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私の履歴書 蓑輪善藏-その5-戦後復興と中央度量衡検定所の再建
![]() 写真は蓑輪善藏氏 私の履歴書 蓑輪善藏-その5-戦後復興と中央度量衡検定所の再建 玉音放送は佐原で聞く 8月15日は月遅れのお盆でもあり、私は佐原に帰省していて正午の天皇陛下のラジオ放送を聞きましたが殆ど聞き取れませんでした。ただ戦争に負けたことだけは分かり、緊張感が脱落、ホッとしたと同時に無力感が襲ってきたことが思い出されます。 1942年4月から勤め始め1945年までの3年間、中学校を卒業したばかり17才の若者が大戦争に押し流されながら、出征する人を見送り、戦死者の遺骨を迎え、何れは自分もその中にはいることを当然のこととして、死ぬことさえ怖がることなしに、極めて微小な歯車の一つとして仕事をし、夜学にも通う、私の後から中検に入所してきた中学卒の人たちも、高等小学卒の人たちも仕事をし、夜学に通っていました。 食べ物さえもママならないそんな時でしたので、却って学校にも通っていたのかもしれません。 東京物理学校を卒業 戦争に負けて呆然とした中でも、学校にも行き、少なくなった仕事を処理していましたが、アメリカ軍の進駐による治安不安が取り沙汰され、止むを得ない数人を除いて総ての女子職員が退職しました。 私は9月末東京物理学校を卒業することになりましたが、卒業式もなく卒業証書も藁半紙四半分のガリ版ずりで、大河内正敏校長の名と学校印が押してあるものでした。 中検に残ることに 東京物理学校の卒業は、一つの大きな区切りともになり、転機にもなる筈でしたが、軍隊も無くなり、産業も細々、新天地を切り開く度胸も無いまま安易な道を選んでいました。 焼野原になった東京にも電気がつくようになりましたが、工場などは、いまだ操業出来ず極端に少なくなった検定業務と設備の手入れに明け暮れていました。 渡辺襄所長から的場鞆哉所長に 1941年、42年には1000万個にも達していた検定個数もこの年には僅か120万個と激減しています。 年末には渡辺襄所長の挨拶がありましたが、翌1946年3月には1933年以来の渡辺所長が退職し、前年の1945年福岡支所長から糸雅俊三氏の後任として大阪支所長になっていた的場鞆哉さんが本所長として赴任してこられました。的場さんの後任には本所から米田麟吉技師が単身赴任し、1953年まで支所長を勤めています。 本所長の交代は突然のことだったらしく、官吏に対するGHQの指示とか、年齢のためとか種々の噂が立ったものです。的場さんも焼野原の東京では住む家も直ぐ見つかる筈もなく、しばらくは所長室に寝泊りしていました。 この頃になって検定室に寝泊りしているのは如何にも不様なので、本館4階南側に宿泊室と呼ぶものが作られました。所長室に寝泊りしている的場さんを除いて4階には谷川さん、飯島肇さん、野崎平さんと私が泊まっていたように思います。 ガラス温度計、浮ひょうの権威であった的場所長とは殆ど没交渉でしたが、後に浮ひょうの研究に従事することが分っていたら、随分と教えて頂くことがあった事でしょう。 佐原から木挽町に通う この頃の私は、下宿が焼けて以来住所を佐原に移していたため、原則的には佐原からの通勤で、週に1、2度佐原に帰っていました。朝5時に家を出て、夜11時に帰るのでは、とても続きませんので、1週間分の食糧を持って、中検に泊り込む日が多くなりました。月曜日の朝一番早い佐原発の汽車に乗る連中は、東京の学校に通う人、勤めに行く人などで、中学の先輩、友人も多くなり、両国駅まで退屈もしませんでした。 駐留軍が銀座を闊歩してはいましたが、治安もそれ程悪くならず、渡辺所長が代わる頃になると女子職員の採用も始まり、中検の中も様変わりし、女子職員との垣根も無くなり自由さの謳歌にもなり始めました。 軍隊に入隊、徴兵されていた職員もボツボツ復職し始め、同じ4階の北側、いわゆる度量衡講習室を宿舎として使うことになりました。前の南側の部屋には畳が30畳ほど敷いてありましたが、講習室では机の上や教壇の上に布団を敷いて寝ていました。 作れば売れる時代に 1946年になると今まで極端に少なかった度量衡器、計量器の生産も次第に上向き、作れば売れる時代に突入することになります。検定数もうなぎのぼりで残業手当も不足している中、忙しい毎日が続くことになりました。 この頃の計圧器係は、谷川さんの下、軍隊から帰った堀越義国さん、川村竹一さん、そして茂木一雄さんなど10人を超える係員になっていました。所内における検定数は、設備の関係でその消化量は限られ、需要に追いつけない状況になってきましたので、圧力計の生産量が多く、検定設備の整えられる(株)東京計器製作所の茅ヶ崎工場、小諸工場と川崎の東京機器工業(株)(トキコ)の3ヶ所で谷川さんが設備検査をした後出張検定をすることになり、漸く愁眉を開きました。 圧力計の検定に追われる 普通出張検定は2人1組で行くことになっていましたが、何故か茅ヶ崎工場のみは谷川さんと私とで交替で出張していました。小諸工場には略毎月1回、1週間程度の出張検定が行われていましたが、製紙工場跡で圧力試験機は土間に置かれた状況でした。 私の最初の小諸工場は、堀越さんと9日間の検定出張で、小諸工場の中島さん、牧野さんなどの名が浮かびます。度量衡器、計量器の生産は日増しに多くなり忙しい日々が続きました。 圧力計なども作れば売れる時代、粗製乱造もいいところ、ブルドン管の材料は間に合わせの真鍮、これでは耐圧検査に合格する筈もなく、時には半数近くも不合格になることもありました。 よその係も残業はあたりまえと言う状況が続いていましたが、予算上の残業手当では足りる筈もありません、流用にも限度があり、検定依頼者からの拠出に拠ったこともあったような気がします。 さつま芋の買出し 公務員の給与はインフレに追いつかず月に二度払いになったりした時代、食糧確保に苦労した時代で、中検協和会(戦前からの親睦会で囲碁などの趣味の会への補助、旅費の貸し出しなどに利用されていた)がさつま芋の買出しを主催したこともありました。 私などは千葉県への買出しですので、土地感はあるし、乗りなれた汽車で、真っ先に買出しに参加していました。一回にサツマ芋10kg以上も担いで汽車に乗ったこともありました。 (つづく) part-5-my-resume-zenzo-minowa-entered-the-central-metrology-laboratory-postwar-reconstruction -and-reconstruction-measurement-data-bank- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月30日 09時39分44秒
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