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ペラン中尉着任
4月に入ると、準備はいよいよ本格化した。まず4月6日から豊橋の陸軍第15師団の工兵隊下士官および兵卒20名、所沢航空隊雇員3名、また横須賀海軍航空隊からは、やはり下士官、兵卒60名が続々と到着した。 4月7日、三方ヶ原爆撃班と新居大正浜射撃班のフランス人教官となるビュアラン、ペラン両中尉らの一行が浜松に到着した。 4月12日午後2時06分新居町駅着の列車で射撃班教官となるペラン中尉が着任した。太田町長、青木在郷軍人会長、鈴木警察分署長、川合尋常、高等小学校らの歓迎を受け、町長令嬢よし、杉浦医師令嬢芳枝から、花輪、生花を受けた中尉は喜色満面で答礼を行った。そのまま一行は、全町各戸に日仏国旗が掲揚されている中を、大正浜へ腕車(人力車)で向かった。沿道には、あふれんばかりの人々が万歳を歓呼し、また尋常小学校5,6年生および高等小学校1,2年生が覚えたてのフランス国歌を歌ってペラン中尉を大歓迎した。 大正8年2月24日付の静岡新報では、『仏国歌を高唱し』と見出しをつけ、つぎのように伝えている。 「2月上旬以来毎日数回宛上級生徒に教授、殆ど暗誦し、独唱も差支えなき程となる。校外で遊ぶ時もこれを歌っている。」 記念碑の除幕式当日、地元の老人クラブの面々が歌ったフランス国歌は、実にこの時に習ったものである。新居町浜名に住む明治39年生まれという加藤九治郎は自慢する。「今から20年以上前のことですが、同窓会の時に1人でこのフランス国歌を歌ってみたら、よく覚えていたもので最後までまちがいなく歌えたのです。だからその後も、みんなで集まるようなときには、全員で歌うようになっていったのです。時々は、放送局からも聞かせてくれと来るのですよ。」 4月18日からは、倉片陸軍大尉の指揮のもと、湖上危険区域の杭打ち、浮標の設置、機関銃据え付け用土塁築造、地上目標の建設など、また大崎海軍大尉の指揮のもと、2ヶ所の滑走台(東と南)、大正浜中央道路の西南方には、水上飛行機3機の繋留場(格納庫)2棟も建てられた。これは、屋根及び周囲を防水布で被覆されたバラック式のもので、一方には水上機2機が、他方には1機を入れることができた。 そして、いよいよ5月1日から学科、5月5日からは射撃演習が開始されることに決定した。 第一期専修員来班 5月1日、第一期専修員10数名が来班した。射撃班の編成は、射撃班長が爆撃班長兼任の赤羽祐之陸軍少佐、主任は倉片深陸軍大尉と大崎教信海軍大尉であった。第一期専修員として陸軍側は、操縦:加藤 義中尉、大柴栄中尉、森作蔵軍曹、射手:溝口護命中尉、池田慶次郎中尉、手島恒久中尉、樋口正治少尉、海軍側は、操縦:市丸利之助中尉、坂尾照喜三等兵曹、坂尾兵曹負傷後は、前島一等水兵、上野強次郎一等兵曹等であった。このうち操縦者は、時々射手としても訓練した。 教育予定およびその内容は、5月、6月を機関銃射撃手専門の射撃教育、7月を下志津で偵察、観測教育を終了した偵察員のための射撃教育、8月は各務ヶ原で駆逐飛行機(戦闘機)による高等操縦術修了者のための射撃教育と3期に分けられ、射撃教育の順序は、(1)地上より固定目標の射撃 (2)空中より湖上固定目標の射撃 (3)空中より地上固定目標の射撃 (4)空中射撃の4種類に分けられていた。地上における目標射撃は5月3日の機関銃および騎銃試写から開始された。 射撃班で使用された機関銃は、ビュカース式、ルイス式、それに日本独自のもの、照準器は、速度に応じた風力によって、敵味方の移動量を的確に修正測定することのできるジュリエット式とノルマンサイト式であった。 かつての大正浜中央道路沿いに釣具店を営んでいる太田好一は、道路の北側に築かれた土堤上から盛んに機関銃が発射されていたのを今でも鮮明に記憶している。 築かれた土塁には、機関銃と銃架を据え付けた木製の台座が数カ所に置かれ、ここから目標を射撃する訳である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.01.11 22:37:29
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