史跡探勝路20/瀧尾高徳水神社~えんでぃんぐ
瀧尾高徳水神社の境内。 亀とゆーよりスッポンて感じだけど、水に関係の深い生き物を狛犬代わりに置くところが水を司る神社らしい。この脇からさらに奥へとハイキングコースが延びているようだけど、今回はここで終了。時計を見るとちょうど16時。来た道をずんずん下り、東照宮の脇の道を歩いていた時、「なんか見覚えある光景だな」と思いながら通過しようとして、看板があったのに気がついて通り過ぎてからあわてて引き返しました。 【教旻僧都(きょうびんそうず)の墓 教旻は、勝道上人の従弟で、上人第一の高弟である、上人にしたがって来山し、ともに 苦行を積んで弘仁8年(817)上人の跡を継ぎ、日光山第二祖となった。大千度という 無言の行の創始者でもある。東照宮創建のおり、墓地の移転をしたが、教旻の墓も移そうと したところ、人夫がけがしたり、異変がおこった。そのため、教旻の墓だけが例外的に 現在の地に残されたと伝えられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)勝道さんの墓の隣に弟子の墓がありましたが、『おそらく当初から師のそばに葬られたのではなく、ここに勝道さんのお墓を移した際に一緒にしたんじゃないかと思われます』としたのは教旻さんのお墓がここに残っているからなのです。教旻さんのお墓があるのはこのへん。東照宮の本社にかなり近い場所です。現在の奥の院付近にはかつて勝道さんのお墓もあったので、山内でもっとも良い場所である東照宮の付近には、勝道さんの高弟たちのお墓が点在していたものと思われます。いやいや、行きにもこの道通ってるんだけどな・・・全然気づいてなくて素通りしちゃったんだ。ごめんなさい、教旻さん。墓の前までは行かれませんが、扉の格子の隙間から覗いたのがこちら↓。 幕府による一大公共工事とはいえ、実際現場で人足として立ち働いたのは日光の庶民だろうから、他の弟子たちの墓を移すのも内心イヤだったろうな。よお~っし、これで今回見たかったところは全部クリアしたな常行堂には行かれなかったけど、あれは大猷院の手前にあるからいつでも行くことができるしな。満足して輪王寺の脇を通りかかると、もう営業終了時刻で三仏堂前から観光客は姿を消していた↓。 人のいない輪王寺なんてなかなか見られるもんじゃない・・・休日の朝の霞が関とか、こーゆー閑散とした光景って好きなんだよね。日光に泊まろうと思ったことはないけど、たまには泊まって人のいない境内を歩くのもいいかもしれないな、と思った。最後に勝道さん(のおしり)↓。 がっしりと筋肉のついた肩とおしり・・・山岳修行について少し学び始めた後だけに、こういう体格の像にした理由が今ならよくわかる。勝道さんの前には、水盤がある。これまでよく見たことなかったけど、 【奉献 北白川宮殿下 御宝前 宇都宮市有志者中 明治三十年】とある。「北白川宮殿下」は北白川宮能久(よしひさ)親王で、最後の輪王寺宮・公現法親王のこと。この方も実に波乱の生涯で、台湾で戦病死された後遺骸は日本に運ばれ、日光山内に宮の墓がある。『宝ものがたり』には宮の死後日光に祀られる様子を描いた『北白川宮能久親王日光御分霊式行列図』という絵が載っており、明治29年に描かれたにもかかわらず古式ゆかしい行列がそこにある。「御分霊」とあるので宮の本墓は他にあるのかもしれないけど、宮の命日の5月28日には日光で毎年法要が行われるという。歴代輪王寺宮の中には寛永寺と日光輪王寺に墓を持っている方も多いので、日光は日光で歴代の宮の墓を建てて供養にあたっているのかもしれない。遠く徳川の世が過ぎても北白川宮の分霊の行列を眺める人々の絵を見て、江戸の民衆が「上野の宮様」を誇りとしたように、日光でも「輪王寺の宮様」を誇りに思い慕っていたのかもしれないと思った。東参道を通って山内を出ると、本宮滝があった↓。 ここではもう滝と呼べるほどの水量はなかったけど、遠く女峰山や赤薙山から下りて滝尾を通った水がここまで流れて大谷川へ流れ込んでいく。これまで歩いた道のことを考えると、ここではかなり水量調節がされているハズなので多くの水は暗渠を通って大谷川へ通されているのだろう。てことは、そういうシステムがなかった昔はもっと水が流れるさまが目に見えたハズで、水量が豊かゆえに苦労した時もあったろうけど、勝道さんがここを聖地と選んだ理由のひとつにこの山の湧水もあったろうという気がする。本宮滝のすぐ脇には、本宮神社への入口がある↓。 本宮神社へは今回初めて行ったのでこの石段を上がったことはないけど、これを上がると鳥居のところへ直接出られるらしい。振り返ると、大谷川の向こうには夕景が広がっていた。 紫雲(しうん)だ・・・勝道さんもこの上からこんな夕景を見たのだろう。勝道さんモードで行った今回を締めくくるにふさわしいうす紫の夕景をしばし眺めたあとで、大谷川を渡る。日光橋を渡ってすぐの場所にあるのが「あさや」さん。 わたくしはここの「豆乳ゆばラーメン」が好きで、いつも山内で冷え切った体を温めている。ここ数年はここで食事をしていないので今回は早めに山内を切り上げて久々に豆乳ゆばラーメンを食べていきたいと思っていたけど、もう時間的にムリだな。と思いながらあさやさんに近付いていくと、こんな看板が目に入った↓。 観光地にはこーゆー名前を付けたお店はよくあるけどね。この奥に別のお店があるのかとも思ったけど、道の奥を覗いてもそれらしきお店はなさそう・・・となると、わたくしがいつも寄っていた食堂は「天海」だったのか~ ちなみに、あさやさんの手前には天海もいます↓。 深沙王堂の前を通る国道120号線は、本宮滝の前にある神橋交差点を過ぎると国道119号線へと名を変える。その119号線の向こう側には、この男が立つ↓。 幕末から明治にかけて活躍した乾退助・・・のちの板垣退助です。天海と乾退助はともに日光山内を見つめており、国道をはさんでほぼ横並びに立っている。明治維新の時、東照宮はピンチに立たされた。歴史を考えれば当然のことでしょう。これが外国だったら真っ先に破却されるべき存在だもの。ここでは詳細は省きますが、旧幕軍が日光に立てこもったため、討伐軍のトップによっては東照宮もろとも徹底的に叩かれたかもしれない。が、その任にあたった乾退助が山内を保護する作戦を採ったため、山内は戦禍による被害を免れた。言ってみれば、日光の恩人。天海もまた日光を復興させた立役者なので、日光の恩人2人が山内を今も見守る形で山内入口に銅像が置かれている。 天海像の先にはこれがある↓。 【日光のおいしい水 磐裂(いわさく)霊水 1200余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が 神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい 水として定評がある。】 (現地解説板より)日光に土産物屋は多いけど、わたくしは極力長年お世話になっているあさやさんでみやげを買うようにしている。このお店がなくなったら困るので、営業協力です(笑)。今回はこんなものを見つけた↓。 「とちおとめ」を使ったカレー。栃木でもこんなものを始めたのか にほんブログ村