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カテゴリ:心
「世界平和ですねぇ。」
先日催された空手の集まりで、私が武術の先に目指すところを尋ねられ、咄嗟に口を突いて出た。 キョトンとする質問者。自分で言っておきながら、何だかおかしくて「あはは」と笑い出す私。大言を吐いた照れもあったかもしれぬ。 前回「気立て」の話をした。 軸が立っていれば、余裕が現れ、人を立てることもできる、と。 無用にぶつからない。敵をつくることもなく、争いも起こらない。殺し尽くすこともない。 逆に攻撃的、圧力的で、敵をつくってしまうのは、軸が今一つ、自信が今一つで、恐れ、不安に囚われ、揺るがされるからである。その内なる揺れを必死に覆い隠そうと、外を固めて、大きそうに、強そうに、恐そうに装う(若そうに、とか、美しそうに、なんかも結局同じだ)。 武道を勘違いしていた頃の私は、それがひどくて、想い返すと恥ずかしくなるほどで。今ももちろん、そういう部分は残っていて、時々顔を出す。自覚し、反省できるほどにはなった、と想う。 認識できているかどうかは別にして、誰しもそういうところはあるようだ。 何かに頼り、依存して、身の周り、外を固めるのではなく。自立に向かって、生きること(稼ぐことではない)をしっかりやって、内なる軸を育む。 そうすれば、 ウィルスや細菌に囚われ、いたずらに脅え、牛やら鳥やらを殺し尽くす必要はなくなる。 畑では、虫や草に囚われ、いたずらに憤り、殺し尽くす必要はなくなる。 病に囚われ、いたずらに恐れ、誤った治療、予防で、自らのからだを殺す必要はなくなる。 男女で、家族で、学校で、社会で、世界で、人同士がいたずらに殺しあう必要はなくなる。 軸を育み、やわらか、しなやかな自然体を養うこと。 現代の諸問題を解決し、世界平和にたどり着く、一つの鍵だと考えている。 武道はその理に至る一つの道であるが、別段武道である必要はまったくない。頼らずしっかり生きれば、軸は自ずと育まれる。特別なことをしなくとも、しっかり生きて軸を育んでいる人は、嫁を始め身近にいる。むしろ、武道などに導かれるのは、よほど業が深い証拠かもしれない。 そんなわけで、「気立て」のような言葉が日本に甦ってくることを祈り、日々軸を練り上げる毎日です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.16 21:59:59
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