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砂漠の果て(第7部「亡命」)

第七部「亡命」


―第23章―封印の門


The Sealed Gate★


A Sinner★


  アルブラートは一瞬うろたえたが、すぐに地下のヨシュアの部屋に駆け込んだ。ヨシュアは新しい薬があるから、調理場で水を汲んで来るようにと慌てた調子で言った。アルブラートが調理場に行くと、二人の若い調理師が仕事をしていた。彼がムカールが高熱で大変だと言うと、一人の青年が急いでグラスに水を注いだ。

  「俺も行くよ―サラーフ、ちょっと頼む」

  二人がヨシュアの部屋に走って行くと、老人が薬を持って待っていた。

  「ファハド、来たのかね」
  「いつかはこうなるんじゃないかと思っていたんだ―俺が飲ませる」

  ファハドはヨシュアから薬を受け取ると、2階に駆け上がった。アルブラートとヨシュアは彼のあとに続いた。ムカールはベッドの中でぐったりしていたが、ファハドは彼の頭をゆっくりもたげると、粉薬を口に入れ、器用に水を飲ませた。薬を飲むと、ムカールは目を閉じてまた横になった。

  「ヨシュア―今のは解熱剤と抗生剤だろ。どうしてこんな高い薬が手に入ったんだ。今までムカールは抗生剤しかないって言ってたのに」
  「それは―この子がお金を出してくれたんだよ」

  ファハドは納得したように、アルブラートを振り返った。

  「ああ、アルブラートってお前のことか―いつもムカールが話してるんだ。すごい音楽家がうちに来たんだって。お客の質も良くなったのはアルブラートのおかげだって。それでかな、ここも4月から3つ星に格上げになることが決まったんだ。でもムカールの料理も一流なんだ。今日みたいな休日は、俺たちが料理するんだ。でもムカールの作るような高級料理は出せなくってね―まだ見習いだから」

  ファハドはまだ仕事の最中だからと言って、調理場に戻って行った。アルブラートはベッドのそばに跪くと、目を閉じている青年をじっと見守った。ムカールは時折うっすらと目を開けて、少年を見つめたが、まだ苦しそうに目をつぶり、右手でシーツを掴んでいた。

  アルブラートは彼が目を開けた瞬間、突然異様な衝撃が全身を貫くのを感じた。心の深い奥底に完全に封じ込めていた、母の死の瞬間が再び鮮明に甦ったのだった。

  これは......母さんの目だ......!俺が銃口を向けた時のあの目だ......もう駄目だ......!もうこれ以上黙っているのは許されない......もう話さないと駄目だ―駄目なんだ......!

  彼は、母の魂がムカールに宿り、ムカールを通じて、真相を話すようにと促しているように思われた。少年がうなだれたまま、握り締めた両手を額に押し当てながら、体を震わせているのを見て、ヨシュアは驚いた。

  「心配せんでいい―この薬はよく効くからな、すぐに熱も治まる」

  だがアルブラートは尚も体を硬くし、全身を震わせていた。冷たい汗が額から次々と噴き出し、首から背中を伝って行った。彼は悪寒を感じたが、自分の「罪」を告白する時が刻々と近づく切迫感に押し潰されそうだった。ヨシュアは少年の異様なまでの深刻さに、いつもとは何かが違うと感じた。少年の顔色は、真っ青だった。

  「アルブラート、大丈夫かね―お前さんまでぶっ倒れそうだな......
一体どうしたね......ムカールが心配かね―でもそろそろ熱も引いたみたいだ。ほらごらん」

  ヨシュアは青年の額に手をやると、安心したように溜息をついた。ムカールは息を深く吸い込んで吐くと、シーツを掴んでいた右手を自分の額に乗せ、目を開けた。彼はしばらくだるそうに黙っていたが、そばにいるヨシュアを見た。そしてまだ自分の枕元に跪いているアルブラートを見た。

  「ムカール、大変だったな―すごい熱を出して......この子がえらく心配してな......可哀想なぐらいだ......アルブラート、ムカールが気がついたからもう心配せんでいい」

  アルブラートは震えながら、青年に目をやったが、とても直視できずに、彼の枕元に顔を突っ伏してしまった。ムカールはアルブラートの強く波打つ髪にそっと手をやった。彼はようやく起き上がり、グラスの残りの水を飲むと、深い溜息をついた。それでもアルブラートは顔を上げなかった。

  「ヨシュア......今の薬はどうしたんだ......もう薬はなかったはずなのに......」
  「それは―それはな......この子が1週間前に、わしに―1万ピアストルを渡してくれたんだよ。音楽院のことはもういいんだと言って......
それよりムカールを助けたいと言って......この子はお前の天使だよ。この子も相当辛い目に遭ったろうにな......」

  ムカールはそれを聞いて、じっと押し黙っていた。彼は急に耐え切れなくなったように目を閉じたが、再びヨシュアを見つめた。彼はアルブラートを見ていたが、少年は体を震わせ、じっと動かなかった。ムカールは少年の肩に手を置くと、静かに話しかけた。

  「アルラート......すまなかったよ―お前の夢を犠牲にさせて......」

  アルブラートは真っ青な顔で、ムカールを震えながら見つめた。少年の、幼さを残す黒い瞳に、恐怖の色が浮かんでいるのに気づいた青年は、突然奇異な印象を受けた。ムカールは、少年が何かを告白しようとしているのをすぐさま悟った。彼はヨシュアに、二人きりにしてくれと頼んだ。

  「お前......何かあったんだな......何か俺に言いたいことがあるんだな......何か辛いことがあって―ずっと言えずにいたんじゃないのか......
俺には何を話してもいいんだ......全部話していいんだ」

  アルブラートは震える両手を硬く握り締め、ムカールの目をじっと見据えた。ついにその瞬間が来たと思った。もう黙ってはいられなかった。

  「俺は......シリアの病院にいた前は......イスラエル軍の捕虜収容所にいたんだ......15の夏から......16の冬まで......その収容所で―母さんと再会したんだ......でも―でも......母さんは再会した後すぐに......すぐに死んだんだ―俺が......俺がこの手で......母さんを―母さんを殺したんだ......」

The Confession of the Truth★


  ムカールは彼の告白に息を呑んだ。アルブラートは真っ青な顔で全身をわなわな震わせていた。畏怖と絶望とが少年の黒い瞳に交錯していた。その目は大きく見開かれ、死の淵に追いやられた者のような異様な光を帯びていた。二人は見つめ合ったまま、数分間無言だった。ムカールは押し殺したような低い声で、一言一言、確かめるように言葉をつないだ。

  「お前が―お前の母さんを―自分で殺した―本当なのか―」

  「嘘じゃない―本当に俺は母さんを殺したんだ......猟銃で―心臓を狙って―3発も銃弾を撃ち込んで......殺したんだ......嘘なんかじゃない」

  ムカールは唇を噛み締めると、少年から目を反らした。彼は枕に背をもたれかけ、右手で髪を押さえると、目をつぶり、しばらく考え込んでいた。だが深い溜息をつくと、再びアルブラートをじっと見つめた。青年の威厳に満ちた、魔性のように美しい顔に、苦悩の表情が浮かんでいた。少年は、今まさに神に裁かれているような気がした。

  「お前がやったことが本当でも......それは自分の意思でやったことじゃない......お前はそんな人間じゃない......自分の母親を自らの意思で殺す......そんな人間はいない......お前は優しい子なんだ......俺は分かっている―お前は自分の意思でやったんじゃないんだ―そうだろう?」

  「分からない―自分でもなぜあんなことをしたのか―今でも分からない......でも......あれは命令だった......16になった1月に―収容所のアルバシェフという大佐が―母さんをエルサレムから連れてきた......
母さんはエルサレムの司令官の愛人にされていた......でもイスラエル軍は―アラブ人の女なら―『用済み』になったら必ず殺すんだ......アルバシェフは俺に猟銃を渡して......『お前が殺せ』と命令したんだ......」

  「それなら―それなら―お前が自分の意思でやったことじゃないんだ―お前は命令に従わされただけなんだ......お前には何の罪もないじゃないか......お前は何も悪くないじゃないか」

  「俺は最初は嫌だと―嫌だと泣いて叫んだんだ―でもあいつは俺を殴りつけて......無理やり猟銃を構えさせたんだ......俺の指を無理やり引き金に押さえつけて......最初はあいつが俺を押さえつけて―引き金を引いたんだ―でも......でも母さんは......一発で死ななかったんだ」

  アルブラートは息をするのが苦しかった。心臓は飛び出しそうに激しく鳴り響いていた。その心臓の音と、猟銃の銃撃音が重なっていた。2年前の出来事が、たった今起こっているかのように思えた。彼の顔は紙のように真っ白に蒼ざめていた。大きな黒い瞳の周りには、隈が出来ていた。それでもムカールは彼の話を制止しなかった。

  「お前はそいつに抵抗したんだな...抵抗したのに強制されたんだな」 

  「それで―あいつは俺を母さんのそばに引きずっていった......
母さんはもう......虫の息だった......あいつはまた俺に銃を持たせて......『今度はお前が一人で殺せ』と命令したんだ―『最高に美しい死体を作れ』と言ったんだ......そうしたら俺は急に......そうしようと思ったんだ―それであいつの手を振り払って―自分で銃を構えて......3発も続けて撃ち殺してしまったんだ......」

  「そいつは―狂人だ......息子に母親を殺せだなどと命令するのは―『最高に美しい死体を作れ』だなどと......息子に猟銃を持たせて命令するのは......お前は狂人の声に―悪魔の声に取り憑かれたんだ」

  「......そうかも知れない......俺もその時―狂っていたのかも知れない......俺はあいつが憎かった―殺したいほど心底憎かった―俺が猟銃を母さんに向けて......乱射したのは......きっとあいつが憎かったからなんだ―それでも......いずれ母さんもあいつに殺されるんだったのなら......
命令に俺は従わないで―あいつに殺された方がまだ良かったんだ―」

  アルブラートはもうこれ以上話せなかった。彼はムカールの枕元に突っ伏すと、震えながら頭を抱え込んだ。青年は茫然として、しばらく何も言えなかった。自分よりも年下の、まだ20歳にもならない少年が、16歳の時に母親を自ら殺さなければならなかったという事実に、彼は驚愕し、何とも言いようがなかった。
 
  この子は俺なんかよりずっと......ずっと―酷い目に遭っている......こんな怖ろしい話があるだろうか......この子は一生母親を殺した苦しみに苛まれていくのか......こんなに感受性の強い―あんなに立派な才能を持ったこの子が救われる道はいったいどこにあるんだ......


  「......お前の苦しみは......俺には到底想像できない......俺は今お前に何と言ったらいいのか......分からないんだ―でも......お前は決して悪くない―お前には何の罪もないんだ」

  アルブラートは彼を見上げ、青年の右手を震えながら両手で握り締めると、汗で冷え切った頬を、彼の手に押し当てた。少年は涙ぐんだような黒い瞳を再び大きく見開きながら、かすれ声で途切れ途切れに呟いた。

  「いいや......俺は本物の人殺しだ......この罪は一生消えない......
俺は......手錠に繋がれて......ナザレの荒野に連れて行かれて......
そこに深い深い穴を掘った......その穴の中に同じパレスチナ人のたくさんの遺体を......白骨化した遺体を......乱暴に投げ込んだんだ......母さんの遺体も―俺が一人で......その穴の底に放り投げた......そして穴に雪を覆い被せて平らにしたんだ―殺人の証拠を消すために......俺は本物の罪人だ......悪魔なんだ......!」

  ムカールはベッドから降りると、少年のそばに跪き、彼を真正面からじっと見据えた。青年はアルブラートをいきなり強く抱きしめると、しっかりした口調で言った。アルブラートは、彼の体が激しく震え、心臓がひどく脈打つのを感じた。

  「違う......!お前は罪人なんかじゃない......!俺の言うことが分かるか―いいか、お前は何も悪くない―悪くないんだ......!お前にはそうやって自分を責めて......一生を過ごす必要なんか何もないんだ......!お前の心は俺がこう言っても救われないかも知れない......でも俺がお前を救ってやる......!俺は生きている限りお前を救ってやる......!俺じゃだめか......俺じゃだめなのか、アルラート......!」


The Sealed Gate★


  その声は深く、優しく、力強い響きだった。ムカールは、尚もアルブラートをしっかりと抱きしめながら、懸命に言い聞かせた。

  「俺がお前を守ってやる......一生俺がお前を守ってやる......!俺がお前の苦しみを洗い流してやる......!苦しい時はいつでも俺に話すんだ......苦しい時は俺の前で泣いていいんだ......分かったか―アルラート......!」

  アルブラートは青年の胸にすがり、激しく息をついていたかと思うと、彼の胸に顔を埋めて、呻くように泣き出した。母の死後、声を出して泣いたことはなかった。彼は今、初めて母に抱かれる幼な子のように泣いた―青年に抱きしめられて、あらん限りの涙を流すことで、告白の苦しみが洗い流されていくようだった。ムカールは黙って、じっと彼を抱きしめていた。

  この子はまるでカモシカのようだ......
伸びやかな初々しい―いたいけな柔らかな体......それに比べたら俺の体はなんて醜いんだ......今にこの体の隅々まで壊疽の毒が広がっていく......俺も馬鹿だな......この先どうなるかわからないのに―この子を一生守るなんて約束はできないのに......


  アルブラートはしばらくすると、嗚咽が徐々に静まってきた。彼は、泣きはらした顔で青年を見上げた。ムカールは少年の乱れた髪を優しくかき上げてやると、黙ってハンカチを差し出した。二人は床に座り込み、ベッドに背をもたれかけた。アルブラートは涙を拭ったハンカチを握ったまま、じっと項垂れていた。ムカールは深い溜息をつくと、静かに言った。

  「もう大丈夫か―俺の言ったことを忘れるなよ......いいな」

  二人は地下の調理場に降りて行った。ムカールはファハドに軽い昼食とワインを頼んだ。彼は、気が楽になるからと言って、少年にワインを飲ませた。ファハドはアルブラートを眺めながら、少し驚いたように言った。

  「よく見たら、お前ってジョルジュによく似ているな―ムカールにも似たところがあるな。まるで兄弟みたいだ」
  「こんなところでジョルジュの話をするな、ファハド」

  「ああ、ごめん。そうだ―支配人の奴がさっき言ったんだけれど、ここが正式に格上げになることが決まったんだ。それで、アルブラートの日給を50ピアストルにするそうだ。ムカールにも同じ額を支払うんだとよ」

  ムカールはそれを聞くと、いつものように陽気に笑った。

  「いったいどういう風の吹き回しだよ、そいつは。信じられないね―まるで鬼が心を入れ替えたみたいじゃないか。俺は給料をもらうなんて、生まれて初めてだよ。アルラートも良かったな。俺はこの子に感謝しないとな」

  「それであいつは、給金はヨシュアに1週間分まとめて渡すそうだ。だからムカールは、もうあいつとあまり顔を合わさないで済むんだ。ただ、治安局に登録の更新をしとけって言ってたぞ。あれは1年置きだからって」

  「ああ、あそこか―嫌な所だな。まあ仕方ないか。お前たちはいいよな。この国の人間だから」

  「俺は本当は怒ってるんだぞ。ムカールの料理の腕前は一流じゃないか。それなのに、今まであいつはムカールをただ働きさせやがって―見習いの俺たちは、先輩のムカールより2倍の日給をずっともらってるのに」

The Mukar's Chamber★


  ワインを飲んだアルブラートは、強張っていた手足に血が巡り、心なしか気持ちが落ち着いて来た。調理場の賑やかな雰囲気にいつもの自分が戻ってくる感じだった。ファハドは、とにかくムカールの熱が治まって良かったと笑っていた。昼食が済むと、二人は青年の部屋に上がった。ムカールはベッドに寝転んだ。アルブラートは黙って彼の机の椅子に腰掛けた。

  「アルラートはきれい好きなんだな―いつも俺の机の上を整頓したりして。俺とお前は性格が正反対だな―そこにある本ならいつでも好きなのを読んでいいよ」

  ムカールの本はフランス語の書物ばかりだった。アルブラートは手近にあった本の中に、詩集が1冊あるのを見つけて、そっと手に取った。だがさっき調理場で聞いた話を思い出した。

 「ムカール......さっき言っていた『ジョルジュ』って誰のこと?」
  
  「ああ、ジョルジュのことか......お前と同じパレスチナ人だった。俺が15の時だ。ベイルートの難民キャンプから、まだ10歳だったジョルジュが、この街の病院に逃げ込んできたんだ。俺はたまたま治療の帰りだったから、その子を連れて帰ったんだ。その時はまだモハメダウィがいた。前の主人は優しい人だったから、ジョルジュを俺の弟みたいに可愛がってたんだ......でもあの子は13歳で死んだんだ」

  「死んだ......?どうして―?」

  「この国はしょっちゅうイスラム教徒とキリスト教徒が対立している。ちょっとした小競り合いから、内戦が起きる。ジョルジュは、俺が調理の時に砂糖を切らしたんで、内戦の合間に急いで買いに行った......それで銃撃戦に巻き込まれて、死んだんだ。あの時は―俺はすごく泣いたな......ずっと自分のせいだと苦しんだ......でもヨシュアが俺を慰めてくれて、今お前が持っている詩集をくれたんだ」

  ムカールは起き上がって、アルブラートから詩集を渡してもらうと、ページをめくった。彼はある1篇の詩を見つけると、そのページを開いてアルブラートに渡した。

  「俺はポール・エリュアールのこの詩が好きだな。この詩を読むと、すごく自由で救われた気持ちになれる......アルラート、お前は確かにジョルジュに似ているよ―お前を最初見た時は、あの子が生き返ったのかと思った......でもお前はジョルジュの代わりなんかじゃないからな。俺はお前自身を大事にしているんだ」

  アルブラートはその詩を読んでみた。彼はそれを読むうちに、自在に空を飛び、宙を舞い、孤独の中をさ迷い、最後に新たな生への希望が湧いて来るような心地になった。まるで魔法にかけられた言葉の迷宮の中を漂うようだった―だが彼はそれが心地良かった。

  ぼくの生徒の日のノートの上に
  ぼくの学校机と樹々の上に
  砂の上に 雪の上に
  ぼくは書く おまえの名を

  読まれたすべての頁の上に
  書かれてない すべての頁の上に
  石 血 紙あるいは灰に
  ぼくは書く おまえの名を......

  とけあった肉体の上に
  友たちの額の上に
  差し伸べられる手のそれぞれに
  ぼくは書く おまえの名を......

  欲望もない不在の上に
  裸の孤独の上に
  死の足どりの上に
  ぼくは書く おまえの名を.....

  そしてただ一つの語の力をかりて
  ぼくはもう一度人生を始める
  ぼくは生れた おまえを知るために
  おまえに名づけるために
  自由 リベルテと*


  (*)Liberte―安東次男訳―浅野晃編『フランス詩集』より


―第24章―忍び寄る影:1960年5月


The Sneaking up Shadow★


The Appearance of the Hotel★


  ファハドが言った通り、4月になると、ムカールは週末に、ヨシュアが支配人から預かった給金を受け取るようになった。アルブラートの分と合わせると、毎月3000ピアストルになった。それでもアルブラートは、自分の分は受け取るのを拒んだ。それは全部ムカールの薬代にして欲しいと断った。青年は呆れていたが、笑って彼の頭を撫ぜた。

  「お前も頑固なやつだな。本当に俺が全部もらっていいのか。俺に金を渡すと、あっと言う間に消えちまうぞ。俺はお前と違っていいかげんな性格だからな」

  これを聞くと、アルブラートは真剣に怒った。

  「馬鹿!金のことで冗談なんか言うな!今一番大事なのはムカールの薬じゃないか......!俺は本気で心配してるんだ......!こんなことで二度と冗談なんか言うな―冗談なんか聞きたくない......!」

  アルブラートは、ムカールの陽気さにつられて、普段はよく一緒に笑うようになったが、お金のことになると、凄まじい勢いで怒った。青年はアルブラートのことを、純粋で一本気な性格だと思った。少年の激しい憤りは、その純粋さからくる誠実さなのだと理解していた。

  「お前の言う通りだ。俺は本当に大馬鹿だな―冗談言ったりして悪かったよ。じゃあ給料は、ヨシュアに預かってもらおう。また薬を買う時のために貯めておいてもらうよ―お前の善意を傷つけたりして、本当にごめんよ」

  給料が出るようになり、支配人とも顔を合わさずに済むようになり、ホテルも三つ星になったが、それでも、夕食後の調理場の後片付けはムカールに押し付けられた。ザイードは、どうしても青年に「罰」を与えなければ気が済まなかった。ムカールは、以前は毎日口喧嘩をしていたから、仕方がないと笑っていたが、そのこともアルブラートを怒らせた。

  アルブラートは、一流の調理師がするような仕事じゃないと言って、ザイードが見張らないうちに、素早く皿洗いをやってしまうのだった。水場の仕事が、青年の壊疽を悪化させることは明白だった。だがある日、アルブラートが皿洗いをしているところを、ザイードに見つかってしまった。

  支配人は少年を殴ろうとしたが、アルブラートは男を一喝し、突き飛ばした。支配人は、次第に少年に敵意を抱くようになり、ついに怖ろしいことを思いついた―それがもとで、自分やムカールの運命が大きく変わることになるとは、アルブラートは夢にも思わなかった。

The Stairway★


  5月の中旬だった。アルブラートは、休憩時間にムカールの部屋で、詩集を眺めていた。青年の机の上は、ヨシュアから気ままに借りてきた本や雑誌でいつも乱雑だった。

  彼が借りて来る本は、古い詩集や、ヨーロッパの歴史書や、思想書などで、古いフランス映画の雑誌も多かった。アルブラートは、雑誌が珍しく、詩集を閉じて、雑誌を手に取ろうとした。すると、雑誌の上に放り投げてあった葉書が床に落ちた。

  彼はその葉書を拾い上げた。それにはフランス語で「治安局」と書かれてあった。「この通知を受けた者は、4月中に当局に出頭せよ」という内容だった。宛名は「ムカール・アル・モハメダウィ」となっていた。アルブラートは夕食の時に、その葉書を青年に見せた。ムカールは笑って、この葉書のことは忘れていたと言った。

  「まるで命令書みたいだな―出頭だなんて」
  「いいんだ。でも本当に忘れていたな......嫌な所だから」
  「治安局なんて......何か悪いことをしたみたいじゃないか。そこに何しに行くんだよ」

  「いや、何でもない。名前を登録しに行くだけだ。自分がどういう名前で、どこの出身かとか、家族の名前や今の住所を、役所に届け出するんだよ。20歳を過ぎたら毎年これが来るんだ」

  アルブラートは、途端に心配になった。自分には家族も、確実に認められる出身地もなかった。ムカールは真面目な顔で、その通知を眺めていた。

  「......本当は、身元が確実な人間は、治安局なんかに行かないんだ。普通は、20歳になったら、一度だけ市役所に行けばいいんだ。でも俺は身元がはっきりしないだろう―だから、治安局に呼び出されるんだ......警察みたいな所さ。そこに毎年届け出をして......犯罪者や前科者のリストに一緒に載せられるんだ。無国籍者はこんな扱いをされる。だから何か事件が起きたら、必ず俺も一緒に調べられるんだ―仕方ないな。明日行ってくるよ」

  青年のこの話に、アルブラートはショックを受けた。ムカールは孤児で無国籍であっても、自分とは違うと思っていた。昔から、レバノンに住んでいる以上は、何もひどい扱いを受けないと考えていたのだった。

  そんな......無国籍者だから、犯罪者扱いを受けるだなんて......じゃあ難民の俺はどうなるんだ......ただでさえ難民はこの街で嫌われているのに......20歳になったらどうしたらいいんだ......
20歳になったら......


  彼は調理場の片づけを急いで済ませると、ムカールと2階に戻った。彼らが寝るのはいつも夜の10時過ぎだった。ムカールは、アルブラートが後片付けをしてくれるのを喜んでいた。青年にとって、義手で食器を洗ったり、重たい鍋をしまい込むのは、大変な重労働だった。だがアルブラートが手伝うようになって、彼の壊疽の進行はここしばらく止まっていた。彼はお休みと言うと、向かいの小部屋に入って行った。

  アルブラートは治安局の話を聞いてから、またもや自分の行く手を、何か大きな力で塞がれているような感じが続いていた。昔、難民キャンプを転々としたことが思い出された。

  あの時も、自分にはどうすることもできない、何か大きな怖ろしい力から、いつも逃れている気持ちを抱いていた。自分には、どこにも落ち着く場所がない―そういう不安と虚しさがまた頭をもたげて来た。

  もう夜の11時になろうとしていた。彼は、気を静めるために、ポール・エリュアールの詩を読もうと思った。だが、詩集のページをめくっていると、急にまだ読んだことのない詩篇が目に飛び込んで来た。

  夜の闇に紛れて逃げる 足音も立てずに                             嵐の中を 雨の中を 吹雪の中を逃げる 誰にも知られずに                                  閉じ込められた牢獄から逃げる 裸足のままで
 
  切符も無い 金も無い 俺には何もない
  父もなく 母もなく 恋人もなく
  どこに行くあてもなく 俺は逃げる
  俺の心と体だけをもって 俺は逃げる

  俺は亡命者だ 俺は求める
  俺は愛する 真の国を 土地を 魂の家を......


The Poem of Exile★


  その詩の作者は記されておらず、ただ「匿名―anonym」とあった。アルブラートは、しばらくその詩を見つめていたが、詩集を閉じると、椅子に座った。机の置時計の針の音が、いやにうるさく響いていた。それは青年が昔、養父のモハメダウィから譲り受けた、古く錆びかかった物だった。アルブラートは、その時計の金に光る針を、じっと見た。

 こうして時間は刻々と過ぎて行くんだな......
この時間の流れを俺は生きてきたんだ......父さんや母さんも―先生やアイシャも―この時間の流れの中に消えて行った......時間は残酷だ......
すべての幸せを過去に押し流して奪ってしまう......そして怖ろしいものをまた俺の前に運んでくるのか......


  彼は、詩の中の「亡命」という言葉に突き動かされた。亡命を果たせば、真の自由が得られるのではと思った。それでも、どこに行けばいいのか、まったく分からなかった。自分の生まれたベツレヘムも、母と転々とした難民キャンプの思い出も、すべて捨ててどこか遠くに行くのは、やはり辛く不安だった。

  ムカールは、翌日になると、休憩時間に治安局に出かけた。アルブラートも一緒に行きたいと思ったが、何か恐くなり、止めてしまった。青年は、1時間ほど経つと、帰って来たが、疲れたと言って、アルブラートの待っていた部屋のベッドに横になった。ムカールは目を閉じて、右腕を額に翳したまま、しばらく黙っていた。だが急に目を開けると、天井をじっと見つめた。

  アルブラートは、彼がいつまでも無言であることに、大きな不安を感じた。青年は、彼を見やると、黙ったまま、いつまでも少年の顔を見ていた。その射るような視線には、深刻な決意が籠められていた。ムカールの苦悩に満ちた心情は、すぐにアルブラートに伝わった。彼は一瞬、背筋が凍るような恐怖を感じた。

  「......本当に疲れたな......本当に嫌な所だ......お前が来なくて本当に良かったよ」
  「どうして―何かひどいことを言われたのか」

  「......通知の期限を切れて出頭したからだと言って―その罰則に、名前を取り上げられてしまったんだ......その代わりに番号だけをブラック・リストに載せられてしまったんだ」

  アルブラートは、彼の言った意味がよく分からなかった。

  「名前を取り上げる?じゃあ名前がなくなったということ......?」

  「そうなんだ―役人は 『法的に名前を剥奪する』 と言ったんだ......
『その代わりに番号を与える』 と言ったんだ......だから、俺は治安局からは、もう正当な人間扱いはされないんだ。囚人と同じ扱いなんだ......でも今までは、期限を過ぎていても、こんなことはなかったのにな―それに......」

  彼は何か言いかけようとしたが、そのまま口をつぐんでしまった。

  アルブラートは、ムカールが名前を「法的に剥奪」されたということに、ショックを受けた。

  彼は、冷たく、重い金属が、全身を縛りつけるような感じに襲われた。強大な権力の鎖が、自分たちの心を永遠に繋ぎ、魂を枯れ果てさせ、粉々に踏みしだいていくような苦しさを覚えた。

  「......でも―役人が俺をどう呼ぼうと―それはどうでもいいことだよな.....俺は初めから名前なんてなかったんだし......俺は俺で勝手にするさ―アルラートによけいな心配かけたな―悪かったよ」

  ムカールは溜息をつくと、ようやく起き上がった。彼は、もう2時半だからと言って、少年の方を見ずに、調理場に降りて行った。

  アルブラートは、何かが頭の中で鳴り響いている感じがした。

  名前を剥奪されることは、人としての尊厳を踏みにじられることと同じだった。自分は実際に繋がれていた牢獄から解放されたが、ムカールの心は法の権力の牢獄に繋がれてしまった―そう思うと、今まで知らなかった社会の怖ろしい力に抵抗できない無力さに打ちひしがれた。

  彼は窓際に寄りかかり、街路をを見降ろしていた。ホテルの前は、いろんな人々が忙しそうに行き来していた。馬車やタクシーやトラックがひっきりなしに行き交った。その都会の喧騒の中に、何か悪魔のようなものが潜んでいる気がしてならなかった。

 急にドアが開く音がした。振り向くと、アデルだった。彼女はあまり笑わない性質だった。アデルは、洗濯し、きれいにアイロンをかけたアルブラートの服を、黙ってベッドの上に置いた。それは、彼が演奏の時にいつも着る服だった。4月の給料の中から、ムカールがもう少し立派な服を着ろと言って、買い求めたものだった。

 彼はベッドに腰掛けると、複雑な思いでその服を見た。上着は黒地に、金の刺繍が縫い込まれてあった。アデルは彼を見つめて、こう言った。

  「あなたは本当にジョルジュにそっくりね。あなたはあの子の代わりなのよ。でも私もそうよ。私もあの人に雇ってもらったのよ」

  アルブラートは、青年が「お前はジョルジュの代わりじゃない」と言ったことを思い出したが、何も言わなかった。

  「あの人は、心の広い人なのよ。困っている人を黙って見捨てることができない人よ。私を雇う時も、あの支配人とすごく言い争ったわ―私が11歳の時、彼は17歳だった。私を雇ったために、まだ手術したばかりの手首をひどく鞭で打たれたのよ......それで壊疽がよけいに頻繁に起こるようになったのよ―でも彼は、私をいつもかばってくれたわ」

  アデルは、褐色の目にいつも寂しそうな表情を浮かべていた。彼女は、自分はアルジェ生まれだが、父親はモロッコの商人だと言った。いつも父親に連れられて、砂漠に出かけ、ベドウィンとの駱駝の取引を見ながら育ったのだと教えた。この頃は、ヨシュアが腰を痛めたから、ムカールの薬を買いに病院に行っているとも言った。

  「アデル......彼を愛している?」

  アデルは立ったまま、ずっとアルブラートを見下ろしていたが、彼の問いかけにちょっと黙っていた。だが、きっぱりした口調で答えた。

  「愛しているわ。彼は私のすべてなのよ。彼も私を愛しているわ。私が砂漠の香りがするって、いつも言うのよ」



―第25章―密告:1960年7月


Betrayal★


The Entrance Hall★


  1960年の7月になった。ムカールは、治安局のことがあって以来、しばらく沈みがちだったが、少しずつ前の陽気さを取り戻していた。だが、アルブラートとは以前ほど口をきかなくなった。少年は、彼が何か言いたいことを隠しているように思えた。何回か、尋ねてみようと思ったが、自分でも何か不安になるために、何も訊けなかった。

  アルブラートは、演奏の間だけは、その漠然とした不安を忘れることが出来た。彼の頭の中には、無数の完成された曲があった。また、演奏の直前や最中に、突然新しいイメージが沸き起こることがあった。そのイメージは自然とひとつの曲として完成された。

  彼の演奏は、すべて即興だった。聴衆は、その演奏の完成度の高さに、みな魅了された。

  彼は、午前と午後のそれぞれの演奏の合間に、15分だけ休憩を取るようにしていた。ある日の午後だった。カーヌーンを数曲弾いた後、彼は舞台袖で休んでいた。彼の所に、お客が数人、チップを渡しに来た。その中に、外国人らしい、ひときわ背の高い紳士がいた。紳士は、アルブラートに微笑みながら、500ピアストル渡した。

  アルブラートは驚いて、相手を見上げたが、そのお客はにっこりして、首を振り、サロンの客席に戻った。500ピアストルは、今まで彼が受け取ったチップの中で最高の額だった。休憩の後、再び演奏を始めたが、その仕事が終わると、再びその紳士が彼の所に来て、500ピアストルを渡した。

  彼が戸惑っていると、紳士は微笑んで、英語で話しかけてきた。

  「遠慮しないで、受け取って下さい。あなたの演奏があまり素晴らしいので―これだけでは失礼かと思いましたが」

  アルブラートはサロンのお客に対しては、自分の素性を隠すためにフランス語しか使わなかった。彼はしばらく英語を忘れていたが、おずおずとした調子で、お礼を述べた。

  「あの......いつまで―お泊りなんですか」

  紳士は、少年に名刺を渡しながら、10月いっぱいだと答えた。名刺には、「外科医ウィリアム・アザズ・ザキリス」と書かれてあった。アルブラートは相手が外科医と知って、急にこの人にすがりたいような気持ちになった。

  「あの―どちらからいらっしゃったんですか」

  「カイロです。でも出身はギリシャです。たびたびレバノンに来るんですよ。この街でも内戦が多いですから―しょっちゅう病院やホテルを転々としているんですよ」

  アルブラートは、夕食の時、その外科医のことを考えながら、黙って食事をしていた。ムカールは彼の向かいに座って、無言で彼を見つめていた。彼が顔を上げると、ムカールは考え事をしながら、少年の顔を見ていたが、ふいに口を切った。

 「お前は最近おとなしいな。何か心配事でもあるのか」

  アルブラートはためらっていたが、ようやく話を切り出した。

  「あの......サロンのお客の中に、ギリシャ人の外科医がいるんだ。とても親切な人で―だから、一度診察してもらったらどうかな」

  「ふーん、医者が泊まっているのか。診察って、俺のこの手首のことか。でもどうせ大金を取るんだろう」

  「いや、その人は、ずっと野戦病院で仕事をして来たんだ。だからお金はいっさい必要ないって言うんだ......ムカールは、もうずっと薬ばかりで診察は受けてないだろう」

  それを聞いて、青年は少し笑ったが、アルブラートが自分のためにその医師に頼んだのだと思い、冗談めかしたことは言わなかった。彼は、それじゃ明日診察を受けようと約束した。アルブラートは医師から受け取った名刺を彼に見せた。そこには、部屋番号がメモ書きされてあった。

  「こりゃ最高級の部屋じゃないか。金持ちだな。ギリシャ人?」

  「母方は英国系エジプト人らしい。カイロに家があるんだって」                   「カイロか......ずいぶん遠くから来たんだな」  

  翌日の午後、休憩時間に、アルブラートはムカールを連れて、医師の部屋を訪れた。その部屋は5階建てのホテルの最上階で、一番見晴らしの良い部屋だった。

  ふたりが部屋に入ると、たまたまその部屋の掃除をしていたアデルが部屋を出るところだった。アデルはアルブラートに新聞を渡すと、ムカールをじっと見上げた。青年は、黙って彼女を見つめたが、外に出ろと言って、医師の所に行った。

  医師は、40代半ばの、精悍な顔立ちをした人だった。口髭がよく似合い、知的な黒い目は、深いものを見通すような冷静さをたたえていた。

  二人が近づくと、新聞をソファーで読んでいた医師は、微笑んで立ち上がった。だがムカールを見ると、ハッとし、急に何かを思い出すような表情になった。医師は、机に座ると、鞄から書類やペンを取り出した。

  ムカールは、夏でも、白い長袖のシャツに、サスペンダーの付いた黒いズボンを身につけていた。エプロンは外してあった。彼は、机のそばのベッドに黙って腰掛けた。医師は、彼の左手の包帯を取り、そっと袖を捲り上げた。義手の繋ぎ目は赤黒く、肘までの皮膚はすっかり黒く変色していた。

  「この義手はずいぶん古いものですね―最後の手術はいつでしたか」             「8年前です。17の時です」

  医師は気難しい顔で考え込んでいたが、青年に、なぜ義手になったのかを尋ねた。ムカールは、言いにくそうに黙っていたが、ようやく答えた。

  「......子供の頃、トルコの孤児院で―そこの院長に、手首を斧で切断されたからです」

  それを聞いて、医師は驚いたが、再び何かを思い出そうとしている様子になった。彼は、鞄から消毒液を取り出し、青年の手首を丁寧に消毒すると、薬を一式、手渡した。

  「本来なら、このようなひどい外傷は、毎日消毒をしないと駄目なのです。そうしないと、壊疽がどんどん進行します。はっきり申し上げると、あなたは調理場のお仕事は止めるべきです―少しでも細菌に感染することを避けるべきです......でも現在のお仕事は止めるわけにいかないでしょうから―せめて、毎日、傷口の周りを消毒して下さい。熱もまた起こるかも知れませんから、この薬を予防に、毎晩お飲みなさい」

The Doctor's Chamber★


  ムカールは自分の部屋に戻ると、ベッドに寝転び、すっかり感心した様子で言った。

  「アルラートの言った通りだな―あの人は本当にいい人だ。おまけにただで診てくれて、薬ももらえるなんてな。世の中ああいう人もいるんだな―あの人がずっとここに泊まってくれたらいいのにな」

  アルブラートは少し安心して、溜息をついた。彼は、ムカールを見て、わずかに微笑んだ。青年はアルブラートの笑顔ににっこりした。

  「アルラートの笑顔はいいな。お前が笑うと救われた気持ちになるよ」

  この時、治安局の一件以来、二人の間にあった緊張感が初めてほぐれたように、少年には感じられた。アルブラートは、さっきすれ違ったアデルのことを思い出した。彼は、青年に、アデルをどう思っているかと訊いた。ムカールはあの娘は別だと笑った。誰でも好きな娘がいて当然だと言った。

 「俺はアデルの野生的な感じがいいんだ。あの娘は砂漠の香りがするからな。俺はずっと都会しか知らないから、アデルに魅力を感じるんだ。お前にも好きな娘ぐらいいるんだろう」

  「そりゃ―好きな娘はいたよ......目が見えないけれども、歌が素晴らしくてとても美しかった......ずっとキャンプで一緒に育ったんだ―でもキャンプが占領されてからは、行方不明になった―今はもう生きていないかも知れない......でも俺はすごく愛していたんだ」

  「ああ......そうだよな。聞いて悪かったよ。何て名前の娘?」

  「アイシャ・エル・カマーム......無事ならもう15になっている」

  「15で盲目の娘か......確か病院の看護婦にそんな娘がいるらしいな。最近アデルが俺の薬を買いに行っているだろう。その娘が受付にいるらしいんだ。まだ看護婦の見習いらしい―お前、明日にでも病院に行ったらどうだ」

  アルブラートは翌日の午後、青年に教えられた通りに、ホテル街を突き抜けて右に曲がり、しばらく歩いた。目的の病院は、内戦の爆撃で、一部が破壊されていた。彼は、本当にこの病院にアイシャがいるとは信じ難かった。だがもし彼女だったら―胸を高鳴らせながら、病院の受付に向かった。

  彼は、病院の受付にいた年配の看護婦にフランス語で尋ねた。

  「あの―この病院にアイシャという名の15歳の女の子はいますか」

  「アイシャではありませんが、アーシャならいますよ。でもその娘は昨日から、郊外の病院に怪我人の治療に出かけて留守です。3日後に戻ります。目が不自由ですが、熱心な見習いの子ですよ」

  アルブラートは、自分の名前をメモに書いて、その看護婦に渡した。彼は、アイシャが「アーシャ」と名前を変えているのかも知れないと思った。
3日後に期待を寄せながら、彼はホテルに戻った。演奏時間まで、まだ1時間はあった。アルブラートは、ムカールの部屋に戻ると、何気なく昨日の新聞を手に取った。だがその途端に、新聞の見出しに驚愕した。

 その新聞の見出しには「治安部隊 1週間以内にパレスチナ難民を追放」とあった。彼は震えながら、尚も新聞に目を凝らした。記事は次のように続いていた。

  「サイダ市民の中には、難民をホテルに匿っている者もいる。治安局では、難民を匿っている者は取調べの上、連行する方針。現在治安局の調べでは、街に潜むパレスチナ難民は以下の通りである」

 アルブラートは、20数名の難民のリストから、自分の名を見出した。彼は、何回もその記事を読み直したが、間違いはなかった。はっきりと、自分の名が新聞に書かれていた。彼は、この春から抱いていた不安が的中した恐ろしさに震え上がった。

The Newspaper Article★


  彼は、ベッドに腰を降ろすと、頭を抱え込んだ。喉の奥が恐怖でからからになった。何回も唾を呑み込んだが、頭の中が、今の記事へのショックでいっぱいだった。演奏時間まであと10分しかなかった。アルブラートは意を決すると、1階のサロンに向かった。

 アルブラートはいつものように舞台に立ったが、何の曲も思い浮かばなかった。彼は、ハダナから譲られたカーヌーンをじっと見つめた。彼は、ハダナに母の死を打ち明けた時の苦しみと、今難民として追放されようとしている苦悩とを、曲に託し始めた。

  客席にいた医師は、少年の演奏がいつもと違うことに気がついた。アルブラートのすらりとした細い体が震え、すっきりとした目鼻立ちと、人を惹きつける大きな黒い瞳とに、恐怖の表情が見てとれた。彼の演奏には、激しく、悲劇的な色がこもっていた。

  アルブラートは、苦しい演奏を終えると、拍手の中を逃げるように、青年の部屋に駆け戻った。彼は、ベッドの上に放り投げてあった新聞を、震えながら握り締めると、地下の調理場に降りて行った。

  ちょうど夕食の用意を済ませたばかりの青年に、彼はいきなりその記事を渡した。ムカールは真剣な表情で、何回もその記事を読み返していたが、次第にその目に激しい怒りがこみあげてきた。彼は、突然記事を引き裂くと、床に忌々しげに叩きつけた。そうして、椅子に座り込むと、低い声で呻いた。

 「畜生......!これが復讐か......!ザイードの奴め......!」

  ムカールは憤りをこめた目で、少年を見上げた。アルブラートは力なく、彼の向かいに腰を降ろした。

  「アルラート......俺は5月に治安局に行った時、パレスチナ難民を匿っているだろうと追及されていたんだ......俺は必死で否定したんだ―だが役人は、ホテルの支配人がそう言ったと断言したんだ......あいつは俺たちを密告したんだ」

  「密告......?なぜそんなひどいことを......」

  「あいつは俺が無国籍者であるのを嫌っていた―名前を剥奪されたのも、あいつの策略だ―そうして、俺をかばうお前まで憎く思っていたんだ......あいつには、無国籍者と難民は人間以下なんだ―難民掃討作戦が始まったら、パレスチナ人を匿っていたからと俺も連行される......もうおしまいだな......」

  アルブラートは、食事が喉に通らなかった。彼は、震える拳をぎゅっと握り締め、目を閉じた。ちょうど3年前の夏に、キャンプが占領され、イスラエル軍の捕虜となった時の恐怖が甦った。

 どうして俺はいつもこんなひどい目に遭うんだ......ただパレスチナ人というだけで......同じアラブ人からも目の敵にされるなんて......

  ムカールは深刻な表情で考えていたが、ついに決心したように言った。

  「このまま黙って連行されてたまるか......!逃げるんだ―ここから逃げるんだ......!あの医者に俺が今夜相談する―アルラート、カイロに亡命するんだ......あの人なら分かってくれる......!俺たちは何も悪いことはしていないんだ......!」


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