間の必要性 ~イールさんと湯浅誠とウロコ先生~
本日は4月24日に書かれたイールさんのブログ記事(えんぴつけずりは手回しで~間の必要性~)に関連して私なりに考えたことをまとめてみます。 さて、そもそも「えんぴつけずりは手回しで」というブログ名と「歴史的な転換期の今もっとも大切なものを問いかけます」という副題がいったいどう結びつくのか?当初、私も不思議に思いました。 その疑問にはじめて答えてくれたのが上記のブログ記事だったのです。 ブログ主のイールさんは、手回しのえんぴつけずりを使いながら、自分自身に間を与えることができたこと(体験)を紹介し、「歴史的な転換期の今もっとも大切なものは、間であることを、再認識させていただきました」と述べておられます。 さて、それにしても、本ブログ記事の副題「~イールさんと湯浅誠とウロコ先生~」の方が不可解だ、と思われる方もいらっしゃると思いますが、鍵となる言葉(歴史的転換期、間の必要性)について私の関心とも絡めながら考えていくうちに、上記の副題が浮かんだのでした。 まず、歴史的転換期についてですが、 「今回の大震災(未曾有の複合災害)という自然や人工物からの挑戦」に対して社会としても個人としてもどのようにレスポンス(応答、応戦)できるのか、ということが主要な関心だったことを、4月30日の記事で(イール夫さんは)述べていらっしゃいます。 〔( )は引用者〕 このような「問題」に対する応答の試みの一つを拙ブログでも紹介いたしました(東日本大震災から2ヶ月 いま、私たちにできること)。このシンポジウムの主催者は、次のように述べています。 「すでに着手され、これから長い時間をかけて築かれていく復興過程の中で、私たちが目指すべきものは何だろうか。私にとってそれは貧困や自殺に追い込まれない社会であり、一人ひとりの力が発揮される条件を整える包摂型の社会(強い社会『反貧困』より)である。今まで求めてきたものと別のものではない。」 〔湯浅誠 : ( )は引用者〕 「非正規労働者の無権利状態、失業者が生活保護を受けられない状況、『構造改革』によって農業・中小企業が破壊されている状況・・・こうしたことは、3・11以前から連続していて、それが3・11以後に、むしろ、さらに拡大させられているのではないか? いま、新しい運動を考えるときには、3・11以前から連続する運動課題と3・11以後の状況とをつなげることが必要なのではないだろうか?」 (河添 誠) まさに未曾有の複合災害に対する現実的な対応を即座に進めていくと同時に、 「一人ひとりの力が発揮される条件を整える包摂型の社会」の建設を急ぐこと、そのような湯浅・川添の問題意識に私は強い共感を覚えます。 そして、湯浅らの言う「包摂型の社会」「強い社会」を創っていくためにも、市民社会における議論(合意形成)のルールが大切になってくる わけですが、イールさんの強調された"間"と湯浅の強調する"溜め"には大切な共通点があるように思われるのです。〔ここで、以前の記事の一部を再掲します〕 「『どんなに忙しくて、切迫していても背中のあたりがゆったりしているのがいい』といわれて、深く納得したことがあった。」 「活動しているとひどい事例にたくさん出会う。ひどいと感じて、役所や社会に対して怒りがわいてくることがある。その怒りにまかせて、活動し、発言すると、どうしても言動に人格がどーんと乗っかってしまう。」(『どんとこい、貧困!』264頁) 「でも、同じ状況下でも、どこかでそれが自分の全部じゃないという留保がかかっている人がいる。『私もいいかげんですけどね。へへ』っていうところが残ってる。それを比喩でいうと『背中のあたりがゆったりしている』ということになるんだろうと思う。」 「それは真剣じゃない、ということとは違う。真剣だし、大まじめだ。でも『こうだろう』と意見を言いながら、でもどこかで『そうじゃない意見もあるでしょうね』ともう一歩引いた視点をもっている。我を忘れてはいない。反対意見を受け入れる余地(溜め)がある。」 このような余地(溜め)こそが、討議民主主義を成り立たせる上で極めて重要であると湯浅は考えて、次のように述べます。 「その"溜め"が『あなたはそう言うけれど、こういう面もあるんじゃないですか』という別の意見を引き出していく。議論が成り立つ。黙らせない。そして、その人の別の意見を引き出すことが説得のチャンス、問題を共有できるチャンスとなる。」(265頁)(・・・) 「自分の方が詳しいテーマで、人を黙らせることはある意味簡単だ。(・・・)黙らせること。それが自己責任論の目的だった。私たちの目的は逆だ。しゃべってもらうこと。ものを言える社会にしていくこと。」(266~267頁) そして、湯浅は市民社会のルールについて次のようにまとめ問題提起をしますが、これこそウロコ先生が強く共感されたものだったのです。 (「市民社会のルール」という言葉、いつも忘れないようにしたいと思います、と・・・)1、自分の意見に自分の人格を埋没させない。真剣に意見を主張しながら、でもどこかで「反論をどうぞ」という余地("溜め")を残しておく。2、意見を交わす相手の"溜め"を増やす。一方的に説き伏せても、相手の"溜め"は増えない。"溜め"が増えれば関心が広がる。それが、自分が大切にしているテーマに対する討論につながる。 イールさんの強調された「間の必要性」は、 湯浅のいう「溜め」 (こちらは少し広い概念です)と深くかかわる問題提起だと私は感じたのです。5月4日追記 : (単独の記事としては)「具体的にどうすればいいと言っているのかわからない」という指摘もいただきました。よろしければコメント欄のdolceさんへの応答(2つ目)と、湯浅誠の講演をご参照いただければ、と思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)