ガイジンの夕べ(13) 日光の「オランダ燈籠」
日朝間の闘争により乱れた部屋で、ケンペルとツュンベリーによるケガ人の治療が行われていた。 ツュンベリー: ほい、治療終わり!ペシッ!!りり: いったいなあ、もう れでぃーに対する思いやりってもんはないんですか?ケンペル: 何がレディーだ。 お前は仮にも司会者だろう? ゲストに手を出すなど、あってはならないことだ。レフィスゾーン: 止めに入った私までひっかくなんて、ひどいじゃないか金仁謙: それはあのサルの仕業だぞ。り:誰がサルじゃ!! だいたい、アンタには発言権は与えてないと言っただろーが!!ツ:あっ、それそれ。 金さん、もういいでしょう。 廊下なんかにいないで、一緒に飲み直しましょうよ~。金:い・や・だ!!レ:強情なんだから・・・ ドクトルも殴られたところが腫れてますよ。 ほら、冷たいタオルで冷やして。ツ:ああ、ありがとう。 誰かさんにも、こういう女性らしい気遣いがあればな・・・り:私はジジイですから。つ~ん。申維翰: こやつは頭も打ったのではないか? 自分の性別もわからなくなるほど、錯乱しているようだぞ。ズーフ: もういいだろう。 店員がテーブルも整えてくれたし、飲み直そう。 ・・・ところで、どこまで話したんだったかな?ケ:ノイツの釈放寸前までだろう。ズ:ああ、そうそう。 我々は辛抱強く交渉を続けたんだが、その都度「ノイツの件はうまくいくだろう」 という日本流の気休めを与えられただけだった。 貿易の件で閣老に大きな誤解を受けていたため、 なかなかノイツの許しを得るところまでいかなかったのだ。 転機は1636年の春に訪れた。 商館長はニコラス・クーケバッケルに代わっていたが、この時クーケバッケルは バタビアに向かっており、上級商務員となっていたカロンが参府した。 平戸候は我々の到着を待ちわびており、彼の貴族を迎えに遣わすほどだった。 カロンは例によって将軍や閣老への贈物を持参していたが、その中には 30本の腕のある銅の灯架1個が含まれており、献上品の目録を平戸候に見せると、 彼は灯架に非常に興味を示し、これを見たがった。 この灯架は非常に美しかったが、日本式に言えばはなはだ重かった。 翌日、灯架を持って平戸候の家に行くと、灯架は大広間の棟木に吊るされた。 すべての人は驚いてこれを見た。平戸候はこの灯架を非常に気に入り、 「これは日光にある大寺院の墓所、すなわち故老皇帝の墓所に使われるだろう」と 考えた。り:うふふ・・・ケ:なんだ、何がおかしい?り:わたくしにお任せください。 その灯架が日光に現存していることを知って、それだけを見に、 過日、日光に行って参りました。ツ:えっ、まだあるのか? え~と、今って西暦何年だ?り:2016年です。 灯架が献上されてから380年になります。レ:さすが日本だなあ~。 で、どんな灯架なんだ?り:ほらこれ。 日光東照宮、すなわちイエアスを祀る神社の境内に安置されてます。 手前にある白い立て看板にはいちおう由来が書いてあるんですが、 文字はほとんどハゲてて、「釣燈籠」ぐらいしか読めません。 これも歴史を物語る史跡なんだから、きっちり看板を整備しとけってカンジですよね。ツ;中にあるのがその灯架なのか? あんまりよく見えないんだけど・・・り:わたくしも、是が非でもよく観察したいところでしたが、 何しろ柵に囲われてて灯架を収めた上屋にも近寄れないんでねえ~。 ロクな写真が撮れないのが残念でなりませんでした。 でもまあ、こんな感じ↓。 幸い、『平戸オランダ商館の日記』にはこの灯架の大きな写真があるので 大体の姿はわかるんですが、この30本の腕全部にローソクをともしたら さぞ綺麗だろうなと思いますね。 今は灯架の下部も台を付けて支えているようですが、上から吊ってもいます。 確かに重そうではあるので、平戸候の家は大丈夫だったんだろうかと 思わず人んちの心配をしちゃいますよ。ズ:灯架は謁見の日まで平戸候の家の広間に吊るされたままだった。 灯架を外すまでの間、これを見に大勢の大官たちが平戸候の家を訪れ、 15日経った時点で客をもてなす菓子や宴会の料理にかかった金は 800テールに上ったそうだ。申:灯架を気に入ったのもあるだろうが、客を迎え入れる平戸の領主の得意な顔が 目に浮かぶようではないか。り:東照宮には、これの近くにあと2つ「オランダ燈籠」として陳列されているものが あります。 日光には長年通っているものの、東照宮にはめったに行かないので こんな燈籠のことは知らなくって、ホントに驚きました。ツ:今は一般人も気軽に東照宮に入れるのか。 なんでお前は東照宮に行かないんだ?り:だって人が多いんだもん。 真冬のオフシーズンでさえ、東照宮には結構人が来ますよ。 えっと、5年前の「世界遺産 日光の社寺」の来訪者数は862万人だと。 「日光の社寺」は二荒山神社と家光の大猷院に東照宮を合わせたものだけど、 同じ山内にある訳だし、フツーの観光客はまず東照宮に行くから、 ほぼこの人数が東照宮の拝観者数だと見ていいだろうな。 震災の後は参拝者が激減したと輪王寺のおじさんが言ってたけど、 5年経ってまた盛り返してきたようですね。ケ:震災? 大地震でもあったのか?り:も~、聞くも涙、語るも涙・・・ 5年前に超巨大地震が東日本で起きて、大変だったんですよ。ツ:日本は地震が多いからなあ。 我々も滞在中に何度も地震に遭って、恐い思いをしたな。り:それだけの数の参拝者が東照宮に行くのに、しかも「オランダ燈籠」は奥へ続く 参道のすぐ両脇にあるのに、ほとんど目立たない存在じゃないかと思うんですよね~。ズ:な・・・なぜだ? 客観的に見て、立派で美しいと思うのだが・・・り:美術工芸品としても、歴史的にも価値は高いと思いますけどね。 ただ、ぶっちゃけ日光にはこんなものゴロゴロしてるんですよ。レ:こ・・・こんなもの?り:東照宮だけでも真面目に真剣にすべてを拝観しようと思ったら、 私なんか何日かかるかわからないくらいです。 フツーの観光客はそんな見方はしないので、ガイドブックに載ってる幾つかの見所を見て さっさと境内を出ていきますよ。 まあ、3つのオランダ燈籠のうち1つはとある理由でそれなりに注目されることも あるようですが、オランダ人と日本人の間で熾烈なやり取りがあったとかの 背景となる歴史を知る参拝客はほとんどいません。ズ:ならば、ここでこの灯架について少し語っておくか。り:ぜひ、そうしてください。 これだけドラマティックで壮絶な商館の歴史を知らずに、 灯架を見た記憶すら残らないなんて勿体なさすぎる。ズ:日本の燈籠は置くスタイルだが、これは釣燈籠なので、平戸候は拝謁の時のために 灯架を吊るす高さ9フィート、幅8フィートの枠を上等の白木で作っておくよう、 我々に命じた。 そして、平戸候に灯架を初めて見せてから約1ヶ月後、いよいよ拝謁の日が近づいたので 灯架を閣老牧野内匠頭信成殿の家に運んだ。 灯架は内匠殿の2人の貴族が宮殿でセットする手筈になっており、我々は 日本人がスムーズに準備できるよう、灯架の至る所に日本語で説明を付けた。 任命された2人の貴族は内匠殿の家で手順を習い、翌日、我々は拝謁のために城に向かった。 1時間経ったあと、灯架とほかの献上品が奥の宮殿に運ばれたので カロンもすぐその後に続けるものと期待したが、2時間待たされたあとで あまり多数の領主が拝謁するためにオランダ人の順番は今日は回ってこないので 宿に帰ってよいと言われた。り:え~、それはひどい。 でもそういう失敗の歴史を踏まえて、大名の拝謁がスピーディーに進行するよう、 習礼をしたりするようになったのかもしれませんね。 商館の歴史はイコール日本の歴史だから、とくに初期の商館の記録は 江戸期の歴史を学ぶのに沢山の示唆を含んでいて興味深いものがあります。ズ:それで結局、次の拝謁日まで2週間ほど待たされることになったのだが、 その間に土井大炊殿がノイツの釈放に反対したことなどを聞かされ、悲観的にもなった。 将軍が日光に旅立つ日が近づいていたので、次の拝謁日を逃したら さらに長いこと江戸に留まらなければならなくなるからだ。 将軍が帰ってきても、1~2ヵ月は寺社での儀式や宴会などさまざまな催しがあるため 少なくとも3ヵ月ほどは待たねばならなくなる。 そこで平戸候は我々の拝謁を確実なものとするための策を講じ、オランダの蒸留酒を入れた 瓶を持ってこさせて平戸候の書状を添え、閣老加賀殿(堀田正盛)あてに送った。 平戸候はさらに牧野内匠殿にも書状を送り、翌日の恒例の拝謁日にはオランダ人を 朝早く内匠殿の家に来させて、そこで城に呼ばれるのを待つようにと内匠殿から 命じられた。 翌日、言われた通りに内匠殿の家で1時間座って待っていると、献上品を持って 奥の宮殿に来るよう呼び出しがあった。城でさらに2時間待ったあと、 「早く、早く」と呼ばれた。銅の灯架は例の木枠に架けられ、他の献上品と共に 将軍の目につくところに置かれた。内匠殿はカロンの上着を引っ張って、オランダ人が どこから膝行すべきか教え、その通りにすると閣老伊豆殿(松平信綱)が 「オランダ人は将軍に拝謁する」 と言葉を述べた。り:この時は智恵伊豆が当番だったんですね。 てことは、信綱も江戸城で灯架とカロンを目にした訳だ。 カロンと智恵伊豆のコラボレーション・・・なんてドラマティックツ:はいはいズ:この間、カロン達は膝行してきた広間に顔をつけて、お辞儀をした。 この言葉が述べられると、立って戸口の方に行くように脇から注意され、その通りにした。 将軍は非常に多数の人々を従え、三段の高座の上に、真ん中に1人で座っていた。 彼から10~12尋の所には誰もいず、オランダ人から15~16尋のところには 多数の領主、貴族が座っていた。り:ん~、やっぱりこの頃からザリガニだったのか。 この年は奇しくも東照宮の神忌21回にあたり、家光は寛永の大造替で 美々しくリニューアルした東照宮でのイベントに出かける直前。 カロンが江戸でザリガニになってた同じ頃、日光では天海がイベントの準備で 大わらわだったんだろうな。 歴史って、知れば知るほど面白すぎる。レ:日光の墓所の改葬についても、平戸の商務員あての手紙でカロンが触れているよ。 【これは以前日本では聞いたことも行われたこともないほど華美に、威厳をもって行われる。 日光の宮殿と建物は非常な大工事で、大きな木、大きな石、大量の銅、銀、金が使われ、 内側にも非常に高価な漆・鍍金を施し、2年以上かかって、今ほとんど完成した。 このために2万8千人以上の職人、人足が働いた。】り:『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)によると、大造替の 【総工費は米価に換算すると、現在の約4百億円、大工の日当から計算すれば2千億円】 だそうで、ガイジンも注目する文字通りの大工事だったようですね。 結局この灯架は東照宮に奉納され、同じ年の末には家光の招待で朝鮮通信使が 東照宮に参拝。 前掲書によると、これがガイジン初の東照宮参拝だそうで、 東照宮にとってはガイジンイヤーでもあった訳ですね。ズ:灯架は将軍に大いに気に入られた。 灯架を見て将軍は最近拝謁したオランダ人のことを思い出し、 彼らにスホイト銀200枚を贈るように、と言った。 閣老讃岐殿(酒井忠勝)は、将軍がオランダ人に好意を示したのを見て、 このよい機会にノイツの釈放を願った。これは平戸候が彼にたびたび頼み、 彼はこれをいつか必ず実現しよう、と引き受けていたのだ。 それで、ノイツの件はただちに彼に許された。 将軍の赦しが出たのは1636年6月4日だが、カロンらはすでに平戸に帰っていたので、 平戸候が自分の奉行、我々、及びノイツにそれぞれ飛脚を飛ばしてくれた。 ゆえに我々が釈放の知らせを聞いたのはさらに1ヶ月ほど後になった。 ノイツが日本に送還されてから4年近い歳月が過ぎていた。申:最後は意外にあっけなかったな。り:でもこの灯架1本にこれだけの歴史が詰まってるんですよ。 ドラマだよなあ。 平戸候はこれを見た時、東照宮に使われるだろうと考えた、と商館日記にはあるけど、 もともと東照宮に奉納されるために作られたんですかねえ。レ:さあ、注文の経緯についての詳しいことはわからないけど、 これだけの品だからその可能性はあるだろうね。 赦しが得られた場面だけを見れば、確かにあっけないようにも見えるけど、 そこに至るまでには我々の辛抱強い嘆願と、平戸候の充分な根回しがあった。 釈放の許可が出る直前には酒井雅楽殿(酒井忠世)が亡くなって、 我々は心強い友人を1人失った。 でも平戸候は引き続き讃岐殿に援助を依頼した。 この灯架は確かにノイツを救った。 けど、灯架はあくまできっかけに過ぎない。 讃岐殿はチャンスを逃さなかった。 讃岐殿にチャンスを掴ませたのは紛れもなく我々の努力であり、 平戸候の周到な根回しのおかげだったんだ。り:平戸時代の平戸候とのやり取りは実に面白いものがありますからねえ。 緊迫した時もあれば、カロンが江戸でなかなか拝謁を得られなかった時だって・・・ツ:あっ、ちょっと!!り:あんですか?ツ:他に2つ、「オランダ燈籠」があるって言っただろ? それ、見たいんだけど。り:ああ、そうですね。 じゃあ、まとめて日光に現存する会社からの奉納品を紹介しましょうか。 これが1640年に献上された、スタンド型の灯架↓。 これは参道を挟んでノイツを救った最初の献上燈籠の向かいにあります。 ケ:ほう、美しいな。り:上屋がない分、ノイツの灯架よりはいくぶん目立つかもしれませんね。 ただ、『東照宮再発見』によると、オランダ燈籠はいずれも国の重要文化財ではあるものの、 【釣燈籠と回転燈籠は覆屋があり、正式には「東照宮附燈台穂屋附銅燈籠」。何と 付け足しの、そのまた付け足しの指定なのだ。これには少々訳がある。】 ということなので、上屋も負けず劣らず重要なようですね。ツ:その訳って何なのさ?り:さあ・・・ 同書では【何れ書く機会もあろう。】ともったいぶっちゃって教えてくれませんので。 で、こちらの燈籠の歴史は?ズ:これについてはあまり記述がないのだが・・・ 1640年5月、この時はカロンが商館長に就任していたが、献上品とともに江戸にいた。 5月16日、平戸候とその奉行に相談した上で将軍への献上品を選んだが、 その中に銅の灯架1個、銅製二重の腕附灯架12個、このための白蝋燭500本が見える。ツ:そういえば、さっき見せてくれたのは「銅の灯架」だよな。 「腕附灯架」はもう残っていないのか?り:それがねえ~・・・・・・・ツ:なんだよ、はっきり言えよ。り:「オランダ燈籠」の先を左に入ったところに本地堂があるんですが、 本地堂の壁に12本のブラケット型燈籠が取り付けられてるとかって情報を得ていたので 本地堂の方へ行ったんですよ。 でもこの建物は正面側しか見られないようになっていて、見えるところからでは 燈籠は見えなかったので、もしかして下の参道からは建物の背面が見られるかもしれないと 思ってあとでチャレンジしようと思ってたんですが、すっかり忘れちゃってねえ~。ケ:では、見られなかったということか。り:結果的にはそうなんですが、後から別の本を見ると、どうもオランダ燈籠の付近から 見える場所に取り付けられていたようなんですよ。 惜しいことしたよな~。 普段の見方をしてれば気がついたかもしれないんですが、何しろこの時は お目当てだけをちゃっちゃと見てソッコー帰るつもりでいたもんで、 気が付かなかったんだよな~。金:そういうのを、詰めが甘いと言うんだり:今度行ったら撮ってくるわい でもこの灯架には、御丁寧にローソクまで献上された訳ですね。ズ:そのようだな。 それで5月21日にはまた平戸候の江戸の家に据え付けられた。 ちょうどこの頃は将軍が新宮殿に移るのでバタバタしていて、 さらに将軍の日光参詣も控えていた。り:ふん・・・この時は東照宮の神忌25年で、家光が8回目の社参に向かう直前だな。ズ:閣老讃岐殿と伊豆殿は、オランダ人の拝謁の件について将軍に話した。 しかし将軍は「日光から帰ったら、オランダ人に逢おう」と言った。 そこで閣老が我々の献上品の覚書を見せると、 将軍はその中に望遠鏡と銅の灯架があるのを見つけた。 彼は望遠鏡を長い間求めていたのだ。り:へえ~。 少し前の島原の乱に参戦したクーケバッケルの望遠鏡を、智恵伊豆や戸田氏鉄が 「よく見えるなあ~、コレ。しばらく我々に貸してくれない?」 って言ってる記述なんかがあるから、そういうウワサを聞いて 家光も欲しいと思ってたのかもな。ズ:それで、灯架はただちに日光に運んで据えるよう言いつけ、望遠鏡は彼のところに 持ってくるよう将軍は言った。 将軍はこの望遠鏡を大層気に入ったようで、絶えず彼のそばに持ち歩かせ、 日光に持っていくのを忘れないようにと命令したほどだった。申:子供が珍しいおもちゃを手に入れた時のようだな。ズ:灯架は将軍の命令通りすぐに運ぶ手筈が整えられ、伊豆殿はどれくらいの人数で運べるか、 計算や覚書と共に急いで彼の家に持ってくるよう我々に命令した。 5月30日、灯架は伊豆殿の家に運ばれ、取り付けられた。 灯架を見るために大勢の大官が伊豆殿の家に集まっていたが、すべての大官は 灯架を眺めて感嘆した。 そのあとでただちに包まれて、伊豆殿の家から日光に送るため、まっすぐ街道を通って 運び出された。り:う~ん、この灯架はひとときでも智恵伊豆の庭を飾ったのかツ:はいはいズ:将軍が日光から帰ったあと、カロンは拝謁を許され、スホイト銀200枚を賜って オランダ人はこの上ない栄誉を得た。レ:最初の灯架に比べるとあっさりした記述になってるけど、この時は同時に献上された 大砲の方に注目が集まっていたからね。 島原の乱の後は大砲に関する記述がものすごく増えるから。り:はい、じゃあこれが3つめの1643年に献上された回転燈籠↓。 これはノイツの灯架の隣にあります。 ケ:ほう、これも素晴らしいな。り:3つの中でこれが一番日本で言う「燈籠」に近いタイプだと思いますが、 私はこれが一番派手こくて好きですね。 実に素晴らしいものだと思います。 『東照宮再発見』によると、3つの燈籠はいずれも銅製で、アムステルダムで 制作されたものだそうで、 【オランダ側での研究の結果、設計はヨハネス・ルトマ、制作ヨースト・ヘリッツゾーンと 判明。特に回転燈籠は優秀な作品で、同国内にもこれに匹敵するものは幾つも無いとの事。】 とあるだけなので、どれか1つを指すのか、3つとも上記の人の作なのか はっきりしませんが、少なくともノイツを救った灯架は真鍮細工師のヘリッツゾーンの 制作に間違いないようです。 ただ、1636年・1640年・1643年とそれほど間が空いてる訳じゃないので、 3つともルトマ&ヘリッツゾーンの制作ってことなのかもしれない。ツ:お前、さっき、とある理由でそれなりに有名なものがあるって言っただろう? どれがその燈籠なんだ?り:あ、それはこの3つめのやつです。 というのも、 上部に付けられている葵の紋がさかさまだっていう、しょーもない理由なんですよツ:なんだそれり:でもねえ、1634年に平戸候が葵の紋の刀の鍔をバタビアの総督に注文した時、 『刀の鍔は上側から見て丸く、ここに送る紙に書いた見本と同じ形に作ること。この 丸形は皇帝の紋章である。これは特別に大きく書いてある。これにより、葉(三枚の 葵の葉)の形と葉脈がよく見え、小さい所まで一層完全に作られるように、と考えた からである。この円形の両面共、葉の模様、鳥、花等に七宝をほどこすこと。 三枚の葵の葉は白地の上に緑で七宝をほどこすこと。』 と実にこと細かく指示してますよね。 だから、葵の紋を扱うのが初めてって訳でもないのに、 なんでこんなミスを犯したのか・・・ オランダ人は学習能力がないのか?レ:それ、言いすぎ。り:んじゃ、こちらの燈籠の背景の紹介をお願いしま~す。ズ:この燈籠は1643年8月10日、バタビアからシャムを経由してきた スヒップ船ズワーン号で長崎の商館に到着した。 ズワーンがシャムを出帆したのは6月30日だったようだ。 8月21日には商館のあらかじめ定めておいた場所に燈籠を据え付け、夜に完了した。 8月29日、長崎奉行の書記官が来館し、燈籠を見たいというので見せたところ、 精巧なのに驚いて、主人に報告すると言った。 翌30日には多数の貴族が燈籠を見に来た。彼らは今までにこのようなものを見たことが ないと言った。 31日、奉行の書記官が来館し、奉行に燈籠の立派なことを話したところ、 奉行が明朝見に来ると言ったと報告してきた。 9月1日、奉行権八殿(山崎正信)が平蔵茂貞や長崎の町年寄4人、その他多くの 貴族をしたがえて燈籠を見に来館した。 点火したところ、美麗で精巧なことを誉め、参府の際に携行し献上する考えかと 聞かれたので、そのつもりでオランダで制作し、総督から日本に送られたものであるが、 奉行の意見に従って処置すると答えたところ、満足して彼らは帰っていった。り:ふふふ、まあ日本の燈籠とはだいぶ趣きが違いますからね~。 前2つの燈籠は平戸時代のものだから、長崎を出ることのない人達は 生まれて初めて見る外国製の風変わりで綺麗な燈籠にさぞ驚いただろうというのは 想像がつきますね。ズ:9月9日、燈籠を解体して磨く許可を得て、これを納める新しい箱を作ることを 命じ、陸路での運送に適するようにした。 11月6日、参府の日が近づいてきたので皇帝や太子に献上する品々の書きつけに 珍奇な品々を添えて奉行の一覧を求めたところ、奉行は満足して銅製燈籠は亡皇帝の 墓所に献ずれば喜ばれるだろうと言われたので、その意見に従うと答えた。 11月8日、商館長エルセラックは江戸へ向けて長崎を出帆した。り:エルセラックはカロンの2代あとのカピタンですが、まだこの頃は陸路ではなく 長崎から船で出発してたんですね。レ:まあそれも、大坂までだけどね。 あとは私達と変わらないさ。ズ:11月19日、大坂で献上品と手荷物を改装し、荷馬と燈籠運搬の人夫を雇い入れた。 20日にエルセラックらは大坂を発ったが、燈籠は別便で翌日送ったそうだ。 長崎奉行はそのために武士1名を派遣したので、途中彼を助けるために使用人4人を残した。 12月1日、江戸着。4日には奉行三郎左衛門殿(馬場利重)が燈籠は城中の適当な家に 据え付ける予定のため、早く送るようにと言った。 6日、銅製燈籠が江戸に着く。 9日、3日以内に謁見が許されるだろうから、燈籠を上覧に供するため宮城に据え付けるべき 旨が伝えられた。 この時も、燈籠とあわせて白蝋燭が若干贈られたようだ。 10日、日の出と同時に商務員補フェール、真鍮細工師カレル・ヨナスセン、および よいオランダ服を着た水夫6人を、燈籠を据え付けるために城中に遣わした。 皇帝がこれを日光に送る前に見ることを望まれたためだ。 夕刻、フェールの報告によると、翌日は諸大名が陛下の前に出て敬意を表する 定例の日なので、皆が燈籠を見られるように謁見の間の前に木の柱が数本立ててある間に 燈籠を据え付けることになったらしい。 そこで、長崎奉行やその他大勢の貴族の前で急いで仕事を進め、日没2時間前に据え付けを 終えた。 三郎左衛門殿が、このように大きな立派な燈籠がオランダには沢山あるかと尋ねたので、 フェールがこれは新案の製品で、これまで欧州で見たことも作ったこともないと 述べたところ、一同は喜んだようであった。 奉行その他は食事を勧めたが、フェールは宿を出る前に食事をしたので、 夕方まで辛抱できると言って丁重に断った。しかし奉行の命で宮内官から酒肴で饗応され、 各人に赤い土製の盃と烏賊を与えられ、盃は家に持ち帰ることを許された。 外国人が城中で酒肴を与えられたことはかつてなく、名誉なことだった。り:これ以前からオランダ人が江戸に捕らえられていて、エルセラックの参府は その問題の解決も兼ねていた訳ですが、かなり厚遇されてますよね。 エルセラックが酒肴でもてなされたってんならともかく、下っぱだもんな~。 もらった盃はかわらけですね。 オランダ人にとってはただの地味な土製の小皿にしか見えないだろうけど、 御下賜品だからな~。レ:まあ、燈籠はその価値に見合う働きはしたと言えるかもね。ズ:12月11日、謁見のために城へ行き、一室に案内されて呼ばれるまで待っていると、 奉行のほか牧野佐渡様、大目付築後殿(井上政重)が来て、燈籠が想像より立派なのに 驚いたと言い、早速故皇帝の墓所を飾るため日光に送られるであろうと言った。 拝謁にはエルセラック1人が呼ばれたが、将軍は黒い絹の上衣を着て頭には黒い頭巾を かぶり、立派な高い座に着いておられ、見たところ丈の低い痩せた人であった。 築後殿はカピタンよ、陛下に敬礼感謝せよと言い、終わってエルセラックの服装が 見えるようマンテルを開くことを命じた。しばらく座っていたあと、築後殿に外套を 引っ張られ、いざりながら退出し、控室に戻った。 捕らえられていたオランダ人達も解放されたし、築後殿や三郎左衛門殿は 外国人のうちではかつて朝鮮の大使にさえ与えられたことのない待遇を受けたと言って 祝福した。り:ははっ、やはりあの子の父。 内心は家光も綱吉みたいに色々やらせたかったんじゃないかな~。ズ:12月14日、カレルと水夫2人が燈籠解体のため城中に向かう。 解体にあたっては20名が注意して各片に記号を付け、 日光に送るために箱に納めたとのことだ。<今回の主な参考文献>『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳/岩波書店)『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)にほんブログ村