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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2006年11月01日
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カテゴリ:「武術的議論」
【リード文】

批評とは、今を語ることである。現実を批評することで未来を語ることは常套手段だが、それは今に捉われることでもある。「ジャーナリズムが現実を批判することで自浄効果が働き、世の中があるべき姿に向かっていく」という考えも、「いまに捉われる」ということでは、人間社会をあるべき形に近づけるための唯一の道・近道とは必ずしもいえぬ。



【本文】

先のエントリーは長すぎた。教育についてしたためていたところに、岐阜の中学校のいじめ自殺事件報道があり、指摘せずにいられなかった。被害者と加害者を明確にして一件落着にするというマスコミ的お白砂の弊害が見て取れる。

みのもんた氏は刺青判官を気取っているのかもしれぬ。キャラクターとしてもおもしろいし、ストーリーもメリハリが利いている。だが、それが現実と乖離しているとともに、あるべき明日を茶化していることにしかならぬ。

一夜明けて、岐阜の中学校長は教育委員会のすすめもあってか、平謝りに戦術を変えた。それは当然のことである。ラグビーでラックになったとき、基点の選手は動いては敵にボールを取られる。批判の対象者に発言権はない。そういう理にはまってしまったようだ。



さて、湯川さんのブログにgoogleニュースに動きがあるとのエントリーがあげられた。
曰く、


劇的な改良」を加えるということなんだけど、具体的には、記事中に出てきた他のニュースソースや組織、個人が特定の問題について議論できるようにする、ということらしいが、一体全体なんのこと???



そこで私は次のようにコメントした。


ニュースのインテグレートということでしょうね。
ただ、議論というのは、ちがうのではないか。

つまり、Aという記事(事実)にBという事実が並置されるのであって、Aという事実に対して、Bという解釈とCという解釈が対照されるのではない。

JANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版など、ニュースサイトといいながら、言論の場となっている。そういうのは、まったく違うでしょうね。
既存の市民ジャーナリズムたちは、なんらかの論調(解釈・結論)をメディアが主張する。だが、googleニュースは特定の論調を形成することを嫌う。したがって、複数のリファレンスを提示することによって、googleが固有の論調にまみれることを排除する。
(スポンタの言葉でいえば、野党的ジャーナリズムも与党的ジャーナリズムも拒否する)

たとえば、募金夫婦でいえば、マスコミの報道があり、2ちゃんねるの分析があり、トリオジャパンのインタビューがある。
それぞれに固有の論調を持っている。しかし、3つが並んで提示されれば、どこの論調を我が物にするかは読者次第である。

*

大統領選に向けて、トラッカーという動画撮影者たちが対立候補の演説を録画して、揶揄的な編集をこらしてYouTubeに載せることが流行っているという。そんな時期、googleニュースは、特定の論調に巻き込まれる危険性を感じて、先手を打とうとしているのではないでしょうか。


かなり偉そうに書いているので恥ずかしいのだが、一言でいえば、


「googleの目指すインテグレートは、関連記事の対照的に提示することであって、議論ではない」


アメリカの言論の状況について、経験の乏しい私が指摘するのは僭越だが、CNNやBBCの国際ニュースを見ていると、NEWSとOPPINIONの線引きが明確になされていると感じている。そう感じさせる理由は、英語が比較的中立的な言語であるからだと思う。
一方の日本語は、敬語という修辞法があることが指摘されるように、話者の対象に対する位置関係を明確にしなければ言論できない。そして、野党的ジャーナリズムの伝統をもつ日本のマスコミは、取材対象を否定することが常道となる。その文脈では、与党的ジャーナリズムの言説は、それがまっとうな言説であっても「批判が甘い」ということで非難される。

今朝、TBSでみの氏が、ヒルマン監督が日本ハムを辞め、故郷の球団の監督に就任するかもしれない。との報道に対して、「シンジラレナーイ」と批判している。日本の野球を大切にすると語っていたのに、メジャーから誘いがあったら、それにすぐに乗るというのでは、前言が嘘であったのかという批判である。
だが、そうだろうか。日本ハムファイターズの高田繁ゼネラルマネージャーは、MLBの監督になるのが彼の最終的な目標だろうし、それが故郷のチームだとしたら、それを止めることはできない。と言明している。

分かりやすくたとえるならば、ジェフ千葉の監督をしていたオシム監督に、日本代表から監督要請があった。そんな感じだ。ジェフ千葉の辛い状況は理解するにしても、オシムが日本代表監督を引き受けることを裏切りとまではいえないだろう。



糾弾するか。讃美するか。その振れ幅が大きいほど視聴率を稼ぐ。それが現実かもしれぬ。


アナウンサー出身のスーパーモーニング(テレビ朝日)の渡辺宣嗣氏には、そのようなアコギなことはできぬ。だから、彼は久米宏氏ほどの人気を得られない。テレビマンたちもそのことを分かっていて、彼を報道ステーションのアンカーには起用しない。だが、私には現行のスポーツアナ氏よりはマシであると思えてならない。

制約の強いテレビ言論の中で戦っているように見えるのは、フジテレビの笠井アナウンサー。そして、草野仁氏である。



そう思ってみると、何故、中田英寿氏がフィリピンのスラム街を訪れたとき、カメラが廻っていて、それが日本のメディアに映像として配信されるのだろうか。その理由を考えてると、中田氏の今後の展開とテレビ局の思惑が見えてくるのではないかと思う。



シェイクスピアは、演劇は世の中に向けられた鏡であるというセリフを書いた。

だが、テレビは現実に向けられた鏡ではない。
ありのままの現実を映しているのではない。
現実が何物かに変容としている変化(ベクトル)を映そうと企んでいるのがテレビである。

ベクトルとはドラマである。


カメラがあれば現実を切り取ることはできる。だが、そこに何らかのベクトルを読み取らなければ、編集することはできぬ。そして、テレビマンたちにベクトルを読み取る能力がなければ、自らのベクトルをもとに映像を編集してしまう。それがテレビの現場である。

一本の映像ニュースがオンエアされるまでに、少なくとも10人の人間が関わる。多ければ100人を越える人間が関与する。それでは、現実が予定調和の言説に歪められてしまうのは当然のことである。

自分たちのメディアを目黒のさんまと自嘲するマスコミ人は多い…。


そのようなものに、我々は未来を託していいのだろうか…。



付記:

甲野善紀氏が「いまにとらわれてはならぬ」と言ったのは映画「甲野善紀身体操作術」のセリフ。
それは居合いにおいて…。

かしこまって座しているときに、敵の攻撃にあったとき、自分の刀は自分の右側にあった。刀は鞘に納まっており、左手で鯉口を切らなければ,右手で刀を鞘から抜くことはできぬ。しかし、右手で刀を持ち、左手に持ち替えていたのでは、相手から切りつけられてしまう。
ならばどうするか…。

「いまにとらわれてはならぬ」

甲野氏は、蛙跳びよろしく、刀を一瞬のうちに飛び越え、自分の左に刀を位置させた。ここからは、居合いの基本動作のままである。一瞬のうちに抜刀。攻撃態勢に入ることができた。

日本刀で切りつけられる可能性が殆どゼロに等しい現代人が、甲野氏から学び取るべきものは
、彼の哲学であって、居合いの方法でないことは確かだと思っている。










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Last updated  2006年11月01日 07時54分54秒
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