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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2006年12月04日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
研究のための参考文献として、ハワード・ラインゴールド著「スマートモブス」を読んだ。
研究論文の資料ということで、かなり精読したつもりである。

読みすすみながら傍らにメモ書きがたまっていく。そして、400ページの殆どについて納得できない自分がいる。
私は、そもそもコミュニケーションという語句の定義がいいかげんであることに気がついた。


同質性の高い社会の中では、ほんの少しの差異が摩擦を生む。だが、多様性の高い社会では、少しの同質性が共感を呼ぶ。全者が日本であり、後者がアメリカである。


コミュニティーの特性を勘案せずして、コミュニケーションを一様に語ることに意味はない。


コミュ特性02



以下は、スポンタ的なコミュニケーション関連語句の定義である。


コミュ定義01





ラインゴールド氏は、まず、渋谷のハチ公前でインスパイアーされたと告白していますが、ハチ公前で若者たちがテキストデータを打っているのは、ネット取引、ネットバンキングでもない。ましてや、有用なディスカッションなどということはありえない。
ほとんどは、オフィスの給湯器の前でかわされるような立ち話と同様な、無価値情報をやりとり。
きっと、何故、日本人がテキストではなく、絵文字を使うかについての考察もないに違いない。

それをして、日本にはモバイラーたちのコミュニケーションがある。すばらしい。新しい時代の胎動を感じるなどと著述するのは、浅薄である。また、それを指摘しない日本のIT関係者がエバンジェリストにすぎぬと嘆ずにはいられない。


たしかに携帯電話は便利なツールである。だが、それを専らにした日常がはたして豊かな生活と言えるのだろうか。
自分が携帯電話を使うことはまだしも、他人が携帯電話を使うことをほとんどの人は苦々しく思うのではないか。
家庭や職場で携帯電話ばかり使う人のことを見て、「素晴らしい」と感嘆する人がどれほどいるのだろうか。

素晴らしいと驚嘆するのは、IT関連業者だけ…。


ラインゴールド氏は、バーチャルリアリティーやバーチャルセックスという語を広めた世界的なビッグネームだという。私には、「スマートモブス」という概念も、そのようなセンセーショナリズムを求めたものでしかないと感じてならない。



私は、差分のない者の同士のコミュニケーションはコミュニケーションではないとすでに指摘しています。
その理由は、他者の中に自分の意見を見つける作業は、コミュニケーションとしての価値がないからです。
(あなたは巨人ファンですか。私も巨人ファンです。あなたは小泉首相が嫌いですか。私も郵政民営化は間違っています…。などというのは、コミュニケーションではない。)

しかし、その一方で、コミュニケーションを語義的に考えると、お互いがコミュニティーの一員であるという確認作業という側面もある。

その視点からいえば、ディスカッションというのは、違うコミュニティーの構成員同士が情報のやりとりをすることであり、コミュニケーションではない。そして、ディベートは相手の言論の価値を認めないのがルールだから、相手の言論は無価値のまま。つまり、トリビアのやりとりでしかない。

ディスカッションが上手く行かなかったときに、コミュニケーションがうまくとれなかったと愚痴を言うのは、ディスカッションがコミュニケーションではないことを示している。

コミュニケーションとは、たとえてみれば、線路を引くこと、もしくは線路がうまく引かれていることを確認する作業。だから、その上を列車が走ってコンテンツを運ばれるかどうかは関係ない。

一方、インフォメーションとは、異なるコミュニティーの個の間に、線路(コミュニティー)があり、その上を列車が有用情報を運ぶことにたとえられる。ディスカッションのときに成立するコミュニティーは会議のときの一時的なものであり、会議が終了すると、消滅し、会議でひとつのコミュニティーの中にいた個は、別々のコミュニティーに帰っていく。

そして、ディスカッションにおいて、一方が他方の議論に同意したとしても、それは、情報が移動したのではなく、過去から蓄積かれていたトリビアがなんらかのトリガーによって、有価値情報に変質したものに過ぎない。

もし、トリガーではなく、一方から他方に情報が流れることによって、他方が意見を変えたならば、それは洗脳である。

そのコミュニティーに自由な言論の場はない。(意見が変わるのは個の内部での出来事である)。
自立した個がなければコミュニティーなど成立しない。
そこには、中心にいる個と周辺にいる個の間で、自己境界領域の混乱が存在する。




渋谷のハチ公前で交わされているテキストデータのやりとりは、アメリカ人が考えるようなコミュニケーションではない。7割がたはトリビアのやりとりであり、私が定義するところの狭義のコミュニケーションでしかない。

そのあたりから、この著者への疑惑が広がっていった。



この著者の欠点は、外科医が手術をしたがるように、ネットワーク論者がネットワークの価値・効果を過大評価していることである。
ネットワークがその規模によって価値が決まるというサーノフの法則は、エージェントの論理である。

アメリカホワイトハウスと日本の首相官邸のノードを二つしか持たないネットワークの価値が、巷間にあまたあるネットワークの価値よりも低いということは、とうていありえない。

そのような思想が、エバンジェリックな論者であるグローコムの翻訳者氏らによって増幅されている。



において、公文氏はいくつかのコメントをしているが、ハワード・ラインゴールドが示しているスマート・モブスというものの実体が、2ちゃんねるの大規模オフ会程度のものしか想定していないのは残念である。
スマート・モブスの実体が、まるで、日米安保のときに国会議事堂前に集まった学生たちのようなものを想定しているようだ。
ヨン様を追うおばさんたちの群れをスマートモブスと形容することに、私は何らの価値を感じない。

2003年の著作だからしかたないが、想起すべきはダン・ラザーを降板に至らせたようなモブスの役割分担である。そして、日本のエスタブリッシュのほとんどが匿名を掲示板に禁じようとやっきになっているのは、著者同様に、群集たちの武器を取り上げてしまうことである。

フリーランスなアメリカの専門家たちは、自らの名を上げるために、ダン・ラザーを叩いた。
※それさえ、今は、ブロガーを名乗った反対勢力の言論行為か、キャスター降板に飛び火したに過ぎぬのかもしれぬ。


だが、スキルフルな日本人の専門家たちは、実名のステークホルダーにまみれて発言できぬ。それが、日本の現状であり、それが分かっていて、日本では実名の正当性がエスタブリッシュの間で強説されているのだ。





公文氏のグローコムは、イザやオーマイニュースなど、ウェブ2.0の理想とかけ離れたコンテンツをつくり惨状を示している者たちを講師に呼んでセミナーを開催しています


しかし、そのような講師たちが持論をネット上で展開すれば炎上は必至なはず。

著者と訳者たちが共同幻想を盛り上げている「スマートモブス」に託された個の集団を群集と捉える愚民感は、それにスマートという形容詞や智民と翻訳されようと、私には、とうてい同意することはできません。



いままで、梅田望夫氏、ガ島氏などのエバンジェリック(IT業界御用達論者)な言論を批判してきましたが、その本流がこのハワード・ラインゴールド氏だと言っても過言ではないでしょう。

その通弊は、次のふたつ。

1. ITエバンジェリックであるために、業界のシュリンク(収縮)に繋がるような一切の言論を提出することができぬこと。

exam.情報インフレ→情報デフレという必然。情報コモディティー化。

2. アメリカの言論をローカライズしないまま、一般論として日本に当てはめようとすること。


「バーチャル・リアリティー」が映画になったり、「バーチャル・セックス」が世間を騒がせるなど、ITエバンジェリックの言論が、エンタテイメントとしての価値だけで終わるならば罪はない。
だが、それにより税金が無駄遣いされ、こどもたちが将来路頭に迷い、株主たちが不利益を蒙るならば、それは社会悪である。

敵は幾千ありとても…。

だが、私は言説をやめる気はない。






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Last updated  2006年12月05日 18時15分01秒



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