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空間づくり

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Oct 27, 2008
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カテゴリ:観光
彦根探訪、今回で最後ですえんぴつ

え?
ほっとしました?^^::


たねや

ほっとしたついでに、もう直ぐハロウィーン(Halloween) ですね♪


城とは全く関係ないですが、

たねやさん(彦根美濠の舎)で撮影させて頂いたチョコレートのお菓子


マカロン・近江栗子みち・栗月下・生チョコを買って帰りました音符

マカダミアナッツをチョコでコーティングしたのも美味でした


写真、なくって、御免・・・・(-人-;)


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和んだ所で(あたしだけ?)さっさといきましょ~









*** 埋木舎 ***  


埋木舎創建宝暦9年(1759年)頃

中堀に面した質素な屋敷(中級藩士屋敷とほぼ同等)。


井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期、

天保2年(1831年)以後15年を過ごした屋敷として

有名なため「埋木舎」の名があるが、

本来は「尾末町御屋敷」又は「北の御屋敷」

発掘調査により、建替えにより6期の変遷が確認されている。

国指定特別史跡「彦根城跡」の要素。





井伊直弼の歌「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」井伊直弼は、自らを花の咲かない(世に出る事もない)埋もれ木と同じだとして、

逆境に安住の地を求め、その居宅を「埋木舎」と名づけ、

それでも自分には「為すべき業」があると精進した。


埋木舎前に見えるお堀埋木舎から、中堀越しに見える塀







埋木舎埋木舎には直弼が愛した柳が植えられており、
号にも「柳王舎」を使うことが多かった。
外出先で非常に立腹する事があったが、
帰宅後、庭に植えられた柳を見て
「むっとして 戻れば庭に 柳かな」という句を読み
心を落ち着けたと言われる。

井伊直弼の歌「むっとして 戻れば庭に 柳かな










解体修復前の埋木舎解体修復前の埋木舎

明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至る。

1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊したため全面的に解体修理、

また翌年からは発掘調査が行なわれた。

今日では、直弼が住んでいたころのように復元され、

内部も一般公開されている(有料)。
籠







埋木舎埋木舎埋木舎
埋木舎埋木舎埋木舎 庭










*** 旧鈴木屋敷長屋門 ***

長屋門跡彦根城の中堀に面した第三郭に長屋門のみ現存。

300石以上の中級武家屋敷が建っていた地域である。


天保7年(1836)に城下町を描いた『御城下惣絵図』によると、

当地には鈴木家5代権十郎重用(350石)の名があります。

かつての屋敷地は、間口10間半(約21m)、奥行27間半(約55m)


彦根藩の中級武家屋敷の典型をなす長屋門として貴重。

昭和52年(1977)に彦根市指定文化財に指定。



ひらめき 長屋門とは
細長い長屋の中央に扉を設けた門。
武家屋敷や陣屋などによく見られる形式だが、庄屋や豪農の屋敷などにも見られる。

近世諸大名の武家屋敷門として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。
諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、
その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりである。

その家の格式や禄高により、意匠や構造が決定。
・漆喰→武家屋敷
・板張り→民家
※ 民家での漆喰や彩色→武家との姻戚関係や、普請協力により武家屋敷の旧長屋門の払い下げを受けた場合など







*** 家老 脇家屋敷跡 ***


家老 脇家屋敷跡

脇家は元々武田家に仕えていたが、武田家が滅亡後、徳川家康の家臣に。

徳川家康の命により、井伊直政の家臣に。

その後井伊家での功績が認められ、家老職(2千石)を任ぜられる。

脇光三は末裔で、記念碑がたっています。


家老 脇家屋敷跡





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最終更新日  Oct 27, 2008 09:48:58 AM
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