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カテゴリ:教務(社会)
1891年に、ロシアのニコライ皇太子が来日した。 その際、訪問先の大津で警備担当の津田巡査から襲撃され、負傷した。 この事件において、日本政府は、ロシアとの関係悪化を恐れ、大審院に対し圧力をかけた。 すなわち、皇室に対する罪を適用し、犯人を極刑に処すべきであると。
こうした政府の圧力に対し、当時の大審院院長であった児島は拒否を表明。 司法権の独立を守り抜き、「護法の神」と称された。
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Last updated
2010/09/24 09:19:49 PM
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