推は興味深げに見やった。確かにそれは之推も聞いたことがある単語の数々だった。と、いうよりも之推もそれしか聞いていないというのが正しい。 櫻妃を筆頭にした、それこそ数十年単位でこの計画を目論んでいる人間達は、皆“秘密主義者だ。そうでなければ長い時間をかけ、少しずつ包囲網を張り巡らせ、着々と計画への準備などできなかっただろう。祖父母から父母へ、そして子へ。謀略と策略を紡いで、計画の基盤を強固なものへと変えてきた。之推からしてみれば『ご大層』なこと、と拍手の一つでも送りたい。 一体何がここまで、『国の崩壊』を望ませるのか。之推には計り知れないことだ。下手をしたら、この計画には百年以上の刻がかけている。一体いつの代の櫻妃達の先祖が計画を打ち立て、どうやって曲がることなく、歪むことなく受け継がせたのか。どう考えても並大抵なことではない。 だからか、たった二、三十年前からの協力者の萱家にはまだあまり手の内が明かされていないのだ。緋深に明かされるわけがない。慎重なことである。(まぁ、別に萱家としてはそれでもかまわないんだけどね。動機なんて、どうでもいい。ただ、結果が萱家にとって良いものであれば、ね) 萱家は櫻妃達のほうに分があると踏んだから、味方をしているのだから。 ただ一度好奇心に負け、何故国の中枢部の権力を握っている櫻妃達が、その地位を投げ捨てるようなこの壮大な計画を目論んだか尋ねたことがあった。『私たちが、成さねばならぬことだからですわ。他の誰でもない『私達』が。これは、この国が胎動した時から、決まっていたことですわ。それが私たちの負う『罪』で、『役割』です。もちろん、このままではいけない、という想いもあります。このまま何もせず、目を瞑り続けて得られる未来の結果を知っていますから。それは私たちの望むものではありません。そのような未来、私は欲しくありません。だから私達はもう立ち止まれないのです。『望む未来』のために』 緋深が同じような問いをし、返答がこれならば、確かにわけがわからないだろう。きちんと説明しているようで、具体的な言葉を一切明かしていない。罪、という穏やかではない言葉を手がかりに、一度之推は様々なことを調べたが、巧妙に隠されていて何も洗い出さなかった。不審が多いことだ。「で、何が“オカシイ”のかな?お前は」「どこが、って全部に決まってる。“お綺麗な言葉”ばかりだからだよ。何が『贖罪』だ。何が『望む未来』だ。そんなのは、あの人達の自分勝手な想いだ。贖罪をして許されたいのも、別の未来を望むのも、それは春呼び姫達の願いで、叶えたいものだ。そんなもん、朔夜には関係ないだろうっ!勝手にしろ、ってんだ。何が『巻き込みたくはない。けれど、朔夜はもう、渦中にいる』だよ。ふざけんな。守れ、なんて言うなら最初から巻き込むなよっ」 不機嫌そうに、はっきりと言い切った緋深の言葉に之推は軽く目を瞠る。‘あの’籐家の人間に喧嘩を売っていると取られかねない言葉だ。威勢のいい、というよりも無謀、無鉄砲な子供である。 これが影でこそこそとしか言えない愚かな人間なら之推は何も思わなかっただろう。だが、口にしたのは目の前の少年だ。緋深のことだ、下手をしたら櫻妃に直接言っている可能性は非常に高い。 本当に、朔夜が絡むと直情的になってしまうやつである。「ま、それはそうだね。けどね、緋深。お前、分かったるんだろう?あの朧月夜の姫君達は、何か俺達には想像もつかないものを抱えている。それこそ普通の人間なら押し潰されかねない、ような、ね。」 之推の言葉にむすっ、と緋深は黙り込んだ。それが、答えだった。「……かもしれない。だけどそれとこれとは別問題だ。朔夜を傷つけるなら、俺は……あの人を許せなくなる。あの人がいたから、今、朔夜は生きている。今の朔夜がいる。計画に荷担している胡家の人々に助けられたから俺は生きている。………それはわかっている。けど…」 緋深の自分の心のうちを整理するように、ゆっくりと、手探りで言葉を紡ぎ、吐き捨てるように呟いていく。緋深の声の裏にある戸惑いは、之推にも伝わり、黙って耳を傾ける。「あの人達は本当のところ、朔夜を巻き込みたくない、と思ってる。そんなことぐらいわかってる。不可避だから俺に『守れ』と言っているってことも。けど……認められるかよ、そんな主張」 「緋深」「本当に守りたいなら、最後まで足掻けよ。ことをさっさと終わらせるなよ……」 緋深は口の端を小さく噛み締めた。 緋深にとって、過去周りの人間は『敵』であった。だが朔夜と出会ってから、緋深にとって『敵』ではない人間が増えていった。櫻妃や、麗蘭達はその筆頭格なのだろう。だから戸惑う。はじめてとも言える『敵』-緋深にはまだ、『味方』という概念はない-と言えない存在だからこそ、判断にいまいち迷うのだ。ちなみに、朔夜は緋深の中で、敵味方を通り越した枠組みに存在している。その朔夜が櫻妃のことも麗蘭のことも好いていることも大きな-と言うよりも9割を占めているに違いない-原因だろう。(本当に…こいつは。こいつらは) 之推は小さく、内心笑った。緋深といい、朔夜といい、何故此処まで清々しいほどに真っ直ぐで、純粋で微笑ましいのだろう。 緋深はきっと、櫻妃の前でも「足掻け」「諦めるな」と怒鳴ったのであろう。簡単にそれは想像できる。 櫻妃も、之推も状況と人、環境など情報さえあればある程度の未来を予想でき、当てることできてしまう。だからこその諦観もある。諦観をしなければならないことがあるのだ。 けれどこの目の前の生意気な子供は、子供の我が儘を振りかざして、その諦観を壊せと言う。 少々腹が立つこともあるが、面白い人間ではないか。「で、緋深?」 之推は緋深の迷いを断ち切るほどの、晴れやか(に一見見える)笑顔を向けた。 不審なまでに-之推の満面の笑顔など、女性以外なら滅多に見られない-いい笑顔に、緋深は何か嫌なものを感じたのか、数歩後ずさる。「な、何だよ」「俺を嵌めようなんて、お前にはまだまだ早いよ」 緋深が言葉を返すより素早く、腕の中の朔夜を奪い取った。之推は海賊じみた行為を何度も行ったことがある。‘お宝’の強奪などお手の物だ。「なっ……」 驚き声もない緋深を之推は無視し、朔夜に柔らかな声をかける。「おはよう、姫君」 声にぴくりと反応し、恐る恐る目を開ける仕草が子供のようで、小動物のようで可愛いな、と之推は笑みを零した。