ラーマクリシュナとの対話(2006年5月16日の日記を再掲・一部修正)
バラモン教では至高の神に融合するためのすべての道のなかで、もっとも容易な道は、バクティ(神への信愛)だと言われています。バクティ(神への信愛)ヨーガに生きた近代の人でラーマクリシュナという人がいます。ラーマクリシュナとブラフマ協会の会員たちとの会話にバクティがふんだんに盛り込まれているので紹介します。会員「先生、修行の方法を教えてください」先生「方法はね、夢中になること。つまり、あの御方(神)が大好きになること。それから祈り」会員「どちらが先ですか?」先生「神さまに惚れるのが先。その次が、祈り」心をこめて呼んでごらんかあさんきっと来てくれるお前の泣き声きいたならかあさんこずにはいられない先生「それから、いつもあの御方の名をとなえたり、讃歌をうたったり、祈ったりすること。古い壺は毎日みがくだろう?一回こすっただけじゃ、どうにもならないよ」会員「俗世の生活は捨てたほうがいいのでしょうか?」先生「人によりけりだ。どの人にとっても俗世を離れることがいいというわけではないよ。苦楽の経験をみんな終えてしまった人たちでないと、世間の生活は捨てられない。盃に半杯の酒で酔えるかい?」先生「そういう人たちは、無私の仕事、つまり、結果に執着しないで仕事をするように努力することだ。金持ちの家の女中は、どんな仕事でもするが、心ではいつも故郷のことを思っている。こういうのを、無私、無執着の仕事というんだよ。これが”心で捨てる”ということだ」会員「苦楽が終わるとは、どのようなことでしょうか?」先生「金、名声、五感の歓び、こういう経験をひと通り終えた後でなけりゃ、つまり、苦楽の経験を卒業しなければ、たいていの人は神さまのことに熱中できない」先生「苦楽の経験を卒業しなければ、離欲の気持ちは出てこないよ。小さい子供は食べ物やおもちゃをやると、すぐだまされる。だが食べ物も食べてしまい、玩具であそぶのにあきると、「お母ちゃんのところへ行くーッ」という。母親のところへつれていってやらないと、玩具をぶん投げて声をはりあげて泣き出す」会員「神を見ることは可能でございましょうか?」先生「ああ、必ずできるよ」会員「どんな状態になれば、見神できるのでございますか?」先生「無我夢中になって、神を求めて泣けば見られる。妻子のためなら人は水がめいっぱいもの涙を出す。金のためなら涙の池で泳げるほども泣く。だが、神を求めて誰が泣いている?本気になって神を呼ぶことだ」先生「無我夢中になる、ということは、夜明けの空が赤くなることだ。暁につづいて、お日さまが姿をお見せになる。無我夢中の次が見神だ」先生「つまり、神さまに惚れろということだ。母親が子供たちを可愛がる。妻が夫を愛する。勤め人が会社の仕事を大事に思う。この三人の愛、この三つの引力をいっしょくたにして、そっくり神さまに差し上げることができたら、きっとあの御方に会える」先生「とにかく、夢中になってあの御方を呼ぶことが必要なのさ」先生「一生懸命になるとあの御方は同情してお恵みを下さる」 こんなにいい本が絶版とは・・・定価420円がアマゾンでは7800円もの値が付けられています。興味のある方は図書館を利用してください。 ブログランキング←あなたにツキが雪崩のように降ってきますように