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市民参加型ジャーナリズムとは何かと論じる前に、ジャーナリズムとは何かについて定義しなければならないと思います。 「いまみんなが知りたいことを、いま報道すること(娯楽性)」や「社会の木鐸(社会の見張り番をつとめ、警鐘を鳴らす人)」など、さまざまな定義があるかと思いますが、私は「ジャーナリズムとは、健全な民主主義を支える世論を形成するもの」と、定義します。 戦火が途絶えぬ今世紀においても、いまだ民主主義は理想としての輝きを失っていません。 世の中の仔細について、選挙をしたり、国民投票をしたり、国勢調査をするのは莫大な費用がかかる…。そんな大げさなことではなく、世論が世の中に存在すれば、社会のすべての人たちはそれをリファレンス(参考)にして行動することができる。大きな舵取りではなく、日々の小さな舵取りで世の中をあるべき方向に導いていく。それが健全な民主主義の実際ではないでしょうか。 ならば、世の中の諸相を取材・総合して、官・民・組織・個のすべてにとって有用なリファレンスを作成する。それがジャーナリズムであり、その役目を果たすのがジャーナリストということです。 その考えからすれば、情報が娯楽としての価値や、言論の希釈作用を果たすものを扱うのはジャーナリズムではない。 かつて、朝日ジャーナルという雑誌がありましたが、一般の娯楽週刊誌とは一線を隔していたという印象がありました。あの雑誌が消えてからもう何年が立つのでしょうか。 私は、表現者>ジャーナリスト さて、私は今村昌平の映画学校の出身でして、無名ながらもマスコミの末端で20年以上仕事をつづけてまいりました。学校時代も、そして人生の半ばに近づきつつあるいまも、「表現とは何か」「表現者とは何か」と考え続けてきました。 私のその思いがストレートに結びついたのが、2005年のライブドアのパブリック・ジャーナリズムへの参加でした。 とはいえ、私は、ジャーナリストになりたい。市民記者になりたいと思ったのではありません。より多数の読者を求めて、ライブドアの知名度を活用したかった。ただそれだけのことです。 ただし、いかに客観を装うとも主観的なことは避けようもないが、抽象的な表現は空虚であり、自らの経験や具体性をともなった表現にこそ「実」があるという考えが私にはある。だから、ジャーナリズムとして表現することに違和感はなかった。それだけのことです。 ですから、取材記事の中で、ひょっこりと取材者である私の人生が顔を出す。そのことが奇異に感じられ、批判されたこともありました。 市民参加型ジャーナリズムの運営者たちは、 ジャーナリスト>表現者 私は以前、「既存の市民参加型ジャーナリズム(ライブドアとJANJAN)は、ジャーナリズムという言葉に魅かれた者たちの集まりである」と、湯川さんに申し上げたことがあります。 つまり、運営する側も、参加する市民の側も、あたらしいメディアを作ろうという気持ちはさらさらない。できれば、既存の伝統あるメディアで活躍したいのだけれど、それが果たせない。だから、ひかれ者の小唄のように、市民参加型ジャーナリズムを唱える。 運営者もプロの編集者とはいえ市民のはずなのに、自らの経歴を誇り、自分がかつていた既存のメディアたちに反旗を翻す。一人の市民として情報を発信することをしない。市民記者の方も自分が市民であることを忘れ、自分がプロ記者になったかのうように振舞い記事をあげる。そのような記事たちに接した私は、運営者には卑屈さを。市民記者には傲慢さを感じぜずにはいられませんでした。※自分も含めすべての表現者・市民記者は傲慢との謗りに耐えなければならぬという前提での言説です。 本質的なことを言えば、インターネットですべての人が情報を発信できる時代になったのだから、他者を語ることは必要がなくなったのです。また、もし、他者を語ることが必要ならば、それは、他者が真実を語らぬとき、または、真実を語る術を持たぬとき。その場合も、あくまでも当事者のひとりとして語るのです。 それは、既存のジャーナリストの規範である、取材対象との客観や中立、独立と相容れないものです。 問題は、既存メディア出身の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、そういうジャーナリズムの規範をダンディズムと捉えていて、その古い衣をけっして脱ごうとしないことです。
ふたつの市民参加型ジャーナリズムが繁栄しない理由はその他にもさまざまにあると思いますが、根本的な問題はこれにつきると思っています。 ☆ ジャック・デリダが唱えた脱構築(ギリシアから始まる今まで構築されてきた哲学をすべて崩してから新しい哲学を創造しようというフランスの哲学者の提案)ではありませんが、既存のマスコミが積み上げてきたものをすべてご破算にしてからでないと、市民参加型ジャーナリズムという新しい建物は建たない。そう思えてなりません。 韓国の市民参加型ジャーナリズムで成功したと言われるオ・ヨンホ氏は、「既存のマスコミの概念を破壊して行け」と、市民記者たちをけしかけているようですが、そのようなものでは、日本での成功は覚束ないと考えるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年06月10日 09時01分35秒
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