【幻】 [微睡みの茶会] 2
「何をしているのですか?」 どこか楽しげな男の声に、睦月ははた、とした。ゆるゆると周囲を見回してみると、自分の手元に硝子の破片が散乱いしてる。白いテーブルクロスには琥珀色の沁みがじわじわと侵蝕し、睦月のほうへ勢力を伸ばしてきていた。(……わ、たしが、コップを落とした?) ぼんやりとした頭で睦月は正解を導き出したが、呆然と座ったままだ。躰が、うまく動かない。視線などは動くが、手や足などは完全に制御不能であった。 ようやく躰が動きだしたのは、熱い液体であったはずなのに、いつの間にかぬるくなった紅茶が睦月の太腿のあたりにこぼれ落ちてからであった。「あっ……そ、その、ご、ごめんなさい」「構いませんよ。その程度」 慌てて謝り、拭くものを探しだす睦月に対し、男は平然としたものだった。男は指を一つ鳴らす。すると砕けた硝子も、飲まれることがなくなった紅茶も、テーブルクロスや睦月の服の沁みさえも掻き消えていた。思わず、きょとりと睦月は眼を丸くする。「……凄い」「これぐらいできて当然です」 夢だから、何でもありなのだろう。だが、睦月にはできないことだ。こっそりと新しい紅茶が欲しいな、と願ってみても、何一つ変わらない。男がもう一つ指を鳴らせば、簡単に出てくると言うのに。「何で、お兄さんができて、私ができないんだろう……私の夢なのに」「当然でしょう。君と僕とでは格が違うんです。この空間の主導権が僕にあるに決まってます」 きっぱりと言い切られると、そうかもしれない、と睦月は思えてきてしまうのが、不思議で仕方がない。だいたい、格が違う、とは日常聞き慣れない言葉、と言うより誰も使おうとしな言葉だ。呆気に取られるしかない。 男は睦月の困惑を無視し、話を進める。「で、どうかしたのですか? 話の途中で、麁相をして」「えっと……わか、んない。なんか、急に躰に力が入らなくなって」「違うでしょう?」 え、と睦月は眉を軽く顰めた。何故、男に否定をされるのだろう。睦月自身わからない感覚だと言うのに、断言の口調で、間違いを犯した生徒を指摘をするように言われてしまうのだろうか。 睦月の困惑を軽く笑い飛ばし、男は人差し指をすっ、とテーブルと平行にした。指された先は、睦月の小さな手だ。「震えていますよ、あなた」 楽しげに笑いながら指摘されたことに、睦月は困惑した。確認しようと恐る恐る視線を下げると、確かに指先は震えていた。だが、手だけではない。真冬の外に夏服の格好で放り込まれたかのように、全身が小刻みに震えいる。「な……んで?」「やはり消えてませんか。『傷』は。まあ、そうでしょうね」「え?」「………………藍閃」 藍閃、という名前を慈しむように、楽しげに男が口の中で転がした。その瞬間、睦月の背にぞくりと悪寒が走り、一度大きく身が痙攣する。 恐怖であり、恐怖でない感情が胸の奥で爆発する。睦月の身を震わせたのは間違いなく恐怖だが、だが妙に実感がないのだ。どこか他人事のようなのである。恐怖を感じたのは間違いないのだが、どうも『睦月が体験した恐怖』という感じがしない。酷く曖昧な感じなのだ。 睦月の困惑を面白げに眺めていた男が、ふと、 おや、と呟く。どうしたのか、と思い、何処か縋るように睦月は見つめた。この困惑の原因を男なら、教えてくれるのではないか、と思ったからだ。「どうか、した?」「ええ。席を外します。どうも『招かれざる客』が来てしまったようで」「? ……わかりました」 弱々しい眼差しと声を、無慈悲にもあっさりと男は振り払った。席を外す、と言う言葉を放つと同時に席を立ち、睦月の了承を聞いているかいないかわからないほど、さっさといなくなってしまった。 置いてけぼりをくらった睦月はしばらく、自問自答することとなる。何故、何が、何で、と自分が感じた不可思議な感覚を確かなものとしようと足掻くが、埒が明かない。手がかりがなにもないのだ。 考えているうちに、いつの間にか震えが止まった。震えが止まってしまえば、更にさきほどの困惑が薄れ、あのわけのわからない恐怖の姿の輪郭がぼやいく。 睦月は一度大きく息を吐き、温かい紅茶を飲み干した。喉を通っていく温もりに、少し心が落ち着き、余裕が生まれる。(相変わらず勝手気ままな人だなぁ) ふと、さきほど姿を消した男のことを思いだした。勝手気まま、というより気まぐれに近いのかもしれない。きっと男の本質が勝手気ままなのではなく、睦月への対応が気まぐれなのだろう。ふとしたきっかけで手元に転がり込んできた珍獣を、気まぐれに相手をしている、といった感じだ。そう思い、睦月は少し困ったように笑った。悲しい、とはどうも思えず、むしろあの人らしい、と思い笑ってしまう自分に対して、肩を竦めるしかない。 さて、と睦月は気を取り直し、首を傾げ、また悩みこみ始めるのであった。