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2012年06月05日
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さて、思い出話を続けます。

学年が代わる時になりますと、
なんと、
教官同士のイザコザの末に、
我々の下の代が研究室に入ってこないという事態になってしまいまして(汗)

結果、5年生にあがっても、仕事は続くことになりました。

この時に、もうひとりの同期が、ほかの研究室から移動してきまして、
私たちの代は4人になりました。
新しく入ってきた彼は、ほかのひとのようなルーズさはなかったんですが、
厄介な持病があり(メニエル症候群ってやつです)
これまた学校に出てこられない状況が頻発する人でした。
この翌年、6年生の頃が、彼の病気は一番悪かったのではないでしょうか?
にも関わらず、彼は我々の代の首席だったりするんですが。

それはともかくとして。

この先は、お食事中の方にはご遠慮していただいた方がいいと
思われること書いたので、白文字にしておきます^^;
ご興味のある方は、ドラッグで反転してお読みください。

この頃だと思いますが、
私は大学1年の初冬くらいから猫を飼ってたんですが、
(プロフィールの顔写真に設定してある猫です)
アパートの大家さんから、「猫砂をトイレに流さないで」といわれました。
(猫飼うのOKしてくれてたんですよ、この大家さん)
アパートのトイレ、汲み取りの簡易水洗式だったんですが、
(ぼっとんではなく、一応水は流すけど、下に溜める仕組みになっている)
汲み取りの業者が入っても、私のところが、
バキュームが不完全という状態になったそうで。
・・・で、私、猫砂をトイレに流したりはしていなかったんです。

このときに大家さんが猫砂と勘違いしてくれて
ばれずに済んで、助かったという感じなのですが、
この頃私が食べ吐きしていたのは主に食パンだったので、
で、1食に2~3斤くらいは食べるようになっていましたので、
要するに、トイレの便槽が、
私の吐いた食パンで埋まってしまったんです><

すみませんと謝りつつ、すでに常習化していた3食の過食嘔吐、
どうしたものかと悩んだ挙句に、ザルを1個犠牲にしてその中に吐き出し、
ある程度水分を抜いた状態でそれをまだ許可されていた黒いごみ袋に溜めて
バスルームに保管し、ごみの日に出すという手をとりました。
その結果、週に2回のごみの日に、常に2~3個はごみ袋を出すようになりました。

アパートの入り口にある台所の流しがそんな状態で、
当然友人などは絶対に呼べなくなりました。

1度、突然親が来たときには、マジ焦りました^^;
なんとか隠し切りました。

6年生の夏ぐらいになって、トイレが水洗に変わったんですが、
周辺のアパートはまだまだ汲み取り(簡易水洗)のところが大半でしたので、
大家さんに余計な出費をさせてしまったと深く反省するも、
どうしようもない状況でした。

反転終了。

ついでに、食べるものを、パンよりは水分を抜きやすいお米に変更しました。
週に10kgのお米を消費するようになりました。
かの地では、土日のみ営業する格安のスーパーがありまして、
そこで調達するのです。
なんとかその範囲で収めるようにしたといった方が正しいですかね。
ゴハンのお供はバターしょうゆでしたが、
そのうちバターをマーガリンに格下げしました。

経済状況もどんどん逼迫してきました。
仕送りのほか、車が必要な地域でしたので、
車を維持するのに必要なお金は家庭教師のバイトで賄っていたのですが、
そちらにも手をつけなければならない状況に追い込まれることもたびたび。
親に気取られるわけにはいきませんし。

こういう状況下で、さすがに自分が正常だとは思えなくなっていたので、
どうしたものかと悩み、本屋などで摂食障害の本を探しては立ち読みしましたが、
その頃の摂食障害の本には、ほとんど
「一人暮らしをすれば治る」的なことが書かれてあり・・・。

一人暮らしでなってしまった場合はどうすればいいんだ><
と、ますます困惑の度合いを深めることになりました。

ちなみに、この頃の体重は、42キロくらいだったかな?
もちろん吐くたびに測っていました。
大学1年の頃に最大47キロになったので、それよりは痩せたわけですが、
頑丈な私は、体重の変動幅も非常に少なく、
この期に及んでも、なかなかそれ以下にはならなかったのです。
何かショックなことがあったりしたときに、
一気に2キロとか落ちる以外は、現状維持が精一杯でした。
この程度の体重では、病気と認めてもらえないだろうなとも思っていました。

余談ですが、私は、仮に具合が悪くても
医者になかなか病気と認めてもらえないってことが多かったのです。
高校生の頃に涙と鼻水でひどい状況になったけども、
花粉症も診断してもらえなかったし、
風邪とかで40度の熱が出て、
這うようにして行った保健管理センターの医師には
薬は飲まないで寝ている方がいいなどと諭されて帰されるみたいな^^;
そのせいで、数学のテストの単位落としたし(汗)

かの地では、精神科がどこにあるのかも知らなかったし、
何より通うお金がなかった。
保険証とかの使用履歴などから親にばれるかもとも思ったので、
ますます行けなかったのです。
大学の保健管理センターなどは思いつきもしなく、
大学の広い敷地内に建物が分散されていることもあって、
足も向きませんでした。
実は精神系の相談コーナーなんかもあったんですけどね。
それに気がついたのは、卒業間際でした。
ウィンドゥズ95が発売されて、
インターネットなどが使えるようになったのもこのころなんですが、
それはうちの大学では先進的な一部の研究室だけでの話であって、
うちの研究室に導入されたのは確か翌年まで待つ必要があったかな。
私はパソコン、持ってなかったですしね。

そのときに、大学の掲示板に、
摂食障害者の集まりの案内が貼り出されました。
しかも、無料です。
思わず飛びつきました。

ただ、私がその掲示を見ていたすぐ横で、クラスメイトが
「摂食障害か~。そんな人いるのかな」
なんて言っていたのが、今でも耳から離れません。

なので、メモを取るにも、誰もいないときを見計らう必要がありました。
さらに、会場は大学からかなり離れたところであったため、
探すのに苦労しました。
携帯電話は発売されていたと思ったけど、確かまだかの地は圏外だったし(爆)
GPSだのカーナビだのなんて、まだまだありませんでしたから。

それでもなんとか見つけて飛び込みました。
会場がキリスト教の教会だったので、
キリスト教嫌いとしては躊躇もなくはなかったのですが^^;

そこは、かの地唯一の精神科の看護婦長(まだ看護師とは言ってなかったな)さんが
中心となり、時々他の看護婦さんや医師も参加する自助グループでした。
集まるメンバーはだいたい決まっていましたが、
看護婦さんや医師が1~2人に患者側は多くても3人くらい、といったような感じ。
ちょうどその頃に、東京などでNAVAという摂食障害者の自助グループの
さきがけみたいなのが発足したところで、
それを導入したいという病院のボランティア的な取り組みでした。
心配した大学の学生はほかにひとりもいなくて、
主にその精神科に通っている患者さんばかりで、非常に安心しました。

ここで初めて、自分の状況を口に出すことができ、
泣くことができたばかりか、
笑い飛ばすことまでできるようになりました。
吐きすぎて汲み取りトイレを埋めてしまったのも、
私1人ではないことも分かりました。

そこには、その後卒業するまで、よほどのことがない限り、
ほぼ毎週通いました。
非常に助けられました。
私は話を聞いてもらうことが重要なんだと思いました。
この頃は、摂食障害に投薬という手段があるなんて、思ってなかったし、
今でも、摂食障害に投薬は補助手段に過ぎないと思っています。
(一応、パキシルとか出すのは通常の処方みたいです)

ただまあ、おかげで心は軽くなったけれど、
症状は相変わらずでした。

研究室での状況もほとんど変わらなくて、
ただ、実家で同居していた祖父が悪性リンパ腫で入院し、
ほぼ回復が絶望的な状況になったため、
2週に1度くらいは帰省する状態になっていました。
ので、11月末に祖父が亡くなるまでは、
土日の仕事は代わってもらっていました。

卒論のテーマが具体的に決まったのも、5年生の頃でした。
同じ研究室の他のメンバーより早かったのですが、
その分心理的な負担は増えました。
実験が、なかなかうまくいかなかったんです。
結局、5年生の間にやった分は、データとして残せませんでした。
仕組みの理解もなかなかできなかったし、
授業後に実験を始めると、帰宅は10時とかになってしまうことや、
犬の妊娠を扱ったために、
実験に供することのできる動物(犬)の準備もなかなか進まないし、
生まれた子犬もむげに殺すなどできませんから、
(先生は殺せって言ったけど)
その行き先も探さなきゃならないなどなど、
難題がどんどん降りかかってきて、
精神的にホントに疲労困憊状況だったなと、今では思います。

そしてまた、この頃になると、自分と他の研究室メンバーとの実力の差を
強烈に感じるようになりました。

一応私は真面目にやっていました。
そこを評価してくれて、先生も早く卒論テーマをくれたわけですが、
気がつくと私は、他の人に抜かされていました。
知識もさることながら、採血や点滴の処置などといった技術面、
および、手術時などでの肝の据わり方などなど、
そういった面が明らかに私は劣っていました。

それに気がついたとき、私はパニックに陥りました。

そしてまた、6年生になると授業がなくなって、
卒論の実験・研究のみに時間を使うようなカリキュラムになっていたんですが、
なぜか卒業するはずの上の代3人のうち2人が卒業せずに残っており^^;
下の代はまたしても入ってきませんでしたので、
さすがに先輩には上申して、研究室の仕事を分担してもらうようにしましたが、
子どものいる1人は卒論自体は仕上がっていたためにまったく来なくなりました。
もう1人の先輩および、あれほど来たり来なかったりだった同期の1人は、
診療に興味を強く持つようになったようで、
午前中の診療のある時間には顔を出すようになりました。
本来、6年生はあまり診療にかかわらないんですが、
私は将来の希望が犬猫の診療だったので、参加していました。
彼らも同じようにしたわけです。

でも、午後は相変わらずいない。
私は実験があったので来ていましたけれど、
卒論は彼らにもあったわけなので、どうやっていたのやらよく分かりません。
最終的にはちゃんと卒論発表はして卒業したので、
なにかしらやってはいたみたいですけどね。
聞くところによると、動物病院に実習に駆け回っていたようです。

要するに、要領がいいんですよね、彼らは。

で、私は、おそろしく要領が悪い。

まあ、先輩の方は、ものすごく診療の腕が立つ人だったのですが、
就職先でうまくいかなくなったようで、
今は牛馬の公務員業界で働いているようなので、
人生って分からんなとも思いますけども^^;
同期の方は、早々に動物病院開業して、立派にやってるようです。

今でもものすごい敗北感を感じます。




さらに続きます。





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最終更新日  2012年06月05日 22時16分14秒
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