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女草子奥の細道
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主婦・子育系
福島県 7月7日生

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「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり・・」女性の目で旅をつづり新境地を打ち立てた「土佐日記」にあやかるわけではありませんが、趣味の女装を単に「お出かけ」という次元にとどめるのでなく、歌枕や史跡を辿ってみるのも一興と始めてみました。地元福島からどこまで足を伸ばせるかわかりませんが、よろしかったらお付き合いください。

麻衣の旅日記 [全16件]

松島  (3)

 奥の細道序章に「松島の月 先(まず)心にかかりて」とあるように、芭蕉にとって松島は旅の大きな目的地のひとつでした。いよいよその地を目にした芭蕉は感動も極限となり、結局句は作れませんでした。あまりにすばらしいものの前では言葉を失う、という伝統に立ってのことらしく、「白河の関」と同じように「曾良」の句をあげています。実際は「嶋々や 千々にくだけて 夏の海」があるようですが、「細道」には取り上げませんでした。観光バスに乗ると『松島や ああ松島や 松島や』の句が紹介されますが、江戸時代の「松島図誌」(文政四年刊)に 松島やさて松島や松島や という句が 田原坊 という作者名で出ているそうで、この句は芭蕉の句でない上に もともとの形とも違っているようです。

細道の句「松島や 鶴に身をかれ ほとヽぎす」は「(夜になって月明かりの中)ほととぎすが鳴いている。鳴き声はよいが姿は松島にふさわしい鶴に替えてくれ、ほととぎすよ」というような意味です。そこで、鶴とは似ても似つかぬほととぎすのように、性別・年齢を詐称した「女装子」が「鶴(女性)」を装っているよ、という句にしてみました。海が明るいために、逆光で顔が見えにくい分、夜のほととぎすの風情が出ているかもしれませんね。


Last updated 2009.08.28 02:39:47
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2009.06.14

立石寺  (2)
[ 本文 ]  

山形領に立石寺と云う山寺あり。・・・・岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。岸を巡り、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂莫として、心すみゆくのみおぼゆ。
   閑さや 岩に しみ入 蝉の声


 「奥の細道」の句の中でも有名なこの句をどう料理するかが決まらずに、山寺詣でも延ばし延ばしにしてきましたが、このたび機会がありまして、大先輩高城景子姐と同行二人の旅をしました。ハイヒールで石段を登るのが粋なのよ、と颯爽と行く景子さん。わたしは一応スニーカーは思いとどまって、底の低いサンダルで出かけました。
 思いのほか人が多く、駐車場もほとんど埋まるほど。人々は列をなして登っていきます。樹齢なん百年という杉木立ちの中、芭蕉が登ったのは七月中旬で蝉時雨が降り注いでいたのでしょうが、この日は梅雨入りしたばかりとあって、あいにくの雨・・・ひとまず芭蕉記念館でお勉強、をしているうちに雨も上がって、雨上がりのさわやかな空気の中の登山となりました。
人々は「うわ〜まだなの〜〜」「もう休もうよぉ」などと言いながら、ひたすら登っていくのですが、ふと『私たち』を見かけては「?」と思い、すれ違いざまに声を聴いては、驚いて言葉を失います。
 もとの句も、初めは「山寺や石にしみつく・・」だったとかで、「山寺」を上五に持ってきて、「しづけさ」も「蝉時雨の中での静寂」ではなく、「お山をハイヒールにひらひらスカートで登る女装子を見た驚きの静寂」に摺り換えてパロディにしてみました。
「この、見られる快感がたまらないの」と景子さんは仰るのです!わたしはそこまでの境地には達していなくて、目立たない、気づかれない、溶け込む女装を目指しているのですが、せっかく一緒に行動するときは、少々ポリシーを曲げたってかまいません(笑)その後も、さくらんぼを売るおじさんを値切ったり、おでんを買って店先の縁台で食べながら撮影したり、楽しい旅は続いたのでした。


Last updated 2009.06.14 19:01:21
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2008.05.10

乙和の椿  (3)
[ 本文 ]  

これ今より百余年前、橘南谿が「東遊記」に記せる所なり。
継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳せ参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経京都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和になりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も京都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲嘆の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙をさめてほゝ笑みたりとぞ。

佐藤基冶・乙和夫妻の墓の隣に樹齢数百年の椿の古木があり、子を失った母の悲しみによりつぼみのまま落ちてしまって開かないため「乙和椿」と名づけられている(石碑の文字読めますか?)ちょうど椿は開花の時期で、境内にも多く咲いていたが、ここだけは花が咲いていないのでなんだか薄暗い。左下アップの写真、また石碑のところにも落ちているつぼみが見えている。不思議な現象だ。
女性としての感性を多少とも模倣してくることができたのか、この「母心」も以前よりは痛切に感じられる。一方、「花を開かず日陰に終わる」という姿にカミングアウト(正体を明かすこと)できない女装子としての自分を重ね合わせて、感慨はひとしおであった。


Last updated 2008.05.10 10:23:10
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2008.05.06

佐藤庄司が旧跡  (1)
[ 本文 ]  

「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。
初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。
基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれた。
平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。
継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。
その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。

継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。

寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(おい)をとどめて什物(寺の宝物)とす。笈も太刀も五月に飾れ帋幟 五月朔日の事也。端午も間近、男子の節句にふさわしい義経の太刀や弁慶の笈を飾り立派な丈夫に育つように祝うがよい)
なんだ、一文字しか変えてないぞ、とお思いでしょうが、漢字交じりで書くと お芋達も五月に齧れかみのぼり(噛み砕き、としてはやりすぎと思いまして・・・)ということになっていまして、焼き芋を齧っている写真を撮りたかったのですが、近所のスーパーでは売っていなかったのと、ポテチやポテロングというのもどうかな、と思いましたし、お寺の境内で食べ物を持ち出すのもなんとなく気が引けて、こういうことになりました・・・・・
芭蕉の感動の世界からあまりにも離れてしまったようですが、俳諧の基本にはそういう滑稽・おちょくりも含まれていたと言うことでお許し願いましょう。
石像のほうは中央が義経公、向かって右が兄の継信公、左が忠信公です。皆さん凛々しいですよね。
宝物殿には芭蕉も見た「弁慶の笈」「義経の太刀」が陳列されており、感動もひとしおでしたが、そこでの撮影は禁止。それにしても、たとえば真田十勇士といえば立川文庫の創作であるように、源義経は歴史上の人物でも、武蔵坊弁慶とか伊勢三郎義盛とかって猿飛佐助や霧隠才蔵と同類に思っちゃったりするんだけど、「この笈背負って安宅の関で勧進帳読んだんかなぁ・・」とか感慨がありました。


Last updated 2008.05.07 00:45:26
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しのぶの里  (1)
[ 本文 ]  

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、しのぶのさとに行。・・・・
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

「しのぶもぢ摺り」は、当て字を使用し、古来「信夫文知(文字)摺」などと表されている。
この石の存在を伝える文献としては「おくのほそ道」が最も早いとされており、その中で書かれた巨石・文知摺石が、文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。

この石は、芭蕉がここを訪れたとき半分ほど土に埋まっていたそうで、付近の子どもがその経緯を次のように語ったという。
昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、・・・ (その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから)
  
この文知摺石には、次のような伝説があり「鏡石」とも呼ばれる。

嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣こと中納言源融(みなもとのとおる)が按察使(あぜち)として陸奥国に出向いていたが、ある日、文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。

源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の内に次の歌を残した。

みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)
(あなた以外のだれのために、みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように心を乱す、わたしでありましょうか。)

「伊勢物語」や「百人一首」では、下の句が「乱れ初めにし我ならなくに」と改められている。

当然、芭蕉は「歌枕」としてこの伝説を念頭においての訪問だったわけだが、恋の歌を下敷きにしつつ、やや視点を変えて「早苗取る」乙女の手つきと「しのぶ摺り」の手つきとをあわせて詠んでいる。
320年を経て訪ねたその日も近隣の田では「田植え」の真っ最中、ほとんどが機械化された中、昔ながらの手作業の姿も見受けられた。
実はこのスカート、以前ペンキ塗りたての柵に寄りかかってしまい、茶色のペンキがどうしても落ちないので、紅茶で染めて「白」から現在の色にしたもので、さらに「草染め」してみるのもいいかな?という句にしてみた。
実際は日陰なので「苔」では色もつかなかったのだが・・・・・
GWとはいえ、訪れるひともちらほらで、ゆっくり散策ができ、資料館ではお茶もご馳走になった。「どちらから来られました?」からいろいろお話させてもらったが「秋の紅葉がまたすばらしいんですよ」と言っていただいたので、また来て見ようかと思う。



Last updated 2008.05.06 11:38:26
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2008.02.17

久しぶりの更新  (1)
[ 本文 ]  

奥の細道紀行は春から秋だったのと、岩手・山形・新潟・岐阜となるとなかなか足が出ません。だいぶ間が空いてしまったので、「細道」以外の作品から本歌取りさせていただきました。もとの句は「この道や行く人なしに秋の暮れ」です。この句には「所思」という前書きがあって、芭蕉の心境、つまり、俳諧への道を志して、たとえ自分だけになってしまってもひとりで歩いていくという孤高の孤独感が詠い込まれているといいます。この後すぐ、大阪で病に伏し他界します。すでに死期を悟っていたのかもしれません。
で、「秋」を「冬」に変えただけなんですが・・・「冬の暮れ」という季語はあまり使われません。冬はすぐに暗くなります。この撮影をした日は、冬枯れの樹に夕陽がさして、雪の白さとの対比がとてもきれいでした。
芭蕉翁にとって「この道」とは俳諧の道ですが、私は同じハイカイでも「女装徘徊」のほうなわけで、「行く人」の少ない超マイナーな道ではあります。
人前に出るようになって約5年、だいぶ板についてきて、街でも店でも振り返られたりじろじろ見られることはめったになくなりました。それとも、そういう文化が定着してきたのでしょうか。ネットで写真だけをお見せしているとオトコとは気づいていただけない方もいるので、こちらのブログを案内しています。
「なぜ、女装の道なのでしょうか?」
このブログの最初のところにもあるように「女性の目や感性で自然や風物を見る」ことで視野と感性を広げ、さらに豊かに生きるという喜びがひとつ。
自分自身が監督でありカメラマンでありモデルでありという立場で「女性美」を表現した写真という作品を創造する、喜びがひとつ。
メイクが進むにつれ衣装を着けるにつれ、別人が現れる「変身の快感」、もうひとりの自分になる喜びがひとつ。
同じ心の人、理解してくれる人、きれいだねといってくれる賛美者の人、との新しい人間関係を結ぶ喜び、がひとつ。

振り返ってみると、20代30代40代とやったりやめたりの周期があって、今回の三度目は本格的です。「かわいいおばあさん」になるまで続けるかも知れません。

同じ「行く人なし」の道でも、冬の道です。雪の道です。確かな足跡が残っていく、そんな道です。そして、確かについていたと見えた足跡が、いつの間にか溶けて消えてしまう、そんな道なのかもしれません。

確かにいるようでいてどこにもいない、「佐藤麻衣」の今後を温かく見守ってください。



Last updated 2008.02.18 01:34:51
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2007.05.13

矢立の始め  (4)
[ 本文 ]  

見送りについて来た弟子たちとの「別れ」を「鳥啼き魚の目は涕」と詠み、「矢立の始め」として「細道の旅」が始まりました。
深川の芭蕉庵(跡)記念館、神社、「住めるかたは人に譲って」移り住んだ「杉風が別所」の跡、などをめぐり、「深川丼」の店なんかをのぞいたりして、歩き回りましたが、そうなると問題は「足許」なわけです。
私たちのような趣味のものによくある悩みとして、合う靴がない、ということがあります。
ハイヒールフェチを自称されるかたともなれば、金に糸目はつけないんでしょうが、私らパート者としては、バーゲン品あさりなので、なかなか会うものに出会えません。長さは良くても、幅や甲高が足りずに、擦れたり皮がむけたりといったトラブルはしょっちゅうです。
「ウオノメ」というのは誇張ですが、泣きそうになったことは何度もあります。
というわけでこのたびは「スニーカー」にてお邪魔しました。
芭蕉翁も旅の草鞋ですから「おそろい」ってことで、2ショットです!
全国各地にある「奥の細道像」は曽良さんとお二人のが多いので、こうして女の子と一緒というのはどう思っておられるでしょうねっ?


Last updated 2007.05.16 01:49:24
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