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灯台

灯台

じゃあ、教えてよ

 わたしは昨日、五歳になる娘を叱っていた。900mlPETのレモンジュースが横揺≪ゆ≫れ、ほうりだされた夕食の支度。うんときつく叱っているというのに、娘は頬っぺたをリスみたいにふくらませて、チアガール風のスカートの裾をうんしょこんしょとさわり、床に視点を回転ブラシみたいにさまよわせ、いっこうに反省している様子というのが見えない。足もとにもしトミカでもあったなら、回転パーキングでエレベーターに乗る。


 などと、夫の幼児退行性の趣味もしくは大人の友だち的コレクションに振り回されている場合ではない。ああ、虫も殺せない顔をして平気で蟻んころを水責めにしてみせた娘よ、蝉のぬけがらに蝶の死骸をつっこむ娘よ。ああ、わたしも子供時代よく、反省している顔付きじゃないと両親親戚いちどうにからかわれたものだが、眼の前で再現VTRされる段になると、なにかいやな因果をかんじてしまう。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。べつに自分がしていることを正当化するつもりはさらさらないが、その日は朝からこの娘は本当にうっとうしかった。爪のなかにはいった棘をとりだす労力くらい、はたまた、ちょこまかとうごきまわるゴキブリが黒光りするくらい鬱陶しい。ぜんぜん関係ないが、ゴキブリほいほいというネーミングは流行語にノミネートされたのだろうか?


 などと、情報化社会だの数字社会だのに躍る主婦している場合ではない。ああ、そうさ、この娘はいつもお悧巧≪りこう≫さんのふりして、テディーベアだのを抱き、麦藁帽子をかむり、近所の人たちにはあめ玉を配っているくせに、今日のこいつときたら朝ごはん中に、再三再四におよんで注意したのに、それでもわたしの携帯電話をいじり、じゃあ取り上げてやると大人げなくべろべろばあしたら、その腹いせとばかりこいつ部屋をよごしやがった。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。挙げ句がわたしのエルメスの香水ナイルの庭100ml をまきちらかした。ビオレの毛穴すっきりパック鼻用の白色タイプ10枚入を鼻紙にした。そしてきわめつけが、シャネルのルージュアリュールという口紅をつかってわたしの化粧台の鏡に、いけないお母さん、というタイトルをつけて絵をかきかき遊んでいやがった。わたしはこれでぷっつんキレた。


 などと、夜露死苦だの、愛羅武勇だのと不良ヤンキー暴走族している場合ではないのだが、ちょうど、そんな咆哮が町のどこかしらから聞えたのだ。しかし、大人としてはここで子供のなにかしらのサインと思うべきなのだが、かあっと沸騰する瞬間湯沸かし器。あんたって子はお風呂だってひとりで入れないくせに、夜のトイレだって行けないくせに、パジャマだってそうでしょ、おねしょだってするくせに、領分もわきまえないで。


 などと、揚げ足をとりまくっていざじぶんの子供時代を棚に上げて、倉庫に、蔵にしまったまんま、錠をおろしてしまうのは忍びない。しかしお母さんなんて大嫌いッとさいごに涙目でほろほろ、反旗をかかげられると、良心だとか親だとかいうムズ痒いもの、それも妙にちくりちくりしやがるものがやってきてわたしは、なんだか、いたたまれない気持ちになってきてしまった。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。あなたは桃太郎のようにどんぶらこっこと流れてきた子なの、捨て子なのよ、と気がつくとわけのわからないことを言っていた。あれは新聞配達の姿もまだないまま、ドア・ハンドルをにぎりしめ、サイド・ブレーキをゆるめていた時だった。わたしは工事標識板をとりだして、ゴム長をはいて、脱糞まみれの地下排水道へとカイチューデントーかたてに降りて行った。


 などと、別の話に切り替えて誤魔化すのは狡猾すぎる。さてはしどろもどろとする場面なのだが、クールな娘なりに、こういう宿命的な攻撃はくるものがあったらしく何も言えずに押し黙った。ざまあみやがれ、と思いながら、心の片隅で、おとなってどうしてこうなんだろうか、と我ながら情けなくおもう。そして数秒間、むすめのかおをみながら、わたしがむすめだったころの俤≪おもかげ≫をたずねて、わたしはわたしの鏡のなかで目をつむる。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。だが、さすがに我が娘である。カッパがモップつけたような髪型してるくせに、と娘ながらじつに的をえたことを、ぼそりと去り際にいった。この前は余計な買い物ばっかりしおって、とお父様しいてはあたしの旦那≪ダーリン≫のお真似をなされたキューカンチョー。そしてその前は、やあね、家事しか出来ない女って、と主婦にいっちゃいけないひと言だった。


 などと、腹立ちをおさえきれないわけなどあるまい、たったそれだけのことに、なぜ、わたしの怒髪天がというような時間はもちろんなかった。いきなりレッドゾーンに突入し、あたかも大気圏突入した如く、かあっときてしまったわたしは、待ちなさいよと娘を呼びとめ頬をぶったたいていた。ああ、カリスマ二枚目美容師がわるいのだ。お嬢さま、これからの流行には敏感でなくてはいけません。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。ぶったわね、よくもやったわね、と娘は見る見るうちに涙をぽろぽろとこぼして、大人って狡猾≪ずる≫い、口で勝てなくなったらすぐにボーリョクに打って出るのね、とじっさい言い返せない体たらくなので、あんたなんか段ボールの箱の子なのよ、とまだわたしは子供っぽいことを言う。段ボールの子はね、犬や猫みたいに棄てられたって文句はいえないのよ。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。従順な飼い犬ならまだしも、こちらは人間である。そんなことを言われて、傷付かないわけがない。娘は何も言わずに、しかし静かに拳をぎゅうっとにぎりしめて、マネキンみたいにカクカクぴいんとして、必死で平静をよそおいながら、たったひとりの女であるという暗黙の了解のもと、じぶんの部屋へと逞ましく、いさましく戻って行った。


 などと、トレンディードラマみたいに見惚れている余裕とてなく、わたしはあまりの不甲斐なさに自己嫌悪におちいる。いっそ車輪でごっとんごっとん骨ごと砕かれたいとおもう。漬物石でずがごおんと頭蓋骨をかち割られたいとおもう。もちろん夕食をつくっても、娘はいっこうに降りてこない。泣き疲れてねむっているか、押入れに閉じこもっているか、だ。TVのえらそうな先生がたがいう。子供には子供の世界があるのです。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。わたしは娘の部屋をこんこんと叩≪の≫っくして、お母さんです、入ります、といって突如≪いきなり≫がちゃり開けるとクッションをぶん投げられた。なにすんだこいつ、とむくむく入道雲のごとき忿恚≪いかり≫がわきあがったが、すぐに、今日はわたしとお出掛けしてくれるって言ったじゃない、約束やぶったら何されたってしょうがないって言ったじゃない。


 などという、理屈がとおると思ったら大間違いよ、とあたしは速攻で娘の首根っこをつかまえ、愛≪う≫い奴め、それならば何故そういわぬのか、とわたしはひな鳥に餌をあたえる親のように夢中で頬っぺたにキスをする。こんなことで済んでいるから子供だ。娘はふっくらと肥えていて、いつもTシャツ姿で、前掛けひとつしない、じぶんのきゃしゃな身体にふれる母親のぬくもりをかんじる。それがあたたかくて、うれしかった。


 お前もうたってごらん、そしてこれは誰のことをうたったものか教えてくれ。それは花のようにひらき、眼のようにひらき、みずみずと両手をさしあげるようにのびてゆく。指尖≪ゆびさき≫からのびてくる、したたりは、幸福としてしずかに瞼をとじさせる。夕餉の買物籠を提げた女や、配達の若者、行きかう車の後尾燈≪テールランプ≫。だれもが、すこしだけメルヒェンする、ときめきにみちた夕焼けはうつくしく、さあ、だれが、両腕をひろげていたのだろうか?


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