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生きるってこと

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March 29, 2020
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カテゴリ:批判

私の仕事はトレーサビリティという概念のもと分析・測定を行うものである。

その結果は、誤差や偏り・ばらつき、間違いなども理解すれば、悲しいかな絶対などあり得ない。それも含めて“事実”である。

評価とは、それを踏まえるべきである。データを積み上げ、測定結果におけるケースバイケースを整理するのが考察・評価である。

 

環境影響評価(アセスメント)で“合わすメント”と揶揄されたりするものがある。

差しさわりの無いもの、最早無くてもよいものもある。(玉虫色の表現とか、役所文言と言われるものである)

生活環境における住民苦情による測定調査についても、専門家・権威者が加わると現場実態よりも机上でデータを“捌いて”しまう。個別問題であるにも関わらず一般適用し、都合の良い評価をし「問題なし」と片付ける。多くの事例は、それで良いのかもしれない。しかし、見出された特異性に目をつむり苦情者は犠牲者のままの場合もある。

 

“「PCR検査をどんどん増やせ」という主張が軽率すぎる理由”などと検査数を増やせと言う意見を“軽率”という言葉で一蹴するかのような表現をみる。

軽率なのは、“初手”(指定感染症の2類型指定の間違い)による手続き論で医療崩壊を煽っていることである。検査により感染者(陽性)≒患者であるから医療崩壊が生じる。

「ただの風邪で、治療法がないのに検査を増やして医療崩壊を起こせというのか」とヒステリックに言葉を荒げた専門家をみたりした。

これこそが“崩壊”していて、“軽率”である。

“軽率”というのは、あたかも対立する意見よりも上位にあるかのように見下しているだけで、ただの風邪と言っておきながら、自粛による感染拡大を防ごうとすることに矛盾があり、それに従わないものが非難される。

 

私は、乱暴な言い方で返すなら「マスクは無いよりまし」と同様にデータはあった方が理解しやすいと考える。

精度が低くてもその割合から分布・感染者が推定される。それが実数であるかどうかは、データ数で担保される。またデータ数によりパラメータ数・項目も取捨選択されてくる。統計上の偏りは、否定されるものでなく確認し、理解した上で活用される。

検査状況も明確にすることや市中の分布も知ろうとすることが“増やせ”の意味に含まれる。まして、PCRだけが検査ではない抗体検査だって含まれる。実験計画法的にケース示し増やすべきと考える。

検査数が増やせない“現実”があることを素直に認めればよいだけのこと。

それを、「数値は実態を現している」と言う。

この国が何よりも蔓延しているのは、忖度による不明確なデータで曖昧な計算結果(推定値)を誇張することである。そして、周りの空気を押し“常識”をつくり出すことである。

四則演算程度の割合計算とカタカナ表現で愚弄し、検査数が増えることで患者数増加をオーバーシュートと“予言”しているにすぎない。心理的反応や大衆扇動まで考えたなら、何が正しいかわからないことが都合良い。時間稼ぎによる証拠隠しに等しい。

誰も何もわからない状況において、なぜ“上から目線”でいられる。誠実さに欠けている。


批判したって、解決しないではないのはわかっているが、この“戦い”は強権力によるリーダーシップではなく“誠意”だと思う。政権・政治はそれを失っていて、“事実”と異なる創られていく“真実”で翻弄している。

事実”とは、誤差を含んでいるが、曖昧な文言や仮定・推定で飾られた“真実”という表現より正確である。それこそが“根拠”となる。それを知りたいと思うことのどこが軽率なのだろう。

 

「今、状況がわからない。悲しいかな我が国の基礎科学・検査能力を伸ばさなかったのは政治の責任です。お願いだから静かにしていてください。」とは、ならないらしい。


選手生命が掛かっているオリンピック・パラリンピック問題にしたって、“生命”が掛かった闘いとなればショーではない。

犠牲者が出る苦渋の選択だというのに、ショーアピールのようにガッツポーズのような行動ができる神経が、この国の民度を代表している。

犠牲者と言える親族の訴えを笑って無視できる人間が政治を司っている。無視したその人の家族は“レストランで花見”をしている。そこにはタレントも含まれているらしい。そのことについても誠意無く“反論”できるのだから、“若者の行動”を否定することはできない。

つまりは、然程の緊張感を持っていないのにも関わらず、自粛要請で煽ることが政治パフォーマンスを高め政治生命を維持しているだけである。

それを、邪推だと言うなら、誠意より“力”で抑えられると思い上がっているのだろう。

「子供の命を守る」と唐突なアピールは、高等教育(大学)の理工系の基礎研究を押さえたことを含め教育の領域にダメージを与え、国民の考える力は養われない方が都合良いということだろうと勘繰りたくもなる。

高齢化社会のこの国で、ロートル化した政治家の政治生命を守るためのパフォーマンスに、経済損失を次世代に付け回すことや教育犠牲を強いる大人であってはならない。地球規模の環境問題よろしく、“つけ”を次世代に回せばよいと言っているような“長期の想像力の欠如”でなければよいがと憂う。

 

実態経済の影響からは就職氷河期の再来も想起される犠牲者は若者である。本当の戦争でもその時代の若者を動員し犠牲者とした。

目標も持てない見えない闘いでも“若者の行動”と声を合わせて非難することしかできないのか。

現状を楽観視する気などないが、インフルエンザの死者数にも達していない。

スマホゲームのながら運転で犠牲者が出ても、GPSや加速度センサーの機能で動作制御可能な規制すら否定し、使用者の良識だ、アプリの所為ではない声高だった有名人がいた。

今回は生活を守られたスタジオのキャスターが“若者の行動”と取り上げ、人の意見・思いは様々であるにも関わらず考えることもしないで、早く規制しろと言い出すコメンテータまで現れる。

 

人は誰もが生きて闘っている。受け止め難きことも受け入れなければならない選択もある。その選択が勝負の敗北を意味したとしても“普通”で慎ましく自制している。何も自粛要請に抵抗して大騒ぎをしているわけではない。暴動が起きたわけでもない。

それでも、自分の感性や価値観を押し付けたい人は、ただ闊歩することも許せないらしい。

不要不急の中、インタビューのカメラクルーが「今はどうかと」あちこちの映像を映し周りの空気を押し“常識”をつくり出す、その“常識”を持てと声を上げる。

 

時代は変わり世代が移れば、応じる“手”の正解も異なるのだろうか。

偽りの“真実”がつくられなければよいが。

 

嗚呼、やっぱり。「物言えば唇寒し“春の風邪”」

退屈しのぎ






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Last updated  March 29, 2020 01:28:02 PM
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f-yuragi@ Re[1]:職場見学(01/12) すずっぴ☆さんへ ありがとうございます…
すずっぴ☆@ Re:職場見学(01/12) こんばんは!! すばらしいお仕事。 す…
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すずっぴ☆@ Re:照れ・“くさい”置き逃げ(11/16) ステキですね♪ いつまでもどこまでも仲良…
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