インパール戦を忘れてはならない
4日前に農作業中にひっくり返った93歳の母が頭が痛くてならないというので朝9時から10時まで母の通院につきそう。処方を終えてさらに骨を強くするための注射を打っていただく。ひ孫の様子を見に行きたいというので隣市に会いに行く。私の姉が50歳で亡くなった際、長女はイギリス留学中で次女は小5。姉は小学校の教師であったが、嫁ぎ先の母の世話をするため職を辞した。私も仕事が忙しく、しかも敬愛する学習塾を経営されていた先生ががんを患いながら何らの治療もせずに教壇に立って見え、優秀な子供らを教えて見えた。その先生が私を呼び、杉田君、忙しいとは知っているが今の生徒らとできれば家族の面倒を見てくれないか。この塾を託せるのは君しかいない。こうおっしゃる。私は先生が生きる決意、がん治療を受ける決断をしてくだされば塾再興のお手伝いをさせていただく事にした。私は教師を退職した姉に手伝ってもらいこの塾を軌道に乗せた、その最中の事。姉の体調がすぐれなくなっていたのを知った、すぐに治療に専念してもらったが夫である義兄によると余命数か月とのこと。姉には病名を言わず留学中の長女にも知らせず帰国の3月を待った。帰国すれば姉に病名が知られてしまうから。姉は必死に生きようとしていた、小5の娘のために、娘の誕生日会を病院で行うことを本当に楽しみに。友人の見舞いの時にはできるだけ明るく元気にしていたがおかえりになるともうぐったり。私と二人きりになると、決まって言うのは両親を悲しませないで。姉の病室を出て職場に帰る車中で私は毎回涙を抑えることが出来なかった。最後まで素晴らしき人生であった。母と帰宅するとき母から聞いたのはこの孫が小6卒業式にピアノを演奏した際、学校の先生が私の母つまりこの娘にとっての祖母のために席を設けてくださったのだそうな。93歳の母が伝わり歩きができるようになったひ孫の成長に安堵しているのを見て連れて行ってよかった、親孝行の真似事が出来たとうれしく思った、親孝行をせよとの姉の命には従えないままではあるが。忠ならんとすれば孝ならず。致し方ないが。 西尾市役所に殉国七士墓及び諸慰霊碑西側の市所有地使用許可願い書面の提出をなす以下の文面を頭にして地図や活動の写真などを記載し毎年3月提出している書類である。西尾市殉国七士墓及び諸慰霊碑西側の市所有地使用許可願い 令和6年3月18日西尾市長 (申請者) 444-9201 岡崎市上和田町 杉 田 謙 一 電話0564使用申請物件 西尾市西幡豆町東奥山13番141の一部(別紙の区画内) 山林 17,006㎡のうち474.17㎡4, 使用の目的 殉国七士墓及び諸慰霊碑西側の市有地において雑木などの繁茂を抑え、植生を生かしながら、下草を撮るなどの作業を行い、この地域の美化活動を推進する。5, 使用の期間 令和6年4月1日(月)から令和7年3月31日(月)まで以上、使用の趣旨を損ねないように万全の努力を払い市の指導に従い管理いたしますのでご許可いただけますようよろしくお願いいたします。 以上。三ヶ根花壇手入れに走る。もう寒くてたまらない。参拝者に案内をさせていただいた。日本のすばらしさを語る。おじいさまがビルマで戦われたそうであるがそのことを初めて聞いた時「悪いことをしてきたんだなあ」と思ったそうな、そこでインド独立への決死の支援、インパール戦の尊さやインパール北の中国でのたたかい拉、孟・騰越どぇの日本兵の戦いについて語らせていただいた。拉孟守備隊は1280人、それに対して押し寄せる中国の雲南遠征軍は4万8500人。戦闘が行われたのは昭和19年の5月から9月である。当時インパール作戦が展開されている最中の事。進撃ルートの北、要衝の地に拉孟・騰越は位置していた。もし拉孟・騰越が早期に敗北していたらの敗北は、インパール作戦の退路は遮断され、その被害は計り知れないと。 拉孟北方での戦闘が開始されたのが5月、拉孟に対する雲南軍の総攻撃は何度も続き8月の打電には「其の守兵片手片足の者大部」とある。それでも守備隊は9月半ばまで戦い抜き持ちこたえた。ほとんど武器弾薬がなくなった後にっても決死の戦をなしたのだった。友軍機は撃墜鵜の危険性がいかに高まろうとも弾薬補給をなしつづける。それに対し、守備隊は「今日も空投を感謝す、手榴弾約百発、小銃弾約2千発受領す、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」と打電している。守備隊にとって弾薬はのどから手が出るほど欲しいものである。しかし、自分達の為に友軍機を危険に晒してはならないとの本部に打電する守備隊は9月半ばまで戦い抜き、持ちこたえた。チャイナは確かに戦勝国にはなっているがわが軍は対チャイナ戦ではほぼ完勝。それも決して武器に勝ったわけではなく欠乏の極みの中での戦い。玉砕に走らなかったのは友軍への同志愛と感謝。これを戦い抜いたのはアジア解放に殉じようとされた使命感の強さが最大の要因だったとおもいますよとつたえさせていただく。 チャンドラボースの対英独立運動への支援にむけ決死に闘われた先人の思いを汚すような歴史観を持つのは情けないことではないか。インドはわが軍に敬意を払ってくれて後の独立時には8月15日を記念日にしてくれた、東京オリンピック時の新幹線実験走行に日本が困っていた時インドでやらせていただき安全の確認が出来た。インドには日本への思いがある。日本だけが自虐意識で折英霊無視を決め込むのは愚かではないか。こう語らせていただいた。 柳さんといわれたか、立派な青年でありました。 軽トラで行ったので永年放置されていたゴミとなった遺贈粉などを撤去してきた。他の場所にも粗大ごみが放置されている。割れ窓の原理ではないがこのままでは三ヶ根の美風が損なわれてしまう。観光地として復活させるために皆さんの協力を仰ぎたい。「昭和の日」奉祝講演会 のお知らせ --四月二十八日は、日本再起独立の日、四月二十九日は昭和の日です。今年令和六年は昭和九十九年 来年はいよいよ昭和百年の年に当たります。「昭和」の時代の国家目標は「百姓昭明 万邦協和」の文字通り、すべての国民が明るく幸せになり世界の平和を目指すことにありました。欧米により世界は植民地支配の苦しみの中にあり昭和恐慌や世界恐慌の真っただ中。その解決はアジアの盟主としての日本に期待されていたのです。しかし関東大震災からの復興の真っただ中での世界恐慌。そして欧米のブロック経済等悲惨な経済状況の中、大東亜解放の道は苦難に次ぐ苦難。ついに大東亜戦争とその敗戦の敗戦という国家未曽有の危機に陥ってしまいました。 しかし道義国家実現を目指す国民の願いやその精神を最も深く体現為された昭和天皇の並々ならぬお祈りやご尽力により我が国は奇跡の復興を成し遂げました。アジアは被植民地時代からかろうじて脱出。植民地主義を一掃した実績は人類史上大きく輝く成果といってもよいかと思います。 とはいえ敗戦の重み痛みはとてつもなく大きく、占領史観・欧米正義史観からいまだ脱却できない現状。自虐史観からの脱却なくしては道義国家日本の再建はできません。今回昭和の日を迎え、神道や仏教に精通されている有働先生をお迎えして講演会を開催いたします。昭和百年の歴史観の是正、再構築を図りたく思います。日時 令和6年 4月29日 午後4時開場 4時20分開始場所 愛知県蒲郡市金平町関戸38番地 0533-65-7449 蒲郡ホテル形原別館形原リゾート(三ヶ根山料金所出口すぐ左折下山すぐ)主催 「昭和の日」奉祝祭実行委員会 委員長 伊藤幸男 名経大名誉教授 連絡 090・8554・0817(杉田)参加費 講演会のみ 1000円 講演会+懇親会 3000円第一部 記念式典 4時20分~4時30分 開会の言葉 主催者挨拶 実行委員長式次第 開会の言葉 国歌斉唱 来賓挨拶 昭和聖徳記念財団 園部先生他 万歳三唱 記念講演 4時半より6時 講師 有働智奘先生 (薬師寺管長高田好胤師最後の弟子演題 「昭和の精神~昭和百年を迎えるにあたって」(仮題)閉会の言葉 第二部 懇親会(食事会・意見発表他) 6時10分から7時10分 会場上の三ヶ根山には沖縄以外で最多の慰霊顕彰碑があるところです。東条英機大将(総理)・松井石根大将・土肥原賢二大将・木村兵太郎大将・板垣征四郎大将・広田弘毅総理・武藤章中将のお墓もあります。その慰霊祭は当日午後二時から山頂の殉国七士廟にて開催されます。 2時からの慰霊祭にもぜひご参加賜ればと思います。 昭和54年5月27日豊田市での植樹祭の前日、昭和陛下は会場から遠いこの地の「グリーンホテル三ヶ根(現在はヒルズホテル)にお泊りになり、早朝墓の方向に向かって直立佇立され、20分以上正対され、「卿たちはここに眠っていたか」と呟かれたと伝わります。同年12月8日に美智子上皇后陛下他皇族の皆様も同室におとまりになられたのです。その記念の碑やさざれ石もグリーンホテル前に建立されています。むろん七士は我が国の国会にテ社会党共産党を含む全会一致の決議で「戦犯は存在せず」と決議され刑死された七名は「公務死」とされ他の「BC級戦犯」として処刑された方々と共に「昭和殉難者」とお呼びすることになりました。当然罪人ではなく国から遺族年金もだされたのです。七士廟の入り口の巨大な石門には建立者の岸信介総理の名が刻まれています