小早川茂平と西園寺家<古今著聞集より>
高山城シリーズで小早川第4代・茂平が字を知らないというウワサがあると書きまして、何を元に、どう書かれているのか知りたかったので、まずは橘成季(たちばなのなりすえ)がアヤシそうだと思い、彼の書いた「古今著聞集」を見てみました。したら!出てた!「古今著聞集」に!茂平が!!「古今著聞集」は鎌倉期、建長6年(1254)10月17日に成立した説話集。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。今昔物語集は誰しもが知ってると思いますが、実に色んな話が収められていて、わかりやすく読みやすい。古今著聞集は今回初めて少し読んでみたんだけど、なんてゆーのか・・・今昔物語集に比べると、お話として座りが悪いってゆーか、「えっ?これだけ?そんでどーしたの!?」みたいな~。つまり、書きっぱなしなのだ。橘成季については後で書きますが、「古今著聞集」の最後に成季自身によるあとがきがあり、成立の動機や過程が書かれている。成季という人は詩歌管弦に関心が高く、琵琶の名手である藤原孝時に師事し、また和歌ではあの藤原定家と並び称される藤原家隆に師事している。そうした事から、詩歌管弦の分野における優れた物語を「古今」・・・いにしえから成季の時代に至るまで幅広く集め、記録を遺したいというところから出発した。が、そのうちに本来の分野から飛び出してさまざまな内容へと興味が及び、諸家の収蔵する書物はもちろんのこと、成季自らあちこち出かけては話を集め、さらにはゆきずりの人にも取材するまでとなり、そうして集めた話は20巻約700話。めでたく古今著聞集の完成をみた建長6年10月17日には完成記念パーティーを開いたと自分で書いている。さて、それでは「古今著聞集」に茂平がどのように登場するのか見てみましょう。『古今著聞集』第721段より 「ある殿上人右府生秦頼方の進じたる都鳥を橘成季に預けらるる事」 後嵯峨上皇の随身である秦頼方(はたのよりかた)が都鳥をある殿上人に差し上げ、 その殿上人は都鳥を成季にお預けになった。 成季は何を食べさせたらいいのかも知らないし、虫などを取って わざわざ食べさせるのもめんどくさいので、動物などを飼うのが上手な 小田川美作守入道茂平に預けて世話をさせていた。 建長6年(1254)12月20日、節分の方違(かたたがえ)のために 後深草天皇が前相国・藤原実氏の富小路亭に行幸あそばして、翌日は丸1日 富小路亭でお過ごしになった。 実氏は茂平に預けていた都鳥を連れて来させて、天皇のご覧に入れた。 天皇から都鳥が返される時には、女房の少将の内侍(ないし)が紅色の薄い料紙に 歌を書き、都鳥に付けて返した。 春にあふ心は花の都鳥 のどけき御代のことや問わまし 実氏もまた奉書紙に歌を書いて同じく都鳥に結び付けた。 すみだ川すむとし聞きし宮こ鳥 けふは雲井のうへに見るかな このことを神祇の兼直宿禰が伝え聞いて、持ち主にせがんで都鳥を借りて返す時に 都鳥の芳名、昔万里の跡に聞く、徴禽奇體、今一見の望を遂ぐ。 畏みて之を余り悦ぶ、謹みて心緒を述ぶるのみ。(←原文は漢文) にごりなき御代にあひみるすみだ川 すみける鳥の名をたずねつゝ 前三河守卜部兼直上 と詠んだ。「・・・だから?」って言いたくなるでしょお~まっ、それはともかく。都鳥の世話を成季から押し付けられた「小田川美作守入道茂平」が、小早川茂平。なんで「小田川」?と思ったら、「田」の下の「十」が抜けてるんだね(笑)。でもこれが間違いなく茂平のことらしいです。茂平の生年は不明だけど、ウィキペディアでは没年は1264年となっている。まあ、すでにこの時出家してたようだし、茂平晩年の出来事のようです。この721段は古今著聞集の大トリの話で、このすぐ後には成季の跋文が入る。その跋文の中では確かに建長6年(1254)10月17日に完成祝賀会したよって書いてるのに、後深草天皇の行幸は建長6年12月20日とある。どうも、10月17日に一旦終わらせたものの、成季自身によって最後の721段が書き加えられたようなんだよね。つまり、成季が気まぐれを起こさなかったら、茂平は古今著聞集には登場しなかった。さてと、あいにく茂平の識字についてはここには書かれてませんでしたが、なかなか興味深い記事になっている。まずは、なんで茂平が都鳥を預けられることになったのか。実は、橘成季という人についてはあまり詳しいことはわかっていない。下級貴族ではあったようなんだけど。で、この721段を研究した石井進氏が「成季は西園寺家に仕えていたんじゃないか」と最初に指摘したんだそうな。小早川氏の領地・沼田(ぬた)荘のシステムについて「高山城(2)」に簡単に書きましたが、承久の乱後に沼田荘の領家職(りょうけしき)となったのが、西園寺公経(きんつね)。「きんつね」なんて変わった名前だから記憶に残ってる方もおられるかもしれませんが、この西園寺公経さんは、茂平に沼田川の干拓事業を許可した藤原公経さんと同じ人です。( 「高山城(4)」でおさらいください)第721段には公経さんは出てきません。が、こちらの系図をご覧ください↓。 721段に登場する前相国(さきのしょうこく)・実氏さんは、公経さんの子。つまり、後深草天皇は母方のジイ様んちへ方違に行った訳です。西園寺家は藤原氏の一門、だけどあまりぱっとしなかった。それを劇的に押し上げたのが、公経さん。公経さんは頼朝の姪を妻として、源氏との縁を深めた。この夫婦の間に生まれた長女が建久2年(1191)の生まれなので、そのちょっと前の縁組と思われる。さらには妻の姉妹が摂政・九条兼実の子に嫁いだことによって九条家とのつながりをゲットした。公経さんの縁戚関係を書いてるとキリがないのでここでやめますが(笑)、系図のように天皇家の外戚となるまでになった。鎌倉との縁が深かったために、承久の乱では鎌倉方に情報をリークして鎌倉方の素早い対応を可能にし、公経さんは幕府に大きな貢献をした。その一方で乱の収束にあたり、鎌倉方との調整をすすめ朝廷の立て直しに尽力した。その後は鎌倉への取り次ぎをする「関東申次」となり、政界での存在感を増してゆく。そして、その権勢を支えたのが莫大な経済力。下は西園寺家の荘園の分布図です。 東国は少なく、西国が圧倒的に多い。しかも、海側に偏っている。このうち、西園寺家、特に公経さんが執着したのが伊予のようで、かなりのゴリ押しでゲットした荘園もあったらしい。こういう特色はあまり他の公家には見られないらしく、西園寺家は海上交通に相当の関心を持っていたのではないかと網野善彦氏は指摘する。(「西園寺家とその所領」)もちろん、単なる交通じゃなく貿易につながっていく訳だと思うけどね。西園寺家の所領分布を見た時、のちに海を支配することになる小早川氏と姿がダブった。それから都鳥を茂平に預けたという話・・・まず、私は真っ先に茂平が沼田新荘で鷹の子を勝手につかまえたという相論の罪状を思い出した。茂平が京で「建長のムツゴロウ」の異名を取ってたかは知らないけど(笑)、西園寺家って鷹狩を家業としてるんだよねえ・・・まあ、家業としたのはもう少し後の時代のことかもしれないけど、でも公経さんも鷹の歌を詠んでいる。鷹と都鳥じゃ違うけど、ちょっと鳥を世話するくらいのノウハウは西園寺家にもあったんじゃないかと思うんだけど・・・鷹狩は武家のスポーツだから、もちろん小早川氏だけが鷹の飼育をしていた訳でもないんだけど、今回の記事を書くにあたって少し調べてみたら、色々な面でやたら西園寺家と小早川氏がカブってくる印象が私の中で強くなっていった。そして、調べていく中で少なからず驚いたのが「茂平は西園寺家に仕えていた」という記述が世間には結構あったこと。仕えていた?確かに、自然界からの収穫物なんかは地頭は一番最後で弱い立場だったけど・・・ただ、頼朝はあくまで既存の勢力基盤を犯す形での政策は進めなかった。西国にあらたに御家人が任じられたのは、いずれも平家没官領や承久の乱で院方から没収した土地。しかも、公経さんも承久の乱後に沼田荘の領家となっている。そして公経さんは幕府との縁が深い・・・現地での土地トラブルはあっても、案外沼田荘では他の新補地頭よりは領家と地頭はうまくやっていたのかもしれないな、と思った。もちろんそれは、在京していた茂平が直接領家である西園寺家に親しく仕えていた影響もあるのだろう。「仕えた」ってのは正しくはないとは思うんだけど、権勢を誇っていた公経さんとイチ御家人である茂平とではその立場は比べ物にならない。そうなると、やっぱり「仕えた」と表現するしかないよな~。恐らく、茂平が公経さんに沼田川の干拓事業を認められたのも、都鳥をちゃんと世話したとか、地道な努力が実ってのことなんだろう。で、西園寺家に仕えていたと思われる下級貴族の橘成季と沼田荘地頭職の茂平は同僚のような間柄であり、ゆえに都鳥を押しつけられたのではないかと世間では見られている。時代が下って南北朝あたりになると、さすがの西園寺家も下降線を辿る。一方の小早川氏は紆余曲折はありながらも、着実に勢力を伸ばしていった。しかし、今回の記事を書く中で、小早川氏の背後には西園寺家の影響というのは少なからずあるんじゃないかと思えてきた。西園寺家については色々と論文も出ているようなので、それらを勉強しつつ、気がついたことがあったらまた書きたいと思います。ここに書いた以外にも色々考えたことはあるんだけど、ちょっと1話じゃ収まらなかったわんにほんブログ村