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カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席 第237席
勇壮な神事(祭り)を見に来た 観光客のようだった、といえば わかりやすいかも知れない。 これは客席での国井を指す。 言ってみれば、祭りとは 毎年(でもないが)行われる。 15年も生きていれば、 嫌でも「ショー」としての 構造は把握してしまう。 把握しているから『お約束』が 構築されてゆく。 (ここで歴史的バックボーンに入ると、 『祭り』も全く別の顔を持っていることに 気づく面白さもあるのだが、 ここではさておく) けれど、遠くから聞こえる祭り囃子を 「騒音だ」と怒る人は少ない。 その音に なにかしらの過去を視るからだろう。 自身が絡むと、人は甘くなるものだ。 みているものは何だろうか? 人によっては 一緒に歩いた人の背中かもしれない。 歩けなかった相手の面影かもしれない。 いやいや、 ここはやっぱり こげたソースの匂いかもしれない。 また、これらを実体験として 経験していなくても 「なんか起こるんちゃうか」と そわそわどきどきできるのも 人間の能力だ。 この場合は過去ではなく 『未来』を視ているのだろう。 それは、人さまざまだ。 さまざまなのだが、 観察していると、 おおよそのアウトラインがみえてくる。 なぜならすべてが「人によるもの」だからだ。 人間そのものの本質が変化しない限り、 どんなものでもこの 『アウトライン』は浮かび上がる。 これが『お約束』といえるものだと 国井は考えている(半分嘘だけど) 普遍、といってしまっても良いかもしれない。 だが、エンターティメントは 神事(祭り)とは違う。 仕事で作られた「商品」であるからだ。 これは悪い意味などではない。 商品ゆえに「狙う場所」が 明確でなければならない。 これだけおおくの商品に 溢れているのだから、 「まったく新しいもの」というのは ありえない。 あったとしても、 それは大衆には受け入れられない。 受けない、のではなく、 実質は「受け入れられない」のほうが おそらく、正しい。 なのでここで 「商品としての目的」が作用する。 細部にわたる 『需要はなんなのか』というものだ。 これを探し出す、または ぴたりと一致させるというのも 極めて困難。 多くの人に届かせようと考えるために 雰囲気が似た作りのものが 多くなるのはこのためだ。 これはアニメや漫画だけの 話をしているのではない。 しかし、こういった状況だからこそ、 作り手のセンスが見えるようになる。 クリアしなければならない ハードルは皆、同じなのだ。 同じであるからこそ、 「違う部分」が際立つ。 際立てようと思ってもできるものではない。 これが『才能』であり、 それを高めるための 鍛錬された『技術』だと 国井は考えている。 それらが存在するから、 同じハードルを クリアしているのにも関わらず、 『違い』が際立つのだ。 これが作家性だ。 相対ではないが、 同時期だと言っていいだろう 劇場公開作品がいくつかあった。 国井は観たとき、 全作品「ずいぶん基本に忠実だな」というのが 偽らざる感想だった。 基本、というのは原作、というのも含める。 むろん、これは悪い意味ではない。 上記した通り 「ヒットを狙う」のだから、オーソドックスに なってゆくのは当たり前なのだ。 だからこそ、はっきりと おのおのの作品の 方向性の違いがみえてくる。 無論、『宇宙ショーへようこそ』も この例に漏れない。 『エンターティメント』の 言葉をどの方向に向けているのか、だ。 観劇した人はわかるだろう。 どれもすばらしいアニメだった。いや、マジで。 そんな、 超強敵(とも、とは読まない)が 公開されているなかで、 我らが舛成。 我らが倉田。 そして映画を観たのだ。 やっぱり舛成。 やっぱり倉田。 にじみ出ている。 これが作家性なのだと思う。 過去の作品を楽しんでいる人はなおさらだろう。 これが魅力、と呼ぶべきものかもしれない。 この作品をみて、 世界で一番「……やるな。おヌシ」と 思うのは宮崎駿監督ではないだろうか? 少なくとも国井はそう感じた。 頭の中ではアムロと戦った時の ランバ・ラルの声が響いていたといえば わかるだろうか?。(なんのこっちゃ) …と、書けば 『宇宙ショーへようこそ!』の 国井視点の全体像が おぼろげに見える筈だ(みえない?) 大人は疲れたときに観るといい。 忙殺されている中で、 きっとなにか取り戻せるだろう。 それはとても暖かいものだ。 そんな映画。 このあたりがマスナリズム。 もちろん、熱いものある。 このへんはクラタイズム。 「やさしくてたのしくてかっこいい」が 前編にわたり、あふれている。 だから会場でも暖かい涙もあふれる。 いい映画だ。 ぜひお子さんと観に行ってください。 いない人はAIRドウタ、AIRサンづれで。 子供も楽しめるはずだと感じるのだから、 いわゆるアニメオタクでない友人がいる人は これをまず薦めよう。 非オタな彼女彼氏でも問題ない。 なにしろ『笑いが上品』だ。 これが素晴らしい。 そして向こう側の人には 気付かれないレベル(ここも重要!)で 振りまかれている『萌』もある。 「もー、ぼくはなつきちゃんがたまりません」 と簡単に声には できないほど(あ、言っちゃってる) 徹頭徹尾上品だ。 だから二次元彼岸への洗脳序曲として、 うってつけ。 『宇宙ショーへようこそ』については また書きまショー。(駄洒落!) くどいように喋る作品については 面白いと感じている作品だったということが 一番であり、絶対の理由だけれど、 「継続していないとすぐに忘れる」 というのも現在の市場構成のファクタとして 無視できないものになったと考えているからだ。 すばらしいものは埋もれても、 必ず発掘されて評価を受けるのだと 信じたいが、 作り手はいまを生きている。 だから、 応援する、などと大きなことはいえないが、 声援をあげるくらいのことは、 こんな自分にだって、できるだろう。 ただ、上品な声で あげたいものだ…… けれど…どうかな。 だって、なつきちゃん、 タイプなんだもん。国井の!(どこが上品?) 『かみちゅ!』から4年。 舛成カントク、いったい何をしているのだと、 やきもきしていたが、 なんと、 こんなすごい核弾頭をつくっていたのだ。 脱帽を超えて、脱毛。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.04.02 18:35:25
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