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2011.08.22
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人間は何をしてきたのか

人間は六千年の間何をしていたのか。何もしていなかったのです。だらだらと生きていただけなのです。政治、経済をだらだらと引き伸ばしてきた。古代社会、中世社会、近世社会、現代社会と、社会形態は変ってきましたが、ただ人間が生きてきたというだけのことなのです。
何のために生きてきたのか。命の実体を捉えていたかというと、捉えていなかったのです。
六千年の間、人間は全部死んでしまいました。死に続けていたのです。おそらく800億人前後の人間が、この地球上に生まれたと推定されますが、イエスと旧約聖書に出ている数人以外は、全部死んでしまったのです。
釈尊も孔子も死んでしまった。マホメットも死んだのです。だから墓がありますが、イエスだけは墓がありません。イエス・キリストは有名すぎるほど有名ですが、墓がないのです。
釈尊の墓は沢山あります。仏舎利が世界各地にあるのです。しかし、イエスの墓はどこにもないのです。
イエスは復活したのかしなかったのか。もしイエスが本当に復活したとすれば、人間の本質が今まで考えられていたものとは、全く違ったものであることが分かるのです。だから学問の対象として取り上げなければならない最大のテーマなのです。
学問はまず最初に、イエス・キリストの復活というテーマを取り上げなければならないのに、これをしていない。これは学の怠慢としか言い様がないのです。人類は、2000年以上も怠慢を続けてきたのです。
学問は人間を幸せにするものだと言われるかもしれませんが、人間の幸せとは何か。死ななくなるということです。これは生への執着とは違います。今生きている自分とは違った命を発見することです。
今生きている人間は、迷いと執着と悔恨と矛盾だけです。これ以外に人間の命はありません。
文明を前進させるとか、社会を改造すると言いますけれど、何のために進歩改造をするのか。ただ迷いと快楽と執着を増進させるだけなのです。
レーニンは人間の幸福は欲望の満足にあると言っていますが、これが間違っているのです。社会の進歩改造は、結局、人間の欲望を満足させるだけなのです。欲望の満足は人間の幸福だと言いますけれど、欲望を満足させると欲望はだんだん太っていくのです。
欲望を満足させればさせるほど、新しい欲望が生まれるのです。これは人間がよく経験している事実です。こういう命は死ぬべき人間の命なのです。ところが、死なない命があることを、イエスが歴史的に証明したのです。これは人間が勉強しなければならない、一番大きいことなのです。政治経済、宗教、教育の問題よりも、もっと大きい問題は、命
の問題です。
人間は死ぬものか死なないものか。これに対してはっきり断定することが、学の最も大きい責任なのですが、それをしないのです。
イエスはどうして死を破ったのか。彼はなぜ死を破ることができたのか。死を破った後に、彼はどうなったかという問題です。命とは何であるかということを勉強することが、本当の学なのです。
本当に信頼できるもの、本当に信用ができるものは、死ぬべき人間の頭からは出てきません。死んでいくに決まっている人間の言うことは、皆どこか間違っているのです。
世界でただ一つ本当に信頼ができることは、イエスが死を破ったということです。これ以外に、信用できるものは、世界にはないのです。
釈尊が言った一切空も信用できるのです。釈尊は、人間の考えは全部空だと言いました。これは事実です。五蘊皆空は本当です。これは学説ではありません。意見でもありません。実体なのです。
イエスが復活したことも実体なのです。イエスの復活は、宗教ではない命の問題なのです。これを考えることが、人間がこの世に生まれてきた一番大きい責任なのです。死を破ることが、この世に生まれてきた人間としての、一番大きい責任です。
イエスがどうして死を破ったのか。イエスが死を破ったから、私たちも破れるに決まっています。絶対にできます。冷静に、正確に、イエスが生きていた状態を点検すれば、私たちにも死が破れるはずです。
新約聖書を詳しく読んでいけば分かることですが、イエスが十字架にかかったことによって、すべての人の罪を抹消した。そして、神はすべての人をイエスと同じものと見なしたのです。その意味で、キリスト紀元に生きている人は、全部救われているのです。客観的にそうなっているのです。
自分の意見を持っている人はだめです。五蘊皆空という釈尊のすすめに賛成すれば、救われている事実が発見できるのです。五蘊皆空という釈尊の意見に従えば、イエスの復活を自分の事実として受け止めることができるのです。
本当に信じられることは、人間が空であるということと、イエスが甦ったということです。六千年の人間の歴史の中で、本当に信じられるのは、この二つだけなのです。
人間が現在生きている状態を、そのまま認めてしまいますと、だめです。救われるという言葉を使いますが、これは人間の状態が良くなることではないのです。良くなる場合もありますが、基本的に良くなることとは違うのです。
命は自分のものではないということから、出発しなければならないのです。私たちは、自分で生まれたいと思ったのではありません。命がもし自分の所有物なら、死にたくないと思えば、死ななくてもよいようにできるはずですが、それができないのです。だから、命は自分のものではないということは、冷静に考えれば分かるのです。
ところが人間は、自分が生きていると思っているのです。生命意識を持つことができるのです。自分で生まれたのではないのに、生命意識を持っている。命という言葉を使うことができるし、自分が生きているという認識を持つことができる。これはどういうことかということです。
自我意識と私意識とは違います。英語でいうとはっきりしますが、エゴ(ego)とアイ(I)
です。エゴは自我と訳したらいいのです。エゴイズムは自我主義であって、我利主義ではないのです。
自我という意識が、どうして人間に発生したのか。自我が人間を不幸にしているが、どうして人間に自我意識が発生したのか分からないと、哲学界の大御所であったハイデッガーが言っていたのです。
人間は自我の正体が分からない。しかし自我があるのです。大体、自我という意識が宇宙に存在することがおかしいのです。どうして自我意識が宇宙に存在するのか。また、人間という不思議な生き物が、どうしてできたのかということです。
人間存在をどこから見ればいいのか。実は釈尊がいうように、人間は空なるものです。空なる人間がどうしているのか。人間の文明は、大連峰の頂が連なる大山脈のように聾えています。人間文明という大山脈があるように見えますが、全部空なるものなのです。一切空です。
六千年の間、人間は何のために生きてきたのか。人間自身が分からないのです。人間文明と大きなことを言いますが、文明はただ生活を豊かにしただけなのです。生活を豊かにしてどうするかと言いますと、結局死んでいくだけなのです。財産はないよりはある方がいいという程度のものであって、こんなものは信頼できないのです。
人間が生きるように仕向けている無形の力があります。皆様の心臓が動いているのは、宇宙のエネルギーによるのです。
地球が自転公転しているエネルギーが、皆様の心臓を動かしているのです。皆様が賛成しようが、反対しようが、心臓は自分で動かしているのではないのです。
人間は生きるように仕向けられているのです。人間を生きるように仕向けている力があります。この力はパワーというより、マイトというべきものです。マイトの作用とは何か。皆様の心臓を動かしているのはパーソナリティーです。人間は人格的に生かされているのです。
花は人格的に生きているのではないのです。人間は人格的に生きていると、はっきり言えるのです。
人間は利害得失を考え、善悪を判断することができる。そうすると、人間を人格的に生かしているものは何かということです。私たちを生きるように仕向けている力に、どう仕合わせるか。仕向けているものに、仕合わせていくのです。これが人間のしあわせなのです。仕合わせることが、人間のしあわせなのです。
天の心を自分の心として、天と一緒に生きることができれば、死なないことになるのです。肉体は滅びますが、これは消耗現象です。肉体が滅びることと、死ぬこととは、別の問題なのです。死ぬというのは、生理的な問題ではなくて、心理的な問題です。
皆様が心理的に仕合わせることができれば、皆様の命の本質は、しあわせになるのです。幸いと仕合わせとは意味が違います。幸いとは偶然的なことをいうのですが、仕合わせは、永遠につながっている重大な問題です。
皆様がもししあわせになりたいと思ったら、皆様を生きるように仕向けているものに、仕合わせればいいのです。
これは、難行苦行とは違います。滝に打たれる必要もないのです。行をするのはなぜかと言いますと、行をすることによって、自分自身の常識を空じることができる。例えば、断食をするとか、年中念仏を唱えていると、理性が消えてしまうのです。自我的な意識が薄くなっていくのです。時には漂霊現象になります。人間の顕在意識を薄くする効果がありますが、これはいい場合と、悪い場合とがあるのです。
皆様に一番考えて頂かなければならないことは、死というのは生理的な問題ではなくて、心理的な問題だということです。これが般若心経の五薀皆空という原理に大きな関係があるのです。





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Last updated  2011.08.22 18:39:31
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