4475683 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

殿上人日記

殿上人日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | カテゴリ未分類 | 懸賞 | 東京の旅 | 行事、地域 | 家族 | 滋賀、奈良の旅 | グルメ | 四季の移ろい | スポーツ | 馬籠より | 韓国旅行 | 中津川より | 恵那より | 美濃の旅 | 愛知、三重の旅 | 長野、山梨の旅 | 静岡の旅 | 京都の旅 | 大阪、兵庫、岡山の旅 | ヒューマン | 旅のいろいろ | 喫茶 | 菓子 | パソコン、電化品、車 | ヨーロッパ、ハワイ旅行 | テレビ、映画、音楽 | 歴史、伝統 | 買い物、主婦業 | 芸術、文化 | 日々の暮らし | ニュース、時事 | ペット、動物 | 花、植物 | 飛騨の旅 | 自然 | 子ども | 神奈川の旅 | 温泉 | 名古屋より | ブログ、リンクス、ネット | 中日ドラゴンズ | 木曽より | 夕焼け | 食べ物いろいろ | 行楽、遊び
2012年12月06日
XML
カテゴリ:旅のいろいろ



下手すりゃ全部を歩きかねない旦那を、この後の観光の
行程に差支えると思って、中途にある「天橋立神社」まで
行ってみようと納得させて、まずはてくてくと天橋立を
歩きだした

日本海に面した宮津湾と、内海である阿蘇海とを隔てた
湾口砂州である天橋立は、幅が20~170メートル程で
全長が3.6キロあるメートルあるそうだ




2万年前には宮津湾が陸地化していたそうだが、氷河期が
終わり海面が上昇し、2~3千年前の地震によって大量に
流出した土砂が海上に姿をみせ始め、宮津湾の西側沿岸流で
砂礫が運ばれ、天橋立西側の野田川の流れによる阿蘇海の
海流にぶつかり、砂礫が堆積をしてつくられた




「丹後国風土記」によれば、伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が
天に通う為にハシゴを立てた「天の橋立」が、大神が寝て
いる間に倒れ、今の姿になったとも伝えられている

古くより優れた景勝地とされ、日本三景、日本の特別名勝一覧
日本の地質百選、日本三大松原、美しい日本の歩きたくなるみち
500選にも選ばれている


               

誰もが学生時代に習ったであろう平安時代の歌集、百人一首に
おいても小式部内侍が

  大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立

と、母親の和泉式部(夫の赴任先で天橋立のある丹後国にいた)を
思ってうたを詠んだ(踏みと、文)




そして実際に丹後にいた和泉式部も、天橋立に湧く「磯清水」を
題材にしたうたを残した

  橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし

ここでの君とは、一説によれば都に残した娘の小式部内侍では
ないかとも


               

両側が海にもかかわらず、砂嘴にある井戸からは飲んでも塩分を
感じない不思議な名水「磯清水」があって、国の名水百選にも
指定をされている




そんな清水の井戸のすぐ脇には、天橋立神社(橋立明神)があり
豊受大神、大川大明神、八大龍王(海神)が祀られているのだが
かつては近海を荒らしていた悪竜が、文殊菩薩によって改心をし
善龍となり、後に八大竜王としてここに祀られたものであるとか


               

そして、海軍思想普及の為に大正時代に海軍大臣より下付された
という「大砲」がでーんと置かれていた。なんでも軍艦「春日」に
搭載されていたものだそうだ




江戸期の日本の俳人で画家としても名高い与謝蕪村(よさぶそん)は
大阪の出身であるが、その母親は天橋立のある丹後与謝の出身とも
言われており、蕪村自身も近くの宮津の見性寺に3年間程滞在を
していたそうだ

      はし立や 松は月日の こぼれ種
  



「明星」を創刊し、北原白秋、吉井勇、石川啄木。そして妻の晶子を
見出した、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした与謝野寛自身は
京都の生まれであるが、その父親は丹後与謝加悦の出身である事から
与謝野を名乗っていたそうだ




そんな事もあって与謝野夫妻は、天橋立に度々訪れていたそうだ

 小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波  寛

 人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立  晶子

なんだか文化面でも盛り沢山な天橋立には、仇討なんて物騒な事件
なんかも起きていた。日本のスーパーヒーロー岩見重太郎は、講談
などでお馴染みだそうだけど、私は知らなかった~


               

昨今では黄門様で有名な里見浩太郎も、若い時には「怪獣蛇九魔の
猛襲」「逆襲天の橋立」なんて映画で岩見重太郎を演じたそうだ

岩見重太郎は戦国時代に活躍をした剣の達人で、豊臣方につかえたが
大坂夏の陣で討死したそうである。諸国を修業し、丹後の天橋立で
仇討ちを果たし、信州松本では狒々(ひひ)退治、葛城山で山賊退治
など日本各地に伝説を残しているのだとか




明治時代の「絵本実録 岩見武勇伝」によれば、小早川家の家臣の
岩見重左衛門の次男・重太郎が武者修行の旅に出ている留守中に
父親が広瀬軍蔵ら三人により騙し討ちをされてしまい、重太郎の
兄重蔵と妹のお辻は仇討ちを試みるが、重蔵は返り討ちにされ
お辻は旅先で、身寄りなく遊女に身を落としてしまった

そのお辻と旅先で偶然に再会をした重太郎は、父と兄の仇を討つ為に
お辻と逃げ出そうと試みるが、お辻を恋慕していた男の策略に嵌り
捕らえられ、獄中でお辻は命を落としてしまった


           

牢を抜け出した重太郎は狒々退治などの諸国遍歴の末に、宮津城主の
京極家の行列の中に仇の三人がいるのを発見して、京極家に仇討ちの
願いを申し出た。天正18(1590)年9月20日。天橋立で広瀬軍蔵らを
見事に討ち果たしたそうだ

重太郎が仇討ちの試し切りにしたといわれる石が、今も残されており
その切り口に一円玉を貼ると、そのカップルは別れないというジンクスが
あるそうだ


          

更に、籠神社には鎌倉時代に作者の渾身の狛犬が作られたそうで
あまりの出来の良さに魂を宿してしまい、天正の頃に夜な夜な神社を
抜け出しては天橋立を徘徊して、人々を驚かしていたそうである

仇討ちの為に天橋立にやってきた岩見重太郎が、この話を聞きつけ
一夜待ち構えて、音のする方向をめがけ剛刀を一閃したところ、石の
狛犬の前脚が切れ、そののちの出現が止んだそうだ


               

古くは舟の安全のため建てられた輪灯籠は、3回くぐると文殊様の
知恵を授かり、頭がよくなると言われる「文殊の知恵の輪」




う~む。日本有数のパワースポットであるだけに天橋立には不思議が
一杯。雪舟によって描かれた国宝の「天橋立図」にも描かれ、切戸の
文殊として名高く、日本三大文殊のひとつ智恩寺(文殊堂)にも参拝
させてもらった。黄金閣と呼ばれる江戸時代に建てられた丹後地方
最大級の山門をくぐり


               

この多宝塔は、室町時代のものとしては丹後地方唯一の建物で、国の
重要文化財に指定をされている。下重には来迎柱が立ち、須弥壇の
中央に大日如来が安置され、籠神社別当大聖院の智海が、来迎壁の
背面には片足を上げた不動明王を描いているそうだ




大同3(808)年に、平城天皇の勅願寺として創建をされたと
いう名刹で、醍醐天皇から勅額を下賜されたという。当初は密教
(真言宗)の寺院であったのが、南北朝時代以降には禅宗となり
謡曲「九世戸(くせのと)」の題材となっている

「久世戸」は、丹後国久世の戸は神代の古跡で文殊を勧請の地で
当今に仕える臣下が参詣をすると、龍神が出てきて、仏を讃えて
松の木陰に失せる話だ


               

鎌倉時代に丹後国司が巡視の時に、ある寺で和泉式部の鶏を詠った
一枚を貰い受けて埋め、宝きょう印塔を建て「鶏塚」と名付けた

  いつしかと 待ちける人に 一声も 聞かせる鶏の うき別れかな




雪舟の「天橋立図」にも描かれた三体の地蔵菩薩像は、数百年程前の
ものであるそうだ。というか二体しか写ってないし

志願による海軍飛行予科練習生とは、大日本帝国海軍における飛行兵
養成制度の一つで、「予科練(よかれん)」と略称で呼ばれていた


               

太平洋戦争が始まると航空機搭乗員の大量育成の為に、大幅に増員を
され、養成部隊の予科練航空隊が全国に新設され、戦争末期になると
特攻の搭乗員の中核とされ、その多くが命を落とされた。航空機にも
乗れず、人間魚雷回天など特攻兵器に回された者もいたそうだ

ここの近くにあった峰山海軍航空隊が、予科練卒業生への実機練習を
推進する部隊で、間人沖や宮津湾にあった仮装敵艦を攻撃目標にした
降爆訓練や夜間飛行など戦闘即応の猛訓練が行われ、訓練中の事故で
亡くなった方も幾人もいたそうだ。そんな関係なのか豫科練供養塔が
境内にあった





                    平成24年11月16日に宮津市内で撮影





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年12月06日 18時22分35秒
コメント(51) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.