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カテゴリ:物書き
2011年の桜は、誰の胸にも昨年の桜とは違うだろう。 もう、十何年も桜を只管に追いかけて ずっと、桜と孤独な対話をしてきた。 いろいろな「桜」と一対一でのお付き合い。 「桜」に導かれるままに「桜」に逢いに行く。 仕事だとか、家庭だとか、人間関係を全く断って 「桜」だけを、ただ独りで見つめてきた。 「桜」と向き合うと素直で真っすぐな人になっている 自分が居るということを知った時はとても嬉しかったものである。 有名な桜の名所には観光客がいっぱいであり、人波を乗り越えて 桜と向かい合うのは大変なことである。 しかし、今年は「花見」「桜まつり」自粛が多い。 さもありなん‥わが国の歴史でこんな未曾有な災害は なかったのだから‥ 生きるか死ぬか先が見えない時に浮かれて「花見」など 「とんでもない!」という考えだからだろう。 しかし、桜は毎年、春を告げる使者として日本中を染め上げる。 さて、あの歌聖と云われた西行ほど吉野を愛した人間はいないのかも知れない。 我慢仕切れず,庵まで結んで,吉野に住み着いてしまった。 死ぬまで吉野の桜を思い続けた西行は,吉野山に関する数多の歌を詠んでいる。 その中につぎのような歌が残されている。 <春といへば誰も吉野の花をおもふ心にふかきゆゑやあるらん > (意味:春と言えば,誰でもまず吉野の桜を思うはずだ。その気持ちに何の深い訳などあるだろう。) 桜は、何時の頃からか、 ただの「樹木」では無くなり、信仰や農耕、文学、武門、様々な人の 想いを抱えて日本の象徴となり、「国花」にまでなった花である。 桜前線は、深く傷ついた東北地方へと北上を続けている。 福島、宮城、岩手と 山形や秋田、青森の桜も、東北の桜は 吉野に負けないほどに美しい。 やはり、「希望」の「花」である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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