|
カテゴリ:小説
彼女を抱きしめながら僕は思った。
エリス=綾女の中には今は徹しか居ない。僕の存在など欠片も無いのだ。 彼女は僕を徹だと思いこんでいる。 綾女が今必要としているのは僕ではなく、徹に似た僕の存在なのだ。 僕がダニエルであることを彼女は望んでいない。 僕はエリスの前では徹でなくてはならないのだ。 辛いことだった。 でも仕方が無い。エリスがそう望むのなら僕は徹であり続けよう。 僕はリプレースメント(代理選手)で構わない。 今現在はそれしか、彼女の役に立つことは出来ないのだから... 僕はエリスが一時的に、記憶を失っているのだと思った。 一番強くのこっている徹のことを除いて。 結局その日は一日病院に居た。 帰り際に彼女の保護者である老夫婦に、僕は一言訊いてみた。 「退院は出来るのですか?」 「ええ、多分あと1週間くらいだとお医者が言わんしゃったでねぇ」 夫の方が答えた。 「僕には彼女が記憶を失っているように思えるんですが、医者はなんと言ってるんですか?」 「ようわからん言うちょりました。飲んだ薬が薬なだけにそう言うことも有るか知れんち言うちょりました」 「でもパソコンは使えてるわけですよね? さっきやったように。だとしたら部分的に忘れていることになりますね?」 「そうだと思います」 「治るかどうかは判らないんですか?」 「はあ。それもよう判らんらしいです」 「そうですか」 「じゃあ僕は明日と明後日に、また彼女に会いに来ます。今日はこの辺で帰ります」 「うちへ泊まっていきやったらいいがね」 婦人が言った。 「有り難うございます。でももうホテルを取ってしまったんで、そこへ泊まります。 ではまた明日」 そういって僕は招待を辞去した。 外へでると快晴の空に、櫻島がもうもうと噴煙を吐いていた。 やはりここは鹿児島なのだなと、僕は意味も無く感慨にひたった。 自分の街から遠く離れてみて、初めて自分の居た場所が大切な場所だと思えるものなのだ。 そしてあの街には杏も居るのだ。 そしてこの街には、僕があれほど求めていたエリス=綾女が居るのだった。2度と逢えないと思っていたあのエリスが... そして彼女は徹だけを求めて、求めつづけているのだ。 今日から彼女にとっての徹は僕だ。 彼女が僕が「徹でないこと」に気づくそのときまで、僕は徹なのだ。 もう、エリスとダニエルではなく 綾女と徹なのだ。 僕は悲しくなかった。不思議なくらい悲しくなかった。 綾女がこんなことになってしまったのは、僕のせいかも知れないのに。 僕は彼女に逢えたことが嬉しかった。 それと同時に僕が彼女の中に存在しないことも知った。 それでも、僕が彼女のためにしてやれる事が出来たのだ。 それが嬉しかった。 明日から彼女のことをエリスでなく、綾女と呼ぼう。 そう決めた僕だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/06/01 04:39:59 PM
コメント(0) | コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事
|