おいちゃんとおばちゃん・・・幸せの記憶
おいちゃん話 続きです。備忘録がわりに 書いております。読み流してください。わたしの記憶の中にある『おいちゃん』は というと。。。 そろそろ おいちゃんのくるころやな・・・と おいちゃんを待つ。 そのうち待ちきれなくなって 玄関を飛び出し 角の塀のところで いつもおいちゃんが歩いてくる方角をチラ見する。やがて も一つ向こうの角あたりから 軽く片方の足を ひきずり そして歩く おいちゃんの姿が見えてきて 次第に近づいてくる。。。我が家に遊びに来るときは 決まって ぞうり履きで・・・ どんな洒落たスーツを着ていても 決まって ぞうり履きで・・・海上の災難には (たぶん)無傷で帰還したおいちゃんでありましたが、戦後 陸上では 2度にわたり交通事故に遭遇し。。それも 2度目の事故では かなりの重症だったらしく、、、、叔母に言わせると 「もう死んだかと思った」・・と。 あのころは なんでもやったよ・・と おばちゃん。生活のために おばちゃんが屋台を引いていた時代もあったらしい。美人でキップのいいおばちゃんゆえ それなりに繁盛したらしい。 その後、これまた奇跡的に 叔父の体も 足以外は元通りになり、父の勤めていた薬品関係の会社に 入社。 子供の頃の思い出は 叔父夫婦と紡いだものも多く・・・・ ラクテンチに連れて行ってもらったなぁ・・・床屋さんにも連れて行ってもらったなぁ・・・パッツンとうちゃん床屋を見かねたのかな? 会社の別府支店の地下に掘られた大きな風呂に入れてもらい 驚いたり、、、(別府の家は みな 地下に風呂があるものだと 長い間思っていた)叔母の務め先に行って ソフトクリームを買ってもらったり・・・おいしかったなぁ、あれは、、、叔父のお決まりのおみやげはバナナではありましたが たまにチョコレートが付くこともあり・・・食べ過ぎて興奮したのか わたしは鼻血を出し。。。 おいちゃんの買ってきてくれるバナナは それは立派で・・・でも 大家族の我が家では あっという間になくなり・・・おいちゃんのバナナには到底かなわないが 小さなバナナがたくさんついた大きな房を買ってきて 何本食べれるか自分へ挑戦・・・・・16本目で 腹がくだり、、、、バカな 挑戦をしたものだわ。・・・ホント 猿だね。 学生時代は 東京に出たわたしでしたが・・・おばちゃんの親友の姪ごさんに ピアノを教えてくれないかと頼まれ・・・たぶん 生徒第1号。その家は 町田でね。大学のあった町から 当時 片道 軽く1時間半から2時間。音大の寮から バス 電車(それも乗り換えあり)、そしてまた バス・・みたいな。おまけに 前の先生がお手上げなほどの 練習しない女の子で。けど この子が 練習するようになっちゃったんだよね~。 そこのおばあちゃん手作りの夕食までごちそうになって帰るレッスン日。故郷から遠く離れたわたしが味わう 家族の温かさ。これも み~んな 叔母が つないでくれたご縁。 引越しの手伝いに行っては 「梱包がうまい」と 叔母におだてられ・・・叔母も『器』好きでね、、、デパートで買った陶器を ずいぶんもらったっけ。。ある引越しでは 初めての洋式トイレを前に 「こんなのじゃ 用が足せん・・」と嘆く叔父夫婦のために ブロックで足台を作ってあげたり・・・ドア開けられたら目が合うような そんな座り方で 用は足せん・・って。いつまで そんな形で使っていたんだろう。・・・今考えたら笑い話だけど・・・ そんな楽しい日々が ずっと続くもんだと思っていた。。。いや、続いて欲しかった。。。 それから 何年たったときだろう。大好きなおいちゃんに 胃がんの宣告。手術を見守る 叔母、父、母、姉、そして わたし。 手術の経過を聞いた医大での光景が いまでも甦る。。。手術は成功。日に日に元気になる おいちゃん。 でもね、人生には まさかのことが起きるんだよ。 おばちゃんに 肝臓がんが見つかる。。。見つかる・・というか 見つかった時は もう完全に手遅れ。あっというまに迎えるおばちゃんの死。昔の人は 我慢しすぎるんだよ。肝臓は 沈黙の臓器とは言うけれど、、、ああなるまでには いろいろ辛いこともあっただろうに、、、 がっくり肩を落とした おいちゃん。。。一人暮らしのマンションの一室で 一まわりも 二まわりも ちいさくなったおいちゃんがそこにいてね。。。 姉も 自分の子供の運動会には 叔父に声をかけ・・・わたしも 栗ご飯炊いて 持って行ったっけ・・・「おいしいおいしい」と喜んでくれたなぁ。調子に乗って 何度か おいちゃんのマンションに持って行ったよね。おいちゃん、あのマンションのあった区域は いま開発が進み 違う町のようだよ。あの辺りには わたしもよく買い物に行くんだよ。おいちゃんがよく行ってた○○スーパーは 潰れちゃったけどさ。。。。 おいちゃんの癌の再発がわかったのは いつだったんだろう。 わたしの花嫁姿を見ることを心待ちにしていたおいちゃんだったけれど 「○ちゃん、式場には 行けそうもないわ。」と ベッドの上で 細い声で言った姿が忘れられません。 結婚式が 昭和59年の5月5日。大好きなおいちゃんの亡くなったのが その約 一月後。実家にあったお位牌を見てみたら 叔母の亡くなったのは 叔父の亡くなった年の 約一年前だったよ。おいちゃんが一人だったのは そんな短い期間だったっけ!?・・って 思っちゃった。何年も一人でいたような そんな寂しそうな後姿だったんだよね。。。ケンカしつつも仲のいい夫婦だったからね、、追っかけていっちゃったのかなぁ。 おばちゃん、おいちゃん、父、、、、、義父、とうしゃん、そして 姉まで あっちに行っちゃってねぇ・・・なんなんだろうね~~元気でやってるよ~~・・って声 届いているかしら。 オマケ;前々回、前回と ブログに載せたおいちゃんとの写真。そばにある火鉢で お餅焼いてるねぇ。お正月のようだね。昔の暖房って こんなもんだったんだねぇ。茶の間には こたつがあったけど。だから なんだかいっぱい 着込んでる。今より 季節感あるよ。おばちゃんが写ってる写真もあってね。残念ながら 後姿だけど。何をしてくれているかというと・・・ポーズを考えてくれていたようだ。お正月には 一張羅で正装し、そして 表へ出て 見栄えのいい玄関をお持ちの お向いさんちの玄関で 写真を撮る。それが 恒例行事。お正月には なんらかの 新しい服が用意されており・・といっても いつもは 母手作り。・・・なんと 母は パンツなどの下着までも ミシンで縫うような人だった。たまたま この着物は 誰かからもらったかなんかで 我が家にあったのだろう。同じような光景が 2~3年、たぶんわたしの体に着物がフィットする年数だけ アルバムでは続きます。今のように 何でも簡単に買えるような時代ではなかったけれど ものを大切にする いい時代だったね。