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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2006年08月09日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
亀田親子の件で、Youtubeの知名度が爆発的に向上したようだ。YouTubeが重い…。
もちろん、それは、2ちゃんねるからのリンクが大きな役割を果たしてのことだと思われる。上村愛子のブログにしたって、2NNで報道(?)されなければ訪ねなかった。

さて、本題。
2ちゃんねるがリゾームとはこういうことだ。



まず、メディアについて考えてみる。メディアとは媒体である。
つまり、情報を伝達する場である。簡単に言えば、社員食堂の厨房と食堂の間にあるカウンターだ。おばさんがお盆に載せた定食をカウンターにのせると、社員たちは持っていく。
この場合、カウンターがメディア。定食が媒体。おかずや小鉢は記事かもしれぬ。


だが、2ちゃんねるは違う。リーソームだ。
2ちゃんねるは公衆場所の便所の落書きだと揶揄されたが、それは本質を突いている。
比喩的に言うなら、かつては公園の公衆便所ぐらいしか落書きはないようだったが、最近では国会議事堂のトイレにも落書きがある。そういう感じだ。


つまり、下卑た人が落書きをするのではなく、すべての人が落書きをする可能性がある。どんな成人君主であっても、トイレでは下半身を露出せざるをえないのだから、当然のこと。2ちゃんねるがメディアではなく、リゾームだということはそういうことだ。
そして、そういうリゾームが社会に存在することによって、密室というものがなくなった。それが社会の健全性にとって、極めて重要である。


「ちょっと待ったー。密室の参加者が2ちゃんねるに書き込まなければ、密室は密室のままじゃないか」と断じる人がいるかもしれぬ。だが、そう世の中は単純ではない。



たとえば、「みんなの就職活動日記」というのがある。ここでは、面接をされて合格しなかった人たちが、面接での出来事を書く。真実がほとんどだろうが、合格しなかったのだから、悪口もあるだろう。事実にそぐわない嘘もあるかもしれぬ。だが、その書き込みに対して企業の採用担当者たちは、即時の対応を余儀なくされる。それは、問題点を解決しなければ、内定者たちに入社を辞退されてしまうからだ。つまり、問題があろうがなかろうが、問題点を解決する。それが必定なのだ。

その過程によって、密室は密室ではなくなる。密室とはいえ、いかなる密約であっても、第三者にとって合理的な判断を下さなければ、密室の住人たちにとって利益はない。そうなっていく…。



同様に、こんなことを考えても見る。
総理大臣が、「靖国参拝しないなら、他の人を後継指名する」と、密室で安倍氏に伝えた。と、2ちゃんねるにスレッドが立ったとしよう。もちろん事実無根・デマである。
だが、結果として、安倍氏が首相になり、靖国参拝をするならば、たとえその密室情報が虚偽なものだったとしても、その密室での出来事は半ば正しいこととして受け入れられてしまう。

逆にいえば、その密室情報を否定するためには、当事者たちは、首相にならないか、靖国参拝をしないことでしか証明できない。
結果、密室でどのようなことが約束されようと、それが2ちゃんねるに話題にされるならば、時間はかかるかもしれぬが、あるべき方向にしか事態は収束していかない。


無限の地平のインターネットでは、言論の希釈作用は期待できない。分母がすでに無限大なのだから、いかに分子を増やしても無駄なのだ。そして、いつでも、最大瞬間風速を吹かせば、トップの話題として提出できる…。
瞬間最大風速を吹かせることが簡単なことは、ちゃんねらー諸氏がご存知のはずだ。



テレビも同じような役割を果たしているのかもしれぬが、あまりに歪である。

何故、亀田氏の番組構成を批判したやくみつる氏が、同業のテレビ局(TBS)を批判しなかったのか理解に苦しむ。後続の番組でも、ワイドショーの話題は「プロモーター=ボクシングジムの会長」が諸悪の根源であるとし、批判の中の一つであったスポーツ番組の過度の演出についてはまったく捨象していた…。

私は、かつてテレビ番組の孫受け会社で働いていたから、テレビを批判するつもりはない。そういう限定された状況での言論を強いられる人たちの辛さを思う。だが、そのような立場を強いられているならば、2ちゃんねるに自由な言論の場を求めるべきなのである。でなければ、社畜の謗りを受けても仕方のないことだと思う。

そう思っている私であるから、もしテレビに出演したとしても問題発言はしない。
きっと、テレビコメンテーターとして出演したとしても、勝也氏や橋元氏よりももっと温厚な言説をするかもしれぬ。

勿論、言論の場が多様でない現状において、そのような温厚さを保持するのは卑怯な行為だろう。
すべてをわかって温厚でいるか。それとも、社畜としてつくり笑いをするか。その差は大きいと考えている。そして、そういうアンビバレンツ(矛盾)な状態である自分を意識し、肯定することが、すべての個にとって不可欠であると考えてやまない。

マスコミ人にとって、2ちゃんねるや市民記者媒体は大いなる表現の場である。


それが重要であり、それを発信者に実名を強いることで妨げてはいけないと思うのです。





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Last updated  2006年08月09日 09時07分19秒



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